紫闇の貴公子、暁闇の宝玉、などと仰々しく呼ばれる悪魔アルドの目下の悩みは、気に入りの夜伽兼小姓がいないことである。否、いるにはいたのだが、先日触手をたからせたまま三日ほど放置しておいたら、こちらが出かけている隙をついて逃げ出していった。
「魔物のくせにそれくらいで逃げ出すとは。性根の据わっていない奴だ」
とはいえそこそこ気に入ってはいた小姓ではあるが、小生意気にすぎるところもあった。どこかで遭遇したらとっつかまえてたっぷり灸を据えてやろうとは思うものの、逃げたものをわざわざ追ってゆくのも性に合わない。
たまにであれば人間と戯れるのも良いが、やはり人間は脆くて気を遣う。神族相手も悪くはないが、下手に本気になられると面倒くさい。
となるとやはり残る選択肢は、魔族。まあ自身も魔族であることを考えれば、相性の上からも妥当ではあろう。
「しかし、なかなかコレというのは居ないものだな……」
亜空間にある居城──通称「宵闇の館」と呼ばれている屋敷の一室から、水鏡を通して外界のあれこれを物色しつつ、アルドは呟く。
醜いものにも個性と面白みがあるし嫌いではないが、やはり常に傍らに置いておく嗜好品としては、見目形の良さは譲れない。何しろアルド自身、「その気になれば籠絡できない相手など居ないだろう」と言われるほどに見目麗しい悪魔なのだから。
捻れた形の見事な漆黒の角に、大きな美しい蝙蝠の翼。闇夜を封じ込めた長い黒髪は、銀粉のような月光の艶を纏う。深く美しい赤紫の瞳は、暁闇の一瞬の色彩を閉じ込めた至高の宝玉のよう。高潔な白皙の肌は、無明の中でさえ仄かに光る。普段は宵闇色の衣に隠れているが、上背も高く決して女性的ではない引き締まった肢体は、神界の彫刻家が精魂込めて彫り上げた彫像の如く均整が取れていた。
……まぁ早い話が、並々ならぬ美しさを所有するアルドと共に並んだときに、あまり相手が醜いようでは見映えが悪い。むしろ嗜好品である小姓兼夜伽相手だからこそ、とことんそのあたりにはこだわるべきである、と強く思うアルドである。
なので満足のいく姿を求めることは勿論、性分にも吟味が必要だった。行儀作法や閨の技巧などは仕込めば良いが、いかんせん性分というものはどうにもならない。
アルドの性癖はいささか嗜虐性が強く、かといって本当に望まぬ相手をいたぶる趣味もなかった。アルドとしては、嗜好品だからこそ愛でるために行為に及ぶわけであり、ただ悪戯に責め嬲るだけで相手にまるで悦びを与えないようでは、単に下衆なだけであり何の美意識もない、と思っている。
……しかしまあ、逃げた小姓のようにアルドの「愛情表現」を相手が受け止め切れないケースも、ままありはするのだが。
「まあ、いい。気長に探すか」
長寿の魔族だから、どうせ時間は腐るほどある。何処かに可愛い猫でもいたら連れてこよう、と思いつつ、アルドはひとまず退屈しのぎに屋敷を出た。
古今東西、神族と魔族は基本的かつ伝統的に不仲ではある。
神も魔も存在の本質がそう異なるわけでもないのだが──むしろ大雑把に分けたところの「正・負」の属性どちらを持つか、という点で、「神・魔」と分かれる程度の曖昧さだ──「生まれ育った世界」が異なるというのは、両者間にどうにも帰属意識や対抗心を生み出すものらしい。
アルドは悪魔を名乗ってはいるが、両親がそれぞれ神族と魔族だったので、実際のところは神魔双方の血を引いている。神も悪魔も、種族としては対立しつつも個々ではいがみ合わない者が多いので、これはさして珍しい話でもない。
ただ、神界にしろ魔界にしろ、どちらかに住めば何かと煩い奴が必ずいた。それが鬱陶しいので、ある時期からアルドは、何処でもない亜空間に居を構えるようになった。勿論そんなことができたのは、アルドが力の強い両親の血を引いていたおかげ、つまりアルド自身も強力な魔力を持って生まれたからである。
適当に見つけた美しい人間達と楽しんだ後、馴染みの神族の館に呼ばれてそこで幾日かを過ごしたアルドは、数日振りに自分の館に帰ることにした。
アルドの館は亜空間を漂っているので、いつどこでも喚び寄せることはできる。だがその場の空間を大きく歪めることにはなるので、できればあまりモノの念の宿らない場所の方が都合がよかった。
それとは、何がしかの意図的な手の入っていない場所。つまり自然に造形されたままの、人里離れた森や未開の地。
館への道を開いてある黒々としたブナの森の上空を、アルドは騎獣であるウィーヴルの背に乗って移動していた。
空間から空間へと自在に渡ることもできるし、自前の翼で翔ぶこともできるが、あえてゆっくりと景色を眺めたいと思うこともある。そもそも自前の翼は優美ではあるが大きく、当人にとってはいささか邪魔なので、アルドはほとんどの場合翼はしまっておく習慣がついていた。
そろそろ館を喚んである歪みが近いというあたりで、ふとアルドは、灰色の空の一方向に赤紫の瞳を向けた。
鈍色に曇った空に、このあたりでは見かけない魔界のモノが舞っている。珍しいな、と思いながら眺めていると、その数は小さな染みが滲み出すように、ぽつぽつと空の彼方に増えていった。
あれだけの数が集まっているのは、一族集まっての界渡りか、はたまた何か大規模な移動が起こるような揉め事でもあったのか。
何にしてもそれ以上の興味はわかず、アルドはじきに見え始めた館に向かってウィーヴルの高度を下げた。
鬱蒼としたブナの森の中に、アルドの館は顕れていた。古めかしい石造りの、さして大きいわけでもない三層になった灰色の館。
その実体は亜空間を漂っているため、それが目に見えるこの場所は、既に半ば時空が歪んでいる。今もし知らずここに迷い込んだ人間がいたら、延々と時空の狭間を彷徨い続けることになるだろう。
ウィーヴルの背から、踝まで隠れる宵闇の衣をぬるい風に泳がせつつ、アルドは身軽に地に降りる。アルドに敬意を表すようにウィーヴルは緩く首を下げると、音も立てずに空に舞い上がっていった。
相変わらず魔界のモノ達が空を舞っていたが、アルドは気にせず、扉に続く短い石段に向かった。と、そこに。
……ひゅるるるるるる……
頭のずっと上の方から、そんないかにも空気を裂いて何かが落ちてくる音がした。
なんだ、と特に深く考えるでもなく、まっしぐらにこちらに落ちてくるその何かに向けて、咄嗟に衝撃を緩和し落下速度を緩めるよう働きかけた。避ける、はたき落とす、という手も無論あったのだが、厄介なことにその落ちてくる何かには、生き物の──しかもえらく無垢な──気配があったのだ。
すぽんっ。
と、空から落ちてきたモノは、ほんの数秒の後に、アルドが身体の前に持ち上げていた両手の中におさまった。
「……魔物の卵?」
すっと通った形良い眉を訝しくひそめて、アルドは子供の頭部ほどの大きさの白い卵を持ったまま、それが落ちてきた上空を見上げた。
館の上空では、魔界のモノ達が依然群れを成して舞っている。しかし落とした卵を誰が引き取りに来る気配もなく、見ているうちに群れは空の彼方に遠ざかっていった。
落としたことに誰も気付いていないのか、それとも、そもそも彼らの卵ではないのか。
どういう経緯でこの卵がここに落ちてきたのかは不明だが、殻越しに伝わってくる魔力の気配からして、どうやら中身は既にしっかりとした生き物としての造形を成しているようだった。
さすがにそんなモノを投げ出したり、邪魔だと叩き壊すのも寝覚めが悪い。このくらい置いておいたところで別に何が減るものでもなしと、アルドは卵を持ったまま、灰色の館の中に入っていった。
卵の置き場所など専用にあるわけもないので、自室にある数人は優に上がれるほど大きな寝台に、アルドは適当にぽんと卵を放り出した。
ほどよく疲れていたアルドは、それ以上卵についてかまうこともしなかった。湯浴みをして一息つくと、もう卵のことなどすっかり忘れ、心地良い寝台にもぐり込んで寝入ってしまった。
こつ、こつ、こつ……
そんな奇妙な物音で、アルドは目を覚ました。
「……何の音だ……?」
寝覚めでまだぼんやりした頭のまま、物音の方向に視線を向ける。
そこにあったのは、先日空から降ってきて、置き場所もないので適当に広い寝台に放り出しておいた卵だった。
どうやらその音は、卵の内側からしている。アルドは天蓋つきの豪奢で広々とした寝台に起き上がり、子供の頭ほども大きさのある白い卵の方に移動していった。
こつ、こつ、こつ。と、小さな物音は、卵の内側から響き続けている。
アルドは傍らに座って頬杖をつき、卵を眺め下ろした。これはどうやら、孵ろうとしているらしい。
しかし中にいるモノの力が足りないのか、それとも不器用なのか、こつこつと懸命そうな音は続くものの、一向に卵の見かけに変化は訪れない。
どのくらいの硬度なのだろうとアルドが軽く殻を叩いてみたら、中にいるモノは驚いたのか、内側から殻をつつく音がぴたっと止まった。
そのかわり、違う音がし始めた。今度聞こえてきたのは、小さな爪で内側から懸命にかりかり引っかくような音。それは、いかにも助けを求めているように聞こえた。
「…………」
世話の焼ける。と思いはしたものの、アルドは卵の上に掌をかざした。中身を傷つけないよう、そっと魔力をそそいで、卵にヒビを入れてやる。
ぴしり。
一本の亀裂が卵に走り、それに続いて、内側から聞こえるのが引っかく音からつつく音に変わった。ヒビの入った卵は脆く、さして時間も置かずに、ぴしぴしぴし、ぱりん、と内側から殻が割れた。
卵の殻とちぎれた卵殻膜をくっつけて、割れた殻の中にちょこんと座っていたのは、掌に乗るほどの、小さな小さな人型の魔物の雛だった。
小さな耳は先端が尖り、その頭には捻れた小さな角が、背にはまだ開いてもいない飛膜で出来た小さな羽根が、そして尾てい骨の先からはつるりとした鉤つきの尻尾が生えている。こつこつという音は、おそらく頭に生えた小さな角を殻にぶつけていたのだろう。角も羽根も尻尾も黒いが、赤子らしくぷにぷにとした肌はミルクのように白く、髪は淡い紫がかった薔薇色をしていた。
ふにゅう、と、孵ったばかりで全体に濡れた雛が、鳴き声のような声を立てた。
生まれたてでまだうまく動けないらしく、ふくふくとした小さな手でなんとか身を支えたまま、雛はぱちりと大きな瞳を持ち上げた。透明感のある濃いめのローズクォーツの色彩を持った、つぶらな瞳が煌めいた。
その瞳が、傍らで頬杖をついた格好のままで眺めていたアルドを見つけると、たちまち雛はみゃあみゃあと仔猫のような声を立てて鳴き始めた。
生まれてすぐに目に入ったアルドを親だとでも勘違いしたのか、雛は卵の殻から這い出してにじり寄ってきた。アルドの服を小さな小さな手で握り締めて、みゃあみゃあと鳴きながら懸命に膝の上によじ登ろうとしている様子は、健気であどけなく、掛け値なしに可愛らしいものではあった。
「…………」
やがてどうにか膝の上に乗ってきた小さな雛を、アルドはおもむろにひょいとつまみあげ、掌の上に乗せて引っくり返した。
突然掌の上に仰向けに乗せられた魔物の雛は、きょとんとした後、みゅうみゅうと鳴きながらじたばたし始めた。どうやらアルドの顔が近づいたことが嬉しかったようで、雛はなんとか仰向けからうつ伏せに返ると、アルドの赤紫の瞳を見上げ、顔全体でにぱっと笑った。
その無垢で愛らしい様子を眺めながら、アルドはぽつりと呟いた。
「……雄か」
ローズクォーツの瞳を持った魔物の雛は、放っておいたらすくすくと育った。それはもう、実にすくすくと。
雛は孵ってすぐに卵の殻をぱりぱりと食べ尽くし、生まれたてでとにかく空腹なのか、みゃあみゃあと食べ物を催促し始めた。
アルドは神界に用事があったので、家令に適当に面倒を見ておくよう言い置くと出かけてしまった。
魔物であれば、雛だろうと多少放っておいたところで、そうそう弱ったりすることはない。アルドの館で適当に保護してやるだけでも、育つ環境は充分だろう。
外に出ると雛のことはすっかり忘れてしまい、アルドが館に戻ったのは、卵が孵って一週間後のことだった。
この館そのものはさして大きくも豪華でもないが、普段寛ぐ場所には選りすぐった好みのものを置いている。
寝室に足を運んだアルドが、卵から孵った魔物の雛──だったもの──を見つけたのは、薄紫の紗幕を巡らせた天蓋つきの大きな寝台の中だった。
寝台は中に入って紗幕を引くと、ベッドというよりもまるでひとつの部屋のように見えるほど、ゆったりと大きい。その真ん中で、ミルク色の肌を持った手脚の細い子供の魔物が一人、ふかふかのクッションと毛布に埋もれるように眠り込んでいた。
たった一週間前は生まれたての雛だったものが、今そこで眠っている姿は、人でいえば十代半ば程度というくらいまで成長していた。かなり特徴的な、ほんのり紫がかった淡い薔薇色の髪がなければ、そこにいるのはあのときの雛だと、アルドにも一瞬分からないほどだった。
神界や魔界に所属するものには、魔力を持たない人間などが住む主物質界の法則や常識は通用しない。ある程度の原則には縛られているものの、多くは生身より魔力に左右される世界では、ときにはそこに住む者でも驚かされるような現象が起きた。
一週間前は雛だったものがいきなりここまで成長している、というのは、アルドにとっても少々驚く出来事だった。
雛の変化する様子を見ていた家令によれば、成長が止まったのは先日のこと。言葉は拙いながらも喋ることができ、火が通ったものや生臭いものには一切手をつけず、喜んで食べるのはフルーツ類のみだという。
家令は大事な主人であるアルドに何かあってはいけないと、念のため雛の記憶や心を探ったとのことだが、まさに生まれたての純白の無垢があるばかりではあった、と報告していた。
「ふむ……」
いくらかの興味をひかれたアルドは、寝台に上がり、緩く手脚を丸め気持ち良さそうにクッションと毛布に埋もれている姿に近付いていった。
やや小柄で肉付きの薄いその身体が少年のものであることは、卵から孵ったばかりの時に確かめていたので知っていた。肩甲骨あたりから生えていた背中の翼は、今は見えない。横になるときは邪魔になると、どうやら収納することを覚えたらしい。
何も身につけていない剥き出しの肩や腕、脚は華奢だが、不健康な印象はなく、ほどよくなめらかな陰影を帯びている。そのミルク色の肌は透き通るようで、フルーツしか口にしないというせいか、甘く良い香りを微かに纏っていた。
仄かに紫がかった淡い薔薇色の髪は、ふわふわとゆるく波打って軽い。さわってみると絹糸よりもしなやかで、指で梳くと絡まることもなくさらりと通った。ふんわりした光沢を持つ髪の合い間に、さほど大きくは無い、羊のように丸く捻れた形の漆黒の角が見えた。
無心に眠っている少年の面輪は、鼻梁は通っているが鼻も顎もつくりが小さく控えめで、可愛らしくよく整っていた。薄く開かれた唇は淡いピンクに色付き、ふっくらと生気に満ちた艶を含んでいる。まるで夢見がちで繊細な少女のように、くるりと反った睫毛は長い。
幼さの残る細い肢体に宿るのは、まだ未完成で性別の隔てすら曖昧になるような脆さと儚さ。それは完成された成人にはない、柔らかな甘やかさだった。
その頬にかかる髪をアルドの指が梳いたとき、指先が頬にふれ、それまで眠っていた少年が睫毛を震わせた。
「……ん……」
ねぼけまなこに、深く澄んだローズクォーツの色を宿した瞳がまばたいた。