一章 終の涯(一)

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 墨で塗り潰したような重い空に、赤々とした炎が照り映えていた。
 わぁん……と、大気が飽和するような、鼓膜が痛くなるような音が、赤黒い空に向かって沸き上がっている。それは怒号であり、悲鳴であり、乱暴に地を踏みしめる足音であり、武器と武器とがぶつかり合う音だった。
 左脚を引きずり、つるの切れた弓を杖によろよろと歩いてゆくあおいの周囲には、戦場いくさば特有の臭いが充満していた。
 樹木の焼ける臭い、身のまわりの様々なものが焼ける臭い。そして、人間や馬や、巻き込まれた野山の獣達の、生身の血肉が焼ける臭い。
 それらが混ざり合った臭いは猛烈な臭気となっていたが、とうに馬鹿になった鼻は何も感じなかった。
 陽が暮れて随分経つが、ほうぼうに放たれ燃え盛る炎のせいで、視界は思いがけず明るい。もう冬に差し掛かる時節だというのに、ひどく暑かった。よろめきながら歩いて行く頬に、背に、汗が筋を作って、顎先から滴がぽたぽたと地面に垂れてゆく。
 合戦の混乱のうちに負わされた傷が痛み、真っ直ぐに歩けなかった。甲冑の継ぎ目から刃を突き込まれた右の脇腹が、とりわけひどく痛む。
 だが何かにき動かされるように、枯れた雑草を掻き分けて進む足は止まらない。
「……馬鹿が。どうして、こんな……」
 呻くような声が、乾いた唇から落ちた。
 痛みと疲労と暑さとで、頭が朦朧としかけている。そこに渦巻く無念さが、苦しい息となって吐き出される。
 ──馬鹿げている。こんなことが起こるなんて。自分一人のために、こんな戦が起こるなんて。こんな馬鹿馬鹿しいことで、皆が命を散らす羽目になっただなんて。
 轟、と唸りを上げて燃え盛る背後の火焔を、痛む身体を捻って、無理やり視界に納めた。
 見開いたまなこの表面が、ちりちりと熱に炙られる。幾度も瞬くまなじりからは、熱や煙が染みるせいか、それとも感情の箍が壊れてしまったせいか、涙が溢れて泥や煤で汚れた頬に筋を作っていた。
 ──これらのものと引き換えにするだけの価値が、本当に俺なんぞにあったのか? なあ、兄上。なぜこんなことを──なぜ俺一人を殺して、それで善しとしなかった!!
 自分のために起きた惨状への憤りが強すぎて、葵はもはや可笑おかしいような気さえした。

 昼間、陽が天頂を過ぎたあたりから、人里からはいくばくか離れた道沿いで合戦になった。罪なき人々の暮らす集落が焼かれずに済んだのは、せめてものなぐさめだった。
 ──葵は今から二十年余前、京師みやこに程近い小国の直系男子として生まれた。三歳上の、清雅きよまさという名の兄が一人。側室を置いていない父親だったから、どちらも純粋な嫡流だった。
 優秀な兄だった。弟の目から見ても、才覚においては非の打ち所がなかった。
 とうの昔に朝廷が乱れて実権を無くし、各地で群雄が割拠している不穏な世の中では、兄のように冷徹で用心深い人間の方が、きっと国を負って立つには都合が良い。いささか猜疑心がすぎると思うところもあったが、葵は立派な継嗣としてある兄が誇らしく、幼い頃から大好きだった。
 ──兄上に比べれば、俺などたかが知れているのに。
 胸が潰れそうなほど苦しい感情が渦巻いているのに、頬に浮かぶのは、どうしてか薄い笑みばかりだった。よろよろと雑草を掻き分けて進みながら、乾いて白くひび割れた唇が、苦く歪んだ。

 今年の夏、頭領である父親が病で死んだ。跡を継いだ兄が真っ先にしたことは、「実弟である葵を除くこと」だった。
 跡継ぎである清雅に比べれば、次男である葵は、随分と好きに生きてきた。ある理由から家臣の中には葵を敬遠する者もいたが、不思議と市井の人々からは慕われていた。
 ふらりと街に出かけて、平気で平民達と談義をしたり酒盛りをしたりする。自由気ままであるが、それ以上に武芸にも学問にも労を惜しまない。何事も厳格な兄と違い、人と接するに気さくで気取りがなく、身分で分け隔てることがない。
 冷厳な兄と、鷹揚な弟。
 いつしか二人の個性は、それぞれを核に派閥を生んだ。それはこの国もいつ戦乱に飲まれるかも分からないという不安が招いた、ある種の宿命だったのかもしれなかった。
 それは父の死を皮切りに一気に表層化し、不穏な風を巻き起こした。兄を慕う弟の感情を置き去りに、兄弟を取り巻く派閥間で、対立の火種は急速に煽られ大きくなっていった。

 だがいくら乱れた世とはいえ、直系の弟を討つにはそれなりの下準備と大義名分が必要である。
 不穏な気配が漂いつつも、しばらくは表立っては何も起こらなかった。
 だが事態は突然、急変した。

 数日前の深夜。
 前触れもなく、葵の館に清雅の手勢が押し入った。何事か、と色めき立つ家来達を抑え、葵は事を荒立てまいと好きにさせた。
 結果、兄の手勢は、葵の身に覚えの無い大量の武器を押収した。「これは何事か」と問いただす審問役に、葵は「知らん」と言い張ったが、それが聞き届けられるわけもなかった。
「この大量の武器は、清雅様に反旗を翻す為の備えであろう。やはり鬼子と呼ばれる方よ。その気性は隠しおおせませなんだな」
 恐ろしげに睨み付けられ、そう決めつけられた葵は、一夜にして謀反人に祭り上げられた。

 もはやあらかじめ決められていた筋書き通りに、葵の館には「乱逆の徒を討つべし。其はもはや弟に非ず、人に非ず」と兄の軍勢が差し向けられた。そもそも兄に逆らう気などさらさらなかった葵には、始めから勝ち目などありはしなかった。
 どれほど兄に疎まれようと、葵の中には昔の頼もしく優しかった兄の面影が、亡き父も一緒に楽しく日々を過ごした思い出が残っていた。だがその甘さをせせら笑うかのように、祈るような願いは打ち砕かれた。
「そうか。兄上は、そこまで俺が目障りか……」
 ようやく兄の意図を受け入れたとき、涙も出なかった。
 胸が潰れそうな口惜しさや苦しい感情を押し殺して、葵は笑った。
 ──この首ひとつを差し出せば終わるのなら、そうしよう。こんな自分を慕って仕えてきてくれた者達を巻き込むのは、あまりに忍びない。
 だが兄は、葵ばかりかその周囲のものすべてに激しい憎悪を叩き付けてきた。投降する、という申し出は「信じられぬ」と撥ね付けられ、兄の軍勢は見る間に葵の館に向かって押し寄せてきた。
 女子供や側仕えの者達を逃がすために、戦うしかなかった。武装し、館へと到る道沿いに僅かな手勢で陣を張り、押し寄せてくる数倍の兄の手勢と向き合った。
 読み覚えた兵法書に倣い、懸命に采配を振り、少ない手勢で葵は我ながらよく戦った。しかし兵士の数はおろか軍馬や武器すらも足りず、領民から武器の代わりになる農具を借り出す必要すらあった手勢が破られるのは、時間の問題だった。
 陽も暮れかけ、最後の方は本陣まで斬り込まれての乱戦になった。最後まで葵の傍を離れようとしなかった者達とも、いつの間にかはぐれていた。皆がどうなってしまったのかも分からない。中の何人かは、葵を庇い逃がすために、目の前で斃れていった。
 やがて葵の館にかけられた炎が、天を焦がすように燃え上がった。掃討戦が始まり、どこをどう逃げ延びたのか、いつの間にか葵はたった独りで草叢を歩いていた。

 身体中に受けた傷が、もうどこが痛みを発しているのかも分からないほど、ずくりずくりと疼く。右の脇腹が、じくじくと焼け付くように痛む。
 彷徨い始めて、どれほどのときが経ったのだろう。頭が熱く、朦朧とする。疲労と傷のせいで熱を発しているようだ。
 雲を踏むような心地でようやく歩き続けているのは、耳の奥に皆の最期の叫びが残っているからだった。逃げて下さい、どうか生き延びて下さい──という、尽きてゆく命を振り絞った叫び。
 耳の奥にこだまする叫びを聞きながら、葵は頬を歪めた。笑うしかない苦すぎる笑みが、血と汗が乾き引きつった頬肉を、ごく僅かに動かした。
「……逃げろ、と言われても。俺の首級を確認できなければ、地獄の底までも追い駆けてくるだろうよ……兄上は」
 眩暈がし、弦の切れた弓にしがみついた。今にも倒れてしまいそうな身体を、ふらつきながらどうにか支えた。
 漠然と、自分はいつか兄に討たれるような気がしていた。そう思いながらも手を打っておかなかった自分は、なるほど甘いのだろう。この戦乱の世に血縁や兄弟の情を信じ、己だけでなく部下達もろとも巻き込み、あえなく破局を迎えた。自分は結局は今の世を生き抜いてはいけない、その程度の器だったのだろう。
 身体の痛みよりも、悲鳴を上げたいほど心が軋み、葵は奥歯を噛み締めた。
 ──兄を信じた甘さが罪か。部下達を巻き込み守り切れなかったことを考えれば、確かに到底あがないきれない罪だ。だが、実際自分に何ができた。兄に備えて挙兵していればよかったのか。そうしたところで、それこそ更に多くの者が巻き込まれて死ぬ羽目になっただけではないのか。
 であれば最小限、自分一人の首を差し出し、それで兄の寛恕を乞うこと。それ以外に、自分にいったい何ができたというのだろう。
「俺を、人に非ずと言うか……兄上」
 ──なぜ俺一人で満足しなかった、兄上。俺はあなたに対して剥く牙など、一本ですら持っていなかったのに。
 ぎりぎりと奥歯が軋む。弓にしがみついた手が震える。
 ──「鬼子」とまことしやかに囁かれてきた自分に、おまえは鬼などではない、とかつて言ってくれたのは、他ならぬ清雅ではなかったか。今頃になって「人に非ず」と言うのは、口実か、それとも秘めてきた本心なのか。そうまで自分を憎む兄の方こそ、何者であるのか。
 渦巻く思いに眩暈がしたが、事態はもうどうにもならぬところまで転げ落ちていた。
 あまりに多くの者達が、自分の為に死にすぎた。自分が生きている限り、死はこの先ももっとかいなを広げてゆく。もうこれ以上、それを許すことはできない。潮時だった。
 月影はおろか星ひとつない墨染めの空に、燃え上がる炎の明るさだけが、不気味に照り映えていた。敗残兵を、葵を追い立て、炙り出すための炎。駆けるどころか歩くだけでもやっとなこんな有り様では、これ以上逃げたところで、見つけられるのも時間の問題だった。
 朦朧とした頭に残るおぼろな地図を辿り、行く先の見当を付ける。最後の気力を振り絞り、足を引きずりながら歩き始めた。
 やがて周囲にまばらにあった木立が途切れ、完全な吹きさらしの中に出た。途端、ざあっと潮の匂いを含む風が吹き付けてきた。
 後ろの方で燃え上がる炎が明るく、行く手の雑草の上に、長くゆらゆらと葵自身の影を引き伸ばしている。一度でも足を止めたら動けなくなってしまいそうで、己の影を意味もなく凝視しながら、葵は壊れた弓を杖に歩き続けた。
 肩を身体を覆う甲冑が、重い。脱ぎ捨ててしまいたかったが、それだけの余力も既にない。
 森を抜けて風向きが変わったせいか、わぁんとあたりを覆っていた戦場の音が遠ざかった。かわりに静かな波音と、ぜえぜえと聞き苦しく喉が立てる音と、一歩ごとにがちゃりがちゃりと甲冑のふれ合う音が、耳につくようになった。
 視界の先が、大きく開けているのが見えた。海だ。闇夜の空と水平線の境目は、暗黒に塗り潰されたように見わけることができない。これほど真っ黒い空と海があるものなのかと、奇妙に静かな気持ちで葵は考えていた。
 やっとのことで歩いてゆく先の地面は、ぽかりと切れている。そこから先は、覗き込めば眩暈がするような高い断崖になっていた。このあたりは眺めが良いので、青空が快い日は、ここまでよく馬で早駆けしてきたものだった。
 よろよろと歩く背後の方から、乱れた足音と甲冑の鳴る音が聞こえてきた。「いたぞ」と険しく呼ばわる声から、それが味方ではなく兄の手勢であることが分かった。葵の甲冑は、他の兵士たちに比べて相当に見栄えよく、立派で頑丈だ。明かりがあれば、雑兵と見分けることなど造作もないだろう。
 松明を掲げた兵士達が数人、真っ直ぐに駆けてくる。「待て」と鋭く呼ばれた。これ以上進めば落ちる、というところまで来ていた葵は、そこでやっと足を止めた。
「清雅様の弟君、葵殿に相違ございませぬか」
 呼び捨てることこそしていないが、投げられた声音は剣呑だった。弓を杖にやっと振り向くと、松明の灯かりを受けてぎらりと輝いた槍の穂先が五本ばかり、こちらに向けられていた。
 あまりに目立つ重い兜は、とうに脱ぎ捨ててあった。かわりに鉢金を巻いた頭部から流れる長い黒髪が、夜の潮風を受けてざんばらになびいた。
 振り返るだけでも眩暈がして骨が折れたが、ここが最期と思い、葵は無理やりに痛む両足を踏みしめ、真っ直ぐに立った。胸を張り、数歩の距離から武器を向けてくる兵士達を眺める。唇の端を持ち上げて、にっと笑った。
「ああ、相違ないぞ。ここまでご苦労だったな、おまえ達」
 肚の底に息を溜め、声を張った。そうしなければ、むしろ声が出なかった。
 だが兵士達からすれば、この期に及んで誇らしげに仁王立ちし笑んでいる葵の姿は、今にも倒れそうなほど弱っているとは見えなかったようだ。そのせいか、槍の穂先を向けたまま、すぐに近付いてこようとはしない。
「我らと共に来ていただきます、葵殿。謀反人として罪を償われませ」
 間合いを取ったまま、兵士が言う。その動作には緊張感が漂い、重傷の人間相手にしては大袈裟なほど慎重だった。
「ほう、謀反人か……身に覚えなどさらさらないが。しかし兄上が黒と言えば、白も黒となるのだろうなぁ」
 傍目にも分かるほどあちらこちらに深い手傷を負った葵の姿は、無惨なものだ。だが呑気なまでの声音でそう言う様には、対する兵士達の調子が狂うほど、緊迫感がない。
 その空気が、次の呼吸でがらりと変わった。松明の灯かりを受けた葵の双眸が強い光を放ち、唇は不敵なまでに笑んだままで、兵士達をぞろりと睨み据えた。
「残念だが、おまえたちの誰にくれてやる命も、俺には持ち合わせがない」
 言い、踵を下げて後ずさる。目の眩む高さで真っ黒い海へと突き出した、崖の突端へと。
「兄上に伝えてくれ。俺は兄上に負けたのだから、恨みはない。しかと民を守れよ。さもなくば、いつでもこの弟が冥土から喰らいに出てやるぞ、とな──」
 俺を鬼と呼ぶのなら、本当に鬼になってやろうではないか。なあ、兄上。──
 笑んだまま、その踵が崖の突端を踏み抜き、ぐらりと身体が傾ぐ。葵の眼光に思わず射竦められていた兵士達が「あっ」と駆け寄ろうとしたときには、葵の姿は夜の闇の中に仰向けに吸い込まれていた。
 慌てて断崖の際に駆け寄った兵士達が、真っ暗な崖下を覗き込む。ほんのかすか、はるかな下方に、打ち寄せる波頭の白さが見えた。だが月も星もない闇夜の眺めは、松明の灯かりなど届くわけもなく、海は奈落に続くようにひたすら暗かった。
「……なんという不遜な。やはり、あの御方は鬼子だという噂は本当だったのやもしれぬな……」
「相違ない」
 兵士達はごくりと生唾を飲み、ぶるりと震え上がった。
 潮の匂いと不規則な波音が、ただ闇夜の中に満ちるばかりだった。

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