「あーおいー。やこうーっ。こっちこっちー」
「はやくぅ。遅いよぉー」
穏やかな青空の下、火月と水月が紅葉のような小さな手をいっぱいに振りながら、雑踏の中で声を上げる。
賑やかに妖達の行き交う大通りを、夜光と葵はそんな小鬼達の後について歩いていた。
「火月、水月。あまりはしゃぎすぎるのではありませんよ」
「わかってるよぉ。もー」
「夜光ってば、おかーさんみたい」
周りの迷惑になっては、と呼びかけた夜光に、二人の小鬼はふわふわした兵児帯をひるがえし、ぺろりと舌を出した。夜光はやや不本意に、むっと口を曲げた。
「あの二人は、まったく。いつまで経っても子供なのだから」
「はは。元気で何よりだ」
暢気に笑っている葵を、夜光は塗笠の下から斜に見る。今日の外出は、終の涯ではそれなりの有名人である夜光としては素顔を隠したくもあり、半ば透ける垂衣を笠の縁から垂らしていた。
「葵は、女子供には随分と甘い御仁とお見受けしました」
「それはまあ。可愛いものには甘くもなるだろう」
「そんな調子では、すぐに手練れた妖に騙されますよ。葵のような隙だらけの人間など、良い鴨です」
「うーん……しかし、俺を騙しても何の得にもならんだろう?」
「そんなことはありませんよ。若い人間の血肉や精氣は、それだけで妖達には、ことに美味なもの」
夜光が意地悪く瞳を眇めると、葵がいささかぎょっとした。
「び、美味?」
「はい。寿命の短い人間の若い盛りには、それだけ精氣が濃く強く凝縮されていますから。若ければ若いほど、妖にとってそれは甘く美味なものです。食せばそれだけ妖力も増しますからね」
「そ、そういうものなのか」
葵がやや引きつった顔で、きょろきょろとあたりを行き交う妖達を見回した。その様子に、夜光は軽く吹き出した。
「案じずとも大丈夫ですよ。この終の涯では、人だろうが妖だろうが、他にむやみに害を為すようなことは御法度です。少しおどかしてしまいました」
人間を好む妖も勿論中にはいるが、わざわざ終の涯で禁を犯すものはいない。そんなことをすれば、二度と終の涯に立ち入ることが出来なくなる。そもそも終の涯にいる人間の数は少ないし、人を襲うのであれば、妖達は皆、人界──蓬莱に赴く。
葵はほっとしたように、だがややむくれた顔で夜光を見た。
「成程。おまえも案外と人が悪いな」
「あいすみませぬ。葵が悪いのですよ。そのように無防備で素直だから」
「俺が悪いのか」
「ええ。ついからかいたくなってしまいます」
くすくす笑っていると、むくれていた葵も、やがておかしくなってきたのか苦笑気味に破顔した。
「まったく。おまえはどうも、俺をからかうのが余程楽しいらしいな」
ふふ、と笑って、夜光は自分の目線より幾分上にある葵の顔を見上げた。
「ですが、若い人間を好む妖が多いというのは本当です。誰もが人を喰うわけではありませんが、それも妖の性質のひとつだ、ということは覚えておいた方が良いかと存じます」
それを聞いた葵が、神妙な面持ちになった。両袖の中に腕を入れて組み、葵は頷いた。
「分かった。心しておこう」
──この日。だいぶ葵の傷も癒え、休みながらであればそこそこ歩けるようにもなったので、夜光は葵と共に街に出かける計画を立てた。萎えてしまっている葵の足腰を慣らすためと、自分が勤めに戻る前に終の涯を案内してやるためだ。
すっかり葵になついている火月と水月も着いてきて、一行は思いがけず賑やかになった。
終の涯の街は広く、まして病み上がりに等しい状態では、一日で見て回ることは到底出来ない。焦らずとも、ここで暮らすことになれば、葵もじきに終の涯に馴染むだろう。無理はしないようにひとまず大通りに向かい、主立った建物や街の仕組みなどを説明しながら、ゆっくりと歩いた。
葵が特に興味をひかれたのは、流通や商いに関する整備がしっかりと為されていたことのようだった。
「驚いたな。ここには貨幣があるのか」
「はい。金霊という妖達が中心になって、終の涯の金銭の相場を管理しています。とはいっても、異界同士の遣り取りでは値段をつけにくいことも多いので、現物での取り引きも少なくありませんが」
様々な妖達と共に、様々な異界から多くの物品が集まる終の涯では、そのあたりの整備を進めることも昔から課題のひとつだった。それらをいち早く整えたことで、終の涯はより豊かになったといっていい。
終の涯の建物の多くは、白い漆喰の壁に、黒や青藍の釉薬を塗った甍を用いられている。街の中心である最玉楼に関しては、白壁や朱塗りの柱や欄干が映える、美しい緑釉瓦だ。
街を南北に貫く目抜き通りを中心に、四季折々の情緒溢れる街並みは美しく整えられ、その景観には多くの手がかけられている。終の涯も昔はこうではなかったのだと、夜光も聞いたことがあった。昔はこの稀有な地を奪おうと、様々な妖達が攻めてきて、街を焼かれてしまったこともあったらしい。
のんびりと話しながら歩いて行く間、葵はしばしば空を見上げた。極光を帯びたような穏やかな青空には、様々なものが浮かんでいる。どうやら葵には、それらが珍しいらしい。
「何か気になるものがありますか?」
「ああ、うん。あの船や車がな。いったいどうやって飛んでいるんだろうかと」
葵は、ちょうど上空を通り過ぎてゆくところだった飛行船を示した。成程、人の世ではあれらのものは空を飛んでいないだろう。
「あれらは、専用の職人達が造った車や船です。浮力の強い鬼火を灯して、それを動力にしているのですよ」
「すごいな。鬼火であんなに大きな船まで飛ばせるのか」
終の涯の空を飛んでいるのは、小さな屋形車や屋形船から、大型の帆船まで様々だ。乗員乗客を運ぶものや積み荷を運ぶもの、その用途も色々ある。
「ええ。中には、あのまま異界に飛ぶものもあります。ああ見えて、大した技術なのですよ。船や車の操舵や、運び屋を天職としている者もいます。ああいう車や船ごと異界との境を越えるのは、なかなか骨の折れることですから」
「そういえば、大半の妖は自分の身ひとつの他は異界へ運べない、と言っていたな」
「はい。ですので、そういう船にはあらかじめそれを可能にする仕掛けを積んでいるのです」
「仕掛け?」
「多くは秘伝のものですから、私も詳しいことは存じません。力の強い妖が造ったものや、大勢の妖達の妖力を集めて結晶化させたものなどがあるようですが……異界と行き来する船は、その仕掛けによって、船ごと『境』を越えます。あらかじめ航路を敷き、扉を開いておくようなものなので、決まった順路で決まった場所に着くように決められていることがほとんどです」
「なるほど」
分かったような分からないような顔で、葵は腕組みしながら空を見上げている。どうやら葵が貨幣や流通の次に興味をひかれたのは、あれら空を飛ぶ乗り物のようだった。
「そうだ、葵」
その様子を見ていた夜光は、ふと思い付いて提案した。
「この先に、近くの華陽山まで行く屋形船の船着き場があるのですが。よければ乗ってみませんか? 空からこの街を眺めるのも、なかなか良いものですよ」
何しろ終の涯は広く、街周辺の様々な場所への交通手段も含めて、乗り物を用いての移動は空路であることが多い。
移動が早く楽な上に、すこぶる眺めも良いことから、とくに観光客に屋形船は人気があった。移動だけならば、好きなところで乗り降りできる屋形車の方が便利だったが、解放感や見晴らしはやはり船の方が良い。
街と近隣の名所である華陽山とを定期的に行き来している巡航船は、かなり大型の屋形船だった。船着き場から様々な姿形をした妖達が、賑やかに船に乗り込んでゆく。
葵もそれらの中に混ざって、夜光に案内されるままに船に乗り込んだ。
水もないところに船が浮いている。というのも、間近で見るとあらためて奇妙なものだったが、乗ってみると普通の船とそう変わらなかった。屋形の庇部分には、提灯がずらりと並んで下がっている。
「おお」
やがて屋形船がゆっくりと空に舞い上がり始めると、葵は思わず船縁に近付いた。子供のようだと我ながら思わないでもなかったが、何しろ生まれて初めての思いがけぬことに、好奇心を抑えられなかった。
動き始めた船底には、まったく揺れがない。しかし今まで感じたことのない、妙にふわふわとした、足下を掬われるような奇妙な感じがあった。その感触はあまり心地良いとは言い難く、葵は思わず船縁をしっかりと掴む。そうしながら、見る間に遠くなってゆく地上に目が釘付けになった。
「すごい……本当に飛んでいるのか」
視界があっという間に、高く遠く広がり始める。地上を歩く者達の姿が見分けもつかないほど小さくなり、街を形作る通りや屋根の連なりが真下に遠くなり、それは高台から見下ろす景色ともまったく異なっていた。
信じられないほどの高みまで、屋形船は舞い上がる。高度が上がったせいか風が強まり、船は少し揺れたが、気になるほどではない。結い上げた朱い髪が、風に煽られてたなびいた。
じきに上昇は止まり、それと共に足下が浮くような奇妙な感じはおさまった。
あたりに目をやると、あまり変わらない高さに、遠く空を行く他の船や屋形車が点々と見えた。飛べる妖達も、遠目に舞っている。空行くものたちを地上から見上げていた、その同じ高さに、今葵はいた。
「夢のようだ……」
ほとんど茫然とそれらを眺めていたら、ふわふわと赤と青の小鬼がやってきた。葵を間に挟んで、船縁の右と左とに、ちょこんと危なげなく腰を下ろす。それぞれ茜色と氷雨色の髪と瞳を持った、あどけない童子の姿をした小鬼達、火月と水月だった。
「どう葵、びっくりした? すごいでしょ?」
「蓬莱には、空を飛べるニンゲンなんていないもんね」
火月と水月は、葵の顔を大きな瞳で楽しげに覗き込んだ。その可愛らしい様子に、葵も相好を崩した。
「うん、驚いた。これはなかなかどうして、とんでもないものだな」
「ねね。気に入った?」
「ああ、気に入った。空を飛ぶものたちは、いつもこんな風景を見ているのか……」
色違いのつぶらな瞳に覗き込まれ、頷きながら、眼下に広がる景色を見て嘆息した。まったく、とんでもない光景だ。自分が「人ならぬ者達」の世界に来てしまったことは分かっていたが、事あるごとに、その途方も無い不思議に衝撃を受ける。
そんな葵に、二人の小鬼は嬉しそうに頷いた。
「うん。空を飛ぶのはねぇ、きもちいし楽しいよ」
「いろんなものが見えるしね」
「そういえば、おまえ達は空を飛べるんだったな。うらやましい話だ」
馬で風のように駆けるのも気持ち良かったが、こうして空の高みをゆくのは、また格別の爽快感があった。
火月と水月は、えへん、とますます得意気に胸を張った。
「えへへー。空を飛べるヤツはねぇ、案外多くないんだよ。ちょっとなら飛べるヤツらは多いけど、僕らみたいにずうっと飛んでるっていうのは、なかなかね」
「そうそう。こう見えてね、僕らちょっとスゴイんだよ」
言われてみれば鬼火の妖である二人は、地面に足をつけていることの方が珍しい。たいていふわふわと漂っており、移動するときも鞠のようにぽんぽんと空を跳ぶ。
そういえば、こういった船や車の浮力は鬼火から得ていると夜光が言っていた。鬼火がそうなら、鬼火の妖というのも、元来そういった性質のものなのかもしれない。
そんなことを話していたところに、後ろから夜光の声が聞こえてきた。
「あまり身を乗り出しすぎないで下さいね、葵。落ちてしまったら大事です」
ほっそりした姿の夜光が、半透明の垂衣の下がる塗笠を押さえながら立っていた。風があるせいで、蜻蛉の羽のような垂衣が柔らかく揺らめいている。それはどうやら素顔を隠すためのものであるようだが、品の良い立ち姿は明らかに周囲と空気が異なっており、地味めの霞色の着物を身につけているにも関わらず、その姿はけっこう人目を引いていた。
すかさず火月と水月が、はしっと葵の着物の袖をつかんで夜光を振り返った。
「だいじょうぶだよっ。葵がもし落っこちちゃっても、僕らがちゃんとつかまえるもん」
「こーんな高いところから落っこちたら、ニンゲンなんかぺしゃんこになっちゃうもん」
一瞬「落ちてぺしゃんこ」を想像してしまい、葵は思わず引きつった。それは落ちれば間違いなく、只人である葵はそうなるだろう。
「はは……そうだな。もしものときは、よろしく頼む」
あらためて船縁をしっかりとつかみ、ゆっくりと動いてゆく眩暈がするほど高い景色に目を向けた。その隣に、ふわりと垂衣をなびかせて夜光が立った。
「気に入って下さったようで良かった。こういった船や車も、終の涯の名物のひとつなのですよ」
「ほう。何処にでもあるわけじゃないのか?」
「まったく無いわけではないようですが、ここほど設備や数が充実してはいないと聞きます。まして誰でも簡単に利用できるような船は、他ではほとんど見られないとか」
話しながら眺める終の涯は、虹色をはらんだような青空を幾艘も船が渡り、それらの合間を人外のものや屋形車が走り、葵の目にはまさしく御伽草紙の世界そのままに映った。まして眼下に大きく広がる街は、今はひときわ華やかな春の彩りに溢れている。
「美しい街だな。本当に」
呟いた葵に、夜光は言葉少なに微笑んだ。
「はい。良い街です」
この終の涯が美しくあればあるほど、葵の脳裏には帰ることの出来ない遠い故郷の姿が去来する。あの国のことを、あそこに生きる者達のことを思うと、どうしても胸が痛み、鈍く軋む。
だがどれほど悔やみ懐かしんでも、あの世界に自分はもう戻れない。風に煽られて朱色の髪が広がり、その人間離れした色が一瞬目に沁みた。
振り切るように、葵は眼下に見えるひときわ高い楼閣を指さし、ことさら明るい声を出した。
「あそこが最玉楼か。一番高い建物だからよく分かる。路も広く真っ直ぐで美しいな」
「そうですね。とりあえず終の涯で迷ったら、凰鸞大路に出ればなんとかなります」
「おうらん大路?」
「あの、南北に通っているいちばん大きな大通りのことです。中心に最玉楼のある」
「ああ、あれのことをそう言うのか。そうだな。それに、街のどこからでも最玉楼は見える。迷っても最玉楼に向かって進めば、なんとかなりそうだな」
「どこにいっても、迷子になることだけはありませんね」
「違いない」
風景を見下ろし、笑いながら話すうちに、屋形船は空をすべるように進み、じきに目的地に近付いた。