終の涯の空は、うっすらと虹色掛かったような独特の色合いを帯びている。
淡く透明に明けそめてゆく黎明の頃合は、金色と薄い空色と虹の光芒が折り重なり、極楽浄土の空もかくやというほど、とりわけ美しい。
ゆるい風が金色の東の雲をたなびかせ、様々な野鳥の囀りを降りそそがせる中。最玉楼の裏手にある、誰も居ない縁側に、ささやかなつむじ風が生じた。
つむじ風はたちまち静謐な朝の空気の中にほどけ、そのあとには、長い黒髪に墨染めの衣が、名残りの微風にそよいだ。
飾り気のない面に顔の半ば以上を覆われた黒い夜叉──槐は、きょろりとあたりを見回した。
その視線の先が、縁側に面して隙間なく閉められた障子にとまる。障子の向こうにいる者の気配を読み取ると、にま、と唇を笑みの形に変えた。
朝はまだき、あたりには起き出している者の気配はない。
張られた板敷きを僅かに軋ませることもせず、槐はその部屋に向かって踏み出した。
その日もいつものように、夜光は暗く冷たく哀しい夢を見ていた。
けれどふと気が付くと、砂が崩れるようにその夢が消えていた。ぼんやりと真綿のような白さの中に漂い、ただ何もないことが、ひどく安らいで胸に沁みた。
ただ白く穏やかな中に横たわり、ゆっくりと呼吸をする。その額髪を、誰かの手が撫でたような気がした。
誰だろう。少し仕種がぎこちない、大きな掌。ふれる肌の感触も硬い。しなやかで柔らかな長の手ではない。
でも、思わずほうと息が洩れる。とても優しい手だった。誰だろう。こんなふうに自分にふれる人は、長の他には……。
「……あお、い……?」
思考のうまく働いていない中、その名を、その音を声に乗せた途端。懐かしく哀しく愛しい想いと共に、涙があふれて零れ落ちた。自分の声が呼び水になり、白い眠りの世界から、意識がふんわりと現世に浮上した。
夜光は自分が泣いている自覚も持てないまま、涙でぼやけた瞳を瞬いた。それと同時に、すっと髪を撫でていた手が離れた。
白く薄い瞼の下で、紫の瞳がゆっくりと動く。その瞳に、馴染んだ自分の部屋の升目状の天井と、枕元にいる黒い姿が映り込んだ。
「──な」
まだ意識が虚ろだった夜光は、その姿を認めるなり、目を見開いた。指先にまで緊張が走る。
「起きたか。なかなか愛らしい寝顔だったぞ」
寝床の中で硬直している夜光を、その傍らの畳に童のようにべたりと腹這いになった格好で、槐が覗き込んでいた。
その到って気軽な様子と、事も無げにかけられた言葉に、何がどうなっているのか把握し切れないまま、夜光は飛び起きた。咄嗟に上掛けをつかんで、身を守るように引き寄せ、後ろにいざる。
「なっ……何事ですか、これは」
強張り、困惑と警戒もあらわに言うと、槐は起き上がりながら大きな口を開けてからからと笑った。けろりとした様子で、畳の上に胡座をかいて膝に肘をつく。
「そう慌てるな。何も取って喰いに来たわけじゃない」
「は……?」
その様子に、夜光は次第に冷静さを取り戻してきた。それにつれて、目の前にいる墨染めの衣姿の夜叉に、思わず怒りが込み上げてきた。
いくら長の客だからといって、いくら滞在中は仕えることになったといって、いきなり断りもなしに他人の寝入っている私室に入り込むなど、失礼にも程があるではないか。
「槐様。どのようなつもりであれ、このような時分から、趣味が悪うございます」
睨みつけて言うと、槐は悪びれもせずに答えた。
「どんなつもりかと言うなら、早くに目が覚めて暇だったものでな。寝顔を覗きに来た」
「は?」
「まあ、そうカリカリするな。朝っぱらから」
開いた口のふさがらない夜光に、槐は無遠慮に、じっと視線を向けてきた。
飾り気の無い面越しに向けられた双眸に、夜光は戸惑った。
失礼なと、本来であればもっと怒るところだったのかもしれない。だがその槐の表情が、こちらの毒気を抜くほどあまりに穏和だった。面越しの眼差しに、ふと何かをひどく懐かしむような色を見出す。初めて会ったときも、槐の眼差しには同じ光が宿っていた。
「……おまえは、小夜香によく似ているな」
夜光を見つめたまま、槐が小さく微笑した。
「さやか……?」
「怒った顔がいっそう美人なところも、そっくりだ」
それは誰だろう、と夜光が疑問に思う間もなく、槐は墨染めの衣を翻して立ち上がっていた。大股で畳の上を歩き、たいして広くもない部屋から縁側に出る。
「おい、夜光」
振り向きざまに、槐が今さっきの呟きなどなかったように快濶な声を投げてきた。
「退屈している上に腹が減っている。早く着替えて、俺の座敷に膳を運んで来い。ああ、おまえの分も一緒に持ってくるんだぞ。一人で食う飯なんぞ、味気なくてかなわんからな」
「は? ……あ、あの?」
槐は言うだけ言うと、あとは見向きもせずに、大股に歩み去ってしまった。
取り残された夜光は、まだ若干状況が飲み込めず、寝具の上にぽかんと座っていた。
のどかな朝陽と降るように響く鳥の囀りに、ようやく頭が落ち着いて回転を始める。早朝から見舞われた慌しく理不尽な出来事に、夜光は思わず口をぱくぱくさせた。
「な……何なんだ、あの男っ……」
今頃また腹が立ってきて、夜光は腹立ちまぎれに上掛けの端を握り締めた。
「何をそんなむくれているんだ、おまえは?」
「むくれてなどおりませぬ」
「じゃあ、どうしてそんなつまらなそうな顔をしている?」
「もともとこういう顔つきでございますから。つまらぬ顔で、あいすみませぬ」
そんな問答が交わされているのは、差し込む朝陽の爽やかな客室のひとつ。
畳の上に据えられた膳には心尽くしの朝餉が並び、その前に胡坐をかいている槐に、夜光が飯櫃から炊きたての白米をよそっているところだった。
夜光の白魚のような手が、飯をふわりと盛った碗を膳に置く。それを眺めていた槐が、ふいに意地悪げな笑みに唇の端を曲げた。
「そんな顔でよそったら、飯もまずくなろうに。おまえはそんなふうに大事な客をもてなせと、空に教わったのか?」
「お……長様は関係ありませんっ」
聞き捨てならぬと目尻を吊り上げた夜光に、槐はにやにや笑った。
「なら、もう少し優雅ににっこり笑ったらどうだ。そんな顔のまま目の前で飯を食われては、興が削がれる。おまえだって、ぶすっとしたまま食うより、その方が美味かろう」
「…………」
そもそも槐が呼びつけたから一緒に食べるはめになっただけで、こちらから頼んだわけではない。と、夜光は喉元まで出かかったが、長の客であり最玉楼の客でもある槐に、正面切ってそんなことを言えるわけもなかった。
「……精進致します」
睨み付けたいのをぐっとこらえて、夜光は槐に向かって顔を上げ、出来る限りはんなりと微笑んだ。
「よしよし。それじゃあ飯だ。おまえも早く座れ、冷めるぞ」
言うが早いか、槐は箸を取る。槐の為にと特別にしつらえられた膳は、朝餉のわりに品数が多く凝っており、槐は実に美味そうに一口ずつに舌鼓を打ち始めた。
対して夜光の膳は、碗に半分ほどの白米に汁物に漬物に小さな焼き魚だけ、という質素なものだった。これはどうにも食欲のわかない夜光が望んだことだったが、これだけでも箸が進まず、少し焼き魚をつついただけで、ふぅと小さく嘆息した。
そこに斜向かいにいた槐が、ひょいと器の一つを夜光の膳に移した。切子細工の器には、砂糖煮の枇杷がきれいに盛り付けられていた。
「甘いものは好かん。おまえが食え」
夜光は自分の膳に置かれた枇杷と、美味そうに箸を動かしている槐とを見比べた。皮を剥かれた枇杷は艶々とやわらかく、これならするりと入りそうではあった。
「……いただきます」
本当に嫌いなだけかもしれないし、食のすすまない夜光を気遣ったのかもしれない。槐の思惑を読み取ることはできなかったが、夜光はひとまず礼を言った。
言ってから、それが思ったより不快ではないことに気が付き、自分で驚いた。
──なんでだろう。いくら長様の友人だとはいえ、こんな横柄で失礼な相手なのに。
その時々でむっとはするが、不思議とそれがあとをひかない。悪びれない調子に流されているだけかもしれないが、槐には何か、奇妙に憎めない雰囲気がある。
夜光は複雑な気持ちで眉を寄せたまま、枇杷の器に手を伸ばした。一口かじってみると、旬の枇杷は甘く、優しい味がした。
城郭もかくやというほど広大な最玉楼には無数の庭園があり、それらには裏からも表からも立ち入ることができる。よく手入れされた風情ある石庭や園生の間を、躑躅や石楠花に彩られた遊歩道や飛び石が巡っている。
今の季節はとりわけ、美事な瑠璃唐草の広がる丘が美しい。青々とした芝生を彩る撫子に、勿忘草に芝桜。いたるところに桜や桃が今を盛りと咲き誇り、泉のそばには控えめに花水木が佇んでいる。朱塗りの太鼓橋の下には、水仙や菖蒲が群生していた。
「変わらずに美しいな、ここは」
青紅葉の揺れる淡い翳の下に立ち止まり、槐があたりを見渡した。
「退屈だから最玉楼の中を案内しろ」と言い出した槐に従い、夜光もその後ろに控えていた。案内しろ、と言ったわりには、槐は最玉楼についてを既にかなり知っているようだった。
「ここに来ると心が和む。ここは空そのものだな。寛く、明るく、どこまでも麗らかで暖かい。空は変わり者だが、この終の涯をずっと守ってくれていることは有り難く思う」
「はい」
槐の言葉に、夜光は素直に頷くことができた。槐の言葉にも声音にも、心からの親しみが滲み、長と旧友であるというのは嘘ではないのだな、と思えた。
爽やかな青紅葉をぼんやり見上げていると、不意に槐が振り返った。
「そうだ、夜光。おまえは、今夜から俺の部屋で寝め」
「は?」
唐突な言葉に、夜光は緩やかな弧を描く眉をひそめた。それはどういう意味だろう、と思ったときには、我ながら槐を見る目が険しくなっていた。
その様子を見て取った槐が怪訝そうに首を曲げ、途端に合点がいったというように吹き出した。大口を開けて、げらげらと笑う。
「阿呆、俺には唯一人と想い定めた女が居るわ。そもそも、おまえを見目麗しいとは思うが、だからといってその気になんぞならん」
「……では、何故です」
長いこと最玉楼で「春をひさぐ花」として過ごしていた夜光は、「客と共にやすむ」といえばそういうことである、という思考が染み付いていた。
だが冷静に考えれば、そういうことを思い付く相手の側仕えに、長が今の夜光をあてがうとは、確かに思えなかった。そう考えるほど、槐の意図が読めずに夜光は困惑した。
そんな夜光を、槐はまだ笑いながら見下ろした。
「俺は、一人でいることにあまり慣れておらんのでな。夜に部屋に一人でいると、寂しくて退屈でたまらんのだ」
「はあ……」
子供じみたことを堂々と言う槐に、夜光は適当な相槌を打つ。槐は構わないように続けた。
「それに、酌をしてくれる相手が居るほうが酒も旨い。おまえの歌舞音曲の腕前も拝んでみたい。なにしろあの空が、さんざん褒めそやす代物だからな」
「私の腕前など、たいしたものではございません」
「そう謙遜するところも奥ゆかしい。空がそう言った、それで興味がわく理由としては充分だろう?」
困惑する夜光に、槐はむしろ面白がるように言った。
長はまた何をやたらと売り込んでいるんだ、と、夜光は溜め息をついた。長の意図が読めないのはいつものことなので、ついたときには諦めの心地ではあった。
「たいしたものなどではありませんが、ご所望とあらば、また後ほど披露させていただきましょう」
「おう。楽しみにしておくぞ」
無邪気なばかりの様子で槐は頷くと、また広い庭園を散策し始めた。
夜光はその後ろを歩きながら、槐の腰まで届くほどの、艶はあるが無造作に風になびいている黒髪を眺めた。
ぞんざいで強引な槐の態度を、もっと不愉快に思っていいはずなのに、どうしてなのか、やはりさほど不快を覚えない。
槐の嫌味のないおおらかさが、少しだけ葵を思い出させる。自分がそういう気性を、案外もともと嫌いではないのか。それとも葵を思い出すから、不快を削がれるのか。それは、自分でも分からなかった。
槐の後ろについて歩きながら、風に緩く遊ばれる乳白色の髪を押さえた。
こうしていても確かに不快ではない自分を認めながら、同時に湧き上がった切なさに、ふいに視界が歪んだ。慌てて強めに目を瞑り、瞬く。
──どれほど思い出しても、心を馳せても、葵はもう何処にもいない。
思い出すほどにそれを思い知らされて、夜光は涙をこらえるために、白い光を帯びた雲の流れる青空を見上げた。