闇迷いの辻

 あたしは悪くないわ。
 と、かや・・は思った。
 もう秋口の夜気は、すり切れたぺらぺらの着物一枚の身には随分と冷たい。直接に土を踏んで汚れている素足は、すっかり凍えている。
 それなのに寒さを感じないのは、自分で思う以上に動転しているせいだろうか。
 それとも、視界の先でごうごうと唸りを上げている、見慣れた風景を焼いてゆく炎のせいだろうか。
 それとも……。
 ──あたしは悪くないわ。
 古ぼけた樫の木を背にうずくまったまま、まばたきすら忘れてしまっていた目を、かやはこぶしを押し当てて、ようやく閉じた。
 今年で数え十四になるかやは、生まれたときから貧しかった。かやの住む村は、いつもなんだかすすけていて、みんな貧しくて、目に映る何もかもが貧相だった。
 歳のわりにもう白髪交じりの両親は、来る日も来る日も働き通しで、毎日腰が痛い肩が痛いと言っていた。かや自身だって、毎日朝から晩まで仕事を言いつけられて、いつもくたくただったけれど。
 それと、いくらか歳の離れた姉と、兄。でもそのきょうだい達は、かやとは血が繋がっていない。かやの母親が病で死んだあと、今は母親と呼んでいるあの女が連れてきたのだ。
 貧しいのは同じでも、きょうだい達は、かやほど貧相な身なりをしてはいなかった。着替えの着物もかやより多く持っていたし、かやのように裸足じゃなく、草履だって持っていた。食べるものだって、かやよりはまし。夜にはひとり離れた土間で眠るかやと違って、両親ときょうだい達は、一緒の場所で身を寄せ合って眠っていた。
「あたしは悪くないわ……」
 うずくまって目を覆ったまま発した声は、喉が錆びたようにかすれていた。
 ごうごうと、炎が上げる唸りが聞こえる。かやの生まれた家ばかりでなく、他の家々も巻き込んで、秋の夜空に黒煙と火の粉が舞い上がってゆく。
 そうだ、あたしは悪くない。だってあたしは、何もしていないもの。あのとき腹の底からどす黒い衝動が湧いてきて、おまえたちなんか死んでしまえ、とは思ったけれど。
 そのとき。

 りーーーん……

 炎が村を焼いていく音にまじって、澄んだ音が聞こえた。

 りーーーん……

 驚いて、かやは目を開いた。
 そう大きな音ではない。けれど、鮮明に耳朶を打つ。穢れない清水を震わせるような響き。天から降るような、心の底にまで波紋を広げて染みわたってゆくような、細く美しい響き。
 天から降る……いいや。これは本当に、「上」から聞こえてくる……?
 夜空を見上げたかやは、近くの木立の上、細い三日月のかかる夜空の下に、白い姿を見つけた。
 ──「あれ」は、何?
 そこそこ高い木立の頂に、まるでそこが地面であるかのように立っていたのは、頭から白い被衣かづきをかぶった「人」だった。炎が起こす気流に乗って、その裾がやわらかく揺れていた。
 思わず目を疑う。かやは目だけは良かったから、驚きに目をみはったまま、その「白い人」を凝視した。
 炎があたりを照らし、被衣の裾を煽られているせいで、その下にある素顔が、遠目にもはっきりと見える。白い白い、疵も染みもひとつもない素顔は、見たこともないほど綺麗だった。
 そのどこか物憂げな眼差しが、木立の上から、かやをじっと見下ろしている。その美しい瞳の色は、かやの見間違いでなければ、野山でひっそりと咲いている菫のような紫。そしてそのかおを囲んで揺れている肩口までの髪は、雪のように真っ白だった。
 天女さま……?
 ぽかんと口を開けていたら、りーん……と、またあの音色が耳をついた。
 響く音は、確かにあの白い人から聞こえてくる。
 これは何の音だろう。鈴の音だろうか。まるで魂をふるわせるような音色。
 茫然と見上げていると、白い人が、ふわりと動いた。あんなに高い木の上から、なんでもないことのように白い被衣と髪をなびかせて舞い降りてくる。羽のように軽く、かやの正面の地面に爪先をついたときには、物音すらしなかった。
 この世のものとは思えない。いや、「人間」とは、とても思えない。
「あ……」
 あなたは、だれ?
 訊ねたかったが、あまりに驚いたせいと、ずっと喉を強張らせていたせいで、声が出なかった。そのかわり。
「これは、おまえの仕業だね」
 白いひとのほうが、口を開いた。淡々とした、高くも低くもない、静かな声だった。
「え……?」
 ぎくりと、身体の芯が緊張した。
 おまえの仕業? なにが?
 目の前に立っている白いひとは、かやを無表情に見下ろしている。
 最初は天女さまかと思ったが、間近で見てふと気が付けば、白いひとは普通の浅紫の長着を身につけていた。汚れてもほつれてもいない時点で、かやから見れば充分に上等な装いだったが、とくだん華やかな着物ではない。
 上背もそこそこあったけれど、その性別が、かやにはよく分からない。とにかく綺麗で、どこかしら儚げな、まるで夢の中にでも出てくるような印象のひと。
「なに、が?」
 そのひとを見上げたまま、かやは無意識に身を引いた。
 とても綺麗なひとではあるけれど、その「人ではない」ような空気と意味深な言葉が、何か恐かった。すぐに後ろの木にふれたが、せめて背後は守るように、さらに背中を押しつける。
「おまえがんだんだろう。あのあやかしを」
 優しい形をした眉をぴくりとも動かさず、白いひとは言った。近くで見ると、ますますその姿は人間離れしている。だけれどかやは、その人の綴る言葉のいちいちに、もうその姿に見とれるどころではなくなっていた。
「なにを……いってるの?」
 あたしが、よんだ? なにを?
「このあたりは、あまり土地が良くない」
 白いひとはそう言いながら、初めて少しだけ眉根を寄せた。
「昔から飢饉や流行病が多かったんだろう。悪いものがそこらじゅうに染み付いている。そういう土地は、さらに悪いものを引き寄せる。性質の悪い妖が、境界を越えて顕現しやすくなる」
 ──あやかし?
「なにを、いってるの……?」
 ますます困惑して、かやは繰り返した。
 やっぱりこのひとは、人間じゃないんだ。だからこんな不思議なことを言う。
 白いひとは、膝を折ってかやの前に屈んだ。白い被衣が闇に広がって、炎の照り返しを受けて、夢のように美しかった。
 りーん……
 また、鈴が鳴った。
「おまえには、異界との境を開く力があるようだ」
 真っ直ぐに向けられた紫の瞳を、かやは目を丸くして見返した。
「え……?」
「願いや祈りは力になる。それは様々な形で、幽世かくりよや人ならぬものに作用する。おまえは願ったね、おまえを苦しめる者たちの死を。心の底から強く願ったから、だからあれ・・が、それを受けて現世うつしよあらわれた」
「そんな……」
 なにをいっているの、このひとは?
 知らぬうちに、唇が、見開いた睫毛が震えていた。
「わけ、わかんない。そんな……」
「おまえを責めているのじゃない。このままだと、おまえの身も危険なんだよ」
 言い聞かせるような言葉に、かやはふるふると首を振った。
「うそよ、そんなの。だって……」
 りーん……
 ぎゅっと、心臓を何かにつかまれたような心地がする。呼吸が速く、浅くなる。
「だって、ちがう……あたしは……」
 おまえは願ったね、おまえを苦しめる者たちの死を。
 ──それだから、あたしが心の底からそれを強く願ったから。だからあれ・・が、顕れた……?
 ──そんなばかなことが。
 ふつりと、かやの中で何かが切れた。
「だって……だって、あたし、皆殺し・・・になれなんて思ってない!」
 金切り声で、叫んだ。跳ねるように立ち上がり、続けて叫ぶ。喉も張り裂けそうなほど。
「あいつらは! あいつらは死んでよかったのよっ! あいつらなんか大嫌い! 大ッ嫌いッ!」
 貧しいのもみすぼらしいのもひもじいのも、まだ我慢できた。継母とその連れ子達にどんなに蔑まれても、いじめられても、まだ我慢できた。お父さんがいたから。ぜんぜんかばってくれないお父さんだったけど、それでも本当のお父さんだったから。
 だけど。
「あいつらは、あたしを売ろうとしたんだ! 女郎屋に売ろうとした! あたしのことが邪魔だったから! お父さんまでっ……お父さんまで一緒になって、あたしを……!」
 りーん……
 炎を映す見開いた目から、ぼろぼろっと涙が吹きこぼれた。土や煤で汚れた頬に、いくつも跡をひいて。
 脳裏に甦るのは、うちも楽じゃないしあいつを売ろうじゃないか、と相談していた家族たちの姿。すぐ横の冷たい土間の片隅に、かやがうずくまっているのを知りながら。そればかりじゃない。どうせ女郎屋に売るならと、あの女の連れ子である義兄が、そしてこともあろうに父が、うずくまっているかやに手を伸ばしてきたのだ。いつもはかやを突き飛ばしたり張り飛ばすために使われている、大きないかつい手を、かやは震えながら凝視していることしかできなかった。
 みすぼらしい衣をわしづかみにされたとき、追い詰められた恐怖と絶望が、怒りが、かやの中で破裂した。──瞬間、「あれ」は起きた。
「あいつらなんか! あれでよかったんだ! 死んでせいせいしたよ! あいつらみんな、地獄でせいぜい苦しめばいい! あいつらなんか、みんな……ッ」
 すっ、と。激昂して叫びを吐き散らしていた口許を、白い掌にさえぎられた。いつの間にか傍らに立っていた、白いひとの掌に。
「およし、それ以上は。自分の言葉で、自分を呪ってしまうよ」
 そのひんやりとした、あまりに綺麗な白い手と、呟くような声。そのひとからふわりと香った、かすかに甘いような優しい匂いを吸い込んだ途端、臓腑から突き上げてくるような昂ぶりが、ふっとかやの中で緩んだ。
 大きく目を瞠って、息を吸い込む。一瞬のうちに、濁流のようになったどす黒い感情が駆け抜けてゆく。そのあとからゆっくりと、それとはまた別のものが込み上げてくる。
 りーん……
「……う、……っ」
 かやは喉を震わせて、ぼろぼろとこぼれてゆく涙に歯を食いしばった。無意識に、白いひとの袖を握り締めていた。
「……でも、ちがう」
 あの瞬間。かやの中で、恐怖とどす黒い衝動が破裂したあの瞬間。かやの「影の中」から、熊のように大きな「何か」が、ずるりと現われた。真っ黒で生臭い、恐ろしい牙と爪を持つ……異形、ばけもの、としか表現しようのない「何か」が。
 しゃくりあげながら、かやは声を絞り出した。
「あたしはっ……あいつら以外の、他のみんなまで、死ねなんて……思ってなかった……!」
 貧しい村には、かやが継母たちに虐められていることを知っていて、優しくしてくれる人たちが何人もいた。
 かやが怪我をしているのを見ると、斜向かいのおばさんは、薬草をあてて手当てをしてくれた。隣の家の早苗おねえちゃんは、山菜を集めるついでに、いつも小さな花を摘んできてくれた。広場の向こうに住んでいる与禄おにいちゃんは、内緒だよと、よく饅頭を割って分けてくれた。かやの櫛も通していないぐしゃぐしゃの頭を、良い子だと、いつも撫でてくれた八助おじいさん。重い荷物を運んでいるのを見て手伝ってくれた、名前の分からないおじさん。そういうささやかでも優しい人たちが、いた。
 それなのにあの異形は、家族たちを惨たらしく爪と牙で引き裂いたあと、へたり込んでいるかやには見向きもせずに、家の外に出て行ってしまった。
 そして、かやは続けざまに聞いた。夜の静寂を切り裂く凄まじい絶叫が、悲痛な悲鳴が、村のあちらこちらから上がるのを。ふらつきながら家の外に出て、見てしまった。見知った人たちが、あの異形に命乞いをしながら噛み砕かれ、喰い殺されていくのを。
 竈や囲炉裏に残されていた火種から、騒動のうちに引火したのか、どこかの家が燃え始めて。乾いた空気を伝って、それは次々に燃え広がっていった。それを眺めながら、かやは茫然と、何をどうすることもできずにいた。
 りーん……
「もういやだっ……あたしのせいだ……あたしのっ……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
 ──あの異形。あたしを殺して。
 願った瞬間。ぶわっと、突然強く生臭い風が吹いた。足下・・から。
 何が起きたのか、かやにはよく分からなかった。ただ分かったことは、この感じはさっきもあった、ということ。
 目を見開いたかやの足下、炎に照らされて地に落ちた影の中から、生臭い息遣いと共に、ずるりと「あの異形」が顕れた。家族たちを一瞬で引き裂いた「あのとき」と同じように。
 ふと違和感を覚えたのは、あのときに比べて、異形の姿がいくぶん小さくなっているような気がしたからだ。
 でも小さくなっているとはいっても、かやが見上げてもまだ余りある。異形がどんな姿形をしているのか、夜の暗さと炎の照り返しがあいまって、かやにはよく分からない。四つ足の獣のようにも見える。ひどく生臭い。そして耳につく唸り声が、息遣いが、身もすくむほど禍々しい。
 ぐっと、強く肩を押された。それで我に返った。
 白いひとが、かやを異形から遠ざけるように、背中に庇うようにして押しやっていた。なすがままに押しやられたかやの視界に、白い被衣が広がる。
 りーん……
「だめ……!」
 無言でかやを庇うように立った白いひとに、かやは悲鳴を上げた。
 だめだ、自分を庇ったりしては。この異形に、自分は殺されなければいけない。それに、見たところ手ぶらでただ白くたおやかなそのひとには、あんな恐ろしい異形を前に、身を守るすべがあるようには思えなかった。
 こちらを向いた黒い異形が、かやをめがけて──その前に立つ白いひともろともに──恐ろしく巨大な爪を振り上げたとき。
 ひゅっ、と、何かが空気を切り裂く鋭い音がした。と思う間もなく、いきなり強く殴られたように、異形が横ざまに吹き飛んだ。
 異形はいともたやすく二間以上も吹き飛ばされると、その先で、ぼろりと輪郭を失った。何が起きたのか分からないかやが、ただ目を離せないうちに、夜の闇に溶けるように消えていく。そのあとにぱたりと、名残のように、一本の矢が落ちた。
 ──なにが、あったの……?
 白いひとの袖を震える手で握り締めたまま立ち尽くしていると、誰かが小走りに近付いてくる足音がした。
夜光やこう、怪我は?」
 それと共に聞こえてきたのは、若い男の声。かやを背にしている白いひとの注意が、そちらに向くのが分かった。
「大丈夫です、葵」
 答えた白いひとのいらえは、今までとは違って、どこか人間味を感じる柔らかさを含んで聞こえた。
 駆け寄ってきた相手の姿を見て、かやは再三、目を瞠る。
 袴姿の、やはり派手では無いが身なりのしっかりした、なかなか眉目の整った若い男だった。矢筒を負い、その手には弓があることから、ではもしやこの人があの異形を射たのだろうか、と半信半疑に考える。
 だが何より、かやの目が釘付けになったのは、夜目にも分かるほど奇妙な色をした、高いところでひとつに結われた男の髪だった。
 ──髪の色が、あかい……?
「良かった。すまない、あれを弱らせるのに手間取ってしまった」
「いいえ、こちらは何とも。葵のほうこそ、大事ありませんか」
 立ち尽くしているかやをよそに、朱い髪の男と白いひとは、地に落ちた矢を拾い上げながら、明らかに見知った仲と思われる遣り取りを交わしていた。
 落ち着いた二人の様子を見ているうちに、かやの足腰から、へなへなと力が抜けた。
 何が起きたのかは、まだ頭が理解に追いついていない。様々なことで膨れ上がり、許容量を超えていっぱいになったままの頭が、遂に緊張の糸が切れて働かなくなってしまったようだった。
 茫然とその場にへたり込み、動けないかやに、朱い髪の男が目を向けてきた。歩み寄ってくると、かやと目線をできるだけ合わせるように、その場に片膝をつく。
 少し青みがかったような目が、真っ直ぐにかやを見つめてきた。ぼんやり見返しながら、優しい目だ、と思った。ほっと肩の強張りが解けるような、そんな色を帯びている。
「怪我はないか。どこか痛むところは?」
 この場にそぐわないほど穏やかな声で問われて、ふるふる、とかやは首を振っていた。朱髪の男は小さく頷くと、そのまま続けた。
「明日になれば、近くの町から助けが来る。それまで君は、ここから動かずにいるんだ。家や、村には入らないこと。いいね?」
「たす、け……?」
 呟くと、白いひともかやの傍らに、すいと身を屈めた。静かな声で、白いひとは言った。
「今夜ここであった本当のことは、誰にも言ってはいけないよ。間違っても、自分のせいだ、自分が妖を喚び寄せた、などと言ってはいけない。言えば、おまえもただではすまなくなる」
 その言葉を聞いた途端、かやの両の瞳に、また涙が盛り上がった。
 まだ混乱しながらも、自分が何をやってしまったのか、事の顛末を、かやは頭のどこかで既に理解していた。
「あ……あた、し……」
「分かったね。……人は、どうかすると妖よりも恐ろしいから」
 それだけ言い残すと、白いひとは立ち上がった。朱髪の男も、追うように立ち上がる。
 そのままかやに背を向け、歩き始めた二人に、かやははっとした。
 ──行ってしまう。
「あっ……ま……待って。待って……!」
 立ち上がれないまま、かやは咄嗟に、喉から声を絞り出した。何を言いたいのかもまとまらないまま、言葉を続けた。
「待って。おねがい。あ、あなた……あなたたちも、人間じゃないんでしょう?」
 二人が、足を止めて振り返る。かやは必死で、なんとか立ち上がろうと土を掻きながら、悲鳴のように言いつのった。
「お願い、あたしも一緒に連れていって。あたしっ……」
 ぼろぼろと溢れる涙で、喉がふさがる。まともに喋れなくなって、かやは立ち上がれないまま嗚咽した。
 自分がどうして泣いているのかは、よく分からなかった。自分のやってしまったことが、これから先が恐ろしいのか、不安なのか、後悔なのか。ただもう、この場から逃げ出してしまいたいのか。
 少し経ってから、足音がひとつだけ、かやの方に戻ってきた。顔を上げられないでいる傍らに屈み込む気配がして、朱髪の男の優しい声が聞こえた。
「気を失っているだけで、生きている者も多い。火ももうじきに消えるだろう。君には、まだここで出来ることがある」
 嗚咽したまま、かやは顔を上げた。かやを真っ直ぐに見て、朱髪の男は、声音を変えないまま続けた。
「君のような子供が背負うには、酷なことだと思う。……でも、それでも、俺たちが替わってやることは出来ないんだ。すまない」
 場当たり的なものではなく、心から男がそう言っていることが、かやに伝わってきた。言葉の内容以上に、つらい気持ちが伝わってくる声音。その優しいけれど芯の強い眼差しを見返していると、ふいに見えない手で背を支えられるような、そんな心地がした。
 見上げたまま、ただ涙が零れるにまかせているかやに、ふいに男が苦笑じみた顔を見せた。
「それにな。残念ながら、俺はこれでも人間なんだ」
「え……?」
 あんな異形を、あんな簡単に消してしまった上に、こんな見たこともない髪の色をしているのに?
 かやが驚いて何も言えずにいるうちに、男は立ち上がった。離れた処で待っていた白いひとと共に、かやに背を向けて歩き出してゆく。
「あっ……待って……まっ……」
 今度は、呼びかけても二人は立ち止まってくれなかった。
 細い三日月の明かりは弱く、じきにその姿は、夜の闇にまぎれて見えなくなってしまう。
 朱髪の男が言ったように、村を焼く火の手はいつのまにかもうだいぶ弱まっていた。
 かやはその場から身動きできないまま、座り込んだまま、ただ咽び泣いた。夜が明ければいよいよ本格的に襲ってくるだろうつらく苦しい現実を思い、自分のやってしまったことを思い、自分がそれに耐えられるかも分からなかったけれど。だからこそ、泣いても誰にも咎められない今のうちに、泣けるだけ泣いてしまいたかった。


 恐ろしい、夢のようだった夜が深まり、やがて東の空がゆっくりと明け始めた。

 

(了)

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