氷雨に訪う (二)

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 それからしばらく経ち、多少雨足は弱まったが、一向に降り止む気配は無かった。
 今日は早々から悪天候に見舞われた中を歩いてきた疲れもあり、単調な雨音を聞いているうちに、夜光と葵はいつのまにか眠ってしまっていた。
 どれくらいそうしていたのだろう。ふ、と夜光は目を覚ました。
 火鉢の炭は、まだ弱く燃えている。窓から外を見ると、今にも日が落ちようという暗さだった。雨天の黄昏は、あたりをただ無彩色な灰色から、闇へと塗り替えてゆく。
 ──葵は?
 傍らを見ると、蓑をかぶった葵が、荷物を枕に穏やかな寝息を立てていた。
 疲れもあったのだろうが、この状況でここまで眠り込める葵も、存外に胆力があると思う。夜光と蓬莱を旅し、様々な出来事と行きあう間に、眠れるうちに眠ることに慣れたのかもしれないが。

 ──り……りり……り……

 弱く、夜光にしか聞き取れぬほどかすかに。自身の衣の袂から鳴った玉音たまねに、夜光はこころもち、気を引き締めた。
 あたりを静かに見回す。この玉音は、「タマフリの鈴」と名付けられた、霊験ある宝具から鳴る音色だった。内部に玉を持たないこの鈴は、邪悪なものや極端に大きな霊威を宿すものが近くに居ると、それを察知して音を鳴らす。
 つまり、この玉音が鳴ったときは、基本的に警報だと思ったほうが良い。
「……くだんの、妖か」
 まだ気配は遠い。夜光は身動きを控え、じっと耳を澄まし、雨音の中にその気配を探ってみた。
 もしもこの場に妖が戻って来た場合に備え、夜光はあらかじめ、小部屋に簡単な結界を巡らせておいた。「外」と「内」とを隔てる見えざる壁に遮られて、夜光と葵がここに居ることは、相手の妖には伝わらない。
 何を警戒する様子もなく、雨の中を妖は近付いてくる。

 ──りり……りーーーん……

 雨音の中。やがて微かに、ずるり、と何かを引きずるような物音が聞こえた。タマフリの鈴がはっきりと鳴り、それまで寝息を立てていた葵が、ぱっと目を覚ました。
 ほとんど無意識にだろう、起き上がりながら蓑をはねのけたその手が、傍らに置かれていた太刀を取る。片膝をつき、特に殺気立つ様子もなく、葵は瞬時にいつでも太刀を抜ける体勢を取った。
「……来たのか?」
 板戸の向こうを透かし見るようにしながら、葵は声音を落として言う。
「そのようですね。おそらく、残りの肉を喰いに来たのでしょう」
「それは、させたくないな」
 無惨な一家の姿を思い起こしているのだろう、葵は複雑そうに眉根を寄せた。
 もう死んでしまっているものを、惨いから喰うなというのは、「人間」である側の一方的な物言いだ。妖からすれば、単に獲物を狩り、残しておいた食物を再び喰いに来たにすぎない。
 だがそうであっても、「人間」という種族の側に立つものの勝手を承知で、これ以上哀れなむくろに傷をつけさせることは、したくない。
 多少強制的にでも立ち去らせるつもりで、雨の中を近付いてくる何ものかの気配に、二人は意識を凝らした。
 ずず……ずるり、と、次第に物音は近付いてくる。雨で濡れているせいだろうか、湿った重い何かを引きずるような音だ。もうそれは、この粗末な小屋のすぐ間近にまで迫っている。
 雨は変わらずに降り続いていた。何かが表の戸板にぶつかり、乱暴に押しのけ、倒すような音がした。
 立ち上がった夜光が、向こう側とこちらとを隔てる板戸の前に進んだ。太刀の柄を握って身構えている葵にかわって、夜光の白い手が、躊躇うこと無く板戸を横に引いた。
 戸を開いたことによって、巡らせた結界もまた、切れて開く。途端、血臭と泥臭さを混ぜ合わせたような生臭さが、ゆるい風と共に吹き抜けた。
 もうほぼ日の暮れた暗がりの中、「それ」はいた。今にも骸に覆い被さろうとしていた何かが、のそりと首を持ち上げた。
 夜光の傍らで、葵が身構えたまま、暗がりに目を凝らした。
「何だ……?」
 そこにいたのは、長い長い黒髪を持った裸身の女だった。雨に濡れそぼったその髪は蓬髪というにふさわしく、女の上半身から腰の下以上にまで絡みつき、長くうねっている。
 乱れかかった黒髪の下から、不吉な雌黄しおうに耀く真円に近い両眼が、二人に巡らされた。白眼が無い眼の中、縦に細い瞳孔が、ぎょろりと動く。裂けた口許には剥き出しの牙が覗いており、そのかおは鱗に覆われていた。貌ばかりでなく、その腕や肩、背中までも。
 そして上半身を持ち上げたその下に続いているのは、巨大な蛇の胴体。それもただの蛇の胴ではなく、蜈蚣むかでに似た無数の不気味な節足が蠢いている、異形だった。
「あァ……? 何だ、はおまえらのほうだ。人の餌場で何をやってやがる」
 ざりざりと錆び付いたような声を、蛇女へびめが発した。やや不明瞭ではあるが、聞き取るのに不足は無い声だった。
「人間か。……いや、何だ。混ざりモノか……?」
 二人を睨むように見据えてきた蛇女が、ふいにびくりと硬直した。明らかに驚愕し、信じられないものを見たように、丸い両眼をいっそう見開いた。
「おまえは……まさか……っ……ああ……くそ。ちくしょうめが……ッ!」
 ぶるぶると震え始めたかと思うと、いきなり蛇女はその身を翻した。七尺はあろうかという蛇の胴をうねらせて引きずり、あっというまに戸口から出てゆく。
 夜光は追って土間に降りたが、降りしきる雨に濡れた後ろ姿は、深まり始めた夜の闇の中へと、たちまち見えなくなっていった。
 何が起きたのか分からないという様子で、葵も戸口までやって来た。
「何だ、あれは。なぜ何もせずに逃げたんだ?」
「分かりません」
 突然すぎてわけが分からないのは、夜光も同じだった。
 言葉を解し、話すもの、ということは、あの蛇女はそう下等な妖ではない。いったいこちらに何を見て、何にあれほど驚いて、逃げるように立ち去ったのだろう。
「まあ、何もせずに去ったというなら、構うことは無いのかもしれませんが……」
 言いながら、夜光自身、今ひとつ腑に落ちなかった。
 何か気にかかる。昔どこかで、この妖気に……あの妖の気配にふれたことがあるように思える。
 そういえば、最初にこの小屋に入ったときも、何か引っかかった。妖気の名残に、どこかで覚えがあるような気がして。
 しかし、それがどこで、誰の気配であるのか、考えてはみたが思い出せなかった。
「夜光?」
 佇んだまま考えていると、葵に声をかけられた。
「すみません、何でも。戻りましょうか」
 さだかではないことを言っても仕方が無い。もしも再びあの蛇女が訪れ、仮に襲ってきたとしても、あの程度の妖気の主なら、自分と葵とでそう労せずに追い払えるだろう。何かあるならそのときに確認すればいいし、もう現われないなら、それに越したことは無い。
 倒されていた戸口の板を元通りに直し、夜光と葵は奥の小部屋へと引き上げた。


 夜になっても、雨は止まなかった。昼ほどひどい降りではなく、屋根やあたりの草木を叩く単調な雨音も軽くなってはいるが、一向に止む気配は無い。
 夜気はしんしんと冷え込み、寝床の敷布がわりに、干してあった獣の皮と藁を借用した。かなり雨漏りがするので、夜光と葵は別々に横になり、それぞれ雨避けに蓑をかけてやすむことにした。
 葵は比較的すぐに寝入ってしまったようだったが、夜光は横になったまま、なかなか寝付かれなかった。
 掛け布がわりの被衣を引き寄せ、何度も姿勢を変えて寝返りを打ってみる。落ち着かないのは、寒さや寝心地のせいではなく、妙に神経が昂ぶっているからだと、薄々自分でも分かっていた。
 ──あの、雌黄の目を持った蛇女へびめは、いったい何だったのだろう。
 やはり、どこかで覚えがあるように思う。あの気配に覚えがあるような気がする。でも、いつ、どこで?
 かたり。と、そのとき小さな物音がした。上のほうから聞こえた気がして、目を上げる。明かり取りの窓から、黒い小さな四つ足の影が、小部屋の中に入り込んでくるのが見えた。
 ──鼠?
 柱を伝って、一匹の野鼠が板敷きの床に降りてくる。それは何か意思を持つもののように真っ直ぐ、夜光のもとに向かってきた。
 それを見て身を起こした夜光の前に、野鼠は止まった。後ろ脚で立ち上がり、チチチ、と喉を鳴らす。
 何なのだろうと見ていると、唐突にそれは「言葉」を喋り出した。
「──夜光。オマエダケ、ツイテ来イ。アノ太刀ト、ソノ懐ノ鏡ハ、持ッテ来ルナ。イイナ。オマエ一人ダケデ、来イ」
 夜光は野鼠を凝視した。
 ──なぜ? いったい誰だ。どうして、自分の名前を知っている?
「私ノ名前ハ、蓮華れんかダヨ。マサカ、忘レタトハ言ワセナイ」
 続いて名乗った野鼠に、夜光は瞳をみはった。
「蓮華……?」
 忘れたとは言わせない。その言葉とその名が、ぐるぐると頭の中を回る。考えるよりも早く、今の今まで忘れていた記憶の底から、あの蛇女の妖気と一致する気の主の姿が甦ってくる。
 まさか。でも、確かに自分はその名を知っている。あの妖気の主を知っている。かつて暮らしていた異界の地で、「蓮華」と呼ばれていた妖を知っている……。
 チチッと鳴いて、野鼠が走り出し、入ってきた窓へと駆け上がった。はっとして、夜光は立ち上がった。
 細かいことは分からない。だが、本当にさっきの蛇女が夜光の知っている「蓮華」であるのなら、追わなければいけない。
 その名を聞いた瞬間に、もう随分遠い記憶のように感じられる過去の光景が、まざまざと脳裏に甦っていた。──ああ、もしも本当に「蓮華」であるのなら。会って、話さなければならないことがある。
 驚きと焦燥にも似た思いに駆り立てられ、夜光は白い被衣をかぶった。そこで、「懐の鏡は持って来るな」と言われたことを思い出す。
 組紐を通したその小さな美しい鏡は、終の涯ついのはてを発つとき、長が手ずから夜光の首にかけてくれたものだった。この鏡は、夜光の片親の血──「妖としての姿と異能」を封じている。封印は夜光自身が望んだことであり、夜光はお守りのように、常に鏡を首にかけ、懐にしまっていた。
 終の涯の長に繋がるものであり、夜光の切り札でもあるこの鏡を身から離すことには、不安がある。だけれど今は、蓮華と会って話すことを優先したかった。言われた通りに鏡を外して、置いた荷物の中にしまう。
 眠っている葵の傍らに置かれた太刀にも、言われた通り手をふれなかった。こちらも終の涯の長から賜った宝刀であり、もしもの時の護身用として、これほど心強いものはない。とはいえ太刀を使うのは不得手だし、そもそも今あの太刀にふれようとしたら、葵が目を覚ましてしまう。
 急いで、けれど眠っている葵に気付かれぬよう最大限に物音と気配を殺し、小屋を出た。
 ずっと降り続いている雨は、まるで氷のように冷たかった。夜光は出来るだけ濡れないように、目深に被衣を引き下ろした。
 半妖である夜光は、星月の無い夜でも、不自由はない程度に夜目が利く。先に外に出たはずの野鼠の姿を探すと、道から逸れて森の中へと向かう方向に、ちょこんと立っているのを見付けた。
 夜光が近付くと、すぐに野鼠は小さな身を翻して駆け始めた。
 小さな野鼠の姿を見失わぬよう目を凝らしながら、夜光も森へと足を向けた。

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