八重山振りの君 (一)

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 初夏らしく強さを増してきた陽の光に、夜光は白い指先でつまんだ一枚の葉をかざした。
 雑木林の中を通る、ほとんど獣道のようなそこの途中。腰掛けがわりにちょうど良かった岩に、白い被衣かつぎを纏った夜光は、ひとり座っていた。
 つまんだ葉は、座る前の岩の上に何枚か落ちていたものだ。産毛のようなものに覆われているせいで、少し灰色っぽく見える。あたりには、これと同じ葉をつけた木が何本も生えていた。
 木漏れ日にかざしてみると、葉脈が複雑だが規則正しい模様を成し、きらきらと光って綺麗だった。形や特徴からして、ナラの類いの葉のようだ。ということは、そろそろ人里が近いのかもしれない。
 京師みやこからは西の方角にだいぶ離れた土地。ところどころに見える、今を盛りに咲く山吹のせいか、薄暗いはずの雑木林の中も随分明るく感じる。木々の間から遠くに見える山嶺が、空の蒼に淡くけむっていた。
 手持ち無沙汰に葉を眺めているのにも飽いて、ふう、と小さく息をついたとき。道の向こうから、一人の若者が足早にやって来るのが見えた。
「夜光、待たせたな。痛むか?」
 整っているとは言い難い道を、危なげない足取りで近付いてきた袴姿の若者──葵は、夜光の姿を認めると、安心したように、それ以上に案ずるように言った。
 夜光も座ったまま葵を見上げ、頬を和らげた。
「大丈夫です。すみません、葵。面倒をかけてしまって」
「面倒なんかであるものか。見せてみろ。ああ、こんなに赤く腫れて」
 すぐさま夜光の前に屈み、葵が覗き込んだのは、夜光の右の足首だ。
 衣の裾から覗いたそこは、一目で分かるほど赤みを帯びて腫れていた。その上、周囲の素肌がいくつも擦り傷や切り傷を負っている。練り絹のような肌の白さ、きめ細かさゆえ、その具合はいっそう痛々しかった。
 先程のこと。雑木林の中を歩いていたら、道端の茂みから獣だろう何かが急に飛び出してきて、それが夜光にぶつかった。咄嗟に避けたものの、それの動きは素早く、避けきれなかった夜光は足場の悪さも手伝って転んでしまった。そのときに飛び出してきた何かを庇うようにしたせいで、右足首を捻ってしまったのだ。
 ちょうど清水の湧く小さな水場を通り過ぎたばかりだったので、葵がそこまで引き返し、手当てのための水を汲んできてくれた。ついでに、痛み止めになる野草も摘んできてくれたようだ。
 葵は痛ましそうに、眉間にきゅっと皺を寄せる。壊れ物を扱うように、そっと夜光の白い素足を取った。
「痛んだら、遠慮無く言え」
 葵は夜光の足のいくつもの傷を洗うと、手拭いを濡らして冷やし、腫れた足首に掛けた。それから、摘んできた蓬を揉み始める。
 葵が丁寧に甲斐甲斐しく世話をしてくれることが、申し訳なく照れくさくもあって、夜光は口を開いた。
「見た目ほどは痛まないのですよ。そんなに心配なさらないで下さい」
 実際には、すぐには立つのを躊躇うほど痛む。のではあるが、あまり心配をかけたくもない。
 そんな夜光を、葵が手を止めないまま、じろりと見上げた。
「痛むから動かなかったんだろう?」
「それは、まあ。そうなのですが」
「変な遠慮をするな」
「遠慮をしているわけでは」
「だったら、言い方を変える。やせ我慢をするな」
 ぴしゃりと言われ、夜光は思わず口ごもった。葵は普段、あまりこういう強い物言いをしない。夜光にはとくに甘く優しい葵だが、それは決して時と場合を選ばないものではなかった。
「……すみません。ありがとうございます」
 葵に、夜光をいたわるなと言うほうが無理なのだ。ここは素直になっておくべきだろうと、夜光は小さく頭を下げた。
 その仕種の拍子に、肩の長さで切り揃えられた乳白色の髪が、さらりと流れて前に落ちた。乾燥しきった白髪などとは違う、艶と潤いを含んだ美しいその髪は、斑な木漏れ日を受けて、ふんわりと光を散らした。
 それを見上げた葵が、一瞬眩しいものを見たように目を細める。そして仕方が無いというように相好を崩した。
「おまえは、見かけによらず意地っ張りだからなあ。そんなところも可愛くはあるんだが。心配くらいは、きちんとさせてくれ」
「可愛くなどありませんよ。何を急に仰るのですか」
「可愛いぞ。それに急にでもないぞ。いつでもおまえは可愛いだろう?」
 思わずほんのりと頬を赤くした夜光をよそに、葵は涼しい顔をしている。そして夜光の右足首の手拭いを冷やし直し、大きめの擦り傷や切り傷にはよく揉んだ蓬を塗って葉で覆い、その上から端切れを巻いていった。
 夜光の足が痛まないようにと、丁寧に繊細に動く葵の指と仕種に、いつしか夜光は黙って見入っていた。木漏れ日が差し、あたりには野鳥や野の生き物たちの気配や声だけが響く中、それはとても静かな時間だった。
 葵の気遣いが、夜光にふれるいたわりに満ちた指先の感触が、嬉しい。葵に大切にされていると、その愛情が静かな仕種から滾々と伝わってくることが、たわいもなく染み入るほど嬉しい。
 葵とすごす時間が長くなればなるほど。尽きることがないように、夜光は葵を慕う想いが募り深まってゆくのを感じていた。共に蓬莱に渡ってきてから、もうそれなりの時間を寄り添い続けている。けれども、少しも心が冷めることがない。
 こんなふうに想える相手と共に寄り添っていられることが、共に命を刻んでゆけることが、心から幸せだと夜光は思えた。
「そういえば、あの飛び出してきたやつは何だったんだ?」
 そのうち、夜光の内心の物思いなど知らぬげに、葵が口を開いた。
 夜光は少し慌てて、出来るだけ普段通りを装った。
「さあ……よく分かりません。野の獣、だったとは思うのですが」
「急だったとはいえ、おまえが避け損ねたというのが珍しいな」
「ああ。あれはたぶん、幽世かくりよのものでしたから」
 夜光が何気なく言うと、葵は目をぱちくりさせた。
「そうだったのか?」
「ええ。一瞬でしたが、生身の匂いとは違いました。むじなの類いだったのではないでしょうか」
「いつもながら、おまえは歩いているだけでおかしなものを引き寄せるな」
 半分は人間だが、もう半分は妖の血を引いている、という夜光は、この蓬莱──現世うつしよと呼ばれる世界にいると、無意識のうちに「人ならぬもの」に遭遇しやすかった。半分の妖の血が引き寄せるのか、あるいは知らぬうちに自ら近付いているのか、それは分からないが。
「それなら、悪戯という可能性もあるんだな。であればけしからんことだ」
 むう、と葵は唇を曲げた。むじなと呼ばれる類いのものは、得てして悪戯好きであったり、人間をからかって喜ぶ性分を持つことが多い。
 夜光は小さく笑い、言った。
「悪戯かもしれませんし、そうではないのかもしれません。なんにせよ、もう近くにはいないようです。気にしないでおきましょう」
 思考回路や行動原理が根本から異なるもののことなど、考えていても詮も無い。それに夜光は、よほどのことでなければ、こういう「人ならぬもの」の為すことや悪戯に腹が立たなかった。
「夜光は人間には厳しいが、人間以外には甘い」
 とは、葵にもよく言われる。それは夜光が、生まれや育ち故に、やはりどうしても「人間」よりは「人ならぬもの」──「あやかし、物の怪」などと呼ばれるものたちに近いせいなのかもしれない。
 夜光の言葉に、葵も「うむ」と頷いた。葵は夜光と違って、あくまで生まれも育ちも普通の「人間」だが、夜光と共に過ごすうちに、肌身で「人ならぬもの」たちの性質を理解するようになっていた。実をいえばこういう「何かの悪戯」は、二人で共に蓬莱を旅する日々の中では、とくだん珍しいことでもなかった。
 夜光の腫れた足首をよく冷やしてから、葵はそこにもたっぷり揉んだ蓬を塗る。それから丁寧に、しっかりと、端切れを巻いて結んだ。

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