「……あれ?」
マンションのエントランスから少し離れた植え込みのあたりに、男性とおぼしき人影が二人立っているのが見える。出て行くときには目に付かなかったから、アゲハが外出している間にここに来たのだろう。
マンションに向かって歩くと必然的に距離が縮まり、二人の姿形がはっきり見えてくるにつれて、いつもはほわりと綿菓子のように柔和なアゲハの表情が硬くなった。
どちらの男も、二十代半ばから三十歳手前くらいだろう。キツネ色の髪のひょろりと背の高い痩せぎすの男と、もう一人は中肉中背程度の黒髪の男。どちらもかっちりとした格好ではなく、大学生のようなカジュアルな服装をしている。
巧妙に隠されてはいたが、キツネ色の髪をした男がカメラを持っているのを、アゲハは見逃さなかった。
アゲハの高級なルビーよりも紅い瞳が凝らされ、深みを増した。興信所か何かだろうか、とも一瞬思ったが、まがりなりにもそういった職業の者なら、もうちょっとうまくカモフラージュするだろう。
二人の姿がはっきりと見える距離、つまり彼らからもはっきりと見える位置に、アゲハは立ち止まった。
近くに足を止めてじっと見つめてくる白い少年に、二人の男もすぐに気が付いた。
「おんや。こりゃーえっらいキレイなコだなぁ。タレントさん?」
カメラを持った方の、キツネ色の髪をした背の高い男が、無遠慮にアゲハを見返しながら言った。
「こんばんは」
アゲハはスーパーの袋を下げたまま、にこりと笑った。
十五~六歳に見える小柄な少年、という外見のアゲハだが、仄かに虹色に輝くような白銀の髪と、同じく虹色を帯びた真紅の瞳は、立っているだけでまさしく異彩を放つ。睫毛がくるりと反って長く、線の柔らかい繊細な顔立ちは中性的だから、少女の服を着てしまえば「少し上背の高い女の子」でも通るだろう。
だが、普段は夢見がちなようにほわりとした顔つきが、鋼のように硬質な表情に、するりと入れ代わった。それだけでアゲハの持つ雰囲気は、まったくの別人のように変化していた。
「どこかのライターさんですか?」
口調はいつものまま柔らかいが、その芯には普段のアゲハにはない冷ややかさがあった。
ひたりと真紅の瞳に見据えられた二人の男は、一瞬だけ視線を見交わした。
すぐにアゲハに視線を戻し、キツネ色の髪の男がにまりと笑った。
「いんや? 俺らはちょっと、ここで人を待ってるだけよ」
「でも、そこにカメラがありますよね?」
アゲハがほっそりした白い指先を持ち上げて、男の手元を指した。数歩の距離を、スニーカーの軽い足音と共に歩み寄る。
悪びれた様子もなく、キツネ色の髪の男はまた妙に明るく笑った。
「あ、見えた? 目ざといねぇ。おにーさんね、カメラが趣味なんだなぁ」
明るいように見えて、男の目許は笑ってはいない。それを真っ直ぐに笑顔で見上げるアゲハの目も、同じように笑ってはいなかった。
「慧生さんを待っているんですか? このマンションには、記者の方がわざわざ陰で待ち構えていなければならないような著名人は、他に住んでいませんものね」
「おい」
そこで横から、もう一人の黒髪の男が、キツネ色の髪の男を嗜めるように声を挟んできた。しかしキツネ色の髪の男は、むしろ興味を持ったようにアゲハを見下ろした。
「へぇ。君は何? 橘センセイの知り合い?」
「僕は、先日から慧生さんの身のまわりのお世話をさせて頂いているアンドロイドです」
躊躇いもなく名乗ったアゲハに、男達がぽかんとした。
「……へ?」
「アンドロイド……えぇッ? 君が?!」
無理もないだろう。巷に出回っている汎用アンドロイド達とは違い、アゲハの姿はどこからどう見ても「生身の人間」そのものだ。白く可憐な姿にはどこか妖精じみたような空気があるとはいえ、どこまでも有機的で、まさか人間ではない、などとは誰も思わない。
咄嗟のように、キツネ色の髪の男が隠してあったカメラを引き出した。それを向けられるよりも早く、アゲハは手を伸ばして、大きなレンズごとカメラを無造作に掴んだ。
強く引き、男の手からカメラを奪い取る。
「あっ……おい!」
アゲハは男達を見据えたまま、すぐに数歩下がった。キツネ髪の男が思わずのようにアゲハに掴みかかろうとしたが、はっと周囲を見回して、その手を止めた。
舗道を歩く人々が、ちらほらとこちらに視線を投げていた。この目立つ場所で、子供相手に事を荒立てるのはまずい、と判断したらしい。
「良いカメラみたいですね」
アゲハは手の中のカメラを見回しながら、しかし男に距離を詰めさせる隙を見せないまま、穏やかに笑った。ボディよりもレンズの方が大きなカメラは、アゲハの華奢な手の中にあると、やたらに重たげだった。
「なんていうんでしたっけ、こういうの。大きなレンズですねぇ。きっと高価なんでしょうね」
「あー、うん。まぁな」
キツネ髪の男はさすがに若干困った色を見せ、やがて諦めたように、にやついていた表情を改めた。
「あのな、ボク。俺らは君のお察しの通りの人間だけど、別に隠してたわけじゃねぇよ。わざわざ他人様に名乗る必要もないだろ。だからさ、それ返してくれ。大事な商売道具なんだよ」
「取材をしたいなら、正式に申し込めばいいじゃないですか。なんでこんなところでコソコソしてるんです」
どうせ慧生さんは拒否するだろうけれど、と思いつつ、アゲハは淡々と切り返した。
「んー。いやぁ、まあ、そうなんだけどさ。あの人、マスコミにアタリがキッツいじゃん?」
男はごまかすように、キツネ色の短い頭髪をぼりぼりと掻いた。
「それにさ、アレだろ。来るかもしれないだろ。ここに『彼女』がさ」
「……彼女?」
すうっと、アゲハの眼差しの温度が下がった。
「そ。彼女」
男はそれに構わず、むしろ愉快そうに目を光らせた。
「橘サンはさぁ、ここんとこずーッと新刊を出さないよなぁ? 数年がかりで超大作を練ってるんだとか、所詮金持ち息子の道楽だから飽きたんだろうとか、イロイロ言われてっけどさ。橘慧生の文章の質が下がった、って評判が、俺は案外マトを射てるんじゃないかと思ってんのよ」
「…………」
「橘サンはさ、所謂スランプってやつなんだろ? しかも、相当に深刻なさ。そこに『彼女』がさらっと新人賞をとって文壇デビューときたら、いったいどんな心境なのかなってねぇ。彼女は彼女で、橘慧生の恋人ってだけでもなかなか話題性あンのに、これがまたガードが堅いんだわ。あわよくば、ここでお二人が一緒のところなんか撮れたらね。オイシイでしょ」
「…………」
アゲハはその口上を、黙って聞いていた。
彼らの仕事を考えれば、その言い分ももっともだろう。他人から見れば、慧生の苦悩も美玲羽との関係も、どうせそんな程度のことだ。慧生はルックス故に女性人気が高いのは否定できず、その深刻なスランプと「恋人」日下美玲羽の新人賞獲得なんて、書きようによってはいくらでも下卑た好奇心を煽る記事にできるはずだ。
うつむいたアゲハの奥歯が、ぎり、と音を立てた。
──どれほど慧生さんが苦しんでいるかも知らないで。
いや。知ったところで、彼らはどうせ面白おかしくはやしたてるだけ。それによって、慧生がますます追い詰められるのを見て笑うだけだ。
そもそも慧生が「書けなくなった」のは、少なからず、こういう下世話な連中のせいだ。慧生の文学賞を出来レースだとはやし立て、何の実力もないアイドル人気作家だとあげつらった。
何年も、何を書いてもそうやって叩かれ続ければ、動じるなという方が無理ではないのか。プロのくせにそんなことで、と笑う者もいるだろうが、プロだろうが何だろうが「人間」だ。「書く」ことを誠実に愛していればいるほど、筆を取ることが恐ろしくもなるのではないのか。
腹の底から、沸々と震えるほどの怒りが込み上げる。ざわっと、アゲハのうなじの産毛が逆立った。
こんな連中のために、慧生が一ミリたりとも傷つけられるのは許せない。自分に虹色の魂を吹き込んでくれた、彼の世界を穢すことは許さない。
アゲハの白い手が持ち上がり、カメラのボディと突出したレンズ部分とを別々に掴んだ。関節が浮いて見えるほどに細い指に、ぎりっと力が込められる。
「うん? 何して……──ッて……!?」
何のつもりだろう、と胡乱げにした男達が、その次に起きたことに目を丸くした。
ぎりぎりとカメラを締め付けたアゲハの指が、金属の塊であるボディをひしゃげさせてゆく。バキバキともメキメキともつかない鈍い音が響き、やがてバキン! というひときわ高い音がしたかと思うと、ボディは大きく歪んで半ばへし折れ、レンズはボディから外れかけていた。
大きく形が歪んだカメラを、アゲハは男達の足元に放り投げた。完全に呆気に取られていた男達が、ぎょっとしたように「うわっ」と飛びのいて、信じられないように転がったカメラとアゲハとを何度も見比べた。
「な、な……嘘だろ、こんなの。えぇー……?」
やっと我に返ったらしいキツネ髪の男が、無惨な姿で転がっているカメラに近付いてしゃがみ込んだ。おっかなびっくりカメラを取り上げ、凝然とアゲハに視線を向けた。
心なしか血の気が引いている男達に、アゲハはふわりと微笑んだ。
「僕は人間じゃありませんから。そのくらいのことは、簡単にできるんですよ」
「そ、そのくらい、って……」
「ちょッ……ちょっと待ておい!」
黒髪の男が後ずさり、キツネ髪の男がそこでハッとしたように血相を変えて立ち上がった。
「なぁんてことしてくれやがんだ、コラッ! 大事な商売道具だっつったろーが!」
「勿論、弁償はします。なので、名刺を下さい」
微塵も怯まず、あくまで穏やかに、アゲハは促した。
「僕の監督責任は、アルファトリニティ社の鷹司礼二にあります。あなたに連絡して対応するよう、今回のことは僕から報告しておきます」
「アルファトリニティって……」
橘グループ系列の有名企業の名を、さすがに彼らは知っているようだった。黒髪の男の方がかなり焦ったように、「おいサトル、なんかやばいって」とキツネ髪に囁き、キツネ髪も怒鳴り散らしていたのを忘れたように、目に見えて及び腰になった。
「作家・橘慧生」を記事にするだけならまだしも、明らかに常識外れのスペックを有する、しかも「橘グループ」に直結している奇妙なアンドロイドを相手取ること、それに身元を押さえられることのリスクが、ようやく彼らにも分かってきたらしい。
「いや、その、えっと……う、うーん。いや、お気持ちはすげーありがたいけどっ、よく見たらコレすぐ直りそうだわ!」
キツネ髪が壊れたカメラをババッとしまい込み、じりじりと後ずさりながら、露骨な空元気にひきつった笑顔で言った。
にっこりと、アゲハは微笑んだ。
「あ、そうでしたか。それなら良かったです」
「お、おう。じゃあ、てことで俺らは引き上げるわ。じゃあなっ」
「お気を付けて。二度とここへは来ないで下さいね」
口調だけは優しく言い置くと、アゲハはもう男達には見向きもせず、マンションのエントランスへと歩き始めた。
ばたばたッと遠ざかる足音が聞こえたから、彼らもさすがに、これ以上長居しようとは思わなかったらしい。
広く静穏なエントランスホールに入り、エレベーターのボタンを押したところで、両手の指と掌にひりっとくる痛みを感じた。
手を見ると、白く柔らかな肌が赤い液体で濡れていた。
カメラを力任せに壊したときに、砕けた破片で傷がついていたのは、生じた痛みで分かっていた。あのときは衝動的だったし、カッとなってもいたので、それほどの痛みは覚えなかったが、部分的に少し深く破片が食い込んでしまったところもあるようだ。
どこまでもリアルな人間に近くあるようにと、アゲハは触覚や痛覚も、健康な人間になぞらえてある。制御プログラムを書き換えればそれらを遮断することも勿論可能だったが、その権限はアゲハ自身には無い。
アゲハは不思議なものを見る眼差しで、自分の掌を見下ろした。
痛い、という感覚には、あまり馴染みがなかった。アルファトリニティにいた頃は、まず怪我というものをしたことが無かったから。流れる代替血液の感触も色も匂いも、目新しくて新鮮だった。
──自分の身体の中には、こんなものが流れているのか。
「……痛い……」
エレベーターが降りてきてドアが開くのを待つ間にも、掌の痛みはずくりずくりと強くなっていた。
少しやりすぎただろうか。でもあの二人組を怖じ気付かせるには、多少手荒になるのもやむなしだった。
それに、これで慧生から煩わしい連中を遠ざけることができたのなら、このくらいたいしたことではない。
掌から血が床に伝い落ちそうになり、咄嗟にアゲハは服の袖で押さえた。そうしてから、思わずくしゃりと顔を歪めた。
「服、せっかく慧生さんが買ってくれたのに……」
手の痛みより、服を汚してしまうことの方が気にかかる。
すぐに洗えば落ちるだろうか。それに、うまくごまかせるかな。こんなのを見せたら、慧生さんに心配をかけてしまう。
落ちなかったら謝ろう、と思っているうちに、音も無く上昇するエレベーターが九階に止まり、ドアが開いた。
観葉植物の鉢が置かれた通路が見えると、アゲハはひとつ、溜め息とも深呼吸ともつかぬ深い息を吐いて、意識を切り換えた。