二章 氷滴 (6)

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 宴を好まないフィロネルではあったが、何かしらの祭事や他国から客人を迎えたときなど、フィンディアスという国として催さなければならないときはある。また、皇子自身は宴を好まなかったが、度を越して贅沢であったり享楽に走らなければ、宮廷主催で宴を開くこと自体を禁じてはいなかった。
 宴に限らず、自身は好まないが害にさえならないのなら厳しく制限はしない、というところがフィロネルにはある。そういった案外寛容なところが、独裁的なわりに人気を得ている理由の一つでもあった。
 その夜の宴は「一年で最も月が大きく見える」とされる日、その姿を鑑賞するためにという名目で催された。自身が主催ではないため、皇子は例によって顔を出さなかったが、フィンディアス宮廷にとってそれは珍しいことでもなく、例年通り宴の広間は華やかにさざめいていた。

 月を愛でる宴、とはいっても、毎年この日に夜空がすっきりと晴れたためしなどほとんどない。今夜も雲が多く、大きな満月は雲間に灰色がかった姿をぼやけさせていた。
 身なりを整え、そろそろ宴に出るため控えの間から出ようとしたところで、男は扉を叩く音を聞いた。
 壮年の男は、恰幅の良い身体を華やかな貴族らしい装いに包んでいる。応対に出た召使いに、焦ったように男は呼びかけられた。
「あのう……旦那様。お使いの方が、旦那様とだけお話したい、と仰っておいでです」
「私とだけ? 誰からの使いだ」
「あ、はい。あの……皇太子殿下からのお使いです」
 皇太子からの使い、と聞いた召使いは、すっかり動揺してしまったらしい。慌てたように言い添えたのを聞き、男も驚いた。
 皇太子からの使いに失礼があってはならず、男はすぐに自分も扉まで足を運ぶ。
 扉の外に立っていた娘​​​──身体の線の出ない修道服のような白く清楚なドレスを纏い、頭から白いヴェールを掛けた​​​──が、無言でお辞儀をした。レースの手袋をしたその手は、布をかけられたトレイらしきものを捧げ持っている。娘は深くヴェールを被っている上に、お辞儀をしたまま顔を伏せており、淡く紅を引かれた口許以外を見ることはできなかった。
 しかしその胸元に下がっているペンダントの紋を見て、男は軽く息を飲み、すぐに頷いた。純白のドレスに包まれた娘の胸元に煌めいているのは、黄金で象られた、互いを相食みながら絡み合う二匹の蛇​​​──フィンディアス王家の紋章だった。
 急なことに内心戸惑いながらも、男は白いドレス姿の使者を控えの間に招き入れた。その要望通りに召使いを遠ざけ、他に誰も入れぬよう部屋の扉に鍵を掛ける。
 もう部屋を出るところだったので、燭台の明かりはほとんど落とされていた。しかしテーブルに置かれた明かりは互いの姿を照らす分には充分で、今夜は雲間に隠れがちではあったが月明かりもあった。
「失礼致しました。皇太子殿下からの御遣いとは、いったいどのようなご用向きでございましょう?」
 男は使者の娘に深々と一礼し、切り出した。娘は相変わらず俯き加減で、深めに掛けられたヴェールの下には色の淡い唇が僅かに覗くばかり。
 腰を屈めるようにはしていたが、娘の上背が存外に高いことに、正面から真向かった男はふと気がついた。
「お久し振りです。伯父上」
 俯いた娘の唇が、娘のものではない声音を発した。涼やかで滑舌の良い、それでいてどこか柔らかな、まだ少年の若々しさを残す男性の声音。
 しかし響きは爽やかであるにも関わらず、落ち着いたその声は、柔らかく凪いだ水面ではなく、深く暗い澱を思わせた。その呼びかけに、男はぎくりとした。
 伏せられていた使者の顔が上げられる。白いヴェールをかけたその下で、燭台の明かりの中ではほとんど黒に見える濃紺の髪が揺れ、深く凝らされた藍色の瞳が薄い光を放った。
「ユアン……」
 それを凝視する男の目が、大きく瞠られた。

 ユアンは背筋を伸ばし、ヴェールの下から真っ直ぐに目の前の男を見た。かつて自分がこのフィンディアスを訪れたとき、フィロネル暗殺のために頼った伯父。フィンディアス皇宮に入り込む手引きをした男。
 伯父は絶句したように、ユアンをしばし見返していた。無意識にだろうがその足が一歩下がりかけ、はっと気を取り直したように、伯父は姿勢を正して軽く咳払いをした。
「無事だったか、ユアン。その後どうなったかと案じていたぞ」
「そうでしたか。それはご心配をおかけしました」
 ユアンは我ながら冷えた声を返した。
 突然現れた、白いドレスを身に纏い薄化粧をして一見すると美しい娘にしか見えない甥の姿に、伯父は戸惑っているようだった。それを無視して、手にしたトレイを捧げ持ったまま、ユアンは言葉を続けた。
「今宵は皇太子殿下より、伯父上殿に差し上げるようにと、贈り物を預かってまいりました」
 豊かな貴族らしい装いに身を固め、顔つきも穏やかで一見人のよさそうな印象を与える目の前の男は、しかし状況の異様さに徐々に眉根を寄せ始めていた。
「殿下からの贈り物?」
「はい。こちらに」
 ユアンは左手でトレイを下から支え、右手で掛かっていた白い布を外す。凝った装飾を施された銀色のトレイに並べられていたものに、伯父が息を飲む気配がした。
 銀のトレイに並べられていたのは、二本の短剣。鞘に収められた刃の切っ先は男の方に向けられており、うちの一本はかつてユアンが伯父から渡されたものだった。かすっただけで全身の肉が内も外も爛れて溶け崩れ、一ヶ月苦しみ悶えた末に死ぬ​​​──という猛毒が刃に塗布されたもの。
 伯父がよろめくように大きく一歩後ずさった。咄嗟に言葉も出ないように引きつり、大きく目を瞠られたその顔を、ユアンは冷え切った藍色の虹彩でじっと見つめた。
「この短剣のことはご存知ですね。他ならぬあなたが、私に与えたものです」
「そ……それは……」
「お命を絶つために、好きな方をお選び下さい」
 頼りなく揺らめく燭台の明かりの中でもはっきりそれと分かる程、伯父の顔から血の気が引いた。何かを言おうとするように口が開かれ、しかし何も言葉らしい言葉は出ぬまま、ぱくぱくと動く。喉がひきつれたような奇妙な声が、一気に大きく乱れたその呼吸音に混ざった。
「な……何故だ。そのようなものを……何故殿下が、私に」
 伯父はようやく、動揺を押し殺し、自分を立て直そうとするように首を振った。何度も唾を飲み込みながら、伯父はユアンを睨み付けた。
「何故私が、殿下からそのようなものを賜らねばならぬ? い、いや、そもそもおまえが殿下からの使いなどというのは出まかせだろう。殿下の名を勝手にかたるなど、許されることではないぞ!」
 顔色を失って喚く伯父の言葉を、ユアンはしばらく黙って聞いていた。恰幅良く着飾った伯父が、ユアンには何かひどく醜く目障りなものに見えてならなかった。
 ユアンがレースの手袋を嵌めた青白い手を動かし、トレイの上から毒を仕込んだ方の短剣を取って握ると、伯父がぎくりと強張って喚くのをやめた。
「……私はあの男に、伯父上のことを一言も喋りませんでした」
 短剣を握りながら、ユアンは淡々と言った。
「何があっても、伯父上のことは口外しないと約束したからです。そして私は、今もあの男を討つことを諦めていない。ですが伯父上は、口封じのために私を殺すことをお選びになった」
 ユアンに向かって放たれた刺客が、誰の手の者であるのか。刺客達はさすがに証拠となるようなものは身に着けていなかったが、このタイミングでユアンを除こうとする者など、伯父の他に居るわけがなかった。
 突然現れ、従者としてフィロネルに仕え始めたのがユアンであることを、伯父は何かの拍子に知ったのだろう。顔形を隠していたわけでもないのだから、遠目に一目でも見れば、すぐに確信したはずだ。暗殺に赴いたはずのユアンが何故従者に、と伯父も混乱したことだろうが、それよりもユアンの口から、皇子を暗殺しようとした一件に自分が関わっていると露見するのを恐れたのだろう。
「それは……」
 ユアンに静かに、しかし射抜くように見据えられ、伯父は気圧されたのか言葉を飲んだ。
 ​​​──これが、おまえが身体を張って守ろうとした相手の正体だ。
 刺客に襲われた直後、フィロネルが投げた言葉が、ユアンの耳の奥に甦っていた。
 死ぬのかと思ったあのときの戦慄と、あっさりとフィロネルに投げられた言葉。そして最初の夜に、誰の手引きかと問い質され、手を貸してくれた伯父に累を及ぼすわけにはいかないと必死で沈黙を通したこと。それらのことがどろりと濁って混ざり合い、吐き気がするような苦々しさを伴って、ユアンの中に渦巻いていた。
 ​​​──伯父は伯父で、間違ったことをしたわけではない。
 じりじりと胃の腑を灼く不快感を感じながら、ユアンは思う。伯父がもともとユアンを利用する気しかなかったことは分かっていた。そしてユアンも、伯父を利用していた。
 伯父が悪いのではない。分かっている。だが、頭では分かっていても、鈍く重く痛みながら喉の奥から込み上げてくる感情が、理性の鎖を揺るがしていた。
 すべて失ってしまった自分だから、血縁である伯父には累を及ぼしたくないと心から思っていた。必要に迫られれば、伯父を巻き込まないために命を絶とうと思っていた。それだからあの夜、フィロネルにどれほど脅され辱められても、口を割らなかった。
「俺が甘かったんですよ。すべて。俺が馬鹿だった」
 苦い笑みが、ユアンの唇を歪ませた。自分が懸命に守ろうとしたものは何だったのだろう、と思う。故郷も愛する者達も失って、憎悪する仇に犯されて、それでも、何がどうあっても心だけは穢されぬよう、真っ直ぐであろうとしていた。
 けれどそんな自分の幼さと甘さを嘲笑うように、刃は背後から伸びてきた。刺客に襲われたあの日、フィロネルが襲撃者を斬り捨てなければ、ユアンは伯父に殺されていた。
 そしておそらく、フィロネルには分かっていたのだろう。ユアンを泳がせておけば、いずれユアンを手引きした者の方から動く、と。
 伯父を憎いとは思わない。彼は当たり前のことをしたまでだ。まさか伯父に刺客を放たれるとは思わなかった自分が、間抜けで甘かっただけのこと。フィロネルに囚われ、あれほど耐えて耐え抜いたことが無意味でしかなかったことが滑稽で口惜しく、自分が憐れで惨めすぎるだけだ。だから、伯父は悪くない、と頭では分かっていても、許せないだけだ。
 トレイをテーブルに置き、静かに短剣の鞘を払ったユアンに、伯父は身の危険を感じたのだろう。ヒッ、と喉を引きつらせて後ずさった。
「伯父上。皇太子殿下の暗殺を謀った罪により、貴方を誅殺致します」
「何を……馬鹿な……っ」
 温度の無い青い炎が揺らめくような、ただならぬユアンの眼光に射竦められ、そして事態がようやく浸透してきたのか、伯父が声も唇もわななかせながら呻いた。
「そ、それなら、何故おまえは無事なのだ。何故殿下はおまえを見過ごしている!? 私を殺すというなら、何故おまえが……!」
「さあ。そんなことは、これから死ぬ貴方にはどうでも良いことでしょう」
 ユアンはしっかりと短剣を握り締め、片手で軽く真っ白いドレスの裾をからげ、一歩ずつゆっくりと伯父の方へ歩み寄った。塗られた毒の恐ろしさをよく知っているのだろう伯父は、調子の外れた悲鳴を上げて後ずさった。
 身を返して逃げようとした伯父に、ユアンは一気に動いた。頭に掛かっていたヴェールが外れてふんわりと舞い落ち、白いドレスが睡蓮のように広がった。
 完全に動転している伯父は、手脚がもつれ動きが極端に鈍かった。ユアンは伯父の豪華な装束の端を鷲掴みにした。ひいっ、とまた伯父が悲鳴を上げ、ユアンを振りほどこうとした。
 その伯父の左上腕あたりをめがけ、ユアンは素早く短剣の刃を横薙ぎにした。鈍い月明かりを受けて灰色に見える血飛沫が飛び、豪華な絨毯の上に散った。
「ヒッ……ひ……っ!」
 猛毒の刃で斬り付けられたことで、完全に伯父は恐慌状態に陥った。もつれるように転がり、がくがくと震えながら、芋虫のように床を這う。窓に向かっているのは、それでもまだ逃げようと思っているからだろうか。
 その様子を、氷の滴を落としたように冴え冴えとした眼差しで、しばらくユアンはじっと見下ろしていた。
 窓の外には、大きな満月が夜空に滲み、鈍く輝いていた。流れる雲に遮られては弱まるその光が、複雑な模様を描き出す絨毯で埋め尽くされた床の上に、窓の形を浮き上がらせている。
「一ヶ月かけて苦しんで死ぬか。それとも早晩ご自害なさるか。その自由は、殿下は与えて下さるそうです。殿下のお慈悲に感謝なさい、伯父上」
 絨毯に落ちた光を目指すように這い進んでいる伯父に向けて、ユアンは言った。その声音は鬱々と暗く沈み、そして乾いていた。
「ひ……ぐ…………」
 がくがくと震えたまま、哀れな男は床の上からユアンを見上げた。その喉が、ひきつった呼吸を繰り返す。血走った目玉がこぼれるのではと思うほど見開かれ、何度もかすれた悲鳴のような呼吸が繰り返された後で、震えるその手が傷を負った己の腕にふれた。ぬちゃりとそこを湿らせていた鮮血を見た伯父は、灰色の月光を受けて藍色に汚れたように見える手で、頭髪を掻き毟った。
「ぐ……う、う、う……うううッ!」
 伯父は大きく身震いし、身を捻るようにして、再び床の上を這い出した。
「い、いやだッ……どちらも嫌だ、嫌だっ……た、たすけてくれぇっ……」
 ひぃひぃと引きつった呼吸を繰り返しながらもがいている男を見下ろす藍色の瞳が、ひどく醜いものを見たようにかすかに歪んだ。
「見苦しい……」
 呟いて、ユアンはテーブルの上に置いた銀のトレイのもとへ戻った。毒を仕込まれた短剣を鞘に納め、トレイに置く。
 床に落ちていた白い布を拾い上げ、元通りに短剣の上にかけて、ユアンはトレイを持ち上げた。
「お帰りになるのであれば、衛兵達がお屋敷までお送りします。伯父上のお屋敷は既に兵士達の監視下にありますが、伯父上の名誉をお守りする為に、それ以上のことは致しません。それでは、私はこれで。残りの時間を、どうかより良くお過ごし下さい」
 事務的に言い置き、ユアンは部屋の扉に向かって歩き出した。その背中に、床から立ち上がれずにもがいている伯父が、しゃがれた声を投げた。
「ま、待て……待ってくれ。嫌だ。どうか殿下にお慈悲を……ユアン、た、助けてくれ……っ!」
「殿下は、既にお慈悲を下さっておいでです」
 扉の鍵を外し、静かに開きながら、ユアンは振り向きもせずに言った。部屋を出かけて、そこで足を止める。このまま去ってしまえば良いと思いながら、最後にどうしても、ひとかけらの鋭く小さな軋みが、冷え切った胸の奥で音を立てた。
「……私を助けて下さって、ありがとうございました。さようなら、伯父上」
 そして、後ろ手に扉を閉めた。喚いている伯父の声が、もう一切聞こえぬように。


「役目は済んだか」
 大きな緋色のカウチに優雅に横たわり、クッションに凭れていたフィロネルが、部屋に入ってきたユアンに声を投げた。揺らめく燭台の明かりに浮かび上がる、その極上のアメジスト色を帯びた瞳は、どこか笑みを含んでいるようだった。
「はい」
 ユアンは淡々と返す。短剣はトレイごと、既に回収されている。白いドレスに濃紺の髪色が映えるユアンを、フィロネルは無造作に腕を伸ばして引き寄せた。
 カウチに倒れ込み、フィロネルに抱き寄せられる格好になっても、ユアンは無表情のままだった。薄化粧をした白い頬を、金と橙を帯びた燭台の灯りが柔らかく照らす。
 フィロネルは人形のように抵抗も反応もしないユアンの紺色の後れ毛を梳き、前髪を上げられたその額に唇を寄せた。
「ご苦労だった。褒美に、今夜はおまえの悦いようにしてやろう」
 額や瞼の上に口付けられながら、ユアンは力無く白い瞼を下ろした。抜け殻のような声が、その唇から落ちた。
「……好きにしろ……」
 カウチの上で白いドレスを剥がされ、露わになった肌に与えられる刺激に咽ぶような声を上げながら、ユアンはその夜、一言も意味のある言葉は発しなかった。身体の熱に潤んだ藍色の瞳から、汗とも涙ともつかぬ滴が、眦から頬に流れ落ちた。


 それから半月ほど後のこと。
 最近体調がすぐれない、と屋敷にこもっていたある貴族の男が、首を吊って死んだ。
 その報せを受けても、ユアンは眉ひとつ動かさず、ただ藍色の瞳を静かに伏せただけだった。

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