四章 神の死 (4)

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 皇子と医師団、それからごく一部の高官を除いては、皇帝の寝所に立ち入った者はこれまでいなかったらしい。
 ユアンはあれから、何人もの者に沈痛な面持ちで呼び止められ、皇帝の様子はどうだったかと訊ねられた。
 ユアンはそれらに、無言で首を振る他になかった。生きながら腐ってゆく包帯だらけの皇帝の姿は無惨で痛ましく、あの薄暗い部屋の澱んだ空気やぞっとする臭いを思い出してしまうのも、限りなく気分を暗くした。
 問われて見せるユアンの表情も、きっと重いのだろう。訊ねた者達は、いずれも問うてしまったことを悔やむように、それ以上は追求せず、謝罪して去って行った。

 これまでは興味もなかったフィンディアス皇家について、ユアンはあれから可能な範囲で調べてみた。ルカディウスやイザリアという存在、それにフィロネルについて。勿論公にされていることであれば大まかに知ってはいたが、今知りたいのはそういったことよりも、できるだけ等身大の、「私人」としての彼らのことだった。
 資料から得られる知識の他にも、ユアンはさり気なく皇宮内に勤める者達にも話を聞いた。
 そうしてみてあらためて、自分がいかに「彼ら」について知ろうとしていなかったのかを、ユアンは知ることとなった。
 皇帝ルカディウスは、昔は賢君として慕われていたようだが、近年ではすっかり政務を放擲し、酒や怪しげな薬に溺れて堕落していたらしい。今の状態についても、本当は病などではなく、用いた薬が何かまずかったのではないか……と噂する声さえあるようだ。
 進言も聞き入れず、阿諛追従や賄賂だけで簡単に金品や地位を振る舞う皇帝に、その統治の末期には、心ある廷臣達は大半が宮廷を去ってしまっていたようだった。堕落した皇帝が、国庫が傾くような莫大な浪費に走ることはしなかったのが、せめてもの救いだったろう。しかし宮廷が腐敗し皇帝の目が届かなくなったことで、自分の領地や荘園で好きに重税を課したり横領して私服を肥やす者は急増し、治水や公共事業もおろそかにされて、民はかなり苦しめられていた。
 そんな状態だったから、ルカディウスが「病」に伏してフィロネルが政務を執り始めたことを、皆が好意的に受け入れる土壌はあったようだ。
 それにしても、当初は皇子に対する風当たりは、宮廷では相当にきつかったらしい。そればかりか皇帝の下で甘い汁を吸っていた者達は、国政の機能を正常回復させようとした皇子をけむたがり、ひどく馬鹿にしたり足を引っ張ったりしたようだ。自分達のやっていることが、フィンディアスという乗船を腐敗させ弱らせる行為であることを、そういった連中は理解すらできなかったのだろう。
 だが皇子はそれらに屈することなく、ルカディウスの下で廃れてしまっていた様々な仕組みや制度を、少しずつ建て直していった。それを見て、皇帝に呆れて去ってしまっていた者達が、次第に宮廷に戻ってきた。
 二年が過ぎ、皇子は元服を迎え成人した。それによって皇子は、それまでは宰相に裁可を預けなければならなかった領分も、皇帝の代理最高執政者として一手にすることが可能になった。
 そしてそれを機に、二年の間に少しずつ準備と足場を整えてきた皇子は、一気に行動を起こした。それまでさんざん己を愚弄し、官でありながら私利私欲を貪り国を腐敗させてきた奸臣佞臣達を、容赦なく一斉に粛正した。
 氷血の皇子、とフィロネルが呼ばれるようになったのは、この出来事からだ。当時は留学直前でまだファリアスにいたユアンも、北のフィンディアスでそういったことが起きたことは伝え聞いていた。
 ファリアスでその話を聞いたときは、まったくの他人事で、何か北の国で恐ろしいことが起きたのだな、程度の認識しかなかった。隣国であるフィンディアスの中枢で何が起きているのかも詳しくは知らず、まして一年後に自分がそのフィンディアスの皇宮にこんな形で立っていることになるなど、予想できるわけもなかった。
 その頃の平穏で愛情にあふれた生活を思い出し、ユアンは胸苦しいような、切なく侘しい痛みを覚えた。だがすぐに首を一振りして、今はそれを胸の奥に押し戻した。

 休憩時間や職務を終えた後の時間の多くを資料室や図書館で過ごしながら、ユアンは改めて皇子のことを考えた。
 今のフィロネルの持つ膨大な知識や合理的な判断力、類い稀な洞察力は、側で見ているからこそ分かるが、決して付け焼き刃のものではない。多くの経験に裏打ちされ、日々蓄積されてきた努力の成果だ。
 そして今のフィロネルを、出生を理由に悪し様に言う者は、少なくとも表立っては存在しない。それどころか多くの者から皇太子として敬われ、執政者として信頼され、民からも支持を受けている。
 ここに到るまで、フィロネルは守ってくれるものも無いまま、どれほど多くの障害に阻まれ、どれほど悩みながら、苦労を積み重ねてきたのだろうか。
 勿論、表から見える華やかさや強さばかりがフィロネルではない。三年前に出生の真相を知ったことで、フィロネルの中では明らかに何かが壊れ、狂った。フィロネル自身の言葉を借りるなら、おそらくフィロネルの中に宿っていた無垢な良心や誠実な心というものが​​​──懸命に己を律し真っ直ぐに保っていた、人として信じていた清らかで美しいものが、死んだのだ。
 フィロネルは自分のことを、資格もないのに国政を私している狼藉者であり大逆人だと言っていた。「廷臣のすべてを、民のすべてを欺いてここにいる」と。
 フィロネル自身のせいではないが、もしもすべてが露見したならば、フィロネルは確実に逆賊として断罪される。どれほど優れた執政者としての実績があろうと、皇家の血を神聖視し尊ぶこの国において、フィロネルの存在は許されないだろう。
 自分が世界のすべてを偽って立っていることを思うとき、どれほどフィロネルは恐ろしいだろうか、と考えた。その途方も無い絶望と孤独を想像するだけで、ユアンですら震え上がるような恐怖に襲われた。
 フィロネルが時折見せる、あの箍の外れたような瞳の光を思い出す。それはそうだろう、と、奇妙にユアンは笑ってしまった。
 フィロネルがどこか狂ってしまったとしても、それを誰が責められよう。生まれる前から疎まれ、蔑まれて晒し者にされてきた皇子。それでも自暴自棄にならず、自国を思い懸命に勤めていたものを、さらに足許からすくわれて、存在の根元から全てを否定されたのだ。そして命ある限り、どれほど正しく生きようとも、世界に対する恐ろしい裏切りに怯え、罪悪感に囚われ続けなければならないのだ。
 今フィロネルは、極めて理性的で道理にかなった行動をしている一方、本当は何かちょっとした弾みで崩れ、完全にその狂気に呑まれてしまうような、ぎりぎりの際を歩いているのではないか​​​──あの瞳を思い出すと、ユアンはそんな思いにとらわれた。
 フィロネルがユアンを貪るとき、その狂気のような衝動に押し流されまいとするだけで、ユアンは必死だった。狂っている、と、皇子に対してユアンは何度も思った。何度も繰り返しぶつけられた、昼とは別人のような貌をしたフィロネルの衝動は、あの垣間見える狂気が洩れ出す片鱗であるような気がした。
 あらためてフィロネルのことを知るほど、ユアンにはフィロネルのことが分からなくなっていった。あまりにも自分と異なりすぎていて、その心理など理解できる気がしなかった。
 一方で皇后イザリアについては、貴い立場の女性にしては意外なほど公的な記録が少なく、よく分からないままだった。イザリアに関しては、誰かが意図的に資料を処分させたのではと思うほど、至極事務的で簡潔なことだけが記されている。
 そういえばと、今さらユアンは気が付いた。
 この広大な宮殿には、普段目に付くところのどこにも、イザリアの肖像画がない。ルカディウスの肖像は見かけるが、ユアン自身がイザリアの姿を見たのは、あの墓所のような皇帝の寝所の中だけだった。皇帝が除かせたとも思えない。だとすれば、フィロネルがそうさせた以外に思いつかなかった。
「…………」
 知れば知るほどに。フィロネルの中にある闇の深さに、ユアンは息が詰まり、迷ってしまいそうだった。
 資料を閉じて図書室の書架に戻しながら、ユアンは深々と嘆息した。
 ​​​──おまえは、いったい何を考えている。
 焦れるような思いが、胸を落ち着かなくざわめかせている。出会ったときから、フィロネルがユアンに何を求めているのか、何をさせたいのかが分からない。殺すならば殺せと思うものを、身近に召し上げて厚遇し、ただの刃よりもよほど恐ろしい可能性を持つ武器を与え。
 フィロネルは死にたいのだろうか。だがそれなら、最初から自分に素直に討たれていればよかったではないか。それとも、死にたいのとはまた違うのだろうか。フィロネルの底にある衝動は、いったい何を求めているのだろう。
 その正体はよく分からないが、どうやら自分はその捌け口にされているのだ​​​──と、漠然とユアンは思った。それは随分とひどい話ではあったが、しかし妙に腹が立たなかった。ただの夜伽として、使い捨ての性欲処理の道具として扱われるより、まだましな気がする。少なくともそこには、理解はできないにせよ、フィロネルという人間の心情や本音が秘められている。
 あれから皇子は、ユアンにまだ夜伽を求めていない。単に忙しいのもあるだろうが、素直に考えれば、そこにあるのはユアンに対する気遣いだ。定期的に召し使いがユアンの体調や傷の具合を看て、薬を用意してゆくことからも、皇子がユアンに無関心なわけではないことは分かっていた。
 おまえにとって、いったい俺は何なんだ。
 無意識に爪を噛んで思ったとき、ユアンは突然、雷に打たれたような気がした。
 ​​​──俺にとっては、おまえは何なんだ。
 そっくり視点を返しただけの、単純な自問。かつてはとても明快で簡単な答えを持っていた問い。だが今胸の内に響いたそれは、ユアンを愕然とさせた。
 仇だったはず。憎くて憎くて、片時も忘れることもなく。ただひたすらにその命を奪うことだけを考え続け、悲憤のあまり眠りにつけないほど、息もできないほど、怒りと憎悪に身を灼かれていたはず。
 片時も忘れることはないのは、今も変わっていなかった。心の中にあるものの濃度と重さ、自分の中を占める大きさは、なんら変わっていない。むしろより増しているくらいかもしれない。
 だが、それが何なのかと今問われたら、ユアンは返答に詰まった。皇宮に来る以前は存在していなかった物思いが、ここに来てフィロネルに接するうち、新たに生まれている。それは皇子という虚像の向こうに、フィロネルという人間が見え隠れするようになってから、次第に胸の奥に育ち深まっていたものだった。
 あまりに多くの思考や感情が入り乱れて、自分が今何をどう感じているのかが、自分でもよく分からない。
 ただ、ひとつだけ分かることがある。それは、自分の中に燻ぶっている憎悪の炎が、ここに来る以前のような鮮やかさを喪っていることだ。
 眩暈を生じてよろめき、咄嗟に目の前の書架に縋り付いた。その指から腕が、僅かな間に浅くなった呼吸が、細かく震えていた。
 ​​​──俺は、いつの間に。いつの間に、こんなふうに。
 足許から自分の何かが崩れてゆく気がして、ユアンは書架に取り縋った手を離せなかった。

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