五章 星の流れる先 (2)

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 まったく他意のない、当然のことを語っているだけというように気負いすらもないフィロネルの様子に、ユアンはしばらく言葉が出なかった。フィロネルの言うことを信じるならば、それはあまりにも単純明快な解ではあった。たとえ予想外にすぎて、頭が理解に追いつかないにせよ。
「……本当に、それだけなのか?」
 呆気にとられ困惑しきったユアンは、思わず訊ねていた。フィロネルはややむっとしたように、逆に訊ね返してきた。
「他にどんな理由があるんだ?」
 そう問われてしまえば、確かにそれは、その通りでしかなかった。愛しいと思うから欲しくなる。それはユアンにも至極理解しやすい、そして元々そうあるべきだと思っていた形だった。
 返答に詰まったユアンに、フィロネルは続けた。
「俺は確かに、手頃な相手に遊びで手をつけてきた。だが少なくともおまえに対しては、きっかけはどうあれ今はそうではない。それに今はもう、おまえ以外の者に手をつけたいとも思わないし、つけてもいない」
 フィロネルの言葉の意味を飲み込むにつれて、ユアンはなんだか気恥ずかしくなってきた。
 ​​​──なんというのか、これは要するに、愛の告白というものではないか。しかも一切取り繕うこともない、熱烈とさえ言っていいほどの。
 そう思う一方で、ユアンはいっそう困惑した。そんなことを突然知らされてもうまく飲み込めなかったし、だいたいフィロネルの閨での行為のどこに、愛情と言えるようなものがあったのだろう。
「それなら……なぜ、あんなふうに俺を扱った。あんたは俺に対してまっとうなやり方なんて、一切しなかったじゃないか」
 直接的に内容を口にするのは抵抗があり、曖昧な言い方をしたが、フィロネルはユアンの言わんとすることを正確に察したようだった。そして皇子の返した反応は、そんなことかと言わんばかりに、実にあっけらかんとしていた。
「あれは、単に俺の趣味だ。勿論身体の自由を奪っておかなければ、物騒で仕方がなかったのもあるが」
「……は?」
「おまえがそそるから悪い。だが、おまえの身を気遣ってはいたつもりだぞ」
 平然と答えるフィロネルに、ユアンはしばし開いた口がふさがらなかった。
 そんなことをこちらのせいにされてはたまったものではないが、だがひとまず、ユアンは徐々に腑に落ちてきた。
 同時に、無性におかしくなってきた。そのうちユアンは額を押さえ込むようにして、力無く笑い出してしまった。
 なんのことはない。難しく考えるまでもない。フィロネルは愛情の表現方法が他といささか異なるだけで、そして何も言葉にはしなかっただけで、最初から一貫してユアンに対し真っ直ぐだったのだ。
 戸惑いと動揺はあったが、悪意や害意ではないそれは、ユアンの荒れすさんでいた心に痛みを与えることもなく沁みてきた。フィロネルの言葉を、嘘では無い、と思えるだけのものが、素直にさえなってしまえば、互いの関わりの間には既に存在していた。
「なら、最初から……そう言えば、まだ話は早かったのに」
 思わずぼやいていた。最初からフィロネルが、ユアンに対して思っていることを言葉にしていれば。きちんと説明されていれば、あんなやり方を肯定するかは別として、ユアンもまだしも受け取り方が違っていたかもしれないのに。
 だがフィロネルは、ますます呆れたように、再三溜め息をついた。
「俺が何を言ったところで、おまえが聞く耳を持ったとは思えん」
「…………」
 その通りだった。閨でのことに限らず、フィロネルにもまた事情や一個の人格があるということを、ユアンは考えることさえしなかった。フィロネルの一切を否定し、一方的に殺意と憎悪を滾らせ。そんなところに何をどう言われても、ユアンは聞く耳を持つどころか、分かったようなことを言うな、と逆上するだけだったろう。
「おまえは愚かではないから、俺の間近で過ごしていれば、自然と様々なことを理解していくだろうと思った。そうなったときに、初めてまともに対話できるだろうと。だから今、俺はこうしておまえと話している」
「…………」
 フィロネルは初めから、こちらなどよりもよほど深く、先々まで物事を見通して考えていたのだ。
 出会いが悪すぎたから、最初から打ち解け分かり合うことなど無理だった。勿論、出会いが出会いだったからといって、ユアンを暴力で奪ったフィロネルのやり方は決して褒められたものではない。だがそれを言うなら、問答無用でフィロネルを殺そうとしたユアンも、向こうにとっては大概な話だったろう。にも関わらずフィロネルが不問に処したからこそ、こうしてユアンは生き延びた。本来であれば、皇太子暗殺を謀った重罪人として、ユアンは惨い拷問にかけられた上で処刑されていたはずだ。
 黙ってそれらのことを考えていると、ユアンの頬に、再びフィロネルの手が伸ばされた。ユアンは反射的に、びくっと強張った。まだ完全には理解が追いついておらず、これまでの出来事が染み付いてもいた。フィロネルに対し思わず身構えてしまうことは、容易に氷解はしなかった。
 フィロネルの手は、先程のようにユアンの枕に散った濃紺の髪を梳いた。薄い月明かりの中では、濃紺よりも深い闇色に見える、癖のないすべらかな髪を。
 その感触は心地良く、ユアンから強張りが抜けてゆく。そのかわり胸の中に、切なく疼くような、無性に泣き出してしまいたいような感覚が生じた。
 皇子の虚像に対する憎悪や怒りが剥ぎ取られた後、自分の中に残っているものが何なのか、ユアン自身にもよく分からないままだった。自分自身についてよりもよほど多く考え、ここ数ヶ月ずっと、自分のすべてを占めてきた存在。祖国が陥ちてから、フィロネルについて考えない日はなかった。その存在は強烈に、身と心に焼き付いてしまっている。
 ​​​──憎むことは、もうできない。けれどその一方で、また別の譲れない事実がよぎる。
 フィロネルのせいでユアンの祖国が滅び、家族達の命を奪われる結果になったのは、動かぬ現実だ。フィロネル個人を憎むことはできなくとも、仇であることは何も変わってはいない。
 フィロネルをもう憎めないこと自体が、命を奪われた者達に対して、顔向けできない。生き延びてしまっただけでも、申し訳が無いと思っていたのに。
 これまで抱き続けていた苦しさや罪悪感が、歯止めを失って込み上げる。同時にフィロネルの仕種が驚くほど優しくて、まだ戸惑いながらも涙が零れた。声を殺したが、喉が震えることと、閉じた瞼の下から涙が尽きること無くあふれてくるのは止められなかった。
 フィロネルが身を乗り出し、ユアンの頬を掌で支えると、再び唇を重ねてきた。先程とは違うのは、今度はフィロネルは寝台に完全に乗り上げ、ユアンの上に覆い被さったことだった。
 フィロネルの唇はユアンの唇をゆっくりとなぞり、軽く甘噛みをする。たったのそれだけで、背筋にさわりと、決して不快ではない震えが走る。
 そのうち、舌が唇を割ってきた。性急ではなく、体温を馴染ませるようにゆるやかに。しかし徐々に深く、それはユアンの舌に絡んでくる。
 拒むことができなかった。もうフィロネルに抱かれる必要などないはずなのに。理性がある状態で自分から口付けを許したことなど、今までは無かったのに。
 自分の上にかかるフィロネルの体重と、間近に感じる息遣いと頬にふれる掌の体温が、どうしてかユアンをますます泣かせた。
 やがて深まってゆく口付けに、甘さを帯び始めた吐息が、ユアンの唇からひそやかに零れた。

 深い口付けのあと、頬に、耳元に、皇子の唇が移ってゆく。長く流れてユアンの上にも落ちてくる黄金の髪が、薄く瞼を開いた視界の中で、光の糸のように淡く光っていた。
「……あ、」
 耳朶を軽く噛まれて、ユアンは声を洩らしかけ、咄嗟にいつものように飲み込んだ。フィロネルはユアンの耳元を舌と唇でくすぐり、首筋に口付けながら、その衣服を焦ることなくはだけさせてゆく。夜気に晒されてゆくユアンの、しなやかな筋肉のついた青白い肩から腕に、フィロネルの掌が確かめるように這い伝う。
 ユアンは瞼を下ろしたまま横たわり、ただそれを受け止めていた。
 戸惑いや困惑はある。だが、皇子の体温やふれてくる感触に、不快感はない。あれほど嫌だったことなのに、今は抵抗を感じない自分の反応が、ユアンには不思議なようでも、どこかで納得できるようでもあった。
 素肌に皇子の吐息を受け、喉元や鎖骨に唇が押しつけられると、ぞくぞくと皮膚の下を流れる血がざわめいた。
 フィロネルという一人の人間を知り、愛情を持って求められていると知り。勿論ただそれだけでは、受け入れる理由にはならない。身体が少しずつ甘くほどけてゆくのを自覚しながら、ユアンは困惑の奥に、己の本音をひとつ見出していた。
 ​​​──自分も、フィロネルという一人の人間に惹かれていた。怒りや殺意以外を抱くことは許されず、必ず仇を討つのだと自分に繰り返し言い聞かせながら、けれどその陰で、どうしようもなく感情は育っていた。
 闇雲な怒りや憎悪にかられていたときは、自分の本心さえさだかでないほど、それに目がくらんでいた。だが徐々に垣間見えてくる皇子の素顔に、ユアンの中にもまた、一人の人間としての感情がいつの間にか芽吹いていた。憎むことが難しくなるにつれて、それは自覚できないほどの胸の奥深くで、次第に着実に育まれていった。
 ユアンには想像もできないような苦しみと努力を重ねて、今は皇子として皆に認められているフィロネルを、素直に称讃し評価する思いがある。本人には何の咎もない運命に翻弄され、孤独に佇む皇子を、憐れで気の毒だと思う。少し横暴にすぎるし欠点が無いとは言わないが、そこまで含めてフィロネルという人間なのだと思う。皇子に見下されてたまるものかと強く思っていたのも、とどのつまり、ユアンは皇子に自分を認めさせたかったのだ。
「あ……」
 そのとき、シーツの上に投げ出していた手首をフィロネルに掴まれ、ユアンは身を固くした。また拘束されるのかと思うと、竦むような抵抗が湧き上がった。昼間皇子に剣を弾かれたときに、右の手首を軽く捻ってしまってもいた。
「嫌だ……ひどいことは、今日はしないでくれ」
 今は、心が壊れそうに弱ってしまっている。いつものような仕打ちを受けたら、身体の昂ぶりどころではなく、子供のように泣きじゃくってしまいそうだった。
 ユアンの弱々しい訴えに、フィロネルは掴んだその手首に軽く口づけた。
「今日はひどいことはしない。俺もそこまで外道ではないつもりだ」
 悪びれる様子もないフィロネルに、ユアンは思わず、苦笑に近い調子で笑ってしまった。笑いながら、胸の奥が痛む。けれど無理なく笑ってしまうこの気持ちも、嘘ではない。
「白々しい。ひどいことをするのが、あんたの趣味なんだろう」
「それは否定しないが。どうしても嫌だ、とそこまで弱々しく懇願されたら、ほだされるくらいはするぞ」
 普段のように、むしろこれまでより気さくに返してくる皇子に、ユアンは怒って呆れるよりも、どこか救われる思いがした。今は、少しでも笑えるなら笑いたい。決壊してあふれ、引かない満ち潮のように身体を浸す様々な感情が、悲鳴を上げたいほどつらい。フィロネルの仕種から、手と唇から沁みてくる体温といたわりに、今は少しだけ甘えたい。
 着衣を押し広げられたユアンの上半身に、フィロネルはゆっくりと、隅々までなぞるようにキスを与えてくる。ユアンの身体には、だいぶ薄れたとはいえ、まだ先につけられた無数の痣が残っていた。青白い肌に浮き上がる傷痕にフィロネルの唇が押し当てられる度、そこにじんわりとした熱が広がってゆく。夜気は素肌には随分と冷たいはずだったが、密着するほどの距離にフィロネルがいるせいか、体温の上昇のせいか、ユアンは寒さを感じなかった。
「……俺を手元に引き込んで、何かあんたにとって良いことがあったのか?」
 目を閉じて皇子の愛撫を受け入れながら、ユアンは呆れたような思いと共に浮かんできた疑問を口にしていた。フィロネルのことを、酔狂だ、と思うのは変わらない。フィロネルは相当に人間が歪んで屈折してはいるが、それにしても自分のことを殺しに来た相手を気に入って手籠めにするなど、やはり普通ではない。
「良いことか……」
 胸板を辿っていたフィロネルの唇が、呟きながら、そこにある突起にふれてきた。身体を撫でられるうちに膨らんでいたそこへの刺激に、びく、とユアンは反応する。フィロネルはユアンのもう片方の乳首にも指先を這わせ、摘まんで転がしながら、続けた。
「おまえがいると、段取りが良くて仕事の処理がはかどる。他の連中も、おまえが輔佐に入るようになって随分助かっているはずだ」
 そういうことではない。そういうことを訊いているのではないと思いつつ、続けられる胸元への刺激にユアンは思わず唇を引き結び、投げ出した掌の下にあるシーツを握った。その小さな突起を捏ねられ、咥えられて嘗められると、性感の漣が立ってたまらない。愛撫そのものも気持ちが良いが、そんな箇所を弄ばれている羞恥心も手伝って、腰の付け根からぞわぞわと甘くもどかしく血潮が泡立つ。思わず胸が反る。
「あっ……あ、ッ」
 ちゅうと、強めに乳首を吸われた。もう片方の粒も、指先で押し潰すように転がされ、引っ張られる。かと思うと、羽毛のような軽さでくすぐられる。思わず浮いた背の下にフィロネルの腕が差し込まれ、身動きを封じるように胴を抱かれた。無防備に膨らみ色づいた乳首を、執拗に指と唇で嬲られ、ユアンの呼吸が不規則さと熱を増してゆく。
「う、っ……ぁ、く」
 声をこらえようとはするものの、柔らかく時に強く濃厚な愛撫は、噛み合わせようとするユアンの奥歯を緩ませた。声を洩らしては飲み込み、しばらくするとまた洩れ落ちる。胸元への刺激だけで、いつしかユアンの身体はしっとりと汗ばんでいた。
「……おまえがいると、俺は随分楽になる気がする」
 ユアンの胴を抱き、その胸元に唇を寄せながら、フィロネルが呟いた。自分が問いかけたことなど既に忘れかけていたユアンは、その言葉に薄く瞼を開いた。
「楽……?」
 それは公務上の話だろうか。それはそれで嬉しいとは思うが、どこまでも事務的なメリットしか自分が与えていないのは、寂しいような気もした。
 ふいに、フィロネルが小さく笑う声がした。と思うと、背の下に両腕をしっかりと回され、ユアンは抱き締められていた。
 その感触に、ユアンは驚いた。これまでフィロネルには何度も抱かれたが、こうやって抱き締められたことなどは一度もなかった。
「おまえが俺の衝動を受け止めてくれる。悪いことは悪いと、打算も体裁も関係なく正面から指摘してくれる。おまえが真っ直ぐに傍に立っていてくれるおかげで、俺は自分の歪みを受け入れて、だいぶ楽に呼吸できる気がする」
「……そ、そうなのか……?」
 自分はそんなことをしているのだろうか、と疑問に思う部分もあったが、自分はただの「捌け口」ではないのだ、きちんとフィロネルから認められているのだと思うと、急速に鼓動が高鳴った。
 フィロネルの淡白であるようで熱を帯びた声音や、抱き締められた腕から、暖かく真っ直ぐに伝わってくるものがあった。こんなふうに抱き締められるのは初めてで、ユアンは戸惑い、耳朶が熱くなるのを感じた。
 親子や友人との、親愛の抱擁とも違う。すべてを包み込まれるような抱擁は、そこに囚われる少しの怖さと、それ以上の圧倒的な甘美さを持っていた。

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