五章 星の流れる先 (5) -完結-

 時ならぬお祭り騒ぎに、屋敷の住人達は皆そわそわと浮き足立っていた。気の良いエルティーダ卿は召使い達にも交代で暇を取るように言い、夫人や幼い娘達と連れ立って、連日あちらこちらに出かけてゆく。中には職務としての、宮廷への出仕もあるようだった。
 ユアンはせめて彼らの楽しげな様子を邪魔しないよう、ひっそりと過ごしていた。彼らがユアンに気を遣っているのは分かっているので、楽しみに水を差さぬよう、食事もしばらく自室でとらせてもらうようにした。挨拶はきちんとしたが、それ以外では姿を見せることもなるべく控えた。
 散歩なら広く美しい庭を巡ることができたし、エルティーダ卿の蔵書はなかなかたいしたもので、許可をもらい手当たり次第に部屋に何冊も持ち込んだ。
 郊外に建つこの屋敷の周囲は、幸いとても静かだった。長椅子に寝そべって書物を読みふけっていると、様々な鳥達の囀りや、さわさわと庭木の枝葉を洗う爽やかな風の音くらいしか聞こえなかった。
 皇子がレインスター王都に滞在して何日目になるのか、ユアンはあえて数えることをやめていた。外界から自分を閉ざして、ひたすら外の世界の物事が通り過ぎるのを待っていた。


 そんなある午前中のことだった。穏やかに晴れた青空に瑞々しい緑が映え、起きたばかりなのに眠気を誘われる様な陽気だった。
 今日も黙々と本を読んでいたユアンは、その集中がふと途切れたとき、何かいつもと違う気配が屋敷の外にあるのに気付いた。とくに物音もしない静かな中、複数の人間が集まっているようなざわめきがある。
 ユアンの部屋は三階にあったが、屋敷の正面側に近かったから、誰かが訪れるとそれに気付くことはよくあった。社交的で朗らかな当主夫妻のもとには、普段からしょっちゅう誰かが訪ねてくる。こんな時期だし今日も誰か客人が訪れたのだろうと、ユアンはさして気にしなかった。
 だから、軽いノックの音の後にいきなり扉を開かれたときは、驚きすぎて声も出なかった。
「入るぞ」
 言うと同時に堂々と部屋に入ってきたのは、腰まである長い黄金の髪を一部緩く結い、一部を優雅に靡かせた長身の若者だった。
 肩幅があり手脚の長い均整の取れた身体に、北の国で見ていたときよりもずっと華やかで凝った装束を纏っている。記憶にある皇子の衣装は大抵質素なくらいの無地だったのに、今纏っている深い赤紫色の生地は複雑な縫い取りや精緻な刺繍で埋められ、複雑に布地が重なっていた。房となって垂らされた金糸や銀糸が彩り、細かな玉石を縫い込まれた飾り帯も目が眩むようだ。身につけている装飾品も以前よりずっと多く、皇子のために一つ一つ特別にしつらえられたものなのだろう、とりどりの宝石に飾られた黄金細工のそれらが眩しい。だがそれ以上に、深いアメジスト色の瞳を持つ若者自身の容貌が突き抜けて美しく、豪奢で華やかな装いにまったく衣装負けしていなかった。
「…………え」
 呼吸することも忘れ、ユアンは長椅子の上で、完全に凍り付いた。目の前にあることはこの上なく明確でありながら、何が起きたのかまったく分からなかった。
 他国を訪問中だからだろう、ユアンの目には珍しいほど「皇子」らしく華やかな格好をしたフィロネルは、躊躇うこともなくドアを閉めて部屋に入ってくる。ドアが閉まる寸前、その隙間に、ややおろおろしたような当主夫妻の姿と、護衛らしきものものしい雰囲気の人影がいくつか見えた。
 ユアンは皇子に視線を釘付けにされたまま、長椅子の上に身を起こした。何がどうなっているのか分からず、驚きが強すぎて頭が働かない。皇子だ、と馬鹿のように唖然と思う傍ら、なぜフィロネルが突然こんなところに現れたのか、これは夢ではないのかという思考も、混乱と共に頭を駆け巡った。
 フィロネルはユアンからまだ少しの距離のある、部屋のちょうど中央あたりに立ち止まった。見事な紫色の瞳が、ユアンを真っ直ぐに射貫く。見惚れるほど美麗に整った若干の甘みを持つ貌が、悪戯含みのように、にやりと笑んだ。
「久しいな、ユアン。俺の息の根を止める材料は揃ったか?」
「…………な……」
 名を呼ばれた瞬間、一気に世界が動き出した。ユアンは椅子に座っているにも関わらず眩暈を感じた。
 ​​​──なんだ。これは、いったいなんだ。どういうことなんだ。
「馬鹿な……なんで、あんたが、ここに」
 確かにレインスター王都を訪れていることは分かっていたが。なぜ目の前に、今フィロネルがいる。記憶にある姿と何も変わっていない。美しく引き締まり、華やかさと堂々たる威厳に満ちた姿。見つめられただけで呪縛され息が止まりそうな、強い眼差し。
 混乱と驚愕のあまり、まともに言葉も発することができないユアンに構わず、平然とフィロネルはもっと近くに歩を進めてきた。
「随分と分かりやすいところに居てくれて助かったぞ。しかし、おまえはまた痩せたな。目の届かない場所にいるとすぐにこれか」
「………は……?」
「どうせまたろくに食べていないのだろう。その様子では、剣術の修練も怠っていたのではないのか」
 当たり前のように言葉を並べる皇子に、ユアンは徐々に我に返った。こいつは何を言ってるんだ、と思うと同時に、頭がなんとか巡り出す。
 とんでもないことが起きた。と認識するなり、ユアンは弾かれたように立ち上がった。
「あんた、頭がおかしいんじゃないのか。いったいここで何をしてるんだ」
「おまえを連れ戻しに来たに決まっている」
 何を分かりきったことを、とばかりに皇子は切り返した。
「まったく、勝手に出て行きおって。まわりをごまかすのに苦労したぞ。これでも、けっこう周囲があれこれうるさいのだからな」
「当たり前だろう。あんたは一国の皇子なんだぞ!」
 しかも事実上の、フィンディアスの支配者だ。それがいったいなんでこんなところに、たいした護衛も連れず突然現れる。他国まで来ておいて、お忍びでふらふら出歩く最高権力者など、物騒以外の何ものでもないではないか。
「馬鹿じゃないのか!? あんたにもしものことがあれば、あの国はどうなる。少しはわきまえろ!」
 事態を少しずつ飲み込むにつれ、ユアンの頭に血が昇ってきた。喚きながら、自分が何を考えているのかも分からないまま、目頭が熱くなった。
 本当に何を考えているのだ、この皇子は。こんなことをして、何かあったらどうするつもりなのだ。
 会いたくてたまらなかった皇子が目の前にいる。連れ戻しに来た、と確かに語ったその言葉を、夢かと思う。馬鹿なことを思い、何をやっているんだと呆れ、こんなことが起こるわけがないと否定する一方で、抑え切れない嬉しさと皇子に向かう感情が、どうしようもなく胸の奥を破って迸ってくる。
 だがそれらと共に、皇子の傍にはいられない、と思った気持ちも強く甦ってくる。仇であることは変わらない、好意を寄せること自体が罪である相手。それなのに、もう二度と会えないと思い、懸命に苦しい想いを押さえつけてきた反動で、感情が止まらない。
 入り乱れる感情の板挟みになり、すっかり混乱して立ち尽くしたユアンに、フィロネルがふと、表情をやわらげた。
「その通りだ。俺なりに、命をかけてやって来た」
「…………は……」
「催事の合間に抜け出してきたから、すぐにでも戻らねばならん。だから、ひとまず今は喚くのはやめろ。あとでいくらでも聞いてやる」
 横暴なほど強引に言い切って、皇子は互いの間にあった最後の数歩を、簡単に詰めてきた。
 咄嗟に後ずさりかけたが、すぐ後ろにある長椅子のせいで下がれる空間はなかった。ユアンより上背のある長い腕が、立ち尽くしていた薄い身体にまわされる。強くしっかりと、二度と逃がさないというように、フィロネルの両腕がユアンを抱き締めた。ユアンの呼吸が止まり、あっさりと絡め取られた感触に、全身が硬直した。
 ​​​──卑怯ではないか。こんなもの。
 息を詰め、涙が滲みかけた頭の上から、声が降ってきた。
「おまえを連れ帰る。もう俺の前から勝手に消えることは許さん。いいな」
「か……勝手な……」
 突然現れて何を言う。勝手なのはどちらだ。ユアンにもユアンの都合というものがあるのだ。だいたい、当主夫妻にもなんと説明すればいいのだ。
「俺がなんのために逃げたと思ってる。おまえだけは駄目なんだ。おまえは……」
 ユアンはぎりぎりで踏みとどまり、もがいて反論しかけたが、目の前にあるフィロネルの眼差しの真摯さに声を呑まれた。
「おまえが事態をおいそれと受け入れられる性格だとは思っていない。俺もおまえには、本当ならば何も言う資格はないのだと思う」
 フィロネルはしばしそこで言葉を跡切れさせた。数秒を置いて、吸い込まれそうに深い紫色の瞳が、意を決したようにユアンに据えられた。
「だがそうであればこそ、おまえを放っておけん。おまえがこのままみすみす不幸になることを、誰も望んでいるとは思えんのでな」
 ユアンは言葉を呑んだまま、皇子をまじまじと見返した。
 自分が不幸になることを誰が望むのかと、そんなふうに考えたことはこれまで無かった。そのことにも意表を突かれたが、そうと言い切る皇子の揺るがなさにも圧倒された。
「おまえ……ものすごい自信だな」
 自分と共にいなければユアンは不幸になると、そう言い切っているも同然ではないか。
 自信たっぷりすぎて呆れる。だが、その通りだと認めてしまう。
 そして皇子の言葉で同時に思ったのは、両親と妹のことだった。ユアンを暖かい愛情で包んでくれた彼らが、ユアンの不幸を望むのだろうかと、初めて考えた。自分がこれを考えるのは逃げで、卑怯かもしれない。でも。
 揺らぎ戸惑ったことが伝わったのか、フィロネルは僅かに笑み、静かだが芯の通った声で言った。
「違うのか。俺はおまえの心を見誤ってはいないつもりだ」
 返す言葉が見つからなかった唇を、ユアンは唇でふさがれた。それだけで頭の芯がとろけるほど甘く熱く、懐かしい感触が、理屈ではなく身体を震わせる。そしてものの数呼吸で、手脚を萎えさせて抵抗する力を奪い去る。
 優しいが深い口付けに、ユアンはもう抗うことができなかった。言葉と態度ではどれほど拒んでも、心はフィロネルに向かってどうしても止まらずにいた。忍び入ってくる舌に頭が痺れ、頬にふれて支える掌の体温に、ユアンは涙が出そうになった。
 気が付いたときには皇子の袖を掴み、ユアンからも酔ったように唇を求め、熱い舌に舌を遊ばせていた。もう何も考えられず、ただあふれる感情とフィロネルの体温と感触だけに、すべてを預けた。
 夢ではない。これは、夢ではない。
 名残を惜しむように唇が離れると、間近にある皇子の紫色の瞳は、これまでに見たことがないほど深みと熱を増して艶やかだった。
 ユアンがぼんやりとそれに見とれていると、皇子の整った顔が意地悪く笑み、自身の濡れた唇を小さく嘗めた。
「相変わらず、おまえは態度だけは反抗的だが、反応は素直だな」
 思わせぶりな言葉と笑みに、はっとユアンは我に返り、頬が熱くなった。思わず言い返そうとしたが、フィロネルはすぐに装束の裾を返して、扉に足を向けた。
「おまえは慣れない勤めに持病を悪化させて、寒さが障るからと俺がしばらく暇を取らせたことになっている。あとでしっかり口裏を合わせるまでは、誰かに何か聞かれても曖昧に答えておけ」
「お……おいっ」
「この屋敷の者達には、俺から簡単に説明してある。また後程、こちらには正式に遣いを寄越す。おまえも、あらためて挨拶できるよう取りはからってやる。とにかく今は時間がない。行くぞ」
「ちょっと待て。そんな勝手な……!」
「あとで聞いてやると言った。さっさと来い」
 扉を開ける寸前で、不意にフィロネルが振り向いた。戸惑いながら後を追っていたユアンは、いきなり強くフィロネルに手首を掴まれた。
「​​​──ここで手放したら、またおまえがどこかに消えそうで恐ろしい」
 抑えた声で言ったフィロネルからは、笑みが消えていた。真剣そのものの顔を、皇子は見られたくないように伏せる。ユアンの手首を強く握り締めたまま、その唇が低く続けた。
「傍にいてくれ。……おまえがいてくれるなら、俺はこんな世界でも正気でいられる」
 初めて聞いた皇子の声音に、ユアンは目を瞠った。抑揚を抑えられてはいても、縋るような、懇願するような声。あの皇帝の寝所にいたときでさえ、こんな声は聞かなかった。
 ユアンの中にようやく、切ないような嬉しいような気持ちと共に、ひとつの実感が生まれた。
 皇子は、自分のことを必要としてくれていたのだ。一時の遊び相手などではなく、ユアンの存在を心から求め、ユアンが消えることを恐れてくれたのだ。
 これで最後だ、と思ったあの夜の皇子の言葉を、嘘だと思っていたわけではない。ただ、自分に自信がなかった。自分のかわりなどいくらでもいる、自分がフィロネルを想うほどにはフィロネルは自分を想ってはいないだろうと、ずっと考えていた。だけれど、そうではなかったのだ。
 手首から離れない皇子の手をそのままに、ユアンはつと身を寄せた。重ねるだけの軽いものだったが、フィロネルの唇に、自分から唇をふれさせた。
 狂おしい閨でのものを除けば、ユアンからというのは初めてだった。少し驚いたように瞬いたフィロネルを見上げながら、ユアンは目許に柔らかな、苦笑まじりの微笑を帯びた。
 ​​​──搦め手ですらなく、ここまで真っ直ぐに正面から来られたら、躱すこともできないではないか。せっかく必死に、はるばるこんなところまで逃げてきたというのに。何もかも台無しだ。本当に、卑怯だ。俺は結局、これでおまえの手に堕ちる。
「分かった。俺はどこにも行かない。この先ずっと、あんたの傍にいる。だから安心しろ」
 皇子、という立場の相手に対する言い様ではなかったが、自分達の間で今さら言葉遣いを改めるのも、なんだか馴染まなかった。
 皇子がやけに驚いた顔のまま黙っているので、ユアンは眉をひそめた。ユアンがこう返すことを求めていたわけではなかったのだろうかと、少し不安になる。
「……なんだ? 不満なのか?」
「いいや」
 問うと、フィロネルがユアンを正面から見返しながら頬を崩した。皇子としてのものでも、執政者としてのものでもない、歳相応でごく素直なものに見えたそれに、ユアンは目を奪われた。
 ​​​──フィロネルは、本当はこんな顔で笑う人間だったのか。
 驚いているうちに握られたままだった手首を引かれ、返された掌に唇を押し当てられた。その親密な仕種に、ユアンはどきりとした。
「感謝する」
 短く言い、皇子はすぐにそれを放した。真っ直ぐに伸びた背を返して、フィロネルは今度こそ扉を開いた。
 その後ろについて部屋を出たユアンは、離れたところに下がっていた当主夫妻や護衛達がこちらに気付き、足を運んでくるのを見つけた。
 心を決めてしまった後は、もう揺らぐことはなかった。今この瞬間から自分はフィロネルの従者に戻ったのだと思うと、ユアンは自然に背筋が伸び、表情が引き締まった。
 近付いてくる者達に、ユアンは心から深く一礼した。


 なんとか最低限の礼を言い、非礼を詫び、また来ますとだけ言って、慌ただしくユアンは世話になった屋敷を後にした。屋敷の者達は目を白黒させていたが、お忍びとはいえそこに居るだけで空気の違う「フィンディアス皇太子」に、皆すっかり圧倒されてしまったようだ。その皇子に「内密の事情がある」と言われれば、彼らも頷く他になかっただろう。
 あれよという間に屋敷から連れ出されたユアンは、皇子が滞在しているという小宮殿に連れていかれた。ユアンの服装は華美ではないものの、貴族の公子といえば不自然はない程度の装いではあり、従者だと言われれば、皇子の間近にいるものを衛兵達も取り立てて怪しまなかった。
 ユアンは部屋の一つに放り込まれ、とりあえず皇子の予定が空くのを待つことになった。様々な歓待行事に参加することになっている皇子は、レインスター滞在中はほとんど個人的な時間がとれないらしい。
 それらの中を縫ってよくも直々に迎えに来たものだと、ユアンは呆れるやら感心するやら、自分のためにそこまでしてくれたのだと思うと気恥ずかしいやら嬉しいやらで、どんな顔をすればいいのかよく分からなかった。
 小宮殿とはいっても、レインスター王室所有の建物はさすがに豪華絢爛で設備が行き届いており、ユアンはこちらが申し訳なくなってくるほどの高待遇で過ごした。部屋から出ることは禁じられていたが、これは現状のユアンの立場からしてやむを得まい。それにしても部屋はいくつも繋がって広く、噴水と可憐な花々に飾られた専用の庭園もあった。
 とはいえ何もすることがないので、ユアンは用意してもらった書物を読んだり、少し身体を動かしたり、卓上で一人でもできる盤上ゲームなどをして時間を潰した。そうしながら、時間だけはあったから様々なことを考えた。
 仇であることに違いは無い皇子のもとに戻ることに対し、それで本当に良いのかという自問は、どうしても消えなかった。だがあのとき皇子に言われた言葉で考えたことは、家族達の命が奪われてからずっと根付いていた暗く尖った緊張を、初めて緩めていた。
 父母や妹が、ユアンの不幸を望むのだろうか。
 ユアンがそれを考え、強張りを緩めるのは、結局ただ皇子のもとに戻りたいが為、それを自分に許し正当化するための言い訳なのかもしれない。ただ自分が楽になりたい、許されたいだけなのかもしれない。
 でもそれを思うときに浮かぶ家族たちの顔は、不思議なほどに笑顔だけだった。今までは記憶の中にいる両親や妹は、自分に笑いかけてくれなかった。でも今は、優しく笑いかけてくれる父母と妹が見える。それはユアンの胸を締め付け、情けないほど心と涙腺を緩ませた。
 本当はどうなのですかと、どれほど問いたくても、もういない愛する者達は決して答えてはくれない。でも心の中に見えるその笑顔に、ユアンは我慢できず、声を殺して泣いた。それは哀しく切ない涙ではあったけれど、泣くごとに少しずつ何かが軽くなり、重く黒く自分の底に沈殿し堆積していたものが優しく洗い流されてゆくようでもあった。

 どうするのが正しいのかは、結局いつも分からない。
 だから、自分の心を頼りに、己に恥じぬように生きてゆくしかないと、ユアンは漠然とそんなことを思った。
 それにしても​​​──と、ユアンはそれらのこととはまた別に、考える。
 皇子は今回の外遊がなかったら、ユアンのことをどうするつもりだったのだろう。まさか外遊そのものがユアンを迎えに来る口実だった、などとは、いくらなんでも思えなかった。そこまで思い上がるほど、さすがにユアンも自惚れてはいない。
 けれど皇子が直接訪れなければ、ユアンは決して従うことはなかった。それは間違いないことだ。皇子はそこまで読んでいたのだろうか。
 皇子の言葉からして、ユアンの居場所そのものは、向こうはもっと以前から掴んでいたのだろう。考えてみれば、フィンディアスを出たユアンがその後足を向ける可能性がある場所として、レインスター王都は様々な意味で有力候補だ。ファリアス陥落直前まで留学していた、縁のある場所。そして皇子の秘密を武器に替えるのであれば、ウェルディア王に会うために向かうであろう場所。ユアンには皇子の秘密をどうこうするつもりは一切なかったが、突然姿を消したユアンに対し、フィロネルがその可能性を考えることは、むしろ当然のことだったろう。
 良い機会だと今回の外遊を利用したのか、それとも……まさか、と自分で失笑してしまいながらも、皇子にからかい混じりに、事の真相を訊いてみたい気もした。多少馬鹿なことを言っても、今なら冷たく嘲笑われることはないだろうと思えたから。


 あとで話はいくらでも聞いてやる、と言ったわりに、結局その後二日ばかり皇子は姿を現さなかった。気持ちは焦れたが、訪問中の予定はあらかじめぎっしり組まれているのだろうし、仕方のないことだろうとユアンは気長に構えて過ごした。
 その日の朝、ユアンのもとに以前身につけていた従者の装束が届けられた。従者という役職に特に決まった制服があるわけではないようだが、白が基調になった中に藍を配色された、派手ではないが品がよく意外に機能的なこの服装は、当初からユアンにあてがわれていたものだった。深い濃紺の髪と藍色の瞳、白い肌を持つユアンには、色合いもしっくりとよく馴染む。
「やはり似合うな」
 昼前にユアンの部屋を訪れたフィロネルは、満足げにそう言った。姿勢が良く立ち居振る舞いも洗練され、礼節が行き届いているユアンは、隙のない装いをすることで凜とした印象が増すようでもあった。
 数日前に慌ただしく接しただけの皇子といざ顔を合わせると、ユアンはなんとなく照れくさかった。たわいもないことでも、皇子に褒められれば嬉しくもあった。
 だがフィロネルの方は、いたって平素と変わらなかった。いや、あの冷ややかで淡々とした執政者としての貌が今は見られず、肩肘を張らず寛いでいるように見えるだけで、大きな変化ではあるのだが。
 自分ばかりが戸惑い、あれこれ考え込んでいるようで、皇子の落ち着きようがユアンは小憎らしくなってきた。思わず先日から考えていたことを、半分戯れ言のつもりで口にしてみた。
「あんた、外遊の話がなかったら俺のことはどうするつもりだったんだ」
「どうするつもり、とは?」
「わざわざあんたが直接来たから、俺は承諾したんだ。でなければ、こんな話はお断りだった。外遊がなかったら、あんたはどうするつもりだったんだ? まさか俺のために、こんな大事を催してレインスターまで来たわけじゃあるまい」
 軽く睨み付けるようにして言うと、黙って聞いていたフィロネルは、そういうことかと理解したようだった。
 と、その紫色の瞳が妖しく細められた。まるで挑発するように薄く笑いながら、フィロネルは横目にユアンに視線を流した。
「……さあ。どうだろうな?」
「は?」
「案外、そのまさかかもしれないぞ。何しろ俺は相当に頭がおかしいからな」
 愉快そうに言うフィロネルに、ユアンは多少頬を紅潮させてむっと口を尖らせた。
 完全にはぐらかされたばかりか、あてつけがましいもいいところだ。確かに何度も、ユアンは皇子に対して頭がおかしいと言ってはきたが。だが何度もそう言われる方に問題があるではないか。
 そんなユアンに構わず、皇子は白い布で包まれた長細いものを取り上げた。するりと布を解かれた皇子の手元に現れたものに、ユアンははっとした。
 それはユアンがフィンディアスに置いてきた、あの黄金細工と填め込まれたアメジストの美しい一振りの剣だった。
 皇子はユアンに向かってその剣を鞘ごと放り、自らの腰から優美極まる仕種で剣を抜いた。
「誓いのやり直しだ」
 言ったフィロネルに、ユアンは皇子が何を意図しているのかを察した。
 受け止めた剣は丁寧に手入れをされ、置いてきたときと何も変わらず磨き込まれていた。まるで皇子そのもののような、華やかな黄金と紫の色彩を持つ鋭利で美しい剣。従者の証としてフィロネルに下賜され、それ以来フィンディアス皇宮にいる間、常に腰に帯びていた。何度も皇子を斬ろうと抜きかけ、遂には抜き放って、そして自分にはどうしても斬ることはできないと苦渋の中で理解した剣。
 皇子を殺すための短剣を抱きかかえて皇都の片隅に座り込んでいたことも、この剣を皇子から下賜されたことも、随分昔のことのように思える。遡れば、せいぜいまだ一年程前の話だというのに。
 様々に胸をよぎることを思いながら、ユアンは黄金の剣を右手に捧げ持ち、フィロネルの前に跪いた。
 作法に則り、面を伏せて、自らの前に佇む美しい皇子に、真心を込めて誓いの言葉を述べる。
「フィロネル様の御為に、我が身を楯と換え剣と換え、身命を賭してお仕え申し上げることを誓約致します」
 よどみなく発された言葉に、フィロネルの抜き身の剣が動いた。窓からの明かりを半身に受けて佇む高貴な彫像のような姿が、自らの前に頭を垂れて跪くユアンの右肩に、その白刃の腹を乗せる。右肩を二度、左肩を二度叩いた抜き身の刃が、再び右肩の上に戻る。少し横に動かせば難なくユアンの頸動脈を切り裂ける位置に、ひたりと白刃は据えられる。
 深く透ける紫色の瞳が、剣を捧げたまま微動だにしないユアンを見下ろした。薄笑みを帯びたその唇が、ただ一言を高らかに告げた。
「​​​──許す」


        ◇ ◇ ◇


【補記】


統一暦七〇一年 フィンディアス皇太子によるレインスター外遊

同年 フィンディアス皇帝ルカディウスが崩御し皇太子フィロネルが新皇帝に即位

統一暦七〇六年 関係が悪化していたフィンディアスとレインスター両国間で街道の利権を巡り緊張が高まる

同年 フィンディアス総督が暗殺されたことをきっかけにフィンディアスとレインスターの国境警備兵が衝突 これが火種となり両国間で開戦する

統一暦七〇七年、七〇八年 大陸北方を記録的な大寒波が襲う 各地で甚大な飢饉が発生 続く戦争による消耗が加わり食糧供給が困難になったフィンディアスの劣勢に戦局が次第に傾く

統一暦七〇九年 レインスター軍がフィンディアス皇都を包囲 皇帝の判断により無血開城が行なわれる レインスター国王がフィンディアス皇宮に入城

同年 フィンディアス皇帝が独房で自害しているのが発見される レインスター国王の手により大々的な国葬が営まれる


 尚、皇帝の皇太子時代からの腹心で故ファリアス聖王国出身の騎士ユアン・レイスは、皇帝自害の後、収監されていた監獄から姿を消す。その後行方不明とされるが、一部の情報によると皇帝の葬儀が営まれた日の早朝、ユアン・レイスによく似た容貌の者と、もう一人の背の高い金髪の人物が、皇都の通用門からひっそりと外に出て行ったのを目撃されている。



(了)

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