朔の章 第一のパンドラ(4)

栞をはさむ

 そこはどうやらカズヤの住居のようだった。
 住居といっても、廃ビルを利用しているだけ、しかも仮住まいのように調度品なども最低限なので、これが住居とは思えないほど殺風景だ。床も壁も古びて汚れたコンクリートが剥き出しで、どこから運び込まれたのか、カウチやテーブルや冷蔵庫など、まったく配置も考えずにいかにも適当に置かれている。曇ってはいたが、窓には硝子がはまっていた。
 暗い路地に面しているので、日当たりは極めて悪い。これらの品はどこから来たのだろうと思ったが、やはり廃都にもそれなりに人が生活している以上、物品の供給ルートがどこかで確立されているのだろう。
 昨夜からの異常事態の連続に、サクの頭は許容量を越えて飽和しかかっていた。既に身体中の痛みにもさほど意識が働かず、ふらふらと部屋の中を歩く。喉が渇いて、頭がぐらついて、とにかく水がほしかった。
 その目が部屋の奥にある、様々なもので散らかった銀色のシンクに止まった。
「……水を」
 衝動的に蛇口にむしゃぶりついてしまいたくなったが、しかしいきなり部屋の住人に断りもなくそれはどうなのかと、残った理性を総動員してようやく呟く。身体中くたくたで、喉がカラカラで、あまり大きな声を出せなかった。
「まだくれてやるとは言ってない」
 しかし振り向いたカズヤは、信じられないようなことを言った。サクは目を見開いてカズヤを見返した。
 まだ、とは、あれで気が済んだのではなかったのか。これ以上何があるというのか。
「来い」
 カズヤはドアもはまっていない続き部屋に入っていく。サクは目眩を堪えながら、そちらに仕方なく向かった。
 水も食料も、今のサクにはどうしても必要なものだ。しかしそれは、カズヤに逆らっては手に入らない。
 カズヤという男が慈悲などを見せる人間ではないこと、自分がここに連れて来られたのは親切心などではないことを、薄々サクも理解し始めていた。
 廃都のルールなどは分からない。だが、自分のこれまで持っていた価値観や常識がまったく通じない世界であることだけは確かなようだ。そんな場所であればなおさら、悔しいが、この場所のルールに詳しく世界に馴染んでいるカズヤに、今は従うしかない。
 奥の部屋はさらに殺風景だった。奥の方に洒落っ気のかけらもない、しかしやけに大きなベッドがひとつ、しかも斜めに置かれている。そして部屋の真ん中にテーブルとなぜかソファセット。黒い革張りのそれは、合成革などではなく本物のレザーで、しかも相当に上質なものであることをサクは見て取った。
 廃都はまったくよくわからない。なぜこんな、生活するだけなら不要に違いないもの、しかもやけに高級な調度までがあるのだろう。しかもそんなものを無造作にコンクリートの部屋に置いている、カズヤの感覚もよくわからない。
 ふらふらと歩いていたら、ソファセットのあたりにいたカズヤが呆れたように言った。
「何やってんだ。こっちに来い」
 高圧的な物言いに神経を逆撫でされながらも、黙ってそれに従う。
 どうやらカズヤは味方などではない、と理解し始めたサクの態度には、端々に隠しきれない反抗心が覗くようになっていた。
 もっと冷静に構えることができる状況で、体調も万全であれば、この場でそれを相手に悟らせるのはまずいと、うまく覆い隠すこともできただろう。だが今のサクには、そこまでの余力も余裕もなかった。
 そんなサクにカズヤはまた猫のように目を細め、そしていきなり、最初のようにその手首を無造作に掴んだ。
 最初のときと違ったのは、そのままぐいと強く引っ張られたこと。よろめいて追突するように倒れかけたサクの後ろ髪を、カズヤはもう片方の手で掴み、後ろに引いて顔を仰向かせた。
 乱暴な扱いにサクがぎょっとしたのをまったく構わず、思わずぽかんと開いたサクの唇に、カズヤが自らの唇を覆いかぶせた。
 ​​​──何が、と、サクは目を見開いた。
 何だこれは。今何が起きている?
 混乱しているところに、無防備に開かれていた唇の隙間をさらにこじ開け、生暖かいカズヤの舌がいきなりぬるりと口腔内に入り込んできた。瞬間、電撃に撃たれたようにサクは硬直した。
「……っ!……」
 悪寒が全身を駆け上がり、あれほどくたくただった全身にたちまち力がみなぎる。
 サクの抵抗の気配を察したのか、すぐにカズヤは唇を離し、かと思うとサクを数人掛けのソファの上に突き飛ばした。自分より大柄で筋肉もかなり発達しているように見えるカズヤの力に、サクは慌てて起き上がろうとしたものの、あっさりとソファに押し付けられた格好で組み敷かれる。
「うっ……」
 頬骨を鷲掴みにされて強引に口を開かされ、そこに再び唇を重ねられた。閉じることもできない口内にまた舌が差し込まれ、いいように這い回るのを感じる。
 ぞっと肌が粟立つほど気持ちが悪くて、なんとかカズヤを跳ね除けようとしたが、あまりのことに混乱し、そして不自然な体勢のせいで抵抗しようにもうまく力が入らない。気がついたら両方の手首を、頭の上で合わせて片手で押さえ込まれていた。
 何が起きているのか、なぜこんなことになっているのか、またしても頭がパニックを起こして思考力がどこかへいってしまう。自分の身体の上に重たい男の身体がのしかかり、強引に唇をふさがれている、しかも舌を差し込まれていることに強い嫌悪を感じるのに、うまく抵抗ができない。
 カズヤの舌はサクを嬲るように口内を舐めまわし、そして舌にからんだ。音を立てて強く吸われ、ぞくりとサクの背筋を悪寒に似た感覚が走り抜けた。
 たまらず背を反らせたところに、カズヤが素早く片手を滑り込ませる。頬から手を外されたことは分かったが、あまりに深く口付けされて閉じることができない。カズヤの掌がサクのシャツの下にもぐり込み、背筋にそって素肌を大きな掌で一撫でした。
「んッ……く……」
 他人の手でそんなふうに触られたことなどないサクは、思わず上体を跳ねさせた。下半身はのしかかるカズヤの脚に完全に押さえつけられていて、動かすことができない。
 思わず洩れた声を封じるようにさらにカズヤの唇がサクの唇を貪り、ぴちゃぴちゃと音を立てて舌と舌を絡ませた。
 そうする間にも、カズヤの掌はゆっくりとサクの背中を這い続けている。サクが過敏に身をよじらせると、長い指先がことさら反応を煽るように、何度も背筋を伝って行き来する。
 恐ろしくカズヤの指と舌と唇の動きは淫靡で、サクの性感を巧みに刺激した。頭が熱くぐらぐらして、撫で回されている背中が汗ばみ始めるのを感じた。なんとかもがいて振りほどこうとしながらも、背を這い回る指の感触と口内をいいように嬲る舌の感触に、どうしてと思うのに萎えるように力が抜けてゆく。
 何が起きているのか、いったい何故自分がこんな目に遭わなければいけないのか、頭の中を凄まじい勢いで思考が駆け巡った。
 ようやくカズヤが唇を離し、サクのシャツから手を抜いた。
 ぐったりとして、サクはソファに沈み込んだ。呼吸が荒くなっているのを隠すこともできず目を開けると、馬乗りになったカズヤが、見るからに面白そうな顔をして自分を見下ろしているのが見えた。
 それを見た瞬間、灼熱するような怒りが全身に突き上げてきた。
「……ッざけんなッ!!」
 なぜ自分が、と、声にならない叫びが身の内を支配し、不自然な体勢から思い切りカズヤの腹を蹴り上げた。
 カズヤは避けたが、完全にはかわしきれなかったらしい。顔をしかめて腹を押さえたところに、サクは跳ね起きて容赦なく顔面に拳を見舞った。
 なぜ自分なのだ。なぜ、なぜ自分がこんな目に遭わなければいけないのだ。自分がいったい何をした。
 期待に応えて勉強だって何だって頑張っていた。県下一の進学校にも、主席は無理だったが五位以内で合格した。一年目からインターハイ出場権も勝ち取った。自分が本当の息子ではないことが分かっていたから、だから尚更両親に感謝して、心から大事にしようと思っていた。父に母に恥じない大人になって、自分で稼げるようになったらささやかな親孝行だってしようと思っていた。
 それがなぜ、こうなのだ。なぜこんなことになっている。自分がいったい何をした。
 ​​​──なぜこんなところで、こんなことになっているのだ!!
 頭の芯が揺れてふらついたところに、お返しとばかりに容赦なくカズヤが固めた拳を繰り出してきた。こめかみから頬に強い衝撃を受け、脚がよろめいたところを、腹部に抉り上げるようにつま先がめり込んだ。
 テーブルに激突してそれを乗り越えてさらにその向こうにすべり落ち、サクは身体を抱えてコンクリートの床の上で震えた。
 みぞおちにまともに食らった一撃は、手足からさえ血の気を引かせ、指先まで冷たくなって、全身を脂汗が伝い落ちた。吐くものが何もない胃からは、わずかに苦い胃液が零れ落ちただけだった。
 呻き声すら上げられずにいるサクは、間近にカズヤが立ったのに気付いたものの、どうすることもできなかった。
 髪を鷲掴みにされて持ち上げられ、さらに頬に拳を叩きつけられた。サクは抵抗する力もなく吹き飛ばされ、倒れ込んだ。
「なんだよ。けっこう生きがいいんじゃねぇか」
 カズヤの声は、怒るでも凄むでもなく、むしろやけに愉快そうだった。
 身動きできない周囲を、カズヤが大股に歩く気配がする。じゃらりと何か金具と金具が触れ合うような音がした。何だ、と思ってようやく目を開けようとしたところに、左足首を強く引かれて、そこに何かが掛けられたのを感じた。
「……な、に……?」
 やっと肘をついて身体を起こし、左足首を見る。そこには足枷としか言いようのないものが掛けられていた。
 それは重たげな鎖に繋がり、鎖はさらに鉄筋の柱に繋がっている。どう見ても力ずくで抜け出せる代物とは思えない。
 なんだ、これは。
 またしても自分の身を見舞ったわけのわからない事態に、サクの血の気が引く。
 カズヤはそれにまったく構わず、隣の部屋に姿を消した。ガタガタと何か音が聞こえ、シンクに水を流す音が聞こえた。
 その音を聞いただけで、渇いた口内に唾がわき、サクは何度も唇を舐めた。水が飲みたくて仕方がなかった。
 やがて戻ってきたカズヤは、深いボールのような器を持っていた。
 繋がれて床に這うサクにはどうあっても手に届かない位置に、そのボールを置く。そこにはなみなみと水が注がれていた。
 カズヤが何をするつもりなのか分からず、だがそこにある水がほしくてたまらず、サクは喉を喘がせた。
 そんなサクを、カズヤは恐ろしく冷たい、そして楽しげな表情で眺めている。何をされるのか、と完全に身構えているサクの不安を殊更煽るように、ゆっくりと部屋の中を歩き、棚の一つから何かを取り出して戻ってきた。
「これがなんだか分かるか、ワンちゃん?」
 床に這いつくばったままのサクに、カズヤが取り出してきた何か​​​──小さな容器を、指の間に立てて見せ付けるようにした。勿論どんなに手を伸ばしてもサクには届かない位置に、カズヤは立っている。
 分かるわけがなく、サクはただ無言でカズヤを睨みつけた。
 なぜこんなことをされるのか、どうしようもない弱みにつけこみ、力にものを言わせてひどい無体を働こうとするカズヤに、憎悪の感情がわきあがってきた。
「こいつは催淫剤ってやつ。このへんじゃ珍しいもんでもないけど、ま、おまえみたいな可愛いワンちゃんじゃ一発でアウトだろうな」
 黙っているサクに殊更見せ付けるようにしながら、カズヤはその容器を振ってちゃぷちゃぷと音を立てる。そして床に直接置かれたボールに歩み寄り、ひょいとしゃがみこんで、その中に容器の中身を残らずそそぎこんだ。
 ……何をしようというのだ、この男は。
 サクはただ愕然として、それを眺めているしかなかった。
 そんなサクを見て、カズヤはニヤリと笑った。
「水が欲しいんだろ? 時間をやるから、これを飲むかどうか、おまえが自分で決めな」
 あまりといえばあまりなやり方に、床の上について握り締めたサクの拳が震えた。怪我を負った掌が鋭い痛みを発したが、それ以上に湧き上がる目の前が赤くくらむような怒りに、力をゆるめることができなかった。
「別に俺はどっちでもいいからな? おまえがそこで飢えて渇いて死ぬなら、それはそれでたいしたもんだよ。それができるだけの根性がおまえにあるなら、敬意を表して墓くらい立ててやらあ」
 整っているだけにいっそう恐ろしく見える顔でカズヤは笑っている。脅しなどではないことは、もうサクにも分かっていた。
 サクは奥歯を噛み締め、泣き出したくなるのをこらえながら顔を伏せた。
「……てめえ、なんでそんな……俺がてめえに、何したってんだよ……」
「そうだなぁ」
 カズヤはにやにやと笑っていたが、サクのそばまで脚を運んでくると、その顎に手を掛けてぐいと上を向かせた。
 間近からサクの目を覗き込み、うっすらと微笑む。そして囁いた。
「おまえのそのキレイな身体も、キレイな顔つきにも、吐き気がする」
 サクは言葉を失った。
 カズヤはサクの顎から手を放し、そのままあとは一瞥もせずに部屋を出て行った。ドアが開いて、閉まる音がした。
 静まり返った灰色の部屋の中で、サクはこらえきれず、嗚咽を漏らした。そして痛む身体を抱えるように、床の上にうずくまった。


 それからどれくらいの時間が経ったのか、もうサクには分からなかった。
 窓の外は完全に陽が翳り、真っ暗になっている。明かりひとつない室内は真っ暗だった。街灯などあるわけもない路地からも、何も差し込む光はない。
 底まで落ちるような暗闇の中で、気を失うこともできないたまらない渇きに、サクは喘ぎ続けていた。
 水。水が飲みたい。
 口の中が完全に渇いて、身体全体が熱に浮かされたように熱い。気がおかしくなりそうだった。三日間は人間は生きられるなんて嘘だと思った。もう一分でも一秒でも耐えられる気がしない。
 そう思い、思い続けて、しかし時間はなおもよどみなく流れてゆく。
 すぐそこに水がある。しかしどんなに手を伸ばしても届かない。それに、妙なものが入っているあれを飲んでしまったらどうなるのか。
 そう歯止めが何度もかかり、しかし歯止めがかかるたびに、それは弱くなってゆく。
 もうどうなってもいい。水が飲みたい。このままでは、本当に自分は死んでしまう。
 なんとか少しでも楽な姿勢を取ろうと、闇の中で弱々しく何度も体勢を変える。仰向けになり、自分を抱きかかえ、力のまったく入らない手足を投げ出して、荒く浅い呼吸を繰り返す。
 いつこの地獄が終わるのかと思った。もういい、もうなんでもするから、この苦痛を終わらせてほしかった。
 何度も気が遠くなりかけ、しかし気を失い切ることも出来ず、のたうちまわる力すらなく、さらにそうしてどのくらいの時間がすぎた頃か、ドアが開かれる音がした。
 パラパラッと音がして隣の部屋の蛍光灯が灯される。足音をさせない男の気配が、サクの転がる部屋に入ってきた。
 明かりが点けられ、そこに転がるサクの有り様を見下ろし、カズヤは尋ねた。
「気分はどうだ?」
 答えられるわけがなかった。
 かろうじで顔だけを動かし、カズヤに視線を動かす。指先すらもう動かせる気がしない。
 カズヤがゆっくりと近付いてきた。
「で、どうする」
「…………」
 カズヤの姿を見たとき、完全に萎えたと思っていた怒りと憎悪の感情が、かすかに首をもたげた。だがそれを維持することは、もうできなかった。
「……を、……」
「あ?」
「み、ず、を……」
 それだけを言うのがやっとだった。かすれきってもう声が出ない。
 これ以上サクに喋らせることは無理だと、カズヤにも分かったのだろう。カズヤの口元にうっすらと笑みが浮かび、その脚が床に置かれたままになっていたボールに向かった。それを取り上げてサクの元に戻る。
 カズヤはぐったりしたサクを抱え起こし、ボールから直接水を口に含むと、乾き切って半ば開いたサクの唇に唇を押し当てた。
「……んっ……」
 流し込まれた水の感触に、サクはかすかに瞼を揺らし、それをやっと喉を動かして飲み込んだ。そして何度目かのそれの後にようやく目を見開いた。口移しで流し込まれてくるぬるい水の感触に、もう嫌悪すら感じない。
 唇からこぼれた水がサクの顎から首筋に落ち、鎖骨を伝って、素肌を光らせながら流れてゆく。少しずつ注ぎ込まれてくるそれはひどく甘く、渇き切った身体の隅々にまで、次第に広がってゆくようだった。
 ……助かった。
 そう思うと同時に、口付けられ、流し込まれる水を喉を鳴らして嚥下しながら、涙が滲んだ。まだ流せる涙があったことに自分で少し驚いた。自分が何のために泣いているのかも、もう分からなかった。


 ボールの水をすべて飲まされたら、少しずつ意識が明瞭になってきた。
 渇ききっていた身体に与えられたそれは、劇的な効果をもたらした。どれほど人間というものが水に依存した生き物なのか、サクは床にうずくまりながら実感していた。
 到底本調子とはいえないが、自分で自分の身体を起こすくらいはできるようになる。
 そこに、部屋をいったん出て行っていたカズヤが戻ってきた。また汲んできたのだろう、手の中には水をたたえたボールがある。
 喉の渇きは到底まだ治まっているとはいえず、それを見て無意識にサクの喉がごくりと鳴った。それを見て、カズヤが唇だけで笑った。
 ボールは今度は、身を乗り出せばサクにも届く位置に置かれた。
「飲めよ」
 面白がるような声に、サクは身を強張らせた。思わずカズヤを見上げると、カズヤはソファの背中に腰を下ろし、長い脚を組んでサクを眺め返した。
「手ェ使うんじゃねえぞ。使ったら即蹴り飛ばす。犬みたいに這いつくばって飲めよ」
 サクは目を見開いてカズヤを見返した。一度は萎えていた怒りと憎しみが、再びカッと身体の奥に燃え上がった。
 だが、喉の渇きはおさまらない。なまじ飲んでしまったことで、ますますそれは歯止めがきかなくなっていた。そして一度堤の破れた心は、もう頑強に抵抗し続けるだけの力を持たなかった。
 そろそろとボールのもとまで這って行き、言われるがままに、床に四足になって這いつくばったまま、水面にちらりと舌先をふれさせた。
 一口舐めてしまうと水はたまらなく甘く、もう止まらなかった。それこそ犬のように顔を突っ込み、必死でびちゃびちゃと音を立てて水を飲んだ。
 屈辱的な有り様に耳まで熱くなり、恥ずかしさで消えてしまいたくなる。たまらずまた嗚咽がこみあげ、泣きながらサクはボールから水を飲み続けた。
 なぜここまでされなければいけないのか、なぜ自分がこんな目に遭うのか、それだけが頭をぐるぐると回っていた。
 すべて水を飲み終えてしまうと、だいぶ人心地がついた。
 まだ身体全体の火照りは消えないし、頭もぼんやりしている。だが思考力と、身体をある程度は動かせる力は戻ってきていた。
 ​​​──自分はこれからいったいどうなってしまうのだろう。
 座り込んだまま漠然とそんなことを思っていたときだった。自分の中に何か妙な感覚があることに、サクは気がついた。
 熱に浮かされていたような火照りとは別の、身体の芯から滲み出してくるような熱がある。どくん、と鼓動がいつになく強い音を立てた。心臓の上に手を押し当てたサクの唇から、思わずのように声が洩れた。
「……あ……」
 身体が揺れるような感覚があった。強い酒でも飲んだように、頭がクラクラする。
 火照りは瞬く間に指先にまで広がり、そしてそれがとろけるような痺れるような別の感覚を伴っていることを、サクは自覚せずにいられなかった。
 熱いのは、身体の中心。最初はじりじりと炭火程度の強さだったそれは、すぐさまサクの身体を貫いて燃え上がる炎のようになった。股間を中心に広がったその震えるほど甘い熱に、サクは思わず喉をのけぞらせた。
「……う、……あっ……」
 声が出てしまったことで、一気に羞恥心が襲ってくる。自分の身体を自分で抱き込むようにして、必死で声をこらえた。
 催淫剤、と呼ばれるものがあの水に入っていたのは分かっていたことだった。今までそんなものを飲んだことは、当たり前だがない。それがどんな効果を自分にもたらすのか、正直見当もつかないところだった。
 だがこれが、それなのだろうか。サクは強く目を瞑り、身体を抱え込むように床に丸くなる。
 こらえようとしても、食いしばった歯からこぼれるように熱い吐息が洩れてしまう。身体の芯が熱い。とけてしまいそうなそれは、どんなに抑えようとしてもサクの呼吸を乱れさせる。その震えるような熱を発している部分、すなわち股間に、手を這わせてしまいたくてたまらなくなる。
 だが、ソファの背中に腰を下ろし、悠然と脚を組んだまま自分をじっと見つめているカズヤの姿を見て、必死でその誘惑に抗った。この男の前でそんな真似をするだなんて、絶対にごめんだった。
「ふ……あっ、くッ……」
 だが弱っていた身体は、たやすくあやしい薬の効果に漬かり切ってしまったようだった。抑えようとしても、声を抑えられない。
 必死で身体を中心から甘く灼く疼きに堪え、気が付けばサクは汗まみれになって床に這いつくばり、荒い呼吸を繰り返していた。
 時間が経つにつれて、甘さも熱もどんどんたまらなくなっていく。何度も股間に手を伸ばしかけ、それを必死に止める。
 喉を仰け反らせ、切迫した呼吸を繰り返したが、それでもカズヤの前であさましく自分を慰める姿を晒すよりは、こうしてのたうっている方がまだましだった。
 しまいには悲鳴のような声を上げて、サクは身体を痙攣させ始める。甘い熱と痺れは、すでにこうなると苦痛と紙一重だった。もう自分を慰めてしまいたい。だが絶対にそれは嫌だった。
 涙をこぼしながら、きつく唇を噛み締めて、両手を掌の傷がさらにひどくなるのを構わずに握り締める。噛み締めた唇から血が顎に伝い落ちてゆく。それらの痛みが、かろうじでサクの理性を踏みとどまらせる。ひきつるような荒い呼吸を繰り返し、それでも頑なにサクは自慰を拒んだ。
 その様子を見て、カズヤが音も立てずに立ち上がった。
 うずくまって震えているサクを、無造作に一蹴りする。たわいもなく崩れたサクの身体を脚で仰向けにし、その股間をいきなり踏みつけた。
「うああぁッ!!」
 弾かれるようにサクが悲鳴を上げた。全身がビクビクと震え、灼熱するような快感が、踏みつけられたそこからいやおうなしに駆け上がってくる。
 カズヤは無表情にそんなサクを見下ろし、ゆっくりとにじるように股間を踏みつけた靴底を動かした。
 ズボンの下でこれ以上にないほど熱く腫れ上がっていたペニスが、布ごしにこすられて歪み、今にも爆発しそうな快感が押し寄せる。カズヤのわずかな動きひとつにもサクの身体が跳ねて大きく仰け反り、途切れがちの悲鳴とも喘ぎともつかない、ひきつれた声が上がった。
 限界まで高まっていた身体は、あっけなく陥落した。さらにカズヤが軽く靴底で摺っただけで、サクはなすすべもなく射精していた。かつて体験したこともない快感に、サクは一瞬意識を失いかけた。
「本当に、犬畜生だな」
 ぐったりと大の字になったまま、大きく胸を上下させて呼吸を繰り返しているサクに、カズヤが口元だけで笑った。
 全身が痺れたようになっていて、それを睨み返す気力さえサクにはなかった。

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