朔の章 第二のパンドラ(1)

栞をはさむ

 泥のように夢も見ずに眠り、次に目を覚ましたときは、窓の外は明るくなっていた。
 だが正確な時間が分からない。見回しても時計がない。
 そういえば廃都に入ってから一度も時計の類を見ていないことに、今頃気付いた。普段は腕時計を使わず、携帯電話を時計がわりにしていたのだが、こんな悔いてもどうにもならないところで、それを後悔した。
 だが考えてみれば、もう時間なんて気にしなくてもいい生活なのかもしれない。
 鉛を呑んだように全身が重く、けだるく、そして身体中が痛んだ。関節がきしみ、いたるところについた傷口がひりつく。浅い傷はかさぶたになりかけていたが、少し深めの傷はまだ生傷状態だった。
 あまりにショックなことが続いたせいか、頭がうまく働かない。ぼんやりと自分が横たわっていたベッドを見て、そこがかなり血で汚れているのに気付く。
 昨夜カズヤに無造作に貫かれた場所もまだずくずくと痛み、自分の身体が血と汗と精液とでべたべたに汚れきっていることに、ようやく嫌悪感がやってきた。
 身体を引きずるようにして立ち上がり、ビニールのカーテンで仕切られただけのシャワールームに行って、頭から冷たい水を浴びた。
 生傷だらけの素肌に水が染みて痛かったが、それ以上に寒いほどの冷たさが心地よい。どろどろに汚れて疲れ果てた身体に、冷たい水はやけに清浄に感じられた。
 頭から水を浴びながら、サクはまたひとり嗚咽を洩らした。
 なぜこんなことになってしまったのか、なぜ自分でなければならなかったのか、これから自分はいったいどうなるのか。
 考えるのも嫌になる絶望的な思いばかりが、頭を破裂しそうに満たしていた。
 裸のままで、部屋に放り出されていた衣服を拾い上げに戻り、ひどく汚れているところだけでも水で洗い流した。濡れた身体を拭けるようなものは周りになく、絞ったシャツである程度だけでも水滴を拭いて、そのまま着た。たった一日二日の間に、笑えるほど制服はぼろぼろになっていた。
 シンクのある隣の部屋に移動すると、傾いたテーブルの上に、水の入った五百ミリのペットボトルと、乾いてパサパサになったパンの入った袋が置いてあった。カズヤは約束は守ったらしい。
 たったこれだけのものを得るのに、どれほどのものを自分は差し出したのだろう。
 外の世界では、コンビニにでも何でもちょっと足を運べば、いともたやすくそれらは手に入った。たった数日前までの自分と、今の自分の置かれた環境のギャップに、乾いた笑いがこみあげる。
 だが同時にたまらない惨めさと悔しさがよみがえって、また涙が滲んだ。
 しかし、いつまでもこうしていて、戻ってきたカズヤと鉢合わせになることだけはごめんだった。これもそのへんに転がされていたスニーカーをつっかけて、外へ続くドアを開ける。
 今日の空は曇天だった。陽射しがなければ、まだそれほど暑さは感じない季節だ。
 薄汚い路地には数人がたむろっており、サクに気付くとねぶるような目で眺めまわし、意味ありげに含み笑いした。
 昨夜の自分がどれほどあられもない嬌声を上げていたか、そしてこんな場所ではそれはさぞ周囲に筒抜けだったろうことに思い当たり、サクは耳朶まで赤くなった。
 泣きたい気持ちで、まさしく逃げるようにそこから駆け出した。駆け抜けようとしたところを、悪戯のように誰かが足をひっかけてきて、見事に汚れたアスファルトの上に転倒した。
 ぎゃはははという笑い声を背中に、誰がやったのかということすらもう確かめず、サクはよろよろと立ち上がると、また走り出した。


 これは急場しのぎにしかならない、もっと根本的な手段で水と食料を得なければだめだ、というのは分かっていた。だがそれについてを今考えるには、あまりに頭も心も身体も疲れすぎていた。
 誰も周囲にいる気配のない、閑散とした廃墟の続く中に、壁に大穴の開いた小さなビルを見つけ、そこにもぐり込んだ。
 仮に誰かが覗き込んだところですぐには見つからない、崩れた壁の陰に行く。壁際に座り込むと、まるで地面に引っ張られたようにそのまま身体が横倒しになった。
 重力とはこれほど凶悪なものだったのかと思った。思ったときには、サクは引きずり込まれるように眠りに落ちていた。


 ひどい悪夢を見た。
 真っ黒い誰かが拳銃を持って追いかけてくる。必死で逃げる喉がひゅうひゅうと音を立てて痛み、もう走れないと思ったら、何かが自分の上にのしかかっていた。
 全身を撫で回される感触に悲鳴を上げた。嫌悪しか感じないはずの中に、ぞっと全身が粟立つほどの快感があって、身体を仰け反らせて喘いでいた。
 そこにまさしく暴力でしかない力で、後ろから突き入れられた。あまりの痛みと苦しさで、また悲鳴を上げた。身動きできない身体に、四方八方から得体の知れない闇が絡まって、間断なく素肌の上をぬるぬると這い回って責め立てた。
 全身が燃えるように熱くて、もう何がなんだか分からなかった。


 目覚めたとき何より惨めで不快だったのは、自分が夢精していたこと、嫌で嫌でたまらないのに夢の中の自分が間違いなく快楽を感じていたことだった。
 自分の中の何かが、蝶番がバカになったように狂い始めていた。
 それが自分で分かるのに、かといって何をどうすることもできない。ただもう、何かを考えることすら嫌になり始めていた。
 丸一日以上何も食べていないにも関らず、まるで食欲がわかなかった。
 だが、食べなければ身体がもたない。乾いて硬くて、旨いとも思わないパンを、できるだけ小さくちぎって口に押し込んだ。紙くずでも食べているように味を感じず、口に入れるだけでひどい吐き気がした。だが、必死で咀嚼して、少しずつでも飲み込んだ。
 そして吐き出してしまう前に、胎児のように身体を丸めてまた横になった。
 あそこで俊に撃ち殺されていた方がずっと楽だったのかもしれない、と、朦朧とした頭で考えた。
 だがそんなことを言っても、自分は今生きている。これほどしんどいが、死ぬ、というほどの危機感は今は感じない。
 それは少しずつ体力が回復しつつあることを意味していた。若い身体は貪欲に休息を求め、少しの食べ物からも着実にエネルギーを摂取していた。
 とにかくあの、一滴の水も与えられず、灼けつくように喉が渇いて悶えていたときに比べれば、今はずっとましだ。もう二度とあんな苦しみは味わいたくなかった。
 だが飢えて乾いて死ぬのなら、あの苦しみですら子供騙しと思えるような、壮絶な苦痛に見舞われるのだろう。水分を得られなかったのはたった丸一日と数時間、その間走ったり激しく動き回ったりもしたとはいえ、それだけでもあれほど苦しかったのだ。絶対にごめんだ、と思った。
 もうあんな思いをしないためにも、今はなんとかして、体力を回復しなければいけなかった。とにかく動けなければ話にならないのだから。
 吐き気をこらえながら、硬いコンクリートの上で、サクは無理やりにまた眠りに落ちた。


 何時間眠ったのか、もしかしたら一昼夜眠り続けて翌日になっていたのか、それも分からない中でサクは目を覚ました。
 サアアアァ……と、ごく軽い音が周囲に響いていた。崩れた壁の隙間から、灰色の空と、その空から落ちてくる光る絹糸のような細かい雨が見えた。
 サクにとっての非現実極まりない状況の中で聞いたその柔らかな雨音は、「外」の世界にいた頃と何も変わらず、どんな音楽よりも耳に優しく、胸に染みこむように響いた。
 しばらくぼんやりと、ただその雨音を聞いて、光る雨を眺めていた。
 手足がだいぶ軽くなっているのを感じた。立ち上がってみると、硬いところでずっと寝ていたせいで頭と節々が痛んだが、地面に引き倒されそうなけだるさと億劫さは、かなり軽減されていた。
 ペットボトルはとっくに空になっていた。今はまだそこまでの渇きは感じていないが、このままでいたらまたすぐに飢え渇くのは目に見えていた。
 動けるうちに、何とかしなければいけない。
 夏に向かいつつある空気は生ぬるく、雨も冷たくは感じなかった。空のペットボトルだけを荷物に、サクは壁の隙間から出て、灰色の廃墟の間を歩き始めた。
 この街にはサクを無条件に助ける物好きなど何処にもいない。ここではなんとかして、生きるためには自力で欲しいものを得るしかないことを、サクはもう理解していた。
 豊かではないにしろ物品の流通もあるようだし、どうやら一定の居住区域では、貧相ではあってもライフラインも生きている。廃都なりの、ある程度の社会は構築されているようだ。
 金と力があれば、とカズヤは言っていたから、金さえあればもう少しなんとかなったのかもしれない。だが自分の身体と身につけた衣類の他には一切合財を持たないサクには、そんなものを羨んでいてもどうにもならない。
 たまに灰色の空を見上げて口を開け、落ちてくる雨をそのまま飲んだ。雨は決して綺麗な水ではないと分かっていたが、そんなことにこだわるのすら、もう馬鹿馬鹿しくなり始めていた。
 なんとかしなければいけないと思いつつ、しかし具体的に何をどうすればいいのかが、まだ分からない。
 とにかく人がいるところに行けばいいだろうか。誰かに会ったら、またひどいことをされるのかもしれない。そう思うだけで身が竦み、胸の中を嫌悪が這い回ったが、ひとりでは何も得ることが出来ないのが現実だった。
 サバイバルの知識なんてあるわけが無い。あったとしても、そもそも廃都はまともな環境ではなく、生態系も破壊され、広がるのはただガランとした廃墟ばかりだ。自然界からの恩恵はアテにできない。
 あそこで死ぬべきだったんじゃないか、と頭の片隅では常に声がするようになっていたが、現実に自分の身体は生きていて、貪欲にエネルギーを欲している。死ぬ、というのは思うほど簡単ではないのだということも、身に染みて分かってしまっていた。
 まだ死への恐怖の方が勝っている。唇を噛み締めながら、サクは歩き続けた。


 乗用車がすれ違えるかどうか、という程度の幅の狭い道を歩いていたとき、背後から何かの音が聞こえてきた。
 普段から当たり前に耳慣れていた音で、またサクの頭はかなりぼんやりしていたから、それが今の状況において稀有であり重要な意味を持つことに、すぐに気付けなかった。
 それは濡れた道を走る車の音で、歩くサクの少し後ろの方でブレーキ音がした。そのときになってようやく、サクは弾かれたように振り返った。
 サクの家に何台もあったような、磨き上げられた大きなセダンがそこには止まっていた。色は白。ボンネットの突端で、円形のエンブレムが雨を受けて光っている。
 こんなところに車が、しかも一目でわかるほど手入れのされた高級車が突然出没したことに、サクは驚いて身動きを忘れてしまった。
 その視線の先で、後部のドアが開いた。そこから何かが転がり落ちた。それが何であるかを認めて、サクは立ちすくんだ。
 人だ。しかも、全裸の少年。
 自分とそう年齢も変わらないのではないかという程度の少年は、全身が痛々しいほどに傷だらけだった。擦り傷や切り傷、何かに打たれたような痕。見ているだけでもこちらまで痛くなってくるような姿は、生きているのか死んでいるのかも判然としない。
 思わずサクは小走りに歩み寄り、しかし完全にその近くまで行く勇気も持てず、数メートル手前からその無残な姿を凝視した。少年は全身から血の気が引いており、ぴくりとも動かない。
「使えない犬ね。おまえみたいな役立たずは、そこで野垂れ死ぬといいわ」
 それに向かってか、車内から女の声がした。少しばかり低めの艶めいた響きを持つ声に、サクの視線が動いた。
 向こうからも、そこにいたサクに自然に目がついたのだろう。広い後部シートにゆったりと脚を組んで凭れた女がひとり、サクを見返していた。
 まず目に入ったのは、血の色に染め上げられた長く真っ直ぐ流れ落ちる髪と、対照的に抜けるように真っ白い肌。
「あら。小綺麗なワンちゃん」
 サクを認めた女が、化粧の濃い目許を細くして微笑んだ。
 丸い肩からなめらかな鎖骨のラインが、いかにも高価そうな赤い服に見え隠れしている。ふくよかな曲線を描く胸をそれはぴったりと覆い、胸の大きさに比べると驚くほど細い腰をきゅっと締めていた。首に耳元に手首に指に光る貴金属。赤い唇は少しぽってりと厚い。
 思わず呼吸を忘れて見つめてしまうほど、全身から妖艶な色香の立ち上るような美女だった。
「どうしたの? 迷子?」
 からかうような声を女はかけてくる。意味を持つ言葉を聞いたことで、サクは我に返った。一見優しげな表情に言葉だが、サクはむしろそれだからこそ、自分の中に警戒心が立ち上がるのを感じた。
 この街の人間は誰もサクに優しくない。優しくする理由を持たない。そしてこの女は、どれほど美しく優しそうに見えても、たった今目の前で、見るも無残な生身の子供をひとり、汚いものをそうするように路上に投げ捨てたのだ。
 サクは女を凝視し、そしてその車にも素早く目を走らせた。生じた警戒心が脳を刺激し、ぼやけていた思考能力を一瞬でよみがえらせた。
「……いえ」
 サクは女と車の様子とを観察しながら、呟くように返した。
 赤い髪の女は、細い顎を少しだけ傾ける。拍子に白い首筋に、真っ直ぐな人工的な艶のある髪がぱらりとかかった。
「ふぅん? なら、早くおうちに帰りなさい。悪い人達に取って食べられちゃうわよ」
 含み笑いした女は、サクの姿を見て何かを察しているのか、そんなことを言った。
 サクの全身は生傷だらけで、半袖のシャツからのぞいている両腕の手首には、明らかに拘束されていたと分かる、強く擦れた痕が残っている。カズヤに縛られてさんざん弄ばれたとき、あまりに苦しくて、サクが身動きできないながらも必死でもがいたせいだった。
 女はあとはもうサクに見向きもせず、視線を外した。
 ドアが閉まりそうな気配を察した瞬間、凄まじい勢いでサクの思考が回転し始めた。そして思考が結論を出すより先に動いていた。
 素早く駆け寄って、今にも閉まりかけていたドアと車の隙間に飛び込むように、ガン! とその下枠に片脚をかける。手でドアを掴まなかったのは、その程度ではすぐに振り切られてドアを閉められてしまうと考えたせいだった。
 身体ごとでドアを止めたような格好で、サクは赤い髪の女を、真っ直ぐに、突き込むような眼差しで見下ろした。女はサクの突然の行動に、確かに驚いたような顔をしていた。
 これは賭けだ。どんな手を使ってでも生き延びたいのだから。生きるために。そのための糧を、必要なものを得るための賭けだ。
 自分の中で、また何かがひとつ、カタリと音を立てて蝶番から外れて落ちた気がした。
 ぺろりと一度だけ唇を舐めて、サクは口を開いた。
「……あんた、そこの使えない犬のかわりに、俺を飼ってみないか?」

栞をはさむ