蓮の章 第六のパンドラ(3)

栞をはさむ

 サクが突然姿を現さなくなった。
 今までもそう連日現れていたわけではないが、突然ぱったりと、何の前触れもなく姿を見せなくなったことは、否応なしにレンに悪い予感を抱かせた。
 サクの身に何か良くないことが起きたのではないかと思うと、いてもたってもいられないほど、心配でたまらなかった。
 何があったのか、だなんて、薄々であれ想像がつく。おそらく、サクのパトロン​​​──アリサと呼んでいたその相手の逆鱗にふれたのだ。
 以前にも一度、サクはレンと会い始めたことで、ひどい折檻を受けている。だがそのときでさえ、姿を見せなかったのはほんの数日程度だった。
 それが今度は、半月以上経つのに現れない。
 まさか殺されたりということはないだろうが、いや、そうであると思いたいが、アリサという人物の人となりも、サクとの関係もまったくといっていいほど知らないレンには、そうと断言することもできない。
 いっそアリサのところに乗り込んでやろうか。と思いもしたが、現実味のないその考えに唇を噛んだ。
 この界隈を中心に広く名を知られているアリサは、廃都に出回っている麻薬の類を売りさばくことを生業としており、元締めがさらにその上にいた。廃都においてドラッグの類が生み出す収益と支配力はとてつもなく大きいばかりでなく、しかもアリサの上にいる元締めは、廃都のライフラインの多くの部分まで握っているといわれている。
 そんな筋のところにレンが一人で乗り込んだところで、あっさりとボディガード達に捕まって、それこそ簡単に殺されるのが落ちだろう。
 不安と苛立ちと焦燥をなんとか押し殺したくて、あとくされのない女の子達を何度かベッドに引き込んだ。そうでもしなければやっていられなかった。勿論、顔や態度にそんなことを出しはしないが。
 そんなある日、以前から数度レンと関係を持っている少女の一人が家にやってきた。誘われるままにベッドに入り、事が終わった後に、ふいに少女が切り出した。
「ねぇレン。もうマジで、これ以上あいつに関るのやめなよ」
「へ?」
 煙草に火を点けようとしていたレンは、自分の身体の上にもたれかかっている少女にきょとんとした目を向けた。
 少女は裸の肩をレンに摺り寄せて、細い腕を伸ばしてぎゅうっと抱き締めた。細身のわりにふくよかな胸のふくらみが押し付けられ、ちょっと気持ちいいとレンは思う。
「サク。……あいつにもう関っちゃダメだよ」
「急に何言ってんの」
 レンは笑いながら煙草をくわえ、火を点ける。柔らかな身体を寄せてくる少女の頭を、ぽんぽんと撫でてやりながら。
「もー。おまえらみんな、変に深刻になりすぎ。別にとって食われるわけじゃないんだからさ」
「食べられちゃうよっ」
 むきになったように少女が声音を上げた。
「あいつが、カズヤをどうやって殺したか知ってる?」
「知ってる。でもそんなん、される方にだって相当な原因があったんじゃないの?」
「……あいつ、カズヤの仲間にだってすっごい恨まれてるし。何かあってレンまで巻き込まれるのは嫌だよ」
「そう言ってくれるのは嬉しいけどさ。そんなん聞いたら、ますますほっとけねーよ」
 笑いながら言うレンに、少女はうつむいて唇を噛んだ。
「……もう。馬鹿すぎるよ。レン」
「あんま馬鹿馬鹿言わないでほしいなあ。けっこー繊細なのよ、俺」
「馬鹿だよっ」
 少女がレンの唇から煙草をどかし、強く唇を押し当てた。抱きついてくるその身体を、レンも少し首を傾げて、抱き締め返した。
 ……抱き心地は、どう考えてもこっちのがいいはずなんだけどなぁ。
 そんなことをこの状況で、頭の片隅でとはいえ考えている自分に苦笑してしまう。
 自分が抱き締めたいのは、この身体ではないのだ。どれほど愛しそうに見つめられても、あの闇を帯びた底知れない黒い瞳の無作為な眼差しに及びはしない。快楽にうっとりと潤んで、溺れるようにレンを求めてくる眼差しに勝てるものはない。
 どこで何してんだよ。
 もうしばらく待って姿を見せないようなら、サクを捜そう。少女の唇にキスをしながら、レンは不安と焦燥をどうにかして飲み込んだ。

        ◇

 あれからサクは数日間高熱にうなされ、やっとなんとか起き上がれるようになった頃には、さらに一週間が過ぎていた。
 動けない間に、手当てを施された身体の傷はそれなりに癒え始めていた。だが傷を負うことと同時に限界まで削られた体力は、さすがにすぐに戻ってはこなかった。
 アリサは相変わらず居たり居なかったりだが、戻れば必ずサクの様子を見にやってきた。
 その白い顔に表情らしい表情はなく、ただ時折ひどく苛立たしそうに形の整った爪を噛みかけ、気がついたようにそれを止めていた。
 その様子を、サクはベッドの中からじっと見つめていた。


 さらに数日が過ぎ、ようやくベッドを出て萎えた脚をリハビリし、若干の痛みや違和感を感じはするものの歩き回ることに不自由はなくなった頃。
 サクは久し振りにパジャマを脱いで、普段着に着替えた。
 窓から見える風景は、夕闇に沈みかけている。
「どこに行く気?」
 身支度を整えてベッドルームから出たところに、高圧的な声をかけられた。
 豪華なソファセットに凭れて何か書類らしきものを手にしていたアリサが、それを投げ出すように立ち上がって歩み寄ってきた。美しい目許が険しくサクを見下ろし、全身から苛立ちが発せられていた。
「外」
「私がいる間の外出は許さないわよ」
「たまにはいいじゃない。ずっとおとなしくしてたんだから」
 言うと、かっとしたようにアリサが腕を振りかぶった。手加減のない力でサクの頬に掌を叩き付ける。
 凄まじい音が響いた。サクもよろけて尻餅をついたが、打ったアリサの白く美しい手も、傍目にも分かるほど真っ赤になっていた。
「あなたはまだ分からないの?」
 アリサが声音を震わせて言った。ひどく感情的に睨みつけてくるその目をサクが見上げ、うつむく。
 くっと、サクの肩が小さく揺れた。と思うと、その唇からこらえきれないように笑い声がこぼれ出した。
「どうしちゃったのさ、アリサ。……なんで俺みたいな犬ころ相手に執着なんかしてんの?」
 アリサがくっきりとマスカラに彩られた目を大きく見開き、ひゅっと息を飲んだ。
 サクは喉を仰け反らせて笑い出した。楽しくてたまらない、というように。
「ザマぁないね。まさかさあ、俺なんかに本気になっちゃったんだ、アリサ? さんざん慰み者にして、いたぶって、踏みつけてきた相手にさあ」
「な……」
 立ち尽くしたアリサが、震えを押さえるようにぎゅっと自分の手首を自分でつかむ。その華奢でまろやかな肩が大きく上下した。
 それを薄笑みながら真っ直ぐに見上げて、サクは続けた。
「無様だね。あんたじゃないみたいだよ、アリサ」
「……!……」
 アリサが突き動かされたように踏み出し、きらめくブレスレットの嵌った右手を振り上げた。その手首を、サクは難なく掴んで動きを封じた。
 そこに加えられた加減のない力に、ぎりぎりと細い手首の骨がきしんで、アリサが顔をしかめて苦痛の声を上げた。
 サクは薄く笑ったまま、その様子を眺めている。それを見返したアリサの表情は、余裕を完全に失って引きつり歪んでいた。
 こみあげる動揺と怒りと激しい羞恥に若干赤くすらなり、震える美しい顔を見つめながら、サクはゆっくりと言った。
「……あんたの、その顔が見たかった」
 さらにアリサが瞳を見開いた。その顔に自らの顔を近づけ、サクは笑ったまま、低く囁いた。
「もう、あんたの変態趣味につきあうのはたくさんだ」

栞をはさむ