蓮の章 第七のパンドラ(2)

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 さすがに直射日光がつらくなってくると、粗末なベッドを日の当たらないところまでずらした。それでも大きな窓から空を見上げることは、変わらず容易だった。
 からりとした初夏に近い風が、開け放された大きな窓から流れ込んでくる。
 あまり物の置かれていないコンクリート打ちっぱなしの部屋で、サクは一人、ぼんやりとその風を受けながら立っていた。
 レンは昼間、時間は不規則だがほぼ毎日どこかへ出かけていく。それはどこまで本当なのかは分からないが、自称配達屋という仕事のためなのだろう。
 レンはこの廃都では珍しい携帯電話を持っていて、盗まれないような別の場所に単車を保管しており、それらを仕事道具にしているといっていた。
 底抜けの馬鹿のようで、あれでレンは案外、いや相当にしっかりしている、と思う。一人きりで海を越えて廃都を訪れ、こんな場所できちんと衣食住の環境を整え、要領よく人脈を作って生活を維持している。
 幼い頃から苦労して、軍隊などに放り込まれていたという環境が、レンをしたたかにしているのかもしれない。自分よりひとつかふたつ程度上なだけだろうが、国籍や髪や瞳の色が違うという以上に、レンと自分は驚くほど違っていると思った。
 レンは突然転がり込んできたサクに、何があったのかを一切聞こうとしない。サクが今までどこで何をしていたのかということも、何一つ聞こうとしない。ただそこにいて、いつも馬鹿みたいなことを言いながら、笑って抱き締めてくれる。
 すとん、と椅子に座って、片膝を引き上げ、サクはそれを抱え込むようにして目を閉じる。レンの部屋は明るく静かで、乾いた爽やかな風が心地よかった。
 何も聞こうとしないレンの穏やかな強さに守られているようで、もう少しだけでいいから、こうしていたかった。廃都において金と権力を持つ存在だったアリサを殺し、そして同時にアリサという後ろ盾を失った自分が、いつまでもこうしていられるとも思えなかったから。
 もう少しだけ、こうして休んでいたかった。


 まわりが静かであるせいか、その物音と気配に、すぐにサクは気がついた。
 錆び付いて、歩くと軋む音を立てる外の非常階段。そこを昇ってくる音がある。複数の気配が、息を詰めるようにして昇ってくるのが分かる。足下を踏む音を抑えることはできても、古びた階段そのものが立てる軋みまで隠すことはできない。
 昼間外出しているレンの代わりに、洗い物や部屋の掃除をしていたサクは、一瞬ドアを振り返った後にベッドに駆け寄った。その下の、大きな引き出しを探る。
 ガラクタに混ざって突っ込まれている銃を引き出し、弾が込められていることを素早く確認する。安全装置を外したそのとき、ごくごく静かに、カチリ、と背後でドアが開く音がした。
 うなじの産毛が逆立ち、ざあっと全身から血の気が引いたのが分かった。直後に、引いた血が怒濤のように脳天まで駆け上がってきた。
 指先にまで全神経が張り詰め、普段よりも数倍、五感から入ってくる情報が鮮明に克明になる。
 ゆっくりと開いてゆくドアに人影が覗いたと思った瞬間、サクは振り返りざまに拳銃を構えて引き金を引いていた。破裂するような甲高い銃声がして、そこにまさに覗いた直後だった人影がよろめいた。
 ぽっかりと明るく四角く開いた、ドアのあった空間。そこを凝視するサクの全身を、灼熱するようでありながら氷のように冷えた強烈な覚醒感が支配する。
 倒れた人影の向こうから、すぐにまた別の人影が覗く。それに向かって、また躊躇いもなく引き金を引く。額を撃ち抜かれた人影がまたくずおれる。
 人影達は、続けて撃ち倒された仲間の姿にひるんだようだった。
 ほんの一瞬の空白の後、銃口だけがのぞいて室内に向けて発砲された。サクはじっとその場から動かなかった。どうせ威嚇だったし、いたずらに撃った弾に当たるなど、よほど運が悪いときだけだと思った。自分に弾が当たるわけがない、というわけのわからない自信もあった。
 待ち構えている相手のところへ、一つしかない侵入口から仕掛けてくる不利を教えてやろう。ドアの方向には窓もない。相手はどうあっても、サクの姿を捉えるためにドアの向こうから姿を覗かせる他にない。
 サクは拳銃を構えたまま、じっとそれを待った。恐ろしいばかりの緊張した時間が流れたが、麻薬でも呑んだように異様に高揚した気分と感覚が、本来生じて然るべきなプレッシャーをサクに感じさせなかった。
 威嚇射撃を何度か繰り返した後、また人影が的のように現れた。現れた瞬間には、サクは引き金を引いてその額を撃ち抜いていた。
 分が悪い、と、相手もそれで悟ったようだった。訪れた時と同じように速やかに音も立てず、襲撃者達の気配が遠ざかった。それはプロの仕業だろうことを思わせる惑いのなさだった。
 気配が完全に消えてから、サクはやっと拳銃を下ろした。そしてふいに突き飛ばされたように、よろめいた。
 瞬間に指先までもを支配していた覚醒感が、急速に冷めていった。右手の拳銃に、ずしりという重みを感じた。
 高熱を出した後のように頭がふらついた。ゆっくりと足を踏み出し、ドアのところへ向かう。
 倒れた人影は三人。いずれも派手さのない高級ブランドスーツを着込んだ、体格のいい男達だった。的確に射抜かれた額に穴が開き、そこからあふれた血液が血溜まりとなって広がっていた。
 それらを白い顔で見下ろしながら、サクはわずかにふらついた身体をドア枠に預けた。銃を握る手が、かすかに震えていた。


 日が傾きかける頃に戻ってきたレンは、すぐにその異変に気付いた。
 開け放たれたままのドアに、風に乗って流れてくる生臭い血臭。階段を駆け上がると、血溜まりの中に三人の男達が倒れているのを見つけた。いずれも見事に額を一撃で撃ち抜かれていた。
 思わずレンはよろめき、その三つの遺体を凝視する。血の気が引いて喉が干上がったが、すぐに室内に目を向けた。
 窓からの赤みを帯び始めた光を背に、逆光気味にベッドに腰を下ろしているサクが見通せた。
「サク!」
 死体を踏まないように乗り越えて、走り寄る。うつむいていたサクの頭が揺れて、レンを見上げた。
 その両肩をレンは強く掴んで、その身体のどこにも血痕や異常がないようなのを素早く確認した。
「怪我は。なんともないか?」
「……ない」
 うつむいて、乾いた声でサクが返した。
 ほっとしたレンは、ベッドに拳銃が投げ出されていることに気付く。間違いなく、あの倒れている男達はサクが撃ち殺したのだと悟った。レンはわずかに青い目を見張ったが、それだけだった。
「よかった……」
 思わず心底からの安堵とともに、レンは呟いた。へなへなと力が抜けて、その場にしゃがみ込む。
 サクがその様子に、感情を宿さない黒い瞳を動かした。
「部屋、汚しちゃった」
「仕方ねえだろ」
 レンはひとつ息を吐き、気を取り直して立ち上がった。
 動揺はしたが、死体そのものには免疫がある。廃都では死体など珍しくもなかったし、そもそもそれ以前は、逃げ出したとはいえ軍隊にいて戦場に行かされたこともあったのだ。
 ふいにサクがゆらりと立ち上がった。
「……やっぱり出てくわ」
「は?」
「邪魔した」
 レンの前を素通りして、サクが部屋の隅に放り出してあった自分の手荷物へと向かう。慌ててレンはその腕を掴んだ。
「何言ってんだ。なんか厄介ごと抱えてんだろうなあってことくらい、薄々分かってたっての」
 振り向きかけたサクがわずかに目を見張り、振り切るようにその手を払った。
「なら止めるなよ」
「あのな。これでも一応軍隊経験有りよ、俺? 多少のことなら対処できるっての」
「だから何だ。撃たれたら終わりだろ」
「だから、そうならないようにするんだろ。悪かったよ」
「なんであんたが謝る」
 サクが苛立ったようにレンを睨んだ。黒い瞳が夕闇の迫りかけた光を反射して、滲むように光っていた。
 真っ直ぐにサクを見て、レンはもう一度繰り返した。
「事前にもう少し事情を聞いておくべきだった。あと、おまえを一人にするべきじゃなかった。悪かった」
 サクはレンを上目に睨んでいたが、無言で逸らして歩き出そうとした。その手首を、慌ててレンが再び掴んだ。
「お、おい。聞いてんのかよ」
「うるさい」
 サクがその手を振り払おうと力を込めたが、今度はレンもそうそう振り払われるような真似はしなかった。ますます苛立ったように、サクがレンに抉るような眼差しを突き刺した。
「ほっとけよ。やりまくって情が移ったのかよ」
 レンが一瞬表情を消し、サクの手首を掴む手に力を加えて引き寄せた。サクの頬を、鋭く平手で打つ。かなり強い力だったが、それに続いたレンの表情も声音も、優しいほどに静かだった。
「頭いいんだからさ。こんなことでごねるなっての」
「ごねてなんかっ……」
「冷静に考えて、ここで俺がおまえを一人にできるわけねーだろが。だいたい、俺とはぐれてどうすんだ。おまえ、どんだけ自分が危なっかしい状態か分かってる?」
 こんな突然襲撃されるような厄介事の渦中にある上、自分とはぐれたら、サクは飢え死にするくらいなら身体を売って生きるだろう。
 サクがそれに抵抗を抱かないなら、そして本心からレンを拒んでいるのなら、レンとしてはこれ以上サクに干渉することはできない。それはサクが決めることであり、サクの生き方だ。そしてサクにとって、その身体は確かに最も強力な、そして絶大な武器なのだから。
 だがサクは、身体を売ることは嫌なのだとはっきり答えた。何よりも、今のサクが本心から自分と離れることを望むとは、レンには思えなかった。
 それにレンがもし今この手を放し、この淫魔のような少年が一人で根無し草のように彷徨い出したら、廃都の誰がそれを放っておくだろう。今日の襲撃者からは逃れることができても、魔性じみた強烈な色香に魅了され翻弄された誰かしらが、いずれサクの命を奪うだけではないのか。
 そんなことを予感できてしまうほどにサクという少年は危うく、そんな未来を見過ごすことは、レンには出来なかった。
「落ち着け」
 ぎらつく黒い瞳で睨みつけてくるサクに、レンは静かな声で語りかけた。手を放さないまま、目を逸らさないまま。
「とにかく荷物をまとめるぞ。すぐここを出よう。荷造りするの、おまえも手伝え」
 そして手首を解放した。サクが逃げ出すなどと思ってもいないというように、サクを見ることもせずに、レンはベッド脇に置いたLEDランタンを点けてからシンクへ向かう。
 その姿をサクは立ち尽くしたまま視線で追いかけた。
 小刻みに震えていた肩が、やがて力が抜けたように落ちて、細く長く息が吐き出された。

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