蓮の章 第八のパンドラ(2)

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 全速力で走っていくサクを追いかけるのは、とんでもなく難儀だった。
 ストッパーが壊れたように速度をまったく落とさないその後ろ姿を、レンは曲がり角のたびに見失いそうになる。サクが夕闇の中にも浮き上がって見える白いシャツを着ていることが救いだった。
 体力にはそれなりに自信があったつもりが、息が完全に上がって何度も足がもつれそうになった。しまいには荒い自分の呼吸の音しか聞こえなくなり、心臓が壊れて肺が破れるかと本気で思った。
 苦しさのあまり、汗ばかりではなく涙が滲む。だがここでサクを見失うわけにはいかなかった。自分などよりもずっと、はるかにサクは苦しいはずなのだから。
 それでもどうしても速度が落ち、そのたびに自分を叱咤して、それこそ必死でサクを追い続けた。闇の満ち始めた狭い路地でサクを見失い、全身の血が下がったところに、凄まじい叫び声が聞こえた。それを上げた当人だけではなく、聞いたものの魂を切り裂くような、これを人の喉が上げているのかと思うほどの、咆哮に近い声。
 何も考えず、それが聞こえた方向に向かった。よろめきながら走り込んだ路地の先に、白い姿がうずくまっていた。
 断続的にサクは叫び続けていた。路地に転がり、頭を抱えて、痙攣しながら全身を見えない何かに切り刻まれているようにのたうち、もがいている。
「サクッ!!」
 叫んで駆け寄った。抱え起こそうとしたが、凄まじい力で跳ね飛ばされた。
 レン自身も体力の限界に近く、転がされて手脚を庇うこともできず派手に擦り剥いたが、すぐに跳ね起きてまたサクのもとに向かった。
「サク。サク、落ち着け。サク!」
 もがき続けるサクになんとかとりつき、その両手首を捉える。そこには痛ましい生傷があったが、この際そんなことは言っていられなかった。
 サクはそこにいて自分にふれているのが誰かも分からないように、喉を仰け反らせながら叫び、すべてから逃れたいように暴れた。あれだけ走って、どこにこれだけの力がまだ残っているのかと思うほど。
 全力でレンは、路上に押し付けるようにサクを抑えにかかる。ヒィヒィとサクの喉がひきつった。呼吸困難を起こしていることにレンは気付き、どうしたらいいのか一瞬戸惑った。ビクビクとサクの汗まみれの全身がひきつり、ガクリとその頭が仰け反った。
 何も考えず、レンはその身体を引き起こして強く抱き締めた。
 少しでもサクが気付いてくれればいいと祈りながら、暴れるその身体をぴったりと自身に引き付け、その黒髪を繰り返し撫でる。その耳に声が届いてくれればいいと、声を抑えて、繰り返し呼びかけた。
「サク。……サク、大丈夫だ。大丈夫。サク。大丈夫……大丈夫」
 もがき続けていたサクの力が、次第に弱まり始めた。レンは抱き締める力を緩めないまま、ただ静かにその髪を撫で続け、囁き続けた。
「サク……大丈夫だからな。大丈夫だ。サク……」
 ひくっとサクの喉がひきつり、それを境に、呼吸の音が落ち着き始めたのを感じた。
 次第に力が抜けていく身体が、レンにもたれかかる。完全にその体重が自分にかかってくるのを感じて、レンは少しだけ、サクが痛みを感じない程度に抱き締める腕の力をゆるめた。だが囁きかける声と、その髪を撫でる手は、止めなかった。
 やがてゆるゆると、サクが自身の力で動いた。レンにもたれきっていた上体を起こそうとする。だがうまく力が入らないらしいその両の肩に、レンはそっと手を添えて支えてやった。
「…………レン……」
 呟かれた声は、かすれて消えてしまいそうに儚かった。
 真っ白なその顔の中で、黒い瞳がどこかまだ虚ろに揺れていた。だがそこには、痛々しいほどの、かすかな光があった。迷子の子供のような。
 レンは何も言わずその頭を引き寄せ、また抱き締めた。
 身を寄せてレンの肩に頭を預けたサクの唇から、じきに小さな、嗚咽する声がこぼれ始めた。
 サクの手が弱々しく動き、レンの背中に回された。その手がレンのシャツを握り締める。子供のように無防備に喉を震わせて、じきにそれは激しく咽び泣く声になった。
 レンはその声を聞きながら、ただじっと、その背中を撫でてやっていた。

 やがてどうにかサクが泣きやみ、動けるようになると、レンはとりあえずすぐ側の路地の陰にサクを連れて行った。
 動けるようになったとはいえ、サクはふらふらで、どれだけの距離を走ったのかもわからない路を今すぐ戻れるとは思えなかった。それに正直、レンもくたくただった。
 人の気配のしない暗い路地の片隅に並んで腰を下ろし、ただ肩と身体がふれるほどのそばに、サクを引き寄せた。
「……サク。話せるか」
 レンの肩口に頭を乗せてぼんやりしているサクに、その髪を撫でてやりながら、レンは語りかけた。
「……ん」
 ごく小さくではあったが、サクが返事をして頷いた。レンは静かに、言葉の先を続けた。
「さっき俺が言ったことは、覚えてるか?」
 無言でサクが頷いた。ごく小さく。
「サク。一緒にこの街を出よう。おまえがもう、この国でなんか生きていけないってのは分かってるよ。だから、俺の国にいこう」
 それを聞いて、サクが小さく肩を揺らした。重たげに顔を持ち上げて、レンを見上げる。
 今にも泣き出しそうに見えるその顔に、レンは笑いかけた。いつものように。
「なかったことになんかできないだろうけどさ。全然違う場所で、やり直せることだけでも、やり直していこう。一緒にいてやっからさ。な?」
 サクがうつむき、その唇を震わせた。だが言葉は出ない。その髪をまた撫でてやりながら、レンは続けた。
「昔俺のいたとこの近くにハイスクールがあってさ。そこ、スポーツがいろいろ盛んなんだよ。陸上も強かったと思う。そこに行ってさ、頼もうぜ。ちょっとハイジャンプ跳ばせてくれって」
 その言葉に、信じられないようにサクが瞳を見開いた。その瞳が潤みを帯びて震えた。
「……いい、のかな」
 サクがかすれた声で呟いた。その頬に涙がこぼれ落ちた。
 それはたちまち滂沱となって頬を濡らし、サクは喉をしゃくり上げた。目の上を押さえるようにして顔を覆い、サクはまた呟いた。
「……いいのかな。また、跳べるのかな、俺……」
「跳べるよ」
 その肩をそばに寄せて、子供をあやすように軽く叩いてやりながら、レンは言った。
 レンの肩に顔をうずめるようにしたまま、サクは泣き続けた。だがそれは、廃都で今まで流したどの涙よりも静かで、胸にゆっくりと、あたたかく染み込んでゆくようだった。


 結局いつの間にか、レンとサクは二人でそこで眠り込んでしまった。路地に差し込む朝の光に、どちらからともなく身じろぎし、どちらからともなく目を覚ました。
「ひっでー顔」
 サクを見るなり、レンがぷっと吹き出した。ひどく泣いたせいで瞼も眦も腫れ上がっている自覚はあったサクは、思わずふくれて顔をそらした。
「うっさい。見るなりないだろ、それ」
「ごめんごめん」
 軽い声を立てて笑いながら、レンがサクを抱き締めた。その腫れ上がった瞼に、眦に優しくキスをする。
「でも良かった。すげー良かった」
「何が」
「またおまえの顔が見れてさ」
 腫れた瞼のことも忘れて、サクがまじまじとレンを見上げた。それにレンは、青い瞳を細めるようにして笑いかけた。
「一緒にいてくれてありがとな。サク」
 サクが小さく息を飲み、思わずのように顔をうつむけた。地べたについていた手が震え、慌てたように顔をごしごしとシャツの袖でこする。
「……もう。涙腺弱ってんだからさ。勘弁しろよ」
「へへへ」
 嬉しそうにレンが笑い、両腕いっぱいでサクをまた抱き寄せた。ぎゅっとその腕に力を込める。
「サク、好きだ。一緒に行こうぜ」
 当たり前のことのようにレンが言った。レンの腕の中で窮屈そうにサクが身動きし、少しその腕をゆるめさせると、手を伸ばしてレンの頬にふれる。
 サクがレンの唇に唇を重ねた。ごく軽く、ふれあうだけの。
「……俺も好きだ」
 レンを黒い瞳で見つめたまま、サクが囁くように言った。それを聞いたレンが、大きく青い瞳を見開いた。
 今までになく驚いたようなその顔に、もう一度サクは身を乗り出してキスをする。今度はレンの首の後ろに手を回し、引き付けて、その唇の感触を確かめるように、何度も唇をたどらせた。無意識のうちに舌が這い出して、レンを求めていた。
 レンも驚いていたような瞳を細めて閉じ、サクの背中を抱き寄せて、その頭の後ろにごく柔らかく手を添えた。互いの感触と体温を確かめ合うように、何度も優しく舌をからめ、唇をなぞって、ようやくサクは顔を離した。
 間近からレンを見つめて、サクは笑った。心の底から。
「好きだレン。大好きだ」
 そして力いっぱい、レンの身体を抱き締めた。もう二度と放したくないというように。

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