蓮の章 第八のパンドラ(3)

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 二人はまだ陽が高くないうちに、歩いて部屋に帰った。無我夢中でサクが走り抜けた距離はかなりのものではあったが、しばらく歩けばじきに帰り着いた。
に帰り着いた。
「あーもうマジで。昨夜はどうなることかと思ったぜ」
 あっけらかんと言いながら、レンは大きく伸びをしている。サクはすっかり腫れてしまっている顔に水で濡らしたタオルを当てながら、何を言いようもなく複雑な気分でそれを眺めた。
 それに気付いたレンが振り返り、すぐに近付いてきてサクの頬にキスをした。
「んな情けねーツラすんなって。もう先のこと考えようぜ」
「……うん」
 頷いたサクにレンは笑うと、もう一度キスをして、サクから離れた。そのあたりに散らかった日用品やらガラクタやらをひっくり返して荷造りを始める。
「ハラ減ったけど、ちっと後な。とにかくさっさと行っちまおう。おまえも手空いたら手伝え」
 この廃都から逃げ出す。今ならまだ、エヴァンからの追っ手もかからないはずだった。
 昨夜サクは、最後に一度だけレンと会わせてくれと言って時間をもらった。アリサほどサクを束縛するつもりはないらしいエヴァンは、それ以前にたっぷりサクを堪能して、完全に屈服させたという意識もあったのか、あっさりとそれを許した。拳銃さえ返して、明日中には戻って来いとサクを送り出した。
 実際、レンが引き止めなければ、サクは間違いなくエヴァンのもとへ戻っていただろう。
 レンはこの部屋へと戻ってくる道すがら、携帯電話を誰かにかけていた。その相手がおそらく俊であることを薄々感じながらも、サクはまだ、その声を聞く勇気がなかった。
 外界とサクをつなぐもの。もうとっくに失ってしまっていたと思っていたもの。
 だがそれは、レンを通じて、かろうじでまだつながっていた。その奇跡のような縁に胸が震えていっぱいになるほどの嬉しさを感じはしたが、同時にまだひどく恐ろしくもあった。
 本当に自分が、外界に戻れるのだろうか。きっと変わり果ててしまった自分を、俊はどう思うのだろうか。どんな目で見るのだろうか。廃都を出られると思っても、あまりにも廃都で過ごした時間は、経験は強烈にすぎて、平穏な外界を思うとそのギャップに激しく動揺した。
 それらを思うとただひたすら怖くて、まだレンの電話を借りて声を聞くことができなかった。
 それはレンも分かっているのだろう。うつむいて歩くサクの手を強く握り、大丈夫だ、というように頷いてくれたことに、サクはまた泣きそうになってしまった。
 まだ時間の猶予はあるはずだったが、とにかく今すぐにでも廃都を出ることをレンは提案した。蛇の路は蛇というやつで、廃都を秘密裏に出ることのできるルートはやはり存在し、レンは俊と何度か電話でやり取りしながら、その段取りを進めているようだった。
「その方がいいんじゃないかって思うことは、何度もあったからさ。手筈だけは整えてあったんだよ」
 まるで遊びの約束を取り付けるかのような調子で、事も無げにレンは笑った。今のサクは、常にそんなふうに笑えるレンがどれほど底抜けに逞しく優しいのかが、よく分かっていた。
 言葉をうまく出せずに黙っているサクに、レンは少しだけ苦笑した。
「……とはいっても、おまえはもう、完全に廃都の人間だったからさ」
 何を言おうとしているのかと、眼差しだけで問いかけたサクに、レンは続けた。
「無理に連れ出そうとしたって、おまえは絶対にうんとは言わなかっただろうし。だけど、それでももっと早く決断しておくべきだったよな。ごめんな」
 サクはただ首を振った。
 何も聞こうとしないレンの優しさに甘えて、伝えるべきことも黙っていたのは自分だ。それにレンの言う通り、昨日までの自分であれば、廃都を出ようと言われても取り合わなかっただろう。無理強いされようものなら、それこそレンを撃ってでも拒絶していたに違いない。
 何一つ望んだわけではなかったけれど、そうだったろうと言い切れてしまうほどに、今の自分はもう骨の髄まで「廃都の人間」だった。それを思うと廃都を出ようとする自分が滑稽で、気持ちが挫けそうになる。あれほど甘く眩しく懐かしかった外界が、そこに手が届くのだと思った途端、とてつもなく怖い。
 考えるほど混乱して何も言えず、ただレンに促されるままに、荷造りを整えた。
 今回はこの部屋を出て行ったら、もう二度と廃都に戻らない。だから手荷物も、自然と少なくなった。かさばる日用品やささやかな備品、家具はすべて置いて行く。バッグに適当に身の回りのものや着替えを詰め込み、それだけがすべてだった。
 そろそろ行くか、と互いにそれを肩にかけたところで、部屋に立ち尽くし震えているサクに、レンが気付いた。
 やはり、どうしても怖気づく。本当に自分が外に戻れるのだろうか。外でちゃんと生きていけるのだろうか。こんな自分が、本当に。
「サク」
 歩み寄ってきたレンが、サクの頬に軽く指をかけて、唇にキスをした。ごく軽く、優しく。
「大丈夫。俺がいる」
「……うん」
 そしてドアに向かおうとしたところで、そのドアが軽くノックされた。二人に一瞬緊張が生じたが、すぐにそれを解くように、聞き覚えのある少女の声がした。
「レン。……いる?」
「あれ」
 少し驚きながらもレンがドアを開くと、そこに何度も身を重ねたことのある少女が現れた。
「おはよ。どうしたの?」
「ごめん。昨日、レンの様子がなんだかおかしかったから……気になって、後つけてきちゃったの」
「ああ」
 普段ならレンも行動に気を配っていたところだが、昨日はサクが消えたことですっかり動揺して、尾行などに注意を払う余裕がなかった。
 今となってはそれもどうでも良いことではあったが、決まり悪そうに少女は俯いた。
 少女の大きめの瞳が迷うように自分の足許をみつめ、窺うように持ち上げられて、レンとサクの上を辿る。
 数秒の後に、少女は意を決したようにレンを見上げて切り出した。
「レン。あんた、やっぱ行っちゃうんだ」
「ん。ヤボ用」
 からりと笑うレンに、少女が細い肩を震わせた。
「いつか行っちゃうんだろうなあって、思ってた……ね、レン。少しだけでいいから、時間ちょうだい。行っちゃう前に、二人だけで話したいの」
 レンは青い目をぱちくりさせた。確認するように、その視線がサクの上に動いた。
「いいよ。行ってこいよ」
 サクは軽く返事をした。この少女には見覚えがあった。レンに好意を持つ者は、実は男女問わずかなり多かったのを知っていた。中でもこの少女は、かなり足しげくレンのもとに通っていたはずだ。
「ん。じゃ、ちょっとだけ行ってくる。気をつけてな、サク」
 言い置いて、レンはドアに向かった。長い金髪をざっくりと後ろで結んだ長身の後ろ姿が、ドアの向こうに消える。追って少女が身を返す。
 少女のその目が、立ち去る間際、一瞬だけサクをとらえた。
 凍るようなその眼差しに、サクはわずかに目を見張った。
 すぐにドアは閉じられた。気のせいか、と思うような一瞬だったが、そうと思うにはその眼差しは鮮やかすぎた。
 自分を犯そうと向けられてくる害意には、サクはひどく敏感になっていた。
 どくん、と心臓が揺れた。言葉にならない嫌な予感。
 しばらく立ち尽くした後、レン、とその唇が動き、突き動かされるように身体がドアに動いた。
 そのドアの向こうでいくつかの足音がして、思わず後ずさったところを、突然ドアが外から開かれた。
 そこには見覚えのある顔がいくつかあった。抉るようなような視線を、いずれもサクに向けている。
 どこで見た、と思い、すぐに思い出す。
 ​​​──カズヤのいた路地だ。
 殺気立った彼らの気配に、サクはさらに後ずさった。激しく早鐘を打ち始めた心臓に、目眩がした。
 向けられる憎悪に、悪意に、干上がったように声が出ない。後ずさった脚が、床に無造作に置かれていた小型の簡易冷蔵庫にぶつかった。
 思わぬ障害物に大きくよろけたところを、合図になったように、ドアから野良犬のような若者達が一気になだれこんできた。
 目を見張ることしかできないサクの腕を、髪を、彼らは乱暴に掴み、そして口に猿轡を噛まして外に引っ張り出した。あまりに多勢に無勢で、どうにもならない。
 引きずられるように歩きながら、サクは後ろを何度も振り返ろうとした。だが乱暴な力で引かれて、できなかった。
 レン。声にならない声で、呼んだ。ただその名前を。


「話って何?」
 先に立って歩く少女に従い、部屋から少し離れた路地まで来たレンは、いつもの軽い調子を装って訊ねた。
 だが本当は、一刻も早く部屋に戻りたかった。今は一秒でもサクから目を離していたくない。廃都を出ることにしたとはいえ、サクを取り巻く状況が危険であること自体に、何も変わりはなかった。
「……レン。行かないでよ」
 うつむいたまま、少女が口を切った。
「へ?」
「行かないでよ、あんな奴と。レン、いつかあいつに殺されちゃうよ。行っちゃだめだよ、レン」
「何いってんの」
 やけに切羽詰ったような少女の声に、レンは苦笑する。
「あるわけないじゃん、そんなこと。おまえらみんな、あいつのこと誤解しすぎ」
 サクの中に、闇色の焔のような凶悪な衝動が眠っているにせよ、そしてそれがかつてカズヤという若者を惨殺する結果になったにせよ。それは己を害し、犯そうとする存在への激烈な怒りが引き金になって爆発したにすぎない。サク本来の姿は、決してそれが本性ではないのだ。
 震えるほどに傷つけられ、犯され続けた心が、自分を守るために、自分の存在を賭けて爆発して燃え上がらせた闇色の焔。それは誰よりサク自身を苦しめている。決してむやみに誰も彼もに向かうものではないし、自分が抱き締めてやる限り絶対に二度と暴発しないと、レンは確信も持っていた。
 だが少女は納得しなかったようだった。そればかりか、軽く笑ってみせるレンに、悔しげに唇を噛んで涙を滲ませた。
「……レン、馬鹿すぎるよ」
 また言われて、ますます苦笑する。
「そう言うなって。しゃーないだろ」
 少女はうつむいて答えない。話は終わったようだと判断し、レンは来た路を戻ろうと歩き出した。
「それじゃな。俺がいなくなったら寂しいだろうけど、おまえせっかく可愛いんだからさ。あんま変なのとやりまくんなよ」
「​​​──待って」
 立ち尽くしていた少女が、その背を追いかけるように言葉を発した。その声音が変に低く響いたことに、レンは足を止める。その背に、追突するように少女が駆け寄って抱きついてきた。
「行っちゃダメ。レンも巻き込まれる」
「……どういうこと?」
 返す声が、強張ったように硬くなった。
 そのレンの身体を、ますますぎゅっと、少女は抱き締めた。そして泣き叫ぶように言った。
「レンがいけないんだよッ! あたしだってレンが好きだった! あんな奴にレンをとられたくない! 行かないで、レン……!」
 最後まで少女の言葉をレンは聞いていなかった。加減のない力で少女の細い身体を振り放し、突き飛ばして路地を走り出した。
 行かないで、と叫び続ける少女の声を置き去りに、レンは全速で部屋に駆け戻った。だが目に入った景色の中、確かに閉めて出て行った部屋のドアは開け放たれて、風に頼りなくゆらゆらと揺れていた。
「サクッ!」
 飛び込むように部屋を覗いたが、そこはもぬけの空だった。ただバッグがふたつ床に投げ出されるように落ちている。レンのバッグと、サクのバッグ。
「サク……」
 レンはざっと周囲を見回した。陽が高く昇り始めた廃墟の中には、どこにも、誰の姿もない。
「くそっ!」
 激しく舌打ちして、レンは駆け出した。
 まださほどの時間は経っていない。人間一人を連れているのなら、まだたいして離れていないはずだ。何かしらの足を使われていない限りは。
 単車を取りに行くべきかと思ったが、停めてあるガレージまではかなりの距離があり、何にせよ時間のロスは避けられなかった。
 息を切らして駆けながら、またか、と、不安に締め上げられる心臓に痛みすら感じながら唇を噛んだ。
 こうして今までも何度サクを見失って、その姿を求めたことだろう。
 ​​​──勘弁してくれ。
 神なんてとっくに信じなくなっていたが、レンはそのとき、祈らずにいられなかった。
 あいつを返してくれ。ここまで来て、連れていかないでやってくれ。あいつを助けてやってくれ。神様。
 何度も歯を食いしばりながら、レンは走り続けた。

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