終焉のパンドラ

 サクが死んでから一週間経った頃。レンはサクの家を訪ねた。正確には、俊に招待された。
 それはつまり、廃都を出てから一週間が過ぎた、ということでもあった。
 あの後レンは、迎えに来ていた俊と落ち合い、金さえ出せばなんでも焼いてくれるという火葬場にサクの身体を運んで、焼いてもらった。いつまでも抱き締めていてやりたかったが、あまりに痛ましい姿のサクをそのままにしておく方が可哀想だった。
 最低限のことを伝えるのが精一杯で、声も出せずに泣き続けているレンの横で、俊も泣いていた。サクの無惨な姿に取り付いて、何度も何度も、すみません、すみません、と謝っていた。
 それから俊の運転する車で、かなり遠くの海辺まで走った。よく晴れた初夏の青空と水平線が広がる風景の中に、サクの身体だった砕いた骨と灰を撒いてやった。
 一欠片だけ残した小さなサクの遺骨を握り締め、その場所にうずくまって、またレンは泣いた。こらえてもこらえても、涙が止まらなかった。


 それから一週間がすぎて招待されたサクの家は、大きく立派な邸宅だった。
 今日は旦那様と奥様はお留守なので、と、迎えに出た俊は、レンを家の奥に通した。黒いスーツに身を固め深い色のサングラスをかけた俊は、そうして見る限り、若干痩せたようではあるが普段通りだった。
 サクの家だった場所を案内されて奥へ歩きながら、レンは眉を寄せていた。
 かつてごく当たり前の、普通の高校生にすぎなかったサクが暮らしていた場所。その庭先にも、そこに見える部屋にも、今レンがいるこの廊下にも、かつてサクがいた。
 だがこの家からサクは、大人達の勝手な都合で居場所を奪われ、すべてを無くして、廃都に追いやられてしまった。──その結果があれだ。
 この家のすべてが、今のレンにとってはやりきれない怒りと憎悪の対象にしかならなかった。
「何か形見分けして差し上げられたら、と思ったのですが。この家にあった朔様のものは、すべて処分されてしまったので……」
 通された小さめの応接室で、挨拶以降ずっと黙り通しだった俊が切り出した。
「形見分けなんて」
 あまりにその言葉が示す意味が重くつらくて、レンは泣き顔のような顔で笑ってしまう。軽く首を振った拍子に、長い金髪が揺れた。

 俊とは、かつてこの国を訪れたばかりのときに港で知り合った。いかにも強面の、その道の恐いお兄さん、といった風貌の俊だが、ステイツで荒くれ者を見慣れていたレンには、いっそ優しそうに見えたくらいだった。
 そして実際に俊は風貌に似合わない気の優しさを持っていて、密入国したばかりでこの国の勝手が何も分からなかったレンに、何くれと世話を焼いてくれた。
 元々ある程度の日本語の素養はあったレンは、この頃にきちんと日本語を覚えた。既にある程度のやりとりはでき、人なつこいレンは一人になることがなかったし、教えてくれる相手には事欠かなかった。
 レンはこの国に慣れてくると、じきに小金を稼ぎながらあちこちを身ひとつで飛び回るようになり、俊の前に現れなくなった。だが心配性な俊の言いつけで、ちょくちょく電話をかけては、達者でやっていることを知らせていた。
 ​​​──その俊から、ある日いつになく深刻そうな声で電話が入った。
 俊は、弟のように可愛がっていたボスの子息を、事情があって廃都に連れて行ったと語った。
 俊は命令とはいえ自分のやったことにずっと悩み、苦しんでいた。何度も忘れてしまおうと思った末に、それができず、とうとうレンに頼んだのだ。仕える家をどうしても長くは空けられない自分に代わって、「朔」というその少年の安否確認を。
 その時点では、何より「朔」の無事を確認することが先決だった。生存を確認し居所を把握したら、その後は俊が自ら少年を救うために動こうとしていたようだ。レン自身も、まさか当初は、ずっと廃都に居つくことになるとは思っていなかった。
 その少年の顔写真を渡され、身体的特徴を教えられ、廃都という場所の知識をできるだけ仕入れ、そして俊の全面的なバックアップを受けて、レンは廃都を訪れた。
 とはいえ廃都に一度入ってしまえば、外部からの支援は困難だった。金と要領さえ掴んでいれば廃都でも意外になんとかなる、とレンは考えており、自分自身の生活を成り立たせるために、それなりに廃都で奮闘した。
 レンほど順応性と行動力とバイタリティを、そして事前知識と金銭を持っていても苦労したのだから、何の予備知識もなく、心構えもなく、まさに身一つでそこに突然追いやられた朔という少年など、正直この廃都ではひとたまりもなかっただろう、と思った。無事に生きていられるとは思えず、その足取りを追うことも徒労に思えた。
 だが予想に反して、捜し求めるその少年は生きていた。外見の特徴と名前、そして廃都に現れた時期から、ついにレンはその少年を探し当てた。
 そして「サク」に出会った。
 顔写真そのものは見ていたが、これがあの少年かと目を疑った。見付け出したはいいが、もはやそこにいたのは、かつて「朔」と呼ばれていた少年とは別人だった。
 妖しいまでに強烈に人を魅了し、挑発し、誘うかのような色香と、底知れない闇を帯びた瞳を持つもの。指先にまでその毒と享楽が滴るほどの、まさに廃都の申し子。
 魔物モンスターとしか言いようのないその印象に、レンはらしくもなく圧倒された。そしてあっという間に、その魅力の虜になった。
 そしていつしか、サクの中にある、震えながら泣き続けているような、闇色の炎が燃え滾って自らの身を灼き続けているような、救いようのない苦しみに気がついた。
 元々レンは気楽な身だった。廃都も面白い、と思うようにもなっていた。頼まれたからではなく、サクのそばにずっといてやろうと決めることに、何もためらいはなかった。
 連れ出すべきなのだろうかと考えることは何度もあったが、どれほど身体を重ねて親しくなろうと、サクはレンに対しても、どこかで冷えた「一線」を引き続けていた。
 あのひやりとした冷たさは、レンに対してというよりも、他ならぬサク自身に対する冷めた諦観だったのだろう。希望を放棄し、何も望まないことで、サクはなんとか自分を支えて生きていた。そんなサクに「廃都を出よう」と言ったところで、下手をすれば逆上したサクに殺されていたのではないかと思う。事実レンは、あの夜サクに、一度は銃口を向けられたのだから。
 今も、何がそれほどサクを追い詰め、苦しめていたのかは分からない。サクは自分のことを、ほとんど何も話したがらず、話さなかった。
 サクは確かに、既に廃都の住人そのものだった。だがこのままでは、いずれサクは「廃都」に殺されてしまうと感じたレンは、意を決して自分の素性を明かし、廃都を出ることを提案した。苦しみながらも、サクも納得してくれた。
 ──まさにその矢先の悲劇だった。

 思い出すと今でも息が詰まりそうに苦しくて、サクのことを思う以外のことを考えられなくて、一週間経つのに涙が滲んだ。笑うことなど到底できなかった。
 廃都を出たレンは、俊の用意してくれた安ホテルにずっと引きこもり、ほとんど飲み食いもせず、半ば廃人のように過ごしていた。
 レンのその状態を、俊は電話口の声で察したのだろう。何があろうと笑って乗り越えてきたレンが、弱っている自分を取り繕うことすらできなくなっている。そのことが、俊に事態の深刻さを悟らせたのかもしれなかった。

 そして俊に招かれて、レンはサクがかつて暮らしていた家を訪れた。
「……今さらさ」
 大きな窓から見える、綺麗に整えられた初夏の庭を眺めながら、レンが呟いた。
「ほんと、今さらなんだよ。もうあいつは帰ってこねぇし。墓さえあいつにはなくて。あいつがあんな死に方したなんて、廃都の連中は、三日も経てば忘れちまう。もうなんにもねぇんだよ」
 乾いた声で言うレンの前に、俊が似合わず繊細な仕種で、カチリとティーカップを置いた。
「最低限の栄養と、水分だけは採って下さい。あなたまで倒れたらどうします」
 昔から俊は、他人行儀なほど折り目正しい喋り方を変えない。その声の端々が柔らかな喋り方が、レンは昔から好きだった。
「いっそ倒れちまいてーよ」
 思わず笑ったレンに、カップを置いたまま傍らに立っている俊は何も言わなかった。
「……大丈夫だよ。だって、ちゃんと腹減るし。食ってるよ。案外こんなもんだよ、人間なんて」
 あんなふうにサクを失って、いっそ気が狂ってしまえたらと思った。
 だが理性は頑強に根を張り続けていて、胃の中がからっぽになれば何か食べずにいられないし、喉が渇けば水を飲まずにいられない。こんなふうに図太く生き続けていることに、凄まじいまでの罪悪感を感じる。
「……あいつはあんなふうになっちまったのにさ。俺なんかこのザマだぜ。あいつを助けられなかったくせにさ。なんなんだっつーの」
「レン……」
「あいつはさ。……俺が殺したようなもんなんだよ」
 ずっと飲み込み続けていたその言葉を吐き出した途端、あふれた涙がぼたりとレンの膝の上に落ちた。
 その言葉に、俊がわずかに息を飲んだのがわかった。そりゃあこんな繰り言を言われたって俊も困るだろう。分かっていたが、一度そう切り出したら、もう止まらなかった。
 カッと頭の奥が熱くなって、サクが死んだあのときからずっと、無理やりに押し殺し続けていた感情が、噴き出すようにレンを揺さぶった。殴られたように目眩がして、思わず額を押さえ、金色の髪をぐしゃりと握り締めた。
「俺が引き止めて、連れ出そうなんてしなけりゃさ。そうしたら、少なくともサクはあのとき襲われなかった。死なずにすんだんだ。そもそもあいつがあそこまで追い詰められる前に、逃げようって決めてたら……最後のあの時、あいつを一人にしなかったらさ。俺のせいなんだよ。あいつがあんな死に方したのは。あいつを殺したのは俺なんだよ!」
 顔を覆って叫ぶと、レンは嗚咽した。あふれる感情を止めることができなかった。気も狂わず、図太く生きている自分が、憎らしくて仕方がなかった。苦しくて苦しくて涙が止まらなかった。
 ずっと黙って立っていた俊が、傍らから動く気配がした。顔を上げることもできず、レンは身を震わせて泣き続けていた。
 再び俊が戻ってくる気配がした。ぱさり、と何かが丁寧に目の前のテーブルに置かれる音がした。
「他のものはすべて処分されてしまったのですが。それだけは、隠し持っておきました」
 レンがしゃくりあげながらやっと顔を上げると、涙で滲んだ視界に、一冊の雑誌らしきものが置かれていた。
「……これ、何」
「朔様が高校一年のときの写真が載っています」
 その言葉に、レンは吸い寄せられるようにその少し古びた雑誌を見直した。
 レンにはよくわからないが、陸上競技を扱った雑誌であるようだ。商業的なものなのか、競技団体が作ったものなのか、それはわからないが。
 自分と出会う前のサクが、ここにいる。
 そう思うと恐いような気もした。今さら自分が、サクを殺した自分が、その存在にふれていいのかとも思った。
 だが、それを見てみたい誘惑に勝てなかった。
 恐る恐る伸ばした指が、震えながら、ページを繰り始める。付箋の貼られていたそこをめくってみると、インターハイ、の文字がすぐに目に飛び込んできた。
 有力選手を特集したものらしい、何人もの若々しい選手達の写真に混ざって、小さなサクの顔写真があった。かつて俊に見せられた写真の中にいたのと同じ、まだ廃都を訪れる前の、ごく当たり前の高校生にすぎなかった頃のサク。どれほど廃都という場所が「朔」という少年を変えてしまったのかが残酷なほど分かる、その写真。
 そして少し大きめの一枚の写真に、目が釘付けになった。
 朔という少年が、まさにバーを越えたその瞬間をとらえた空中写真。青空を背景に身をしならせて跳ぶ、思っていたように、思っていた以上に綺麗なその姿に、レンは目を離せなかった。
 じっとその写真を見つめていたレンの涙から、また新たな涙があふれた。
 ……サクはどれほど跳びたかったのだろう。もう跳べない、と呟いたかつてのサクを思い出す。
 バーを越える瞬間に見える青空が好きなのだ、と言っていた。青空と同じ色のレンの瞳を好きだと言ってくれた。
 うっとりしたようにレンを見つめる、あの黒い瞳を思い出した。少しけだるげな声で、レン、と呼んだ、その響きが耳元に甦った。
 たまらなくなって、また顔を覆った。サクに会いたくて会いたくて、また名前を呼んでほしくて、その身体を抱き締めたくて仕方がなかった。
「それは差し上げます」
 傍らに立ったままの俊が、静かにそう言った。
「……自分を責めないで下さい。あなたのせいではない。そういう巡り合わせだったんです」
 冷たいようにも聞こえるその言葉だったが、レンは知っていた。そういう俊だとて、そうやって淡々と構えているが、どれほど朔のことで苦しんでいるのか。
 そんな俊の言葉だからこそ、レンは素直に耳を傾けることができたのかもしれない。
「自分は朔様が小さな頃から見ていましたから。あの人がどういう人であるか、知っているつもりです」
 廃都に行き、大きく歪められてしまったにせよ。いや、歪められてしまったからこそ、その軋むような歪みに、本来の姿とのギャップに、自らひどく苦しんでいただろうことも。
「そうやって泣いてくれるあなたと会えて、一緒にすごすことができて、朔様は喜んでいたと思います」
 ひどく静かに、優しく、俊は続けた。涙があふれるのをレンは止めることができなかった。
 本当にそうなのか、と思う。サクは自分と一緒にいて、楽しかったのだろうか。幸せだと思ってくれたのだろうか。
「朔様のために泣いて下さって、あの方と一緒にいて下さって、ありがとうございます……」
 最後にそう言ってレンに頭を下げ、俊は口を閉ざした。
 レンはテーブルに肘をつき、顔を覆った。
 涙は涸れることを知らなかった。


 サクの家を後にしたレンは、あてもなく街を徘徊していた。
 泣きすぎたせいで頭が痛み、ぼんやりしていた。
 今日の空は曇っており、サクが好きだといったその色彩は見えない。身綺麗な人々が当たり前のように行き交う歩道、様々な形の車が流れてゆく車道。ディスプレイされたショールームが見えるビル。
 何もかもが当たり前でよどみがなく、サクという少年一人が消えたことも、レンが立ち直れないほど打ちのめされて一人ぼんやりと歩いているしかないことも、世界には何一つ関係がない。
 このままいつか、自分も立ち直って、生きていくのだろうか。そんなことをなんとなく思った。
 今こんなにも苦しくても、そのうち忘れてしまうのだろうか。サクの存在も。あの声もあの眼差しも、サクの苦しみも悲しみも何もかもを。
 会いたい。
 曇った空を見上げながら、締め付けられるようにそう思った。
 今会うことができたなら、自分はどうするだろう。すべてを捨ててもいいから、サクに会いたい。叶うものならば、会って抱き締めたい。そして問いかけたい。おまえは幸せだったのか、と。
 滲みそうになった涙に唇を噛み、振り切るように頭を振った。その視線が、向かい側の歩道をかすめた。
 ​​​──心臓が止まるかと思った。
 そこに、一人の少年が立っていた。流れてゆく車に隠され、また現れ。いつものようにモノクロの服を着て。
「サ……」
 サク。
 名前を呼びかけて、そんなわけがない、と頭がそれを打ち消す。
 こんなことがあるわけがない。サクがそこにいるわけがない。だってサクは死んだのだから。あの無惨な遺体を、この腕で自分は抱き締めたのだから。
 だがそれならば、そこにいる、その姿は何だ。
 ふらりと身体が動いた。確かめずにいられなかった。
 そんなレンを見つめて、道路の向こう側で、黒い瞳が悪戯っぽく、けれど少しだけ哀しげにきらめいた。
 その唇が小さく動いた。何を言ったのかは聞き取れなかった。
 世界が静止していた。
 自分が見ているものが、夢でも幻でも。それでも構わなかった。動いた足は無意識だった。
 何も考えずに、その姿に向かってレンは走り出していた。
 カン高いブレーキの音が響いた。


【 cats and dogs 了 】

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