蓮の章 第八のパンドラ(4)

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 サクはぼろぼろの車に押し込められた。
 走り出した車の中にいるうちに、拳銃を奪われ、後ろ手に手首を荒縄で縛り上げられた。まだ生傷の深いそこを容赦なく締め上げる荒縄の感触に、サクは猿轡の奥でくぐもった呻きを上げた。
 自由を奪われ、声を奪われたサクを、まわりの連中はニヤニヤと楽しげに眺めていた。
 見せ付けるようにナイフをちらつかされ、動くなと脅されるうち、車は停まった。
 それほど長く走ったようには思えなかった。髪を掴まれて引きずり下ろされた先は、ちょっとした広場のようになっていた。
 ひび割れたアスファルトに砂利がざらざらと転がる上に、サクはそのまま引きずり倒された。
 何人周りにはいるのだろう。数えようとしたが、うつ伏せになったその頭を力任せに踏みつけられて、顔を動かせなくなる。
「やっと捕まえたぜ。なあ、この化け物」
 笑みを含んだ低い声が、じりじりと頭をにじりながら降って来た。周りでいくつもの笑い声が重なる。まるで、そう。まるで初めてこの廃都を訪れ、カズヤに連れられ、野良犬のような少年少女達にはやしたてられながらナイフで追い立てられたときのように。
「なっかなか一人にならねえしよ。しかもてめえ、今度はエヴァンを垂らし込んだんだって? たいしたもんだぜ、そう次から次へと。いったいどうやってんだよ、ええ?」
 踏みにじられながら、サクはなんとか目を動かして、そう言って来る相手を、笑いながら自分を取り囲んでいる連中を見上げた。
 そうか、と思った。エヴァンが昨日サクを連れ去ったことを、彼らもどこかで聞きつけたのだ。
 サクが興味がなかっただけで、エヴァンはさながら廃都の王のように有名な存在なのだろう。そのエヴァンの庇護下にサクが入ってしまったら、完全に手出しができなくなる。そうなる前に、カズヤの復讐を遂げてしまうことにしたのだろう。
 結局こうなるのか。
 自分をがんじがらめにしていく真っ黒い何かを感じ、サクは笑った。
 逃れられると思った。この場所から抜け出せると思った。だがやはり、神様はそんなに優しくはなかった。
「何笑ってんだよッ!」
 その顔面を、力任せに鉄板入りの靴で蹴り上げられた。歯が折れて口の中が切れたのが分かった。
 ひどい痛みに震えるその背に、思い切り踵に体重をかけて足を振り下ろされる。サクは呻いて声を詰まらせた。
 ざわり、と周りが動いたのがわかった。まぎれもない殺気と憎悪を剥き出しに、身動きできないサクに詰め寄ってくる。獲物への距離を集団で詰めるように、輪になって。
「嬲り殺してやるぜ。カズヤの仇だ」
 誰かが低く低く言った。逆光になった鉄パイプや角材が振り上げられるのが見えた。

 リンチが始まってからどれくらい経ったのか、すでにサクには分からなかった。
 身動きを封じられた全身を、いいように殴られ蹴り上げられ、爪を剥がされ、わざと急所を外してナイフを突き込まれる。
 これまでの鬱憤を晴らすように、そして最終的に殺すことを目的にしている彼らのやり方には、まったく容赦がなかった。何度も体の中で、骨が折れる鈍い音が鳴った。激しい暴行に、噛まされていた猿轡もいつの間にか外れていた。
 全身が痺れるようで、火がついたように熱くて、突き上げるような猛烈な嘔吐感が駆け巡る。吐き出されるのは、すでに胃液ではなく血だった。
 すでに自分で立つこともできないサクは、無理に立ち上がらされ、近くにあった鉄柱にくくりつけられた。おそらくかつては街灯か何かだったのだろう。
 弱々しく咳き込みながら、その肩や腕、髪を後ろから押さえつけられてかろうじで立っているサクの前に、一人の少女が歩み寄ってくる。瞼が腫れ上がり、大きく狭まったぐらぐらと揺れる視界に立ったその姿に、どこかで見覚えがあった。
「キレイな顔して、ほんっと、あんたは悪魔だよ。まあせっかくのキレイな顔も、もう台無しだけどさぁ」
 少女は憎々しげにサクを睨みつけ、凄絶に笑った。周りからも笑い声が上がった。
 やっと思い出した。この少女は、かつてカズヤのところにいた少女……サクに一言二言の声をかけてきた、あの少女だ。
「あんたをカズヤと同じ目に遭わせてあげる」
 少女の手には、クレーンの先についているような形の鉤爪があった。鈍く陽光を受けて光っているそれに、サクはいったい何をされるのかと、完全に切れた息の中で考える。考えたが、一瞬意識が遠のいて思考が途切れた。
「がっ!!」
 突然、銃声と共に腹部に襲ってきた激痛に、サクは文字通り跳ね起きた。
 火がついたように、どころではない。燃え上がるように腹部が熱い。少女の手には、サクが持っていた拳銃があった。どうやらそれでサクの腹を至近から撃ったようだった。
「あ、が、が……ぁ」
 弱々しい呻きと共に、新たな血が口からあふれて、顎と喉を真っ赤に染めてゆく。
 がくがくと脚が震え、とても自力では立っていられなかった。のたうちまわりたい。気が狂う。今までのすべての痛みが可愛く思えるほどの激痛に、サクの奥歯がガチガチと鳴った。
「うがッ!!」
 もう声すら出ないと思っていたその喉が、しかし腹部に襲ってきた新たな衝撃に仰け反って声を吐き出した。少女が鉤爪の先を、銃弾で開いたサクの腹にめり込ませていた。ありえない激痛に、全身を滝のように脂汗が伝う。身体中が震えて、痛みのこと以外になにも考えられなくなる。
 自分に何がされようとしているのかを、もう認識できなかった。その鉤爪はワイヤーがついていて、それはオンボロの車に繋がっていた。ぐちぐちと腹にめり込まされたそれに、サクは息も絶え絶えに、浅く早い呼吸を繰り返す。
 レン。激痛の中に、それだけがあった。レン、会いたい。レン。どこにいる。
 鉤爪とワイヤーでつながった車が走り出した。ぐんっと引っ張られる感覚があり、内臓にからまされた鉤爪が、一気にそれをサクの腹腔から掻き出した。サクは意識の外で絶叫した。
 鉄柱から身体が離され、突き倒された。大きく裂けた腹から内臓と血を撒き散らし、ビクビクと痙攣している身体に、さらに血の色と臭いに狂った野良犬達が群がった。

 ああ、そっか。
 次第に痛みも衝撃も感じなくなる中、サクはぼんやりと思った。
 あんたもこんなに苦しかったんだな。そりゃ、殺してくれって言うよなぁ。でもさ、今俺も同じ目に遭ってるんだから。それで勘弁しろよ。
 仰向けに転がった視界に、かろうじで青空が見えた。
 ……もう一度、跳びたかったな。でも俺、こんなことになっちゃったから、もう無理だな。いろいろありすぎたし。神様ってのは、やっぱりちゃんと見てるもんなんだよ。
 頭に襲ってきた強い衝撃と共に、ブツッ、と、ディスプレイの電源が落ちたように視界を喪失した。真っ暗になって、何も見えなくなった。
 だがその何も見えないはずの暗い中に、鮮やかにもうひとつの青さが広がった。レンの瞳の色だった。大好きだった青空の色と同じ、レンの青い瞳。こんなにひどい自分を、好きだといって抱き締めてくれた。廃都を出て、一緒に行こうと言ってくれた。
 唇に軽くふれただけの最後のキスを、最後に見たレンの後ろ姿を、鮮やかに思い出す。
 ​​​──もういいよ。レン。
 また跳べるのかもしれないと思った。最後にとびきり甘い夢を見た。もうそれだけでいい。
 大好きだ、レン。
 遠のいていく意識の中で、サクは確かに微笑んだ。


 ようやくレンがそこを捜し当てたときには、すべてが終わっていた。
 ざわざわと人垣ができている。その向こうには、さらに小さな人の輪がもうひとつある。
 まさか、と、喉がカラカラになって全身が震えるような悪い予感と共に、レンはその人の輪に駆け寄った。
 人の輪の中心に、赤黒いものが倒れている。ふらふらとそこに歩み寄り、振り返るまわりのことも目に入らず、邪魔な誰かを力任せに押しのけた。
 人の輪の中心に、よく見れば人だと分かる、だがもはや顔の造形すら区別がつかなくなった歪んだ姿が転がっていた。泥に汚れ血に染まったその衣服から、かろうじでそれが誰であるのかが分かった。
 脈を取ってみるまでもなかった。ピクリとも動かない、血溜まりの中に倒れたその身体には、もう完全に息がない。
「……サク…………」
 呼びかけたら、喉が震えた。
 レンはその傍らに両膝を落とし、その無惨にすぎる遺体に手を伸ばした。指の骨は残らず折れ、爪がめくれている。手脚もおかしな方向に曲がっている。頭らしきところは大きく陥没し、腹を裂かれて内臓がこぼれていた。抱き上げると、ぐっしょりと血に濡れたその身体がぐにゃりと歪んだ。
 レンは言葉もなく、その身体を抱き締めた。意識を跳び越えて、熱湯のように熱い涙が吹き出し、頬を流れ落ちた。
 ……どれほど苦しかったことか。きっとその唇は、何度もレンの名を呼んでいた。
 ごめんと謝ることしかできなかった。守り切れなかった。サクを狙う連中がいることは分かっていたのに。守ってやることができなかった。殺しても殺しきれない嗚咽が洩れた。
「おい、レン」
 その肩に誰かの手が伸ばされる気配を感じ、レンはそれを思い切り跳ね除けた。睨み据える目に、周囲にいた者達がたじろいだ。
「……これ以上何をしようってんだ。もういいだろう」
 地獄の底から響くような低い声。それにひるみながらも、周りの連中が声を発した。
「よかねえよ、そいつを放せ。そいつはなあ……」
「黙れ」
 震える声で、レンは言った。絶対に放すまいと、サクを抱き締めながら。
「ここまでやったんだ。もういいだろうッ!!」
 怒鳴り付け、サクを抱いて立ち上がる。そして人垣を割って強引に歩き出した。
 その腕にある、廃都の人間からしても目をそむけずにいられないような無惨な遺体と、レンの鬼気迫る姿に、ざわめきながらも誰もそれを追いかけようとはしなかった。
 歩きながら、レンは抱き締めたサクに語りかけた。
 ごめんな。でもちゃんと連れ出してやるから。一緒にこの廃都を出ような。
 語りかけながらも、嗚咽が途切れなかった。
 ごめん。ごめんサク。こんな姿にさせちまって。呼んでくれたのに、来てやれなくてごめん。
 サクを抱き締めながら、震えながら、レンは泣いた。


【 蓮の章・了 】

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