Trance(3)

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 アリサの機嫌が日増しに悪くなってゆく。
 その原因は自分にあるのか他のことなのか、サクにはいまいち分からない。とりあえずアリサは、あれからサクの行動について何も言わない。
 だがアリサは常にどこか苛々とし、まるで憂さ晴らしのようにただサクをひどく責め立て、ことさらに泣き叫ばせようとする。そのくせ突然恐いほど優しくなって、ごく普通のセックスを要求してきたりもする。
 アリサの性感帯と刺激する加減を教え込まれているサクは、アリサにとって最高の性具だ。そこにはサク個人の意思も感情も存在しない。ならばサクがアリサと交わることは、セックスではない。自分好みに動く道具を相手にした、ただのアリサの自慰だ。
 だが肉体的に極端な負担を強いられるでもないその行為は、サクにとってありがたかった。内心の吐き気をこらえながら、サクはアリサに徹底して奉仕した。早く満足してくれれば、それだけ早くサクも休むことができる。サク自身同様に金のかかっているアリサの身体は白くまろやかに美しく、見慣れているサクでさえぞくりとするほど妖艶だったが、それに対して何一つ魅力を感じることもなかった。

 あるとき珍しいことに、ベッドの上で、アリサの方からサクのものを咥えてきた。サクを責め立てているとき嬲るようにアリサがそうすることは珍しくなかったが、ごく普通にベッドに横たえた状態でのそれは、記憶にあるうちではほんの数回しかなかった。
 頭は冷え切っていたが、身体は条件反射のように反応する。甘い汗を滴らせて白い肌をほんのりと朱に染め、全身をひくつかせてよじらせるサクに、アリサは何度も奉仕した。合間にはきちんとサクを休ませ、いつものように強引に勃たせて苦しみ悶えさせることもしなかった。
 何度か達して、ぐったりと豪華で柔らかなベッドに埋もれているサクを、アリサは柔らかな腕で抱き締め、頬にキスをした。それは普段より、ごくごく僅かに優しい仕種だった。
 モノとして扱われ続けてきたサクが、いつもと僅かに違うその感触に、ふいに黒い瞳を見開いた。
 ……この女。まさか。
 思いかけたことを、いや、とすぐに否定した。
 そんなことがあるわけがない。なぜならアリサにとってサクはただの犬であり、自慰道具であり、生身と感情という面白い要素を持つ「玩具」なのだから。そんな相手に、まさかそんなわけがない。
 だが一度そう思ったら、アリサの不安定なほどの感情の起伏に、妙に優しい仕種に合点がいった。それは身も心もすべて暴かれて弄ばれ続け、感覚のすべてを振り向けてアリサの機嫌を伺い、奉仕し続けてきた経験と記憶に培われてきた、心身を賭けての直感の賜物だった。
 一瞬だけ見開いた瞳を、アリサにそうと気付かれないうちに、また閉じた。
 頬から唇に与えられてきた口付けに応えながら、サクの頭がめまぐるしく回転し始め、そして胸の奥から突き上げてくるような笑いの衝動を必死にこらえた。だがどうしても、唇の端が笑みの形を作ってしまうことを抑え切れなかった。
 さっさと出掛けてくれ、と思った。爆笑したくて仕方がない。
 そして実際、アリサが出掛けてしまうと、サクは裸のまま豪奢なベッドの上でひとり笑い転げた。しまいには息が切れて喉がひきつり、笑いすぎて涙が出てきたが、カズヤを殺したあのとき以来今まで笑わなかった分を一気に埋め合わせるように、サクは笑い続けた。
 気付かれないとでも思ったのだろうか。それとも自覚もしていないのだろうか。アリサとしたことが、とんだ茶番だ。
 笑いすぎて息を切らしながら、サクは無意識のうちに上唇を舐めていた。
 アリサが自覚していないなら、尚のこと笑えるというものだ。あの女が、まさか自分に対して、生身の人間に対する執着を​​​──『愛情』やらというものを抱くようになっている、だなんて。
 こんなに笑える手札を、放っておく手立てはない。
 

 その日の夜から、サクは今まで以上にアリサに従順になった。決して不自然にならないよう殊更に大きく反応し、そしてアリサに不快感を与えないよう、絶妙に甘えてみせた。
 まさかと思ったそれが確信に変わるまで、さほども時間はいらなかった。
 アリサはサクを朝まで手放さないようになり、行為の後一緒に眠ることすらするようになった。アリサが出かけた後、ひとりベッドに埋もれたまま、サクはふわふわの大きな枕を抱えて笑い転げた。
 アリサとしたことが、笑える失態だ。よりにもよって飼い犬に惚れるだなんて。アリサとも思えない、なんともつまらないただの女に成り下がったものだ。
 壊れたように笑い続け、昼間でも薄暗いベッドの中で、サクは気が付いたら股間に手を伸ばして自慰していた。灼熱するようにそこが熱くて、乱暴にこすり立てて自分で自分をいたぶるように、何度も続けて達した。
 ぜえぜえと息を切らし、仰向けに転がりながら、サクはまだ笑っていた。
 ​​​──あの女。どうしてやろうか。
 まさかこんなふうに、あの女王のように自分の上に君臨していた女が崩れるなんて思ってもいなかった。いったいサクの何がお気に召したのか知らないが、カズヤのように追い詰めて追い詰めて奪い尽くしてやりたかったが、もはやあの女にはそれも必要がない。あの女は、既にサクに奪われているのだから。
 笑いながら、胸の奥底から吹き上がり、べったりと黒く塗りつぶしてゆくものを自覚していた。ベッドの天蓋を見上げるサクの黒い瞳に、深い地底でゆらりと燃え上がるような暗い焔が揺れた。
「……今頃、まさかさぁ。冗談、だよなぁ?」
 ​​​──どのツラ下げて。
 自分に惚れただと? 自分に心があることを分かった上で、その心を愉しむ為だけにさんざん踏みにじって嬲り抜いておいて。身体も意思も感情も、壊れるほどいたぶり抜いておいて。身も心もズダズダにしてきたくせに。
 今まで自分に対し何をしてきたのか、あの女は分かっているのか。
「……ッ!……」
 突然、猛烈な嘔吐感が突き上げてきた。サクは横を向いて身体を丸め、たまらず激しく吐瀉した。
 だが今日はまだ何も食べていない胃の中には、胃液くらいしかない。涙を滲ませ、苦しみながら繰り返し吐いて、ようやく少しずつ嘔吐がおさまっていった。
 汗で額や頬にべったりと張り付いた黒髪をそのままに、ベッドの上に身体を丸めたまま、サクは目の前にぽっかり開いた暗黒の闇を凝視した。それは自分自身の中にある闇だった。暗く暗く灼熱し、冷え切った、荒れ狂う凝縮された感情。かつてこれを見たのは、カズヤを殺したときだ。凝視するだけでますます息が上がって、奥歯が震えて音を立てた。
 ​​​──あの女。許さない。
 あの女の中にある自分への愛情が、自分を犯して穢してゆく。穢らわしくておぞましくて吐き気がする。これ以上自分の中に浸蝕してくるなんて許さない。この自分を愛しいと思うことなんて許さない。
「……殺してやる」
 シーツを握り締め、ぎりぎりと嚙み合った奥歯が音を立てた。力を込められすぎた歯茎から血が流れ出した。
 口の中に血の味を覚えながら、サクは心の中で繰り返した。これ以上自分を犯すな。穢すな。殺してやる。これ以上自分の中に、少しでも立ち入らせてなるものか。
 灼熱する感情に支配された頭に、レンの青い瞳は浮かばなかった。


 とびきりあの女を逆撫でし、言い逃れできない状況で暴いてやるにはどうしたらいいだろう。
 考え、カマをかけてやると、アリサは簡単に自分をさらけ出した。
 そこに到るまでにサクはあやうく死にかけるほどの目には遭ったが、やはりアリサはサクを殺すことはしなかった。そして簡単に崩れた。あまりのたわいもなさに、サクはひどく自分の芯が冷めてゆくのを感じた。
 ​​​──こんな程度の、こんなくだらない女に、俺は支配されてきたのか。
 暗く冷えて灼熱している怒りはおさまらない。だが、かつてカズヤにしたような貪り方をする気にも、既にならなかった。ただの女に成り下がったアリサなど、もはやただの言葉を喋る肉塊にすぎなかった。
 それでも、アリサの怒りと戸惑いとに醜くひきつれる顔を見るのは、少しは面白かった。サクに心を暴かれ、乱暴に身体を押さえつけられてまさぐられ、ベッドの上で乱れるアリサは、ほんの少しだけは面白かった。
 それでもカズヤを殺したときのような燃え上がり方は、サク自身にまったく訪れなかった。氷のように、頭の奥も身体の芯も冷めていた。
 衣服を着たままサクはアリサを弄び、それもいい加減飽きてくると、ベルトに突っ込んである拳銃を取り出した。
 この女を赦す、という選択肢だけはありえなかった。この女が生きていて呼吸をしていると思うだけで、吐き気がするほど穢らわしい。自分の世界から、この世から消え失せてもらわねば、あまりの穢らわしさに自分の気が狂う。
 アリサの美しい手脚を一本ずつ撃ち抜いていきながら、サクはカズヤのことを思い出していた。
 カズヤは、最後の最後まで落ちなかった。誇り高いほどの眼差しで己の身体を犯すサクを睨み返し、強烈な媚薬に翻弄されつつも自我を保ち続けた。サクに生きたまま腹を裂かれながら犯され、まさしく死んだ方がマシな苦痛の中で死を悟ったところで、カズヤはようやくサクの手の中に落ちてきた。
 あれに比べれば。アリサのなんて醜くたわいもなく、取るに足りないことか。
 とどめを刺してやる前に、サクはふと出来心を起こした。
「最後に、何か言いたいことがあるなら聞いてあげるよ」
 青ざめてひきつるアリサの額に銃口を押し付けたまま、優しくサクは問いかけた。
 どんな恨み言を吐いてくれるのか、とわくわくした。さんざん弄びながら挿入もしてやらないサクに、そして美しい肢体を滅茶苦茶にされて激痛にさいなまれることに、さすがのアリサも寝惚けたことはもう言わないはずだ。
 アリサの青白い顔が、面白いように歪んでいる。赤い唇が、ぱくぱくと何かの言葉を吐き出そうとしている。
 ​​​──さあ。言え。恨み言を吐いて死ね。裸に剥かれてこんなみっともない姿で嬲り殺されることを呪え。世界を、俺を恨んで呪って死んでいけ。
 アリサと接した中で、いちばん愉しい瞬間だったかもしれない。笑いながら見下ろす先で、しかしふいにアリサの顔つきが変わった。
 醜く歪んでいた表情がやわらぎ、サクをいたわるときに見せていた慈愛を含んだ微笑に変わる。ショックと痛みで気が狂ったのかと思ったサクは、しかし次の瞬間耳を疑った。
「​​​──​​​──」
 アリサの赤い唇から零れ出た愛を告げる言葉に、サクは硬直した。
 頭が真っ白になった。何を言っているんだこいつは、と思った。思い、その言葉の意味とアリサの表情を頭が理解した瞬間、サクの中で一瞬にしてすべてが凍りついた。
 そして暴発した。

 気が付いたら、原型をとどめない頭部を持ったアリサの死体が目の前にあった。
 ガチガチいう音がやけにうるさいと思い、ふと、それは自分が弾を撃ち尽くして空撃ちしている拳銃の金具の音だと気が付いた。
 血塗れのアリサを凝視しながら、サクは震え始めた。
 ……なんなんだ、こいつは。いったいなんなんだ。
 ここまでされて、なぜそんなことを言う。どうして必死で庇おうとする中に、どろりと浸入してくる。どこまで自分を苦しめれば気が済むのか。
 自分はこの穢れから、この吐き気がする穢れから、これで永久に逃れられなくなった。
 無意識のうちに右手が動き、自分の右の耳朶にふれていた。返り血でぬちゃりとした感触が返る。その中にふれる、硬質で小さなもの。
 血塗れの赤いピアスを、サクの白い手が耳朶ごと引きちぎろうと動いた。が、すんでのところで止まった。
 ……分かっていただろう?
 自分も、この女と同類なのだ。血塗れで醜く穢れ果てて、何一つ救いがない。死ねば間違いなく地獄に落ちる。分かっている。今さら、カズヤを殺して愉しいと思った自分が、今さら明るく澄んだ場所に戻れるわけがない。もうどこにも戻れるわけがない。そんなこと、もうとっくに知っていた。
 血塗れのサクの頬に、見開かれた黒い瞳から一筋だけ涙が伝った。
 声に出しては呼べなかった。だから心の中で呼んだ。
 ​​​──レン。
 今だけでいい。俺と一緒にいて。

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