一章 終の涯(三)

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 朱塗りの欄干が巡らされた渡殿に、どこからともなく薄桃色の花びらが舞い降りてくる。
「夜光」
 芳しい生花のほころぶ花瓶を手に歩いていた夜光は、そこを通りがかったとき、すらりとした立ち姿の人物に呼び止められた。
おさ様」
 振り向いた夜光は、瞬間のうちにかしこまる。
 夜光が丁寧に腰を折った先には、金糸で彩られた白い着物の上に淡い鴇色ときいろ長衣ながぎをふわりと羽織った、いかにも優雅な風貌の佳人が立っていた。
 細い長煙管を手に夜光を見ているその人は、まだ若いようにも、案外そうでもないようにも見える。金の瞳が磨き上げられた宝珠さながらに煌めき、銀の光を孕んだかの如く艶やかな黒髪は、腰を覆うほど長い。その髪の一房は、美事な金の髪飾りで留められていた。
 長、と夜光が呼んだ通り、その人はこの楼閣の長。そして、この美しく穏やかな街の長でもあり、守護者とも呼ばれる存在だった。
「今日も精が出ますねぇ、夜光」
 夜光の佇まいを眺めた長が、にこりと、やけに邪気のない笑みをたたえた。
 夜光が少し首を傾けて見上げる必要がある背丈、意外にしっかりとした肩幅は、その人が男性であることを示している。けれど、花が薫るような華やぎと柔和さを併せ持つ空気は、男女の別を超越している。
「ご機嫌麗しゅうございます、長様」
 丁寧な夜光の挨拶を受け、ふふ、と長は微笑した。麗人と呼ぶのがこの上なく相応しいその切れ長の目許には、左右にそれぞれ一筋だけ、あかい刺青が刺されていた。
「それに、今日もまた一段と悩ましくて綺麗だこと。溜め息が出るようですよ」
 てらいもなく言った長に、夜光はいつになく恐縮し、戸惑って視線をうつむける。積もり始めたばかりの雪を思わせる頬が、暖かな灯かりが落ちるように、仄かな朱に染まった。
「お……お世辞でも嬉しゅうございます」
「世辞なものですか。おまえ相手に世辞など言って、何の得があるわけでもあるまいに」
 おっとりと丁寧な口調で、けれど歯に衣着せず、長が言う。それはいつもながらの長の喋り方であり、長が声を荒げるところなど、未だかつて夜光は見たことがなかった。
 自分などよりも、長の方がよほど華やいで美しいというのに──心の中では反論しているが、けれど長に声をかけられ褒めてもらったことが嬉しく、それらは言葉にはならない。
 のんびりと煙管をくゆらせながら、長はそんな夜光の内心をすべて掌握しているように、可笑しげに笑った。
「ところで、マレビトを保護したと聞きました。その者の容態はどうですか?」
 穏やかに問われ、夜光は慌てて顔を上げた。
「はい。虚ノ浜に、かなりの深手を負った状態で流れ着いておりましたので……弱ってはおりますが、精氣を吹き込んでみましたら思いのほかうまく馴染んだようです」
「おや、それは良かった。では、もう快方に向かっているのですね?」
「まだ動くのは難しいでしょうが、そう心配することはないかと存じます」
「そうですか。人ひとりを助けたのですねぇ。それは良いことをしましたね」
 夜光の方が戸惑ってしまうほど嬉しそうに、にこにこと長は笑っている。長は歩み寄ってくるとおもむろに手を伸ばし、まるで小さな子供を褒めるように夜光の頭を撫でた。
「おまえのような綺麗で優しい息子を持って、私は幸せですよ。夜光」
 夜光のことを何くれと気にかけてくれる長は、「義理の息子」として夜光をここに引き取ってくれた昔から、ずっと変わらずこんな調子ではある。が、いい歳をしてまでこんな子供扱いが続くのは、さすがに夜光もこそばゆい。だがそれ以上に、嬉しい。
 それなのにこういうとき、夜光は何を言えば良いのか分からなくなり、いつもうまく言葉が出せなかった。
「そんなことは……たいしたことではありません」
「ひとつの命を、たいしたことではない、などと言うものではありませんよ。おまえにとっては造作もないことだったのかもしれませんが」
 優しい中にも芯の通った眼差しで言うと、長は生地の薄い長衣をたおやかに翻した。夜光の行く先とは別方向に歩き始める。
「何か困ったことがあれば、遠慮なく言いなさい。そのマレビトを客人としてもてなすように、皆にも伝えておきましょう」
「はい。ありがとうございます、長様」
「ああ、それから。その者をしばらく看る必要があるなら、その間は座敷に出なくても良いですよ。おまえはいつもよく働いていますから、たまには寛ぎなさい」
 後ろ姿だけでも秀麗で華やかな長は、そう言い残して渡殿を渡り、悠然と歩み去ってゆく。
 頭を撫でてもらったことの嬉しさと、見せてくれた気遣いに、夜光は去って行く長に深く一礼していた。

 壁は白塗りの漆喰、幾重にも重なった階層全体を巡る柱や梁には艶やかな朱塗りが施され、たくさんの回廊と渡殿が巡らされ、穏やかな街の一角にかなりの規模で鎮座している、この美しい楼閣。長に引き取られてからの夜光の住み処でもあるここの名を、「最玉楼さいぎょくろう」という。
 様々な妖達で溢れるこの街にも、「花街」と呼ばれるひときわ雅で艶めいた一角がある。奔放で享楽や性の歓びにおおらかな神々や物の怪たちは、皆気軽にこの場所に遊びに来る。最玉楼は、その中でもとくに大きな楼閣だった。
 夜光は、そんな最玉楼で暮らしている。最初は長に養子として引き取られ、やがて「花」と呼ばれる者、あるいは芸子となって──もうかなり長いこと、ここで生きている。

 座敷に出なくても良い、と言われた夜光は、素直にしばらく勤めを休むことにした。
 あのマレビトの世話を他に任せてしまうのも、夜光が独断で連れて来ただけに申し訳がない。この最玉楼の住人達は、長のおおらかで気風の良い性分を慕う者達ばかりだから、文句を言うものなど誰もいないと分かっていても。皆にも、それぞれの仕事があるのだから。
 果汁をたっぷり含んだ苺と薬湯を盆に載せて、夜光は楼閣の裏側にある私室へ向かった。
 最玉楼の華やかな楼閣側に比べ、ここに住まう者達が普段暮らす裏側の建物は、派手さのない落ち着いた佇まいとなっている。二階建ての部分と一階建ての部分があり、勤めの内容によって居住区域を分けられていた。
 最玉楼の広大な敷地には、美しい庭園や池が広がり、ここの住人達も憩うことができる造りになっている。夜光の部屋もまた、梅や桔梗、紫陽花に紅葉など、季節折々の落ち着いた彩りを見せる小さな庭の近くにあった。
 小春日和そのものの陽光が落ちる縁側を歩き、障子の閉まった自室の前に立ち止まる。着物の裾を押さえながらいったん両膝を落とし、盆を置いて、音を立てないよう障子を引いた。
 窓の障子も閉めてあるせいで、室内は少しばかり翳っている。その中心にのべられた寝床に、浜から連れて来たマレビトが横たわっていた。
 部屋は広くはないが、小さな床の間があり、そこには常に季節の花や植物を欠かさないようにしている。鏡や文机や箪笥に衣桁、自前の箏や琵琶など、必要最小限の家具と趣味のものが置かれた、ささやかな夜光の城だった。
 部屋に入り、傍に正座をして覗き込んでみると、身体中に巻かれた包帯は痛々しいものの、男の顔色は思いのほか悪くなかった。鎮静作用のある薬湯が効いたのか、よく眠っているようだ。
 そうやってまじまじと見た男の容貌は、目許や鼻梁が凛々しく引き締まり、なかなかよく整っていた。
 男の身につけていた甲冑は、ひとまず全て脱がせて保管してある。ぼろぼろではあったが塗装や細工のかなり凝った、家紋入りの上等なものだった。そして懐中深くには、家紋の入った見事な黒塗りの匕首あいくちが抱き込まれていた。
 きっと「あちら」での身分は、土百姓などではなく、かなり名の知れた一門の若君なのだろう。
 洗われて梳かれた長い黒髪が、その枕元に広がっている。浜辺で僅かに男が瞼を開いたとき、夜光を見返した瞳の色は、黒というよりも藍色か群青に近いような、透ける青みを帯びていた。
「……黒い、髪……」
 海の向こうから来たマレビトは、皆この男のように黒い髪を持っている。瞳の色も、深い淡いの差はあるが、ほぼ黒色だ。
 マレビトの象徴ともいえる黒髪を、夜光はじっと見つめた。その手が無意識のうちに持ち上がり、自身の着物の前合わせを押さえた。
 隙なく合わせた襟の下で、丸い手ざわりと、連ねられた水晶の珠と珠とがふれ合う、ちりりというかすかでさやかな音がした。
 ──人間など嫌いです。
 その響きに呼び起こされるように、まだ幼かった頃の自分自身の声が、耳の奥に甦った。
 ──人間なんて、みんな。嫌い。大嫌いです。みんな死んでしまえばいい。──
 そう言って泣きじゃくった幼い自分を抱き締め、なだめてくれたのは、養父である長だった。嫌いだと泣き叫ぶ夜光を少しも否定せず、良い匂いのする袖に抱き締め、優しく髪を撫でて。穏やかな声で「それで良いのですよ」と言ってくれた。
「…………」
 夜光はふぅっと、吐息と共に肩から力を抜いた。
 今は、これ以上思い出すまい。この男は、かつて自分が恨んだ人間達とはまったく関係のない者だ。「人間」を好きになることはできないが、無関係の相手をただ「人間だから」といって毛嫌いしていては、かつて自分が恨んだ人間達と同じになってしまう。
 首を一振りして、男が起きたら気が付くように、運んできた盆を枕元に置いた。苺くらいであれば食欲がなくても入るだろうし、一人でも摘んで食べやすいだろう。
 座敷には出ないかわりに裏方の雑事を手伝ってこようかと、夜光は腰を上げかけた。
「…………う……」
 そこに、男から声がした。
 夜光の気配を感じたものか、男が眉根を揺らす。上掛けの中で身じろぎし、顔を歪めてさらに呻き声を洩らした。男の瞼が薄く持ち上がり、天井を怪訝に見渡した。
「……こ、こは……?」
「無理に動いてはなりません」
 夜光はそっと身を乗り出し、男が動かしかけた肩をやんわりと押さえた。
「いッ……なにが、どう……俺は……」
 男が痛みに呻きながら、腕で身体を押さえ込む。夜光はなだめるように言葉を続けた。
「私は、倒れていたあなたをお助けした者です。手当てはしましたから、何も心配はいりません。もう大丈夫ですよ」
 男はなかなか視界が定まらないように目をしばたかせながら、ようやく夜光に視線を巡らせた。急に大きく動かないように夜光は身を乗り出して押さえていたので、自然と互いの視線は、かなりの至近距離で交わることになった。
「……は……」
 途端。男の目がみるみる見開かれた。
「おまえは、いったい……?」
 まだどこか茫洋とした、青みがかった瞳が夜光を見つめる。無理もない。頭がまだあまりはっきりしていないのだろうし、男のいた場所では、夜光のような色の髪と瞳を持った者などいなかっただろうから。
 驚かせてしまったか、と夜光が思ったとき、男が包帯だらけの腕を持ち上げた。まともな身動きすらつらいだろうに、身を乗り出している夜光の腕を掴むと、ぎこちなく起き上がる。
「あ。まだ、動いては」
 腕を引かれて身がかしいだ夜光が、言いかけながら咄嗟に布団に手をついた。いっそう至近に寄った距離から、男が夢でも見ているようにぼんやりと口を開いた。
「……なるほど、俺はやはり死んだのか。しかし、このような見目麗しい天女が迎えてくれるなら、死ぬのもそう悪い話ではないな」
「は?」
 かすれ気味の声ではあったが、意外にはっきりと喋った男に、夜光は色々な意味で瞬いた。何か頓珍漢なことを男は言っている。
 だが夜光が言葉を発するより先に、夜光のすべらかな頬に男の掌がふれた。そこにさらりと落ちかかった乳白色の髪を、指で梳く。
「こんな髪は見たことがない……何色というんだ、これは……まるで淡く輝く月光を寄せ集めたようだ」
 溜め息のような呟きと共に、夜光はさらに引き寄せられた。気がつけば男の手は、はしっとばかりに夜光の手首を掴んでいる。下手に動かして傷を痛めさせるわけにもいかないので、夜光はとりたてて男を払いのけようともしなかった。
「お上手ですね。それほどこの髪が珍しいですか」
「髪ばかりじゃない。その甘い桜桃のような唇をさらっても良いだろうか」
「桜桃ですか? ……さあ、それほど甘いものかどうか。お試しになりますか」
 完全に自分に釘付けにされたらしい男の様子に、内心徐々に可笑しくなってきた夜光は、その青みがかった瞳を見返しながら、しっとりと微笑んだ。
「試しても良いのならば、ありがたく摘んでみよう」
 躊躇いもなく、唇に唇が重なってくる。かたち良くやわらかな夜光の唇に、乾いてひび割れた男の唇は、幾分ちくりと感じられた。
 少しの間ふれただけですぐにそれは離れたが、男の瞳はますます惚けたように夜光の瞳を見つめていた。
「……この世のものとも思えない甘さだ。その瞳も、まるで極上の紫水晶だな。こんな瞳は見たことがない……吸い込まれるようだ。美しい……」
「左様でございますか。それは、ありがとう存じます」
 落ち着いて返すと、男が相好を崩した。まるで幼子のように、嬉しそうに満面の笑顔になる。するとまるであたりまで明るくなったような気がして、夜光は思わずまじまじと、男の顔を見返してしまった。
「うん。これは死んでみるものだな、悪くない。おまえの名はなんと言う?」
 嬉しそうに問われて、夜光はとうとうこらえきれなくなった。口元を押さえ、ぷっ、と小さく吹き出す。
「おまえさまは、何か勘違いをしておられるよう」
「む、どうした。何がおかしい?」
 きょとんと問うてきた男に、夜光はあえかな笑みを浮かべたまま、紫色の瞳を流した。
「おまえさまは、残念ながら死んでなどおりませぬ。しかと生きておられます。それから、私は天女ではありませぬ。ひとを惑わせる『花』でございます」
「は?」
 男がぽかんと、目を丸くした。顔立ちそのものは凜々しいほど、身体はすっかり大人のようであるのに、そんな表情がやけに幼い。だがそれが、妙に不快ではない。
 夜光はすいと男の前から身を引き、緩んだ男の手を柔らかく退けた。
 唖然としている様子の男の前に膝で立ち上がり、その両の頬についと指を伸ばす。
「……おまえさまは、随分と可愛らしい御仁のよう」
 男の頬を細い指でやわらかく挟み、今度は夜光の方から、ごく軽く、優しく唇をふれさせた。ひび割れてちくりとする、男の唇に。
 男の顔がさらに間の抜けた様になったのが、夜光にはますますおかしかった。
「まだしばらくは、お身体をおいとい下さいませ。命の心配はいりませんが、かなりの手傷を負っておられますゆえ」
 着物の裾を押さえながら立ち上がり、やんわりと男に言った。
「あ……おう。……え?」
 夜光の言葉に釣られるように頷きかけた男が、ようやくそこで我に返り、慌てて声をどもらせた。
「ちょ、ちょっと待て。今なんと言った? どういうことだ。まさか、俺は生きているのか?」
「はい。ついでに申し上げますと、ここには天女はおりませぬが、あながち悪くもない場所と存じます。おまえさまのいた場所とは、いささか異なりはしますがね」
「は……?」
「今はとにかく、お身体を癒やすことです。また様子を見にまいりますから、ゆっくりとおやすみなさいませ」
「あっ……ちょっと待ッ……いたたっ」
 歩き始めた夜光に、男が慌てて立ち上がろうとしたが、傷が痛んだらしく呻いた。障子を開けたところで、夜光はそれを振り返った。
「それから。私の名は、夜光と申します。あいにくと男ですが、おまえさまの怪我が治るまでお世話をさせていただきます。……それでは」
 呻いている男の返事を待たず、夜光は部屋を出ると、ぴたりと障子を閉めた。
 どうしてか、妙におかしい。子供のように呆気にとられていた男の顔が脳裏にまたたいて、歩き出しながら、くつくつと笑い出してしまった。
 庭のどこかにいる目白メジロ青鵐アオジの軽やかで美しい囀りが、のどかな木漏れ日の中に響いていた。

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