二章 月の魔性 (十一)

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 締め切った丸窓の障子に、蒼い月影がかかる。いつもの控えの間にひとり立った夜光は、湯浴みをしたばかりの肩から、さらりと浴衣をすべり落とした。
 蒼い障子の前に輪郭を浮かび上がらせる処女雪の如く白い裸体は、骨の形が分かるほど華奢で肉付きが薄い。
 いつものように客を迎えるための華やかな衣装に着替え、衣紋を抜いて腰帯を締めた。着替える間は鏡台に置いておいた水晶の数珠を、白い指に絡めて取り上げ、細い首に下げる。
 しゃらりと掌に持ち上げた数珠を、月光を帯びてうっすらと輝くような、だが闇を覗くように沈んだ瞳が、じっと見下ろした。
 数えて百個連なる粒の小さな水晶に、それらを均等に挟んで配された大きめの十の粒。大珠のうちの二粒は、細かい無数の皹が入って白く濁っている。
 珠の連なりを無表情に見つめていた色の淡い唇が、ごくうっすらと口角を持ち上げた。


 貴彬と身を重ねたまま同じ臥所で眠り、東の空が白々と明るくなってきた頃、夜光は目を覚ました。
 早起きな鳥達が、まだ控えめに囀りを交わしている。自分の隣で眠っている男の姿を、夜光は白い睫毛をゆっくりと瞬かせて確認すると、静かに身を起こした。そっと手を伸ばし、傍らに散っていた白い襦袢を引き寄せ、羽織る。
 その気配に気付いたのか、貴彬が閉じていた瞼を揺らした。眠たげな目が開き、まだ蒼い夜陰に沈んだ室内を見渡した。
「もう朝か……早いな」
「はい。おはようございます、貴彬様」
 夜光が前襟を寄せて肌を隠しながら、貴彬に微笑む。その姿に貴彬は腕を伸ばし、臥所に引き込むように抱き締めた。
「夜明けが恨めしい。このままずっとおまえと共に居たくなる」
 夜光は抱き締められるまま、貴彬の胸元に身を寄せた。
「私もお名残り惜しゅうございます……朝など来なければ良いのに」
 哀しげに呟いた夜光の乳白色の髪を、貴彬の手が梳き、その形の良い額に優しく口付けた。そのまま何も言わずまた抱き締められ、夜光は淡雪が光るような睫毛を閉じた。
 そうしていくらかの時間が流れた頃。貴彬がふと呟いた。
「身請けの話があると聞いた」
 それは抑えられ、普段の声よりも静かなほどだった。
 夜光が身じろぎ、貴彬の顔を見上げようとする。それを遮るように、貴彬がいっそう夜光を抱き締めた。
「どうするつもりなんだ。おまえは」
「貴彬様……」
 夜光は囁くような声で、その名を呟く。寝起きのせいか、普段より少しかすれ、いっそう聞いた者の耳朶に切なく沁みるような声だった。
「まだ、分かりません。でも、悪いお話ではありません」
 まるで暗闇に積もった新雪を踏むように静かな声音で、夜光は続けた。
「最玉楼にとっても、良いご縁です。少なくとも私がお相手の元に行けば、ますます最玉楼は……終の涯そのものも、いっそう安泰かと」
「そうか」
 貴彬は呟き、また沈黙が降りた。僅かずつ、ほんのりと明るくなってゆく障子の向こうから、鳥達の囀りが響く。
 と、不意に強く、貴彬が夜光を抱き締めた。
「このままおまえを連れて逃げてしまえたら良い」
 思い詰めた苦しげな声音と、まるで閉じ込めておきたいというように強く強く抱き締める腕。夜光はなすがままに、貴彬に身を寄せた。
 やがてその腕が緩んだ頃、夜光は何も言わずにそっと貴彬の胸を押しやった。直垂は脱ぎ去り襦袢をはだけた貴彬の胸板は、細く見える印象以上に、意外に厚かった。
 襦袢をかき合わせるようにしながら、夜光は身を起こす。その様子をひどく切なげな目で追いながら、貴彬も起き上がった。
 夜光はうつむき、かき合わせた前襟を、きゅっと握り込む。その白い指が、かすかに震えていた。
「……そうしては下さいませんか」
 やがて呟いた夜光に、貴彬が「え?」と瞬いた。
「私を連れて……逃げては下さいませんか。貴彬様」
 その白い指と同じよう、少し震えた声音に、貴彬が凍り付いたように夜光を凝視した。
 貴彬は何度も口を開きかけ、だが躊躇い、きつく唇を噛んだ。張り詰めた沈黙の後、貴彬は強張った肩を落とす。落ち着いた、だが少し無理に作ったような上ずった声で言った。
「何を馬鹿なことを言う。そんなことをすれば、それこそ最玉楼にもこの終の涯にも、大変な迷惑がかかろう」
「どうせここは、長様が取り仕切る街。長様さえおられれば、最玉楼も終の涯もなんとでもなります」
 思いあまったように、夜光は口走った。うつむき、自分を抱き込むようにした腕が震えている。常におっとりと構え、淡雪のように物静かな夜光からはついぞ聞いたことの無い強い声に、貴彬が呼吸を詰めた。
 だがそれでも、問いかけた声音は静かだった。
「それで良いのか、おまえは。おまえにとって長殿は大恩ある御方。そしてここは、何より大切な場所だろう」
 今度は夜光が息を詰める。いっそう深くうなだれ、白い髪が前に流れ、障子を透かす黎明の月光を受けて細いうなじが光った。
「良くは……ありません……けれど……」
 途切れがちに答えたその声が、震えた。ぱたりと、寝乱れた褥の上に光る滴が落ちた。
「それでも、私は……貴彬様と一緒に居とうございます……」
 それを見た貴彬が、一度呼吸を止め、殊更ゆるゆると吐き出す。その腕が動き、夜光を引き寄せた。白い頬を包むように掌を添え、顔を上向かせる。青みを帯びた薄明かりの中、夜光の紫の瞳も白い頬も、あふれる透明な涙に濡れ、それはあまりに儚く美しかった。
「夜光」
 きつく、貴彬が夜光を抱き締める。もう片時たりとも放したくないというように。
「貴彬様……」
「分かった。おまえを連れて、何処へなりとも往こう。おまえが居るならば、俺も何も惜しくない」
「貴彬様」
 夜光もまた、貴彬を抱き締める。二人はそのまま幾度も唇を重ねた。涙に濡れた夜光の頬を、乳白色のやや乱れた髪を、貴彬は愛しげに、何度も撫でた。
 ひたりと身を寄せ合い、囁くように二人は言葉を交わした。
「今宵は私は、勤めがありませんので……抜け出すのなら今夜です」
「今夜か。急な話だ」
「難しゅうございますか」
「いや。案ずるな。おまえが荷を抱えてここを出ると目立つだろうから、持ち物は最低限に出来るか。必要なものは俺が用立てておく」
「わかりました。それはおまかせすることにします」
「それで、何処へ往く?」
「ひとまずは蓬莱へ。妖ばかりの他の異界よりは良いでしょう」
「蓬莱か……まあ向こうなら、俺も勝手が分かる部分は多い。もう五年もご無沙汰だが」
 軽く笑った貴彬に、夜光もようやく、まだ涙ながらにほんのりと微笑した。
「貴彬様の故郷に赴けるのですね」
「故郷といっても、聞いた限りもう俺の知らぬ世界だ。俺の生まれ育った国ももう無い。五年のうちに、世の姿も大きく変わっているらしい」
「それでも、蓬莱へ赴けるのは楽しみでございます」
「物見遊山ではないぞ。して、足の手配は如何する」
「蓬莱と行き来している商船の船頭に知り合いがおります。以前もお忍びで遊びに行くときに乗せていただきまして……お願いしたところ、今夜遅くに発つ船に乗せていただけると」
「抜け目が無いな。俺が断るとは思わなかったのか」
「そのときは、傷心の旅に出るつもりでした」
 冗談めかした小さな笑いがこぼれ、互いに軽く、戯れるようにまた唇を合わせる。
 額を寄せ合い、低く二人は囁き合った。
「……では、落ち合う場所と時刻は?」
「暮れ六つの頃に、玉襲たまがさの祠でお待ちしております」
「玉襲の祠?」
「はい。あそこは廃れてかなり経ちますから。そんな時分に、誰もいらっしゃいませんでしょう」
 囁いた夜光に、貴彬はしばし考え、分かった、と頷いた。

 いつもと同じように、何事もなかったように身支度を整えた貴彬を、夜光は畳に指をついて送り出した。
 貴彬を見送ると、白い襦袢を緩く羽織った姿で窓辺に発つ。静かに障子を払った外の世界は、未だ払暁。東の果てからゆっくりと日華の兆しが昇り始め、群青の空がようやく朱金に明け初めてゆく。
 その白く薄い胸元に掛かった水晶の数珠が、きらりと曙光を反射した。
 無表情に空の果てを見る紫の瞳は、薄氷の張る泉さながらに冷え冷えとしていた。


 狙い定めたはずの矢が、見事に巻藁を逸れて地に落ちた。それを見て、葵は軽く舌打ちした。
「話にならんな」
 弓を下ろして溜め息をつく。狙えば狙うほど、的を逸れてゆくのが不思議だ。しかし今日は、我ながら集中していないのはよく自覚していた。
 ここに来れば無心になれるかと期待したが、そんな甘いものではなかったらしい。むしろかつての蓬莱での師匠にこんなありさまを見られたら、そんな状態で弓を引くとは何事か、と叱り飛ばされそうだった。
 今日のところはもう諦め、弦を外した。弓を弓袋に入れて担ぎ、道具一通りを持って納屋に行き片付ける。
 近頃は陽差しが徐々に強くなり、直射日光の下で身体を動かしているとかなり汗をかくようになっていた。どうも気分が晴れないこともあり、気分転換もかねて湯殿に向かった。
 最玉楼の表側、いわゆる本館には、客用の大小様々の湯殿がある。葵が向かったのは裏側の、従業員用の湯殿だった。従業員用とはいえ広々とし、表側と同じように、効能の違う何種類もの湯が、浴槽や露天風呂には満ちている。少し離れたところには、のんびりと景色を眺めながら寛げる足湯もあった。
 汗を流して少し熱めの湯につかると、いくらかは気分もすっきりした。風呂から上がって柳色の長着を身につけ、姿見の前に立ってみる。そこにいる自分の姿を、葵は何とは無しに眺めた。
 濡れていても鮮やかな朱色をしていることが分かる髪が、肩から長く流れ落ちている。瞳の色は青みがかり、黒というより明らかに群青に近い。
 自分を取り立てて不幸だと思ったことはないが、生まれ持ったもののせいで敬遠され、眉をひそめて分け隔てられるのは、哀しく悔しいことではあった。こちらに来てからいちいち外見に気を遣わなくても良くなったことは、葵を気楽にすると同時に「あちら」から隔てられてゆくようでもあり、それもまた複雑な寂しさがあった。
 自分よりもいっそう顕著な「人外」の姿を持つ夜光は、幼い頃は蓬莱にいて、人間達から恐れられ、土蔵に閉じ込められていたといっていた。聞いているだけでもつらくなる、哀れな話だった。
 夜光の中に人間を嫌い、恐れる気持ちが根強いことは、人間である葵としては残念に思う。が、仕方の無いことだとも思う。自分を通し、いつか夜光の中で、人間に対する感情が和らいでくれることがあれば良い。傲慢かもしれないが、そんなふうにも思った。
「姿形が違うことより、心の有り様の方がよほど大事だ……」
 人間と妖と、根本から異なるところは勿論あるだろう。だが「異なること」が互いを隔てる垣根になるのではない。人間同士だとて、分かり合えぬ者はいるのだから。
 無意識のうちに、どうしても夜光のことばかりを考える。構ってくれるなと言わんばかりのふわりとした拒絶は、どこがどうとはっきり言えるものではないだけに、かえってたちが悪かった。葵は夜光に好かれている、と火月や水月が言ってくれても、肝心の夜光があの調子では、その自信もなくなってくる。
 じわじわと気落ちしてきて、葵は考えるのを無理に中断した。
「いかん。ろくなことを考えん」
 葵は重い気持ちを少しでも切り離すように首を振り、まだ濡れている髪を拭きながら脱衣場を出た。
 歩いてゆくと、縁側には黄昏の気配を帯びた光が差し始めていた。ここに来た頃に比べ、随分日が延びたなと感じる。桜が散ってから、目に見えて終の涯でも季節が初夏に向かいつつあるのが分かる。
 動けるようになってからは、食事の膳は自分で厨房に取りに行くことになっていた。部屋に戻って一息ついた頃に取りに行けば、ちょうど良い頃合いだろう。
 葵はいったん自室に向かうと、障子を開け放してある部屋に入って行った。

 背の中程よりも長い髪は拭いてもなかなか乾き切らず、葵は髪を下ろしたまま脇息に凭れ、書見台に開いた書物に目を辿らせていた。
 読み始めて少し経った頃、どこかで障子が開く音がした。その音が、この部屋の二つ隣、つまり夜光の部屋から聞こえたことを、葵は聞き分けていた。
「おや。いたのか、夜光」
 障子は閉まっていたし、てっきりいないものと思い込んでいた。開け放したままの障子まで移動し、縁側に顔を出した。
 この並びには部屋がいくつかあり、縁側が長く真っ直ぐに続いている。そこを歩いてゆく、芯がすらりと通った綺麗な印象の後ろ姿が見えた。肩口で切り揃えた乳白色の髪は、離れていてもすぐに夜光だと分かった。
「珍しいな、こんな時間に」
 夜光が勤めに戻ってからは、こんな時間にこんな場所で見かけたのは初めてだった。最玉楼は夕刻から賑わい始めるから、座敷に上がるのであればその支度に忙しい時間帯のはずだ。
 ということは、今日は夜光は休みなのだろうか。座敷姿を見たことはないが、歩いてゆく夜光の着物は普段通りで、あれで座敷に上がることはないように思えた。
 夜光と少しでも話したい気持ちがこみあげて、しばらく迷った末に、その後を追っていた。だが離れているので、駆け寄りでもしなければなかなか距離は縮まらない。その上「避けられているのかもしれない」ということが、どうしても葵を臆病にする。
 結局たいして距離は縮まらず、話しかけることも出来ないまま、夜光を遠巻きに追うような格好になってしまった。
「何をやってるんだ、俺は」
 自分に呆れつつ、そのまま従業員用の通用口から外に出てゆく夜光の後について、気が付けば最玉楼の裏門まで来ていた。
 空を見ると、かなり赤みが増しつつある。裏門とはいえ造りは堅牢かつ豪奢で、夜光は閉ざされた門扉ではなく小さな脇戸に向かってゆく。その淡い色の着物を纏った白っぽい姿は、陽が暮れてゆく中でも見分けやすかった。
 夜光は脇戸をくぐる前に、ふわりと頭から薄手の被衣かつぎをかぶった。静かに外へと出てゆく姿を見送り、葵はしばし頭を悩ませた。
 こんな時分に裏門から、しかも顔を隠して、夜光はいったいどこへ行くのだろう。あとを尾けて行きたい気持ちと、しかしそれはさすがに趣味が悪かろうという自制心とがせめぎ合う。
 だがうかうかと悩んでいれば、迫る夕闇にすぐに夜光の姿を見失ってしまうだろう。葵は、夜光のことを少しでも知りたいという誘惑に負けた。
「すまん、夜光」
 後ろめたさを振り切り、夜光が出て行ったのと同じ脇戸を開いて、葵も最玉楼の外へと出て行った。

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