二章 月の魔性 (十二)

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 脇戸から外に出て見回すと、幸いすぐに夜光は見つかった。だがその白い後ろ姿は既に遠く、葵は慌てて、だが慎重に、その後を追いかけた。
 街には朱を増し始めた夕陽がかかり、夕凪の中に妖達が賑やかに行き来している。元来妖は、日中よりも夕暮れから夜間の方が活発になる性質のものだ。昼間の終の涯も賑やかだが、とくに歓楽街は夜の方がいっそう明るく、活気に満ちる。
 その中に葵の気配も簡単にまぎれ、夜光を追っていくことはたやすかった。適当な距離を保って、さり気なく物陰に寄り、白い後ろ姿を見失わぬようについてゆく。武芸を嗜む中で己の気配を出来るだけ絶つことを覚えていたのも、思いがけず役に立った。
 こんなふうに身を潜めながら着いていくと、ますます罪悪感がこみあげてくるが、どうしても夜光が気にかかる。近頃の夜光は、何を考えているのか分からない。だからといって後を尾けるような真似が許されるのか、と言えば許されないのだが、ここまで来た以上引き返せない思いもあった。
 夜光はひっそりと雑踏にとけこみ、迷うことなく歩いてゆく。次第に大通りから遠ざかり、路に灯火の明るさよりも夕暮れの暗さがまさってゆく。
 既に自分が何処に居るのか葵は分からなかったが、振り返れば夕闇の中、遠くに明るく浮かび上がる最玉楼が見えた。どこに行っても、ひとまず帰ることだけはできそうだった。
 やがて周囲から人気ひとけが完全に失せ、路はいよいよ寂れていった。空の藍が次第に深まり、いつの間にか夕凪が緩い夜風に取って変わっていた。
「いったい何処に……?」
 葵はますます慎重に、距離を取り気配を消して、夜光の後についてゆく。そのうち竹藪が見え始め、その傍らの物寂しい路を夜光は進んでいった。竹藪は手入れされている様子がなく、荒れた印象で、うら悲しいような虫たちの声が聞こえてくる。
 その竹藪の中へと折れ曲がる小路に、やがて夜光は逸れた。そっと覗き込むと、小路はさして行かずに突き当たり、そこには今にも崩れそうな朽ちかけた鳥居と石段が見えた。
 角度的に夕陽も差し込まず、一切が息絶えひっそりと闇に沈んでいくような不気味さがあった。夜光はその鳥居をくぐり、石段を登ってゆく。
 今にも何か出そうで思わず腰が引けたが、その姿が完全に見えなくなってから、意を決して葵も小路に入った。
 竹藪に囲まれた石段は、苔むして崩れかけ、ところどころ土が覗いていた。石段を見上げるとすぐに頂きが開けており、暮色の空にちらほらと明るい星がまたたき始めているのが見えた。
 朽ちかけた鳥居の傍らをよく見ると、今にも崩れそうな小さな碑があった。かろうじで読み取れた文字には「玉襲之祠」と記されている。
 こんな処に、何の用なのだろう。
 この様子からして、この祠はすっかり廃れているようだ。人外の住むこの街にも、やはり神々やそれに属するものを祀るこういった場所があるのが意外だったが、「神」と呼ばれるほどの存在を畏敬する習慣があることは、妖達も変わらないのだろう。
 ここを登って行ったら夜光に見咎められるかもしれなかったが、そのときはそのときだと、もはや開き直った。身を低め出来るだけ隅に寄り、そろりそろりと石の階を登って、境内を覗き込む。
 いよいよ夕闇が深まり、西の空は今や生き血を流したように赤い。沈みゆく太陽のかわりに、鈍い鉄錆色を帯びた昇ったばかりの満月が、東の空に浮いていた。
 荒れた印象の境内には、ひび割れた石畳が続いている。少し行った先に、今にも屋根が抜けそうな祠堂が建っていた。竹藪に半ば囲まれ、竹藪のない側は、どうやら荒れるに任せているように雑草が茂っている。
「……いないな」
 ざっと眺めたところ、夜光の姿は見えなかった。息を詰めて慎重に見回し、動く影がないことを確認して境内に上がる。
 何はともあれここにいるよりは身を隠しやすかろうと、素早く祠堂に忍び寄った。
 いかにもうち捨てられた荒れ放題の祠堂は、今にも物の怪か何かが出てきそうだったが、よく考えれば物の怪になら毎日会っているじゃないかと苦笑した。中に誰もいないことを確認してから、その崩れかけた壁の陰に身を潜めた。
 と、その祠堂の向こう側から人の声らしきものが聞こえてきて、葵は飛び上がりそうになった。
 一瞬見付かったのかと思ったが、人の話し声はかなり遠く、近付いてくる様子もなかった。
 耳を澄ませて声の方向を確認し、祠堂の陰からそっと覗く。そして目を瞠った。
「夜光と……貴彬殿?」
 暮色と月明かりとが入り交じる中で向かい合っているのは、確かにその二人だった。
 貴彬の姿はいつものような直垂に袴姿ではなく、小袖に括袴くくりばかま脛巾はばきと、随分身軽で質素だ。二人の足下には、藺草で編まれた笠がふたつ。それから、それぞれが持ち運べる程度にまとめられた荷物が置かれていた。
 それらを見た瞬間、すべてを察した。思わず吸ったそのまま、息が止まる。
 二人が何を話しているのかは聞き取れない。だが親密な距離に佇んでいた二人が、どちらからともなく身を寄せ抱き締め合うのを見て、葵はやっと詰めていた息を吐き出した。
「……そうか。……そうだったのか」
 何か虚脱したような思いで視線を外し、祠堂の壁に背を凭れて呟いた。夕暮れの最後の残照が長く二人の影を地面に引き、視界の隅にかかるそれからも、思わず目を逸らした。
 先日葵に告げた通り、貴彬は夜光に対して行動を起こしたのだろう。その結果、二人は今夜ここで落ち合うことになったのだろう。──おそらくは何処かへ駆け落ちするために。
 貴彬の言動を思い出し、彼なら自分と違って手をこまねいていることはしないだろう、と納得してしまった。そして驚きすぎたせいか、奇妙に淡々と頭が巡った。
 蓬莱では遊女の足抜けは大罪だったが、こちらではどうなのだろう。根本的に向こうとは異なる世界だから、そう罪に問われることはないのかもしれない。
 だが、夜光はそれで良いのだろうか。いかにこの終の涯が広大とはいえ、広く顔も名前も知られた夜光が、駆け落ちした後もここに住めるとは思いにくい。
 であればこの終の涯を出て行くしかないが、あれほど育ての親である長を敬愛し、この街を深く愛しているようだった夜光が、それを善しとするのだろうか。
 葵は何か腑に落ちず、眉をひそめた。
 そもそも夜光は、身請けに対してどうも本気であるようには見えなかった。それが葵の読み違いだったとしても、受けるか迷う余地があるということは、少なくとも断ることは可能だったのだろう。
 葵の見知っている夜光と、わざわざ何もかもを捨てて駆け落ちするほどの切迫した悲壮感とが、どうも結びつかない。夜光が貴彬をどう思っているか、ということではなく、駆け落ちまでする必要性が無いように思えてならない。
 だがこう考えること自体、ひょっとして葵の思い込みなのかもしれない。葵の中には夜光を慕う想いがある。それが葵を冷静で無くし、目の前にあるものを歪めていないとは言い切れなかった。
「ああ、もう」
 頭を抱えて唸った。考えるほどに思考が入り乱れ、手が付けられなくなってきた。
 いっそ二人の前に出て行こうか。だがもしも二人が本当に駆け落ちしようとしているのなら、そのときはどんな顔で夜光を見れば良いのだろう。
 自分は夜光の何であるわけでもない。二人が想い合っているのなら、そこに葵の割り込む余地は無い。貴彬であれば、きっと夜光を不幸にはしないだろう。そんなことまで考えてしまう。
 思考も感情も収拾のつかないまま、夕陽に染まる地面に長く伸びている二人の影を見やった。
 何を話しているのかは、相変わらず聞こえない。ぴたりと重なり合った二人の影はゆらゆらと揺れ、そのうち不意に大きく動いた。
 どきりとして一瞬奥に身を引きかけたが、影は近付いてくるわけではなく、逆に遠ざかった。
「あ……」
 行ってしまうのだろうか。考えのまとまらぬまま、咄嗟に祠堂の陰から二人の様子を見た。
 睦み合うように身を寄せ合った二人が、互いの身に腕を回しながら傍らの草叢に足を運んでゆく。夜光がふわりと被衣を広げた上に、二人ともがもつれるように倒れ込むのを見て、葵はぎょっとした。
「……ッ……」
 すぐに目を逸らし、再び祠堂の陰に身を潜める。声らしい声など出せるわけもなく、ただカアッと頬から耳にかけてが熱くなり、拳を口許に押しつけた。
「何なんだ。くそっ」
 いたたまれない思いで、葵は毒づいた。泣きたいほど無性に情けなく、虚しい悔しさが込み上げてくる。なんでこんなものを見なければいけないのかと、自分の行動を棚に上げて、噛み締めた奥歯が軋んだ。
 ここにきて、自分でも驚くほどの強い感情が噴き上がってきた。ほんの数秒垣間見ただけの、二人の生々しい関係に直結する光景が、目に焼き付いて消えていかない。
 胸を掻き毟りたくなる手を押さえるようにぐっと握り込み、胸板に押し当てた。
「夜光……」
 ──誰のものにもなるな。何処へも行くな。
 強く胸の奥から、突き破ってくるように想いが轟いた。
 思えば昔から常に、葵は何かを強く望むことがなかった。いや、望む前から諦める癖が身についていた。いつか自分は兄に討たれるのだろう、と予感していたから、いつの頃からか大切なものからも愛情からも、一歩を下がるようにして。心を波立たせることなく、穏やかであることで、吹き荒れる感情によって苦しむことから、自分を守っていた。
 だが今、夜光が目の前から遠ざかっていくのを見せつけられて、身動きも出来ないほど、息もろくにつけないほど、苦しい。無意識のうちに抑え、見て見ぬ振りをしてきた感情が、己を振り切って溢れ出す。
「夜光……」
 そうだ。貴彬の言う通り、自分は馬鹿だ。なぜこうなる前に、夜光に想いを告げてしまわなかったのだろう。夜光のことが分からないと思ったなら、何を考えているのかと、問いただせば良かっただけではないか。
 今さらどうにもならぬ悔恨と、胸を破るかと思うほど吹き荒れる感情に、葵はただ奥歯を噛み締めて耐えた。今ここで二人の間に割って入ってどうなるのかと、かろうじで踏みとどまるだけの理性は残っていた。
 その場からしばらく身動きできず、それでもようやく、なんとか深く息を吸った。何度か深呼吸し、無理矢理に呼吸を整えてゆく。
 ──どうせこれ以上ここに居たところで、もうどうにもなるまい。
 そう帰ることを促す思考がある一方、だがそれをためらう想いが、葵の足をその場に縫い止めた。
 どうにもならなくても、夜光を引きとめたい。行くなと言いたい。出来るなら貴彬の腕から奪い去りたい。
 だが貴彬と行くことが夜光の望みであり幸せならば、自分はここから踏み出してはならないのだ。
 もう一度深く息を吸い、懸命に自分にそう言い聞かせたときのことだった。景色がほぼ夕闇に沈む中にそぐわない妙な明るさが、突然視界の端に生まれた。
 それは、夜光と貴彬がいる方向だった。音も無くぱあっと一瞬だけ強くあたりに広がった明るさは、すぐにおさまった。
「何だ、今のは……?」
 提灯や松明の灯ではない。それにしては明るすぎたし、ものの数秒で消えてしまった。
 何事かと怪訝に視線を巡らせた葵は、そこで目に入ったものに眉を寄せた。
「……蛍?」
 そこに見えたものは、蛍の群れ──のように見えた。

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