二章 月の魔性 (十三)

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 お慕いしています、と耳元に繰り返し囁き、縋り付いてくる夜光の唇を、貴彬は己の唇で塞いだ。勢力を増す初夏の青草はまだ柔らかく、匂いが強い。その上に夜光の被衣を広げて二人で身を横たえると、まるでこれが夢であるような気がした。
 これでようやく夜光が手に入るのだ、という想いが胸に熱く迫ってくると同時に、本当にうまく逃げ切れるのか不安でもあった。
 終の涯では、足抜けは罪には当たらない。不安に思うのは、夜光が消えたことに気付いた長がどうするか、ということだ。
 慈悲深く心の寛い長であれば、今はひとまず夜光を奪い去っても、あとあと申し開きの機会があれば──何より夜光の口添えがあれば和解は出来るのではないか、とは思う。だがそれは、長にとっても最玉楼にとっても大切な夜光を奪い去る自分が考えるには、随分と虫の良いことでもある。
 まして貴彬は、かつてこの終の涯に流されて間もない頃、最玉楼の食客として世話になっていた。恩義ある長を裏切るような真似は、心が咎めないではなかった。
 それに、いくらおおらかで慈悲深いとはいえ、長はあくまでこの終の涯の長であり守護者。つまり、この稀有な地を護ることが出来るほど強大な妖だ。その気になれば貴彬の如き無力な人間ひとり、如何様にでも出来るだろう。それを思うと背筋がぞっとしたが、それでも夜光を諦めることは出来なかった。
 不安が胸を這い、だが遂に憧れてやまなかった愛しい夜光を自分だけのものに出来ると思うと、心の堤が破れたようにいっそう情熱が迸ってくる。夜光を抱き締めて、これが夢ではないと確かめたかった。
 夕闇に驚くほど白く浮かび上がる夜光の柔肌に繰り返し口付けながら、その衣をはだけてゆく。夜光は甘い吐息をつきながら、自ら白い喉を逸らして貴彬の愛撫を受け入れた。
 はだけられた夜光の襟元から、首に掛かった水晶の数珠が零れ落ちる。いつになく性急な貴彬に、夜光は逆らわなかった。夜光がしたことは、懐中から綾錦の袋に包まれた匕首を引き出し、頭の脇にそっとよけたことだけだった。
 夜光の処女雪の如く白く甘い肌に口付けを繰り返しながら、貴彬の手はすぐにその下半身に伸びた。熱く心を急き立てられ劣情を煽られるまま事に熱中する貴彬に、夜光の息遣いも次第に上がり始めた。
「あっ……あ、ぁ」
「すまない、夜光。……あまり慣らしてやれん」
 高まる息遣いの中、上ずった声で囁いた貴彬に、夜光はふるりと首を振った。
「いいえ……私も、貴彬様が欲しゅうございます。どうか、夜光に下さいませ……貴彬様の何もかもを」
「俺も、おまえも……互いに、すべて互いだけのものだ……夜光」
 言葉とともに、己の熱く昂ぶったものを夜光の奥に押し入らせた。
「ああぁっ」
 のけぞった夜光の喉元に、強く唇を押し付ける。痺れるように下半身が熱く、頭の奥まで蕩けてしまいそうだった。
 すべてを捨てて自分を選び、一緒に居たいのだと言ってくれた夜光が、苦しいほどに愛しい。貴彬に向かってすべてをなげうち、甘く熱く応えてくるすべてが、他の何を無くしても構わないと思うほど愛しい。
 夜光の細い腕が持ち上がり、汗ばんだ貴彬の首にまわる。いつになく昂ぶった身と心に、長くはもちそうになかった。止まらない情熱のまま、繰り返し強く夜光に腰を押しつける。
「……夜光」
 震えそうな声で呼び、夜光の懸命に声を抑えようとする濡れた唇に口付けた。夜光もそれに応えながら、絡めた腕で貴彬の首を強く抱き込んだ。
「貴彬、さま……っ……」
 上ずった切なげな声で呼ばれたその瞬間に、夜光の奥で限界まで張り詰め昂ぶった熱がはぜた。かつてないほど強烈な悦楽の痺れが、腰から全身を突き抜ける。思わず呻きに似た声を上げて、夜光をきつく抱き締めた。
 呼吸が乱れ、それまで体重をかけるまいとしていた手脚が震えて、貴彬は夜光の白い身体の上に崩れた。
 全身を浸す悦びの余韻に、身体がまだ熱にうかされたように熱かった。酔ったように快いまま、頭がぼうっとしてくる。まだ呼吸が整わないまま薄く目を開け、──そこで異変に気がついた。
「……え?」
 陽炎の中にいる。そのとき咄嗟に考えたのは、そんなことだった。
 もう夕闇があたりに差し迫っているはずなのに、やけに視界が明るい。金とも翠ともつかない、それらが混ざり合ったような光が眩しくて、あたりの光景が揺らめいてよく見えない。
 何が起きているのかとしばし混乱し、どうやら己の身体が鬼火のような妖光に包まれているのだと、ようやく悟った。
「なんだ、これは……?」
 奇怪にすぎる状況に、もっと狼狽うろたえてよいはずだった。だが身体の奥も頭の芯もまだ熱い交わりの余韻に痺れ、何よりこの状態がひどく快く、思考が鈍って警戒心が失われていた。それは普段の、冷静で理論的な貴彬らしからぬことだった。
 全身の神経も思考力も麻痺させる、抗いがたい心地良い睡魔が襲ってくる。何やら全身が指先まで痺れて、感覚が遠くなってくる。
 何が起こっているのかも分からぬまま、自分の身体の下にいる夜光を見ると、夜光は貴彬と共に不可思議な光に包まれながら、うっとりと微笑んでいた。
「うれしい……」
 その白く細い指が、貴彬の頬を愛おしげに撫でる。その貴彬の身体の輪郭が、ゆらりとした陽炎のようにぶれた。
「貴彬様のすべては、夜光のもの……」
 しっとりと、溜め息のように囁いた夜光の妖しく美しい微笑みに、貴彬は目を瞠った。
 人間である身には本来踏み込み得ぬ、妖の条理。そこに踏み入ると同時に、自分の身に起こりつつあることを、貴彬は本能的に紐解いていた。
「夜光……」
 その瞬間、悟っていた。
 ──そうか。おまえは、俺の命が欲しかったのか。
 次第に薄れてゆく意識の中で、今さらのように思い出す。ここは終の涯。人ならぬものたちの棲まう街。そしてここにいる夜光もまた、妖の列に連なるものであることを。
「……や、こう……」
 うわごとのように夜光の名を呼びながら、すべてをとろけさせる睡魔に、どうしようもなく瞼が落ちてゆく。不思議なほどに腹も立たず、恨みもわいてこない。ただ微笑む夜光の顔をまだ見ていたくて、まだ眠ってしまいたくなくて、縋るように手が彷徨った。力がろくに入らず、もう自由に動かないその手を、白い手が柔らかく包んだ。
「貴彬様……」
 夜光は微笑したまま、貴彬の手を片手で己の胸に引き寄せ、片手でその髪を撫でた。
「夜光を愛して下さって、ありがとうございます。そのまことのお心、確かに頂戴致しました」
 ──なんという優しい、だが残酷な声音か。
 遠ざかる意識の中で、貴彬は思った。
 だが、おまえがそれを望むなら、それで構わない。おまえがどういうつもりだったのであれ、俺は自ら選び、望んで、おまえを愛したのだから。
 自分の身に何が起きたのか、そんなことはもうどうでも良かった。急速に薄れてゆく何もかもに、それを考える力は、もう無かった。
 何も無くなってゆく中に、ただ夜光のことだけが白く満ちてゆく。夜光を愛したことに悔いは無い。かつて自分は戦火に追われて一切を失い、終の涯に流されて独りきりになった。希望も何もかも失った自分が、しかしこの終の涯で、この上なく美しい夢を見ることができた。
 おまえが俺の命を望むというなら、くれてやろう。それで、おまえへの恩を返すことになるのなら。
 夜光と、最後にもう一度だけ名前を呼んだ。声になったのかは分からなかった。
 それが貴彬の最期になった。

 眠たげに、不思議そうに、だがもう頭も働かないというように、貴彬の瞼が落ちてゆく。
 完全に瞼が落ちる直前、夜光、と、かろうじでその唇が動いた。だが、聞き取れるほどの声にはならなかった。
 自分の上にいる、だが既に重みもない貴彬の身体を、夜光は最後にもう一度抱き締めた。
 その腕の中で、貴彬の身体が完全に輪郭を失い、光の中に融けた。直後、鬼火のように揺らめいていた光が、音もなく大きく弾けた。
 ──夜光の首に掛かった数珠のうち、透明に煌めいていた大珠のひとつが、ぴしり、と無数のひびを生じて白濁した。

 夕闇の中に四散した光は、小さな小さな光の粒となって、まるで無数の蛍火のように舞い上がった。
 その中に、夜光はゆっくりと身を起こす。乱れた着物を整え、青草の上によけておいた匕首を、元通り懐中に挿した。
 迫る宵闇に光の粒が儚く漂い、巡らせた玻璃のような瞳に映り込む。
 ゆらりと草叢の中に立ち上がった。完全に乱れを直すことはできなかった着物はいくらか崩れ、その裾と肩までの白い髪を、ゆるい夜風が揺らめかせた。


 祠堂の陰から二人のいる方を覗き込んだ葵は、なんとも妖しい光景に目を奪われた。
 無数の蛍火が草叢の中から湧き上がり、夕闇の中に舞い上がってゆく。だが蛍の光というには、幾分それらは粒が大きいようにも見える。明滅するでもなく、ただ光の粒が、ふわりふわりと夢幻のように数え切れないほど舞っている。
 見つめるその先で、赤錆びた色を帯びる満月の下、草叢の中からゆらりと立ち上がった姿があった。
 普段よりもいくらか崩れた着物姿。乳白色の髪がゆるい風になびき、その周囲を蛍火のような無数の光が取り巻いている。その乱れかけた白い髪の合間から覗いた、無表情の中に鬼火が宿るように爛と耀かがやいた双眸に、葵は目を見開いた。
 ぞくり。
 と、知らず息を詰めていた足元から脳天めがけて、凄まじいばかりの戦慄が駆けのぼった。
 ──なんだ、あれは。
 理屈ではなく、全身に恐ろしいまでの緊張が走る。呼吸ひとつ、身じろぎひとつでさえ「あれ」に勘付かれてしまうのでは、という異様な恐怖と緊迫感。
 そこにいるものの名前を、葵は確かに知っているはずだった。だがこの瞬間、完全にそれが頭から消し飛んでいた。
 あそこにいるのは、まさに人ならぬもの。鬼気迫るように美しくありながら、震え上がるほど妖しくもあるもの。
 ──「あれ」に見つかっては駄目だ。
 祠堂の陰に身を潜めたまま、葵は気配と呼吸の音を必死に殺した。心臓が痛いほど早鐘を打ち、呼吸を詰めた喉がひきつりそうになる。震える手脚が祠堂の壁にふれぬよう、自分で自分を抱くようにして懸命に押さえ込んだ。
 夕闇の中、やがて奇妙な蛍火のような妖光は薄れて、ひとつひとつ跡形もなく消えてゆく。
 その中を夜光がふわりと、石段に向かって歩き始めた。無造作その手につかんだ被衣を、頭から被る。歩いている影はひとつだけ。夜光がつい先ほどまで睦み合っていたはずの貴彬の姿が、無い。
 咄嗟に、先ほどまで二人がいた草叢を見た。もう西の果てが僅かに赤い程度で、青草の繁ったそのあたりはよく見えない。月明かりを頼りに目を眇めてみたが、そこには誰も居ないように見えた。
 貴彬は、いったいどうしたのだろう。なぜ姿が見えないのだろう。あの草叢の中に埋もれているのだろうか……たった一人で?
 それは異常な情景としか思えなかった。ますます葵が身を強張らせ、石像のように佇んでいるうちに、夜光はぽつりと置かれた荷物には見向きもせずに境内を通り過ぎる。
 その白っぽい姿は振り返ることなく、石段を降りて闇の中へ消えていった。

 夜光の姿が完全に見えなくなっても、葵は祠堂の陰に潜んだまま、長いこと動けなかった。手脚が凍り付いたように強張り、まだ鳥肌が立ってかすかに震えていた。
 西の果てに滲んでいた最後の残照が宵闇に飲まれ、あたりがすっかり暗くなった頃、ようやく葵は恐る恐る祠堂の陰から出た。
 時間が経つと共に、赤錆びた色を帯びていた満月は白みを増し、あたりに皓々とした月光が降りそそいでいた。静寂の中、周囲の竹藪や草叢の中から様々な虫の声が響いている。
 まだ身体の芯が恐怖に強張っていたが、月明かりを頼りに、意を決して二人がいた草叢のあたりまで足を運んでみた。
 確かにこのあたりだ、と思う処まで来たが、そこには誰の姿もなかった。
 人の身の下敷きになったのだろう、青草の一部が倒れているのは確認できる。だがどこをどう見ても、あたりには人の姿など見えなかった。
「貴彬殿……?」
 なぜ貴彬だけがいないのだろう。ずっとこの場所を見ていたわけではないが、あのときの状況と周囲の様子からして、貴彬だけが先に歩み去ったとは思えなかった。
 ならば、貴彬はいったいどこに消えた。人ひとりが跡形もなく消えるだなんて、どう考えても尋常なことではない。
「夜光。おまえ、いったい……」
 ──ここで何をした?
 指先まで冷え切り、鼓動だけが落ち着かず、胸の中で嫌な感触で高く響き続けている。草叢の中からゆらりと立ち上がったときの夜光を思い出し、また鳥肌が立った。
「あれ」は本当に夜光だったのだろうか。他の誰でもあり得ない、と頭では分かっている。だが、それほどまでにあのときの夜光は美しくも妖しく恐ろしく、まるで自分の知る夜光ではないようだった。
 いったいここで何があったのだろう。自分は何を見たのだろう。
 誰も答えてくれるもののないまま、葵はその場に佇んで、二人のいた草叢を凝視していた。


【二章 月の魔性 了】

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