三章 宵闇に夢を見つ (一)

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 結局何があったのか分からないまま、葵はその社を離れた。
 夜光に会うことが空恐ろしかったが、最玉楼に戻らないわけにはいかない。こういうとき、やはり自分にはまだろくに寄る辺の無いことが、ひしひしと身に染みる。
 夜光が立ち去ってから、既にかなりの時間が経っていた。それでも無意識にその姿を警戒しながら歩くうち、無事に最玉楼に帰り着いた。
 出るときに使った裏門を使う気にはなれず、客を迎え入れるために開放されている正面の門から中に入る。最玉楼の明るく華やかな活気にふれると、先程までの異様な空気から切り離されたようで、思わずほっとした。
「あら、葵さん。こんな時間までお出かけだったんですか」
 玄関広間にいた獣耳の仲居が、葵を見付けて珍しそうに声をかけてきた。
「ああ。街を見物していたら、つい夢中になってしまって」
 咄嗟に取り繕うと、仲居は特に疑う様子も見せずに笑った。
「それはようございました。でも慣れないうちは、日が暮れてからの一人歩きは充分にお気を付け下さいませね。マレビトと見れば、酔ったはずみでちょっと行きすぎた真似をする輩もいないとは限りませんから」
 半分はわざと驚かすような大袈裟な声音に、いつもであれば笑って頷けるはずが、夜光のあんな姿を見たせいか、今日はぎくりと身が強張った。それをなんとかごまかし、笑顔を作った。
「分かった。気を付けるよ」
 そういえばお膳が厨房に残っていたようですよ、と言われ、やっと葵は夕食のことを思い出した。食欲はまったく無かったが、喉がからからに渇いていた。
 正面玄関から厨房までは、いくらか歩く。どこかに夜光の姿が見えないかと、どうしても神経を張り詰めながら、回廊を歩き短いきざはしを上がったり降りたりして、厨房に着いた。
 座敷に出すあれこれを作っているのだろう、広い厨房の空気は慌ただしい。いつも膳を受け取りに行く通用口から中に入り、近くにいた仲居をつかまえて、今日は少し体調が悪くて夕食が入りそうもない、と詫びた。
「あら、それは心配ですね……若様、少しそこで待っていることはできますか」
 仲居は気遣わしげな顔を見せ、葵を少しその場に待たせて、滋養がつくという薬湯を手早く用意してくれた。
「すまない。ありがたく頂戴する」
「あまり無理をなすっちゃいけませんよ、若様。時間はあるんですから、焦らず静養なさらないと」
 本当にこの最玉楼の妖達は、下手な人間達よりも心優しい。それはこの終の涯が、人の世に比べてずっと平和で豊かなせいだろうか。
 そんなことを考えながら、薬湯を入れた土瓶ごと借り受け、竹筒に白湯を入れてもらった。礼を言って立ち去りかけた葵は、ふとその仲居に訊ねてみた。
「そういえば、今夜は夜光は?」
「夜光さんですか。今日は夕方に何かご用事があったとかで、少し遅れてお座敷に上がったようですね。何かご用でも?」
「いや。いいんだ。別に急ぎじゃないから」
 適当にごまかし、一礼して厨房を後にした。
 遅れて座敷に上がった、ということは、夜光は今は部屋には居ないということか。自室に向かって歩きながら、そのことに思わず安堵しつつ、ふと薄ら寒くもなった。
 あの寂れた社で何があったのかは分からないが、尋常で無かったことだけは間違いない。あんなことがありながら、素知らぬ顔で普段通りに座敷に上がっているという夜光のことが、何かひどく得体の知れないものに思えた。
 わけのわからない不安や困惑がある一方、夜光のことをそう思ってしまうこと自体がいたたまれない。
 夜光を疑い、恐ろしいもののように思うことなどしたくない。それは葵がこの終の涯で生きる基盤が揺らぐことでもあり、これまで接してきた夜光を否定してしまうことでもあった。
 時間が経つにつれて、一人で思い悩んでいるよりも、夜光本人にあの社で見たことを問いただしたくなってくる。しかし、それもまた勇気が要ることだった。だからといってこのままうやむやにすることも、到底出来そうも無い。
 悶々としながら歩くうちに、部屋のある並びに着いた。思わず足を止め、夜光の部屋に明かりが灯っていないことを確認すると、また安堵の息をつく。そんな自分にうんざりしながら、部屋に入った。
 もらってきた薬湯は、香草だろうか、心が落ち着くような良い匂いがした。少し苦いが、飲みにくくはない。ゆっくりと口に含むと、昂ぶった神経が多少なりとも鎮まってくる気がした。
 今夜は書物を読む気にもなれず、まだやすむには早かったが早々に布団を敷き、寝床に入った。
 横になったものの、一向に寝付かれない。やたらと寝苦しく、少しうとうとしてはすぐに目を覚ます。そんなことを繰り返しているうちに、障子に映る月の影はじりじりと動いていった。

 そのうち、少しは眠ったのだろうか。──縁側を歩いてくる控えめな足音が聞こえてきて、びくりと目を覚ました。
 すぐに、夜光だ、と察した。いつの間にか夜光の足音を覚えていることに少し驚きながら、葵は思わず身を強張らせる。息を詰めて、その足音に感覚の全てを集中させた。
 足音は普段と何も変わらず、夜光の部屋の前で止まる。静かに障子を引く音がして、閉まり、消えた。
「…………」
 庭から儚げな虫の声が聞こえる。変わらぬ夜の静けさに、数秒を置いて全身が弛緩した。
「何を俺は、夜光に対してここまで身構えているんだ」
 多少強引に、そう自分に言い聞かせる。
 あの社で見たものが何であったにせよ、夜光は夜光ではないか。あの場所の雰囲気が何しろ不気味だったから、きっと夜光のことも、何かやたらと恐ろしげに見えてしまっただけなのだ。あの場所は暗かったし、葵が気付かなかっただけで、きっと貴彬も先に立ち去っていたのに違いない。──
 自分でもどこかで「それはありえない」と思いながらも、あえて何も考えまいと上掛けを引き上げた。布団の中で、ぎゅうと目を瞑る。
 また明日にでも、貴彬を訪ねてみよう。きっと何食わぬ顔で現われるはずだ。そしてきっとまた、呆れたように「おまえも暇人だな」と言ってくる。だからもう余計な取り越し苦労はやめて、これ以上何も考えずに眠ってしまうことだ。
 まんじりとせず何度も寝返りを打ち、何度も溜め息をつく。
 そのうち障子の外が白み始める頃、ようやく葵は浅い眠りに落ちることが出来たのだった。


 ごく弱い雨音に目を覚ますと、障子全体が鈍く灰色に明るかった。光の入り方からして、まだ朝と言って良い時間帯であるようだが、部屋の薄暗さはまるで黄昏れ刻のようだ。
「あまり眠れなかったな……」
 頭がぼんやりし、手脚も重い。半ば無理に起き上がった。このまま寝床にいても眠れる気はしなかったし、ますます気怠くなりそうだ。
 障子を開くと、肌寒く湿った空気と共に、柔らかな雨音が部屋に流れ込んできた。
「雨か」
 縁側から見える新緑は細かな雨に濡れ、空はぼんやりと鈍く明るい。風はないせいか、縁側の遣り戸は開けられたままだ。長く庇が伸びているから、この程度なら吹き込むことはないだろう。
 夜光の部屋の障子はいつものようにぴたりと閉められ、中に夜光がいるのかいないのか分からなかった。昨夜のあの時間に戻って来たのなら、まだ寝んでいるのかもしれない。
 一夜明け、多少なりとも眠れた後であるせいか、昨夜見たことに対する現実味がいくらか薄れていた。目撃した何もかもが夢のようですらある。
 ──結局、昨夜見たあれは何だったのか。
 考えても何も分からず、頭もあまり働かない。葵は首を一振りし、嘆息して、髪をゆるく結うと木桶を手に部屋を出た。
 縁側を歩いて行った先には、建物の中に何カ所か設置された水場がある。手押しの握りを押し下げると井戸水が上がってくるそこで、桶に水を汲み、口をゆすいで顔を洗った。冷たい清水のおかげで、いくらかは頭もすっきりした。
 昨夜食べていないせいで腹は空いている気がしたが、食欲はあまりなかった。少し外の空気を吸えば、気分も変わるだろうか。
 幸い雨は今は霧雨程度で、新緑の溢れる庭を歩くのはむしろ風情がありそうだった。沓脱石から下駄を履いて、縁側を降りた。
 傘は一応借りてきていたが、この霧雨ではあまり用を為しそうもない。結局差さずに手に持った。懐かしいような雨の匂いと、肌に触れるひやりとした冷たさが心地良かった。
 さすがにこんな朝から、しかも霧雨とはいえ雨の中を歩いている人影は他に無かった。瑞々しい新緑は、むしろこの翠雨を喜んでいるようだ。菖蒲や色とりどりの躑躅、控えめな菫に華やかな石楠花、金蓮花など、花々が無数の水滴を宿している。
 いくらか歩いた先には、小さいながら四季折々の花や緑の美しい庭園があった。そちらに向かい、躑躅の植え込みに囲まれた細い延段を歩いていくと、霧雨にぼやけた視界の先に柔らかな青い色彩が見えてきた。
 到着した小さな庭園は、美事な青い紫陽花に彩られていた。その中にぽつりと、傘も差さずに誰かが佇んでいた。
「夜光……」
 思わず、その名を呟いていた。霧雨にとけてしまいそうなほどひっそりと佇んだ夜光は、まるで紫陽花が化身したようだった。
 葵の姿に気が付いた夜光が、白い顔を巡らせた。憂いを含んだ紫の瞳が、どこかぼんやりと葵を捉えた。

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