三章 宵闇に夢を見つ (二)

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「葵……?」
 耳朶にしっとりと響く声が、葵の名を呼ぶ。
 ──夜光だ。
 その姿を見、声を聞いた瞬間に、当たり前と言えば当たり前な、だがしみじみと胸に迫ってくる実感が生まれてきた。
 青い紫陽花の群れの中に佇む、儚く消え入りそうなほど、夢のように白く嫋やかで繊細な姿。柔らかな面差しに、美しいがどこか哀しげな眼差し。
 その姿に、昨夜のような恐ろしげな印象など欠片もない。あまりにも当たり前のことのように、そこにいるのは葵の良く知っている夜光だった。
 茫然とその姿を眺めてるうちに、昨夜は何をあれほど夜光を恐れていたのかと、自分が滑稽になってきた。
 昨夜のあれは、やはり月明かりといかにも不気味な状況が、必要以上に夜光を恐ろしげなものに錯覚させたのだろう。動揺し不安定になった心を通せば、なんでも歪んで見えるもの。あのときの自分が冷静だったとは、到底言えない自覚はあった。
 と、夜光の白い頬にいつも以上に血の気が無く、乳白色の髪も着物の肩も帯もすっかり濡れているのを見て、はっと我に返った。
「夜光。こんなところで何をしてる」
 慌てて駆け寄り、この霧雨の中でどれほど役に立つか知れないが、傘を開いて強引に夜光の白い手に持たせる。そのときふれた夜光の手は、ひどく冷たかった。どれほど長くここに佇んでいたのか、いつもは淡い桜色をした唇も青ざめてしまっている。
 懐から手拭いを取り出し、広げて、夜光の頭にかぶせた。額や頬だけでも、簡単に拭いてやる。
 突然顔を拭かれた夜光が、驚いたように首を竦めて目を瞑った。それで何か糸が切れたように、葵を見上げた紫の瞳が、柔らかく瞬いた。
「おはようございます、葵……葵こそ、こんな時分にこんなところで、どうなさったのですか」
 耳に馴染んだ、落ち着いた夜光の声音。妙に夜光が遠くなってしまったようだと思っていたことも、いざこうして本人を間近にした途端、瞬く間に解けて消えてゆく。
 ──やはり、夜光は夜光だ。命すら危うい状態で流されてきた葵を、この柔らかな眼差しで見守りながら癒やしてくれた。何もかもを失った絶望と悔恨から、命を絶とうかとさえ思ったとき、懸命に駆けつけて葵を此岸へ繋ぎ止めてくれた。それが、自分の知る夜光だ。
 夜光の白く長い睫毛が、細かな水滴を宿してひどく美しい。返事をしない葵を不思議そうに見上げてくる夜光を、ふいに抱き締めてしまいたくなった。
 胸の奥から湧き上がってくる想いを、しかしどうにか押しとどめ、葵は手拭い越しに夜光の両肩に手を置くにとどめた。掌を置いたことであらためて驚いたほど、薄く細い肩。咄嗟に手拭いを頭からかぶせてしまったが、自分からこんなふうに夜光にふれたことなど、出会った直後を除いては、今までになかったことだった。
「こんなところでどうしたはこっちの台詞だ。こんなに濡れて……風邪でもひいたらどうする」
 手拭いと着物越しに夜光にふれた手が、強めに問いかけた声が、少し震えてしまっていたかもしれない。
 葵を見上げていた夜光が、ふと瞳を細めるようにして微笑んだ。
「少し考え事をしていました。平気ですよ、これでも半分は妖ですから。葵よりもよほど、私の方が丈夫です」
 冗談めいた言い方に、葵も小さく笑ってしまった。もとより、夜光に対して厳しい態度を保つことなど難しい。夜光の肩から、葵は手を下ろした。
「本当か? そんなことを言って、今夜にでも寝込んでも知らんぞ」
「そのときは、観念して葵に看病をお願いします」
「俺が看るのか。俺でも良いなら、それは構わないが」
「ふふ。今この最玉楼でいちばん暇を持て余しているのは、葵でしょうからね」
「言ったな。最近はそうでもないんだぞ? ……まあ、確かにここでいちばん暇にしていることは否定できんが」
 笑いながら、軽口を交わし合う。以前と何も変わらない空気が、葵の胸にまだほんの僅かにわだかまっていたものを消し去ってゆく。
「何を考え込んでいたのかは知らないが、ひとまず部屋に戻らないか。その格好では冷えるだろう。本当に風邪をひくぞ」
 促すと、夜光は素直に「はい」と頷いた。その白い手から傘を取り、葵と夜光は並んで歩き始めた。
「今日は早起きなんだな。こんな時間に顔を見たのは、随分久し振りのような気がする」
「お見苦しいところばかりをお見せして、あいすみませぬ。だらしがないと思う気持ちはあるのですが、どうにも身体がついてこなくて」
 少し決まり悪そうにした夜光に、葵は笑った。
「遅い時間からの仕事だからな。仕方が無い。咎めたわけじゃないぞ。心配はしているが」
「はい。でも、余計な気を遣わせてしまって」
「余計ではないがなあ。いや、おまえが余計なお世話だと言えばそうにもなるのか。そうか」
 葵がもっともらしく、内心からかい混じりに呟くと、夜光が慌てたように声音を上げた。
「そ、そんなことは思っておりません。ご心配いただけるのは、とてもありがたいと思っております。でもそういったことは……その、あまり言われ慣れなくて」
 夜光は言いながら、恥じ入るように徐々にうつむいた。生真面目ゆえに不器用であるのが垣間見えるその様に、葵は自然と心がなごんだ。
 出会ったばかりの頃の夜光は、こんなふうではなかったように思う。余裕があり言葉も流暢で、穏やかだが隙が無かった。
「分かっている。そう真に受けるな、からかっただけだ」
 笑いを噛み殺しながら言った葵に、夜光が僅かばかり頬を膨らませた。
「そのような。私は真面目ですのに」
「すまんすまん。そう怒るな」
「怒ってなどおりません、大人気のない。呆れているだけです」
 ぷい、と夜光が顔をそむけた。その素直に感情を見せる様が、葵には微笑ましく思えてならなかった。
「とにかくだ。何かとままならんことも多いだろうが、あまり無理はするなよ。自分の身も、出来るだけいたわってくれ」
 あらたまって言った葵に、夜光は視線を戻す。淡く、だが嬉しそうに、夜光は紫苑の色を宿した瞳を微笑ませた。
「はい。ありがとうございます。葵」
 建物からさして離れてもいなかったので、じきに縁側に着いた。床板を濡らさぬよう、夜光の頭にかけていた手拭いを縁側に敷く。
 葵はもとより素足だったが、夜光は白い足袋を上がる前に脱いだ。着物の裾を割って見えた夜光の素足はいっそう白く、足首の細さや踝の華奢さが際立ち、一瞬葵はどきりとしてしまった。
 慌てて目を逸らしたところに、夜光がふとしたように訊ねてきた。
「葵。私よりも、葵の方が今日はお顔の色がすぐれないように見えますよ。どうかなさいましたか?」
 葵は昨日のことを思い出し、一瞬ぎくりとしたが、それを顔には出さぬように努めた。
「ああ。昨夜、あまりよく眠れなくてな」
「そうでしたか。……私などよりも葵の方が余程、いろいろと思い悩むこともありましょうね」
 夜光は心配そうに呟き、ややあってからにこりと笑った。
「私も、これからは少し座敷が落ち着くと思いますので。またお話し相手になれるかと存じます。私でよければ、またご一緒させて下さいね」
 これからは。──
 その何気ないような一言に、葵の神経がぴりりと反応した。それは僅かな、だが無視できぬささくれだった。
 夜光と話すうちに忘れていた嫌な感触が、そのほんの小さな引っかかりのために、再びざわりと波紋を広げ始めた。だが咄嗟に、この違和感を夜光に悟られてはいけないと判断する。それは理屈ではなく、昨夜覚えた恐怖がよぎった為──本能から来る危機感の為だった。
「やっと少しは落ち着いてきたのか。忙しそうだったからなあ。毎晩のように、あの貴彬殿も訪れていたと噂に聞いているぞ」
 平静を装いながら、するりとそんなことを言っていたのは、咄嗟に考えたからだった。昨日本当に何かあったのなら、その名前に何かしら夜光が反応するのではないか、と。
「貴彬様ですか」
 夜光は拭いた足で縁側に上がりながら、葵を振り返った。やや苦笑めいた、いつもと変わらぬ物柔らかな調子だった。
「あの御方も、近頃はいらしてもお帰りが早くて……昨夜はお見えになりませんでしたし、いささか私に飽いてしまわれたのかもしれませんね」
 葵の背筋が、瞬間のうちに強張った。
 胸の中で、鼓動が嫌な感触で打つ。それを極力表には出さぬよう、葵は自分も縁側に上がりながら、何気ない調子を取り繕い続けた。
「そうだったのか。前は、あんなにおまえにご執心だったのにな」
「私も至らぬところが多うございますから。残念ではありますが、そういうこともございましょう」
 あくまでも穏やかに答える夜光に、そうであるほど、ますます葵の中にざわめきと違和感が蓄積してゆく。
 夜光は、昨夜貴彬と会っていたことを隠している。そして、貴彬の心が離れつつあるとほのめかしている。
 事前に貴彬との接触を持っていなければ、そして昨夜のあれを見ていなければ、葵もまったく疑おうとも思わなかっただろう。それほど、夜光の装った穏やかな嘘は完璧だった。
 昨夜のあの、異様な状況と空気を克明に思い出し、葵の心臓はますます嫌な鼓動を打ち始めた。
 密会を隠したがるのは当然かもしれないが、しかしあれは本当にそんな艶めいたものだったのだろうか。しかも、何故貴彬の心変わりをほのめかすのだろう。葵の知る限り、貴彬は夜光に飽きてなどいなかった。むしろ、その逆だった。
 昨日見たことを、ここで夜光に言ってしまえ。そんな思いがこみ上げてくる。
 だが葵はどうしても、それを口に出すことができなかった。夜光の嘘を暴いたら、そこで確実に何かが壊れる。少なくともこの、穏やかで優しい関係は失われてしまう。そんな予感がしてならない。それもまた、葵にとってはひどく恐ろしいことだった。
「──そうか。まあそれならそれで、少しゆっくりすれば良い」
 目許や口許が不自然に強張って見えないことを祈りながら、葵は言った。
「俺は朝餉を取りに行く。おまえは湯でも使って、しっかり温まっておくんだぞ」
「はい。葵も、髪と衣をきちんと拭っておくのですよ。今日は随分肌寒いですし、まだ完全にお身体が元に戻ったわけではないのですから」
 そう答える夜光は、葵の知っている夜光に他ならなかった。穏やかで心和まされる、月から降りてきた天人の如く優しげな。
 だがそうであればあるほど、葵は内心で困惑し、それを表に出さないように努めるだけで精一杯だった。
「そうする。邪魔をして悪かったな」
「とんでもありません。おまえさまと話すのは、私はなぜかほっとします」
 そう言ってまた微笑した夜光に、葵も笑みを返していた。それは心からのものだった。
「それは俺も同じだ。夜光」
 葵は夜光に軽く手を振って、その場を離れた。ぎこちなくならないように注意しつつ、早足になってしまわないように気を付けつつ。
 不自然に見えなかっただろうか。自分の態度におかしなところはなかっただろうか。夜光が自分の背を見つめているような気がして、振り返ってそれを確認したい衝動にかられてならなかった。
 長い廊下を折れる直前、やっと葵は後ろを振り返った。そこには誰の姿もなく、鈍い雨天の空に照らされた縁側が見えるばかりだった。
 胸を撫で下ろしながら、葵は己の背に冷や汗が浮いていたことに気付いた。
「夜光。おまえ、いったい何を隠している」
 おまえは昨夜、何のために貴彬と会っていた? 何故貴彬について素知らぬふりをする?
 夜光の底意が見えない。夜光が普段と変わらず穏やかであるほどに、その裏に秘められた闇に引き込まれていきそうな気がする。いや、実際既に引き込まれつつあるのだ。夜光に心惹かれ、そして昨夜の「あれ」を見てしまったがゆえに。
 やっと慣れ始めていた終の涯での穏やかな日々が、足下から崩れつつある予感に、葵は思わず身震いした。
「……落ち着け。まだ何も確かめたわけじゃない」
 深く息をつき、息苦しいような不安と怖気を押さえ込む。
 そうだ、取り乱している場合ではない。夜光と貴彬には何らかの内密の事情があり、貴彬は別段何事もなく、すべては葵の取り越し苦労かもしれないのだから。まずは貴彬の無事を確かめることだ。
 朝餉を食べたら、すぐにでも出かけよう。焦燥感を押し殺し、葵はそう決めた。

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