三章 宵闇に夢を見つ (五)

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 転げるように麗芳楼を出た葵は、その場に留まることも恐ろしく、少しでも遠ざかろうと路を走った。
 だが近頃ろくに食べず、あまり眠ることもできずにいたせいか、情けないほどすぐに息が上がった。
 鏡花の姿が、突きつけられた言葉が、ひたすら頭の中をぐるぐると巡っていた。やみくもに走ってはよろめき、ふらつきながら歩いてはまた走る。そんなことを繰り返しているうちに、さらしを巻くことを忘れていた脇腹の傷が、無視出来ないほど痛み始めた。
 そのうちとうとう、脇腹を押さえながら建物の壁に縋って身体を支えた。
 浴びせられた憎悪と怒りに、まだ悪寒がする。理不尽も度が過ぎる彼女の言葉のうちに、葵はうっすらと察するものがあった。
 ──もしかしたら鏡花は、かつて人間の手で無惨に殺された獣が化けたものなのかもしれない。
 人間に好意的な妖ばかりではないだろうと、頭では分かっていた。だが終の涯で出会う妖達は皆優しく、あるいは取り立てて害を為すようなものもいなかったから、その認識がいつの間にか抜け落ちてしまっていた。
 壁に凭れて呼吸を整えながら、葵はどこかしら虹色を帯びたような穏やかな青空を見上げた。月虹に似た輪をうっすらと冠する日華。空に浮く船や車が走る、御伽草紙の世界のような蒼穹。
 ここでは葵は「マレビト」と呼ばれる。それとは「客人まれびと」であり「稀人」であり、人間も妖も分け隔ての無いこの終の涯だからこそ、葵でも安穏と過ごせている。
 無力な人間達が力ある妖を恐れるように、はなから種としての土台が異なりすぎている者達の間には、理屈では片付かない隔たりが存在する。しかしその隔たりを、今まではそれほど重く考えていなかった。姿形や性質が異なったとしても、心が通い合いさえすれば、それは関係の弊害にはならないと思っていた。
 だが。
 ──夜光は人間を忌み嫌って憎み抜いている、妖よりも妖らしい子だわ。
 嗤いながら鏡花が放った言葉が、いくつも胸に突き刺さっていた。叩きつけられた剥き出しの負の感情が、葵を浸蝕してゆく。
 夜光を好いた者が、貴彬も含めてもう三人も姿を消している、という。その言葉を、どこまで信じれば良いのか分からない。だが貴彬が消えてしまったことだけは、歴然たる事実だった。
 ──なんで見ちゃったのさ、葵。せっかくうまくいってたのに。
 ──消えた三人は、夜光に喰われたのよ。夜光はあなたが思っているような相手じゃない。
 双子の小鬼達と鏡花の言葉が、頭の中に繰り返される。あの夜に社で見た奇妙な光景が、妖そのものの様相で月下に立ち上がった夜光の姿が、脳裏に幾度も明滅する。
 たまらなくなって、目の上を掌で強く押さえた。
 夜光が本当は何者であるのか、何のために葵を助けたのか、それは夜光にしか分からない。
「夜光……」
 呻くように、その名を呼んだ。
 ──おまえは本当に、貴彬を喰ったのか?
 元来、妖の多くは人を好んで喰う。そうは聞いていた。だが、夜光が貴彬を喰ったなどとは信じたくない。もしもそれが本当なら、貴彬があまりにも哀れだ。
 ──夜光はどういうつもりで、あなたにあんなに優しくしていたのかしら?
 黒い呪詛のように、鏡花の言葉が絡みつく。息は吸えるのに苦しくなって、葵は今にも自分が倒れるかと思った。
 なんとか深呼吸を繰り返し、壁に凭れたまま、ようやく目を開く。美しい終の涯の空が目に映ると、眩暈がした。
 もし本当に、夜光が貴彬を喰ったのだとして。夜光がそういう性質を持つ妖だったとして。
 夜光はどんなつもりで葵を助けたのだろう。しかも夜光は、元々人間を忌み嫌っている。助けられた、と思っていたが、そこにあるのは本当に純粋な好意だったのだろうか……?
 いったい何を疑っているのか、と自分を叱責しつつも、鏡花の言葉によって一度植え付けられてしまった猜疑心は、既に葵を呪縛してしまっていた。それが吐き気を催すほど苦しかった。
「夜光と……話さなければ」
 こんな疑惑を抱いたまま、夜光とこれまで通りに接することなど、到底できない。消えた貴彬について、見て見ぬ振りなどできない。
 舞い散る桜の花びらの中で、淡くはんなりと微笑む夜光の姿が甦った。あまりに儚く美しい、愛しい日々の名残が、いっそう胸を締め付ける。それらが美しいほど、真相を知りたいという意思が、真っ直ぐに固まってゆく。
 夜光を疑い、怯えながら生きていくことなど、どのみち自分には耐えられはしない。葵は空を仰いだまま目を閉じて、心を決めた。


 よろよろとなんとか最玉楼に帰り着いた葵は、夜光の姿が部屋にないことを確認すると、すぐに自分の部屋に閉じこもった。
 部屋の中でうずくまり、無意識に息を殺し、油断すると震えがくる自分の身体をなんとか宥める。
 意外に長いこと街を彷徨っていたらしく、締め切った障子越しに、じきに黄昏の気配が迫ってきた。
 食事も摂らずに閉じこもるうち、連日の寝不足と疲労がたたり、いくらかうとうとした。完全に日が暮れてからだいぶ経った後、夕餉の膳を取りに来ない葵を心配した仲居が訪ねてきたが、障子越しに謝罪し、そのまま引き取ってもらった。
 耳をそばだて、全身の神経を尖らせて、部屋に灯かりもつけずに、葵はじっと夜光の帰りを伺っていた。
 勤めがいつ頃終わるという決まりはないようだが、夜のうちに上がるのであれば、夜半すぎには夜光は部屋に戻ってくる。ただひたすら、それを待った。

 終の涯では、蓬莱に比べて月もゆっくりと欠けてゆく。静けさの中に虫の声だけが響き、白銀に冴えた臥待月が天頂を過ぎていくらか経った頃合に、覚えのある控えめな足音が聞こえてきた。
 ──夜光。
 息が詰まり、聞き間違いではないことを確認する。心を決めたはずが、一瞬のうちに、胸中で凄まじいせめぎ合いが起こった。
 夜光に本当に問いただすべきなのだろうか。何も知らず見ていないふりをすれば、何もかも素通りして、やりすごすこともできるかもしれないのに。
 瞬間のうちに溢れ出した葛藤で破裂しそうになった頭に、直垂を翻して藤棚の下から去って行った、葵が最後に言葉を交わした貴彬の後ろ姿がよぎった。
 ぎゅうと、抱き締めた己の袖を握り込む。貴彬とさしたる縁や恩義があったわけでもない。だが、貴彬にはまことがあった。きっとそれは、夜光に対しても歪み無く真っ直ぐに向かっていったはずだ。
 ──捨て置けない。
 思った瞬間、弾かれるように立ち上がっていた。その物音も気配も、この月光の降る音すら聞こえそうな夜の中では、間違いなく夜光の耳に届いただろうと思われた。
 葵は畳の上を大股に横切って、締め切っていた縁側への障子を開けた。
「葵?」
 今まさに自分の部屋の障子を開けようとしていた夜光が、部屋をひとつ挟んだ距離で、驚いたように葵を振り返っていた。初めて会った頃と何も変わらない、月から降りてきた天女かとすら見まごう姿だった。
「夜光……」
 思い詰めた葵の様子に、夜光もすぐに異変を察したようだった。障子にかけていた手を戻し、怪訝そうに、気遣うように葵に向き直る。
「どうかなさいましたか、葵。よく眠れませんか?」
 歩み寄る葵に、夜光も心配そうに数歩の距離を進めてくる。紫苑の色を宿した瞳が月光を弾き、穢れない淡雪の如く髪が仄かに輝き、この世のものではないように美しかった。
「夜光……話がある」
 夜光の前に立った葵は、もはや言葉を抑えておけず、切り出した。真っ直ぐに夜光の瞳を見据えたまま。
「聞かせてくれ。おまえは、貴彬殿に何をしたんだ」
 小さく夜光が息を飲むのが分かった。何も言わない夜光に、葵はたたみかけた。
「この間の夕刻、寂れた社で貴彬殿と一緒にいるおまえを見た。草叢に蛍火のような光が舞って……それきり、貴彬殿は居なくなってしまった」
「……見ていたのですか」
 凍り付いたように瞳を見開いたきり、夜光が呟いた。
 葵は頷き、視線を下げた。
「おまえに声を掛けそびれているうちに、あとを尾けてしまった。すまない」
「…………」
「あれから、何度も貴彬殿の屋敷を訪ねた。だが貴彬殿の行方はようとして知れぬままだ。火月と水月にそのことを話したら、二人は何も答えずに……ただ、俺はもうこの終の涯に居てはいけないと……言われた」
 込み上げる痺れるような息苦しさに、心のよじれるような葛藤に、声が詰まりかける。だがそれを振り切り、葵は続けた。
「今日、鏡花殿にもお会いした。そこで言われたんだ。おまえが貴彬殿を喰った、と」
 夜光は身動きしない。瞬きすらしない。氷の彫像のように立ち尽くしている夜光に、葵はいったん言葉を切って深く呼吸をする。そして思い詰めた末の問いかけを重ねていた。
「夜光、おまえはいったい何をしたんだ。本当に貴彬殿を喰ったのか?」
「私は……」
 動き出す術を忘れてしまったように、夜光は立ち尽くしたまま言い澱んだ。途方に暮れた幼子のような、ただただ戸惑い、今にも泣き出すのではないかと思うような眼差しで。
 立ち尽くすばかりで一向に要領を得ない夜光に、葵は次第に焦れてきた。思わず、夜光の細い両腕を掴んだ。
「夜光、答えてくれ。俺は、おまえの口から出た言葉でなければ信じない。俺に本当のことを教えてくれ」
「葵……」
 びくりと後ずさりかけた夜光の唇が、月明かりに青ざめて震えた。ますますその瞳が、当惑したように葵を見返す。
 違う、と否定する言葉をいつまでも聞けないことで、葵の忍耐力もいよいよ焼き切れてきた。これまでさんざん波立つ感情を、疑惑を抑え、れた心が苛立つさざなみとなり、葵の眼差しと声に棘を含ませる。
「なぜ答えない。本当のことを言えないのか? ならばおまえは、やはり喰ったのか」
 いやいやするように、夜光が首を振る。その仕種に、乳白色の髪が儚く夢のように月光を散らす。
 夜光がさらに後ずさり、白く細い腕が葵の腕を振り払おうとした。瞬間、カッと葵の中で、抑えに抑えてきたあらゆる感情が沸騰した。
 胃の腑が燃え上がり、喉を焼くように突き上げてきたものと裏腹に、零れ落ちた声はかつてないほど低く押し殺された。
「……そうか。ならば俺を助けたのも、いずれは喰うためだったということか」
「それは」
 初めて、夜光が大きく反応した。ようやく正気に返ったように、瞳と声音を震わせて、葵に強く言い返した。
「それは違います、葵。私はそんなつもりで、おまえさまを助けたのではありません」
「では、何のために俺を助けた? おまえは人間のことを忌み嫌っているのだろうに」
「それは……確かにそうですが。でもだからといって、放っておけば命が危ういものを、見捨てておけるわけがないでしょう」
 泣き出しそうに見える懸命な夜光の訴えに、しかし葵は薄く笑った。夜光の震える声も瞳も言葉も何もかも、問い詰められて取り繕っただけのものに見える。そう見えてしまうほど、感情の箍が弾け飛んだ葵もまた、冷静では無くなっていた。
「人間を喰う妖がそれを言ったところで、どう信じろという」
 つかんでいた夜光の腕から指を放し、葵は一歩後ずさった。
「おまえは過去にも、身寄りの無い相手を選んで喰っているそうだな。若い人間の血肉は、妖にとって美味だという。年若いマレビトである俺は、まさしく喰うにはうってつけの相手じゃないか」
「そんな。葵、私は本当に」
「では、貴彬殿をどうした。過去に喰ったという者達も。おまえは本当に、何もしていないのか?」
「それは……」
「していないなら、そう言ってくれ。……頼む」
 それは最後の、縋るような懇願だった。これで否定してくれるなら、それでいい。他の誰が何を言おうと、夜光が違うというのならばそれを信じる。
 だが、望んだ答えは返ってこなかった。重苦しく張り詰めた沈黙が落ち、うつむいた葵は拳を石のように固く握り締めた。
「……そうか。分かった」
 冷静になれば、もう少し言い様もあったのかもしれない。だが一度弾け飛んでしまった自制心は、葵の目と耳もまた昏迷の中に閉ざし、塞いでしまった。
 喰ったのか、という問いかけを否定しない夜光に失望したのか。夜光に裏切られたことが哀しいのか。貴彬の心と誠を踏み躙った夜光に腹が立つのか。乱れる感情がいくつも混ざり合って、自分でももう収拾がつかない。
 それに、貴彬が夜光に喰われたのならば──死んだのならば、葵もまた共犯だ。言い様もない真っ黒い穴が、胸に穿たれたようだった。
 夜光と過ごした日々が、葵を支えてくれていた暖かく明るい何もかもが、その暗い穴に飲まれてゆく。何も知らずに安穏と過ごし、この場所で夜光がいるならなんとか生きていけると思ったことが、幻想のように崩れてゆく。
 一切がひどく虚しく悲しく、どっと虚脱感がやってきた。と同時に、苦く自嘲した。
 自分は、夜光との関わりに夢を見すぎていたのだ。人と妖と、異なる者同士でも心を通わせることは出来ると思っていた。だが今思えば、それはなんという甘く浅はかな期待だったのだろう。
 夜光が人を喰ったからといって、それは妖達から見れば、きっとたいしたことでもない。自然淘汰ですらあるのだろう。
 だが葵は、自分と同じ「人間」が妖に喰われたと聞けば、平静ではいられない。まして好感を抱いていた人間を、信頼していた相手に無惨に踏み躙られ、喰われたとあらば。
 しょせん夜光は妖で、自分は人間で、ここは──妖達の暮らす街なのだ。
「葵……」
 黙り込んだ葵に、佇む夜光が、掠れた声で小さく名を呼んだ。悲嘆に暮れたようにも聞こえる声音だった。だが今の葵には、もう夜光の何を信頼して良いのか分からなかった。
「なんだ。何か言いたいことがあるのか」
 固い声と眼差しで、夜光を見返す。夜光が喉を震わせ、白い面を隠すように下を向いた。その一瞬、前に流れた乳白色の髪の隙間から、頬を伝う光るものが見えた気がした。
「私には私の、事情が……ことわりがあります……」
 掻き消えてしまいそうな声で、夜光がうつむいたまま言った。
「……そうだろうな」
 妖には妖の理がある。それを否定しようとは思わない。だが、妖の理を人間である葵が受け入れられるかと言えば、それはまた別の話だ。
 そう考えたことをまるでなぞるように、夜光が呟いた。
「それを、葵に分かっていただこうとは……思いません」
「そうか」
 心が冷えてゆく。あれほど親しく暖かく思っていた夜光との繋がりが、冷ややかな己の声音と、互いに理解を拒絶した言葉によって、引き裂かれてゆく。
 それを奇妙なほど克明に感じながら、同時に泣きたいほど胸の奥が痛んだ。
 夜光を憎らしく思う気持ちも、嫌悪する気持ちも、こうなってさえ不思議なほど無い。葵の奥深くには、変わらず夜光を想う柔らかな気持ちがある。
 だがそれは叶わないものなのだと、人と妖は分かり合えないのだと、他ならぬ夜光が、はっきりと葵に知らしめた。
「それならもう、話すことは無い」
 言って、踵を返した。これ以上はもう、ここに留まることのすべてが無益だった。
 漠然と外へ往こうと歩き出した背を、しかし抑えた声が呼び止めた。
「……お待ち下さい」
 その声を聞いた瞬間。びくりと、総身が強張った。
「お待ちを。──何もそう急がなくてもよろしいでしょう」
 低められているわけでも、凄んでいるわけでもない夜光の声音。だが感情のまったく宿らないそれは、凍てついた真冬の泉よりも冷え冷えとしていた。
 振り返った葵の視界に、ゆっくりと面を上げる夜光が見えた。鬼火が宿ったような紫の瞳が白い髪の間で爛と耀き、その形の良い唇が薄く微笑んでいた。
「もう少し、ご一緒にお話し致しませんか。私のことを知りたいと仰るのなら」
「……ッ……」
 思わず、葵は後ずさった。
 そこに立つ夜光は、葵の知っている夜光ではなかった。そこにいたのは、あの夕闇の中で見た、人ならぬ魔性のものだった。
 初めて正面に見たそれの双眸が、月明かりを浴びて凄艶なまでに妖しい燐光を放っている。それが決して逃がさぬというように、真っ直ぐに葵を捉えていた。

 ──ああ。知られてしまった。
 と、懸命な様子で言葉を連ねる葵を前に、夜光は半ば茫然と思っていた。
 葵に知られてしまった。葵にだけは知られたくないと、そう思っていたのに。
 葵の様子がどこかおかしい気はしていた。だけれどまさか、自分が貴彬の命を奪ったその瞬間を見られていようとは思わなかった。
 いつか完全な妖となる、という望みのために、夜光はかつて願を立てた。「十の心と契りと命」を贄とする、恐ろしい願を。
 それがどれほど惨いことか、考えたことが無いわけでは無い。だがそれでも、その願いは夜光にとって生きる支えであり、どうしても必要なことだった。
 貴彬がその犠牲になったのは、偶々の巡り合せだ。相手が人間であろうと妖であろうと、贄の対象に制限は無い。そしておそらく葵が思い描いているように、貴彬を「喰った」わけでもない。
 だがそれを説明したところで、葵の心は晴れないだろう。惨いと知りながら、夜光が己の都合ひとつで他者の心を弄び、命を奪ったのは事実だ。むしろ真相を知れば、ただ捕食するよりも残酷だと責めなじられるかもしれない。
 こんな醜くおぞましい夜光を知れば、きっと心優しい葵は失望し、嫌悪する。だから、多くは望むまいと思っていた。最玉楼の夜光、穢れた半妖の夜光ではなく、「ただの夜光」として葵のそばで笑っていたいと。それ以上は望むまいと思っていた。
 ──それも叶わなくなったこの瞬間、夜光は理解した。
「葵……」
 掠れた声で、小さく葵の名を呼んだ。
 ああ。自分は、こんなにも……葵のことを慕っていたのだ。
 ただそばで笑っていられたらいい。それは偽りの無い心だった。だがそれも叶わなくなったとき、夜光の心は大きく揺れ動いた。
 もう葵は、夜光に笑いかけてくれないだろう。かつて遠い昔、蓬莱で人間達が幼い夜光に対してそうしたように、憎しみと嫌悪をこめた眼差しで夜光を見るようになるだろう。
 人間とそれ以外が理解しあえることなど無い。だから葵が悪いのではないと、頭では分かっている。
 だけれど。
「……もう少し、ご一緒にお話し致しませんか。私のことを知りたいと仰るのなら」
 背を向けて立ち去ろうとする葵を見送れず、夜光は自分の中の魔性が目覚めるのを自覚した。
 ──葵が悪いのではない。だが、抑え切れない。
 どうせ失うのなら、もう何を見られても良い。どう思われても構わない。
 心が手に入らないのなら、それ以外のものだけでもこの手に摘み取ってしまおう。心以外の、葵の何もかもを。
 ゆっくりと嗤った心の奥底で、もう一人の自分がいていた。それを奇妙に自覚できるのが可笑しかった。
 立ち竦んだ葵に向かって踏み出しながら、救いようも無く罪深い奈落に堕ちてゆくような気がした。

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