夜明けまで (二)

 記憶にある姿とは、大きく異なっている。だが背格好や声、穢れの中に垣間見える妖気は、間違いなく「槐」という名を持つ旧友のものだった。長を「空」という勝手な綽名で呼ぶ者もまた、槐の他には誰も居ない。
 さすがに少々驚いたものの、それを認めると長は微笑した。墨染めの装束の友人に歩み寄り、あえて普段と変わらない態度で出迎えた。
「しばらくですね、槐。一言くらい先触れを寄越せば良かったものを」
「とっ捕まっている間に、使い魔どもも皆死ぬか、何処ぞへ逃げ散ってしまったんだ」
 足を踏み出しかけた槐だが、そこでまた、ぐらりとよろめいた。長は進み出て腕を差し伸べ、自分より上背のある偉丈夫である槐を難なく支えた。
 長に凭れかかる格好になった槐は、身体がきかないように、苦しげに息を吐いた。
「……っ……、すまん」
 どうにか呼吸を整えながら、槐が言う。その頬には血の気がなく、脂汗が浮いていた。
 かつてはどれほど深手を負っても、常に昂然と顔を上げていた彼らしくもない様子と、直に伝わってくる妖気の澱んだ穢れ。長は僅かに眉根を寄せた。
 伝わってくる命脈の波動からして、命に別状はないようだ。だが、全体にひどく弱っている。それにこの黒い穢れは、何か強烈な怒りや恨み……呪詛の気配を含んでいる。
「楽にしていなさい。私の前で痩せ我慢なぞ、するだけ無駄です」
 いったい何があったのかと思いつつも、長は普段と変わらぬ鷹揚さで言い、槐に肩を貸した。はは、と槐は笑い、素直に長に体重を預けた。
「言ってくれる。──まあ、そうだな。とりあえず、疲れた。しばらく厄介になってもいいか」
「勿論ですよ。では、部屋をひとつ用意させておきましょう」
 長は槐を畳の地敷まで連れていき、脇息を寄せて、楽な姿勢で座らせてやった。
 呼び鈴の紐を引いて側仕えの者を呼び、手短にいくつかの指示を出してから座に戻る。見ると槐はぐったりと脇息に凭れ、僅かな間に意識を失っていた。
 傍らに腰を下ろして、長はその様子を伺う。槐の眠りは深く、呼吸もひどく静かだった。
 突然戻って来た旧友の無事を嬉しく思う傍ら、その弱り方と変貌に、手放しで喜ぶのもためらわれた。
 死んだように眠る槐の肩から背を覆い、地敷にまで散っている、長い黒髪。無造作に伸び、毛先もざんばらなそれは、紙燭の明かりに照らされながら、光すらもその漆黒に吸い込んでいた。

 傍らに座り、治癒の術式を施してやっていると、じきに槐は目を覚ました。
「いかがですか、ご気分は」
 問われた槐は、面の奥に見える紫の瞳をぱちくりさせる。己自身の身体と長とを、妙にしげしげと眺めまわした。
「相変わらず化け物だな、おまえは。ここに来る前と比べたら、冗談のように手脚が軽いぞ」
「ご挨拶ですね。少しは素直に感謝したらどうです」
「充分しているだろう。これでこそ、わざわざこんな僻地まで来た甲斐があったというものだ」
 悪びれない槐に、長は溜め息を吐きながらも苦笑する。奔放で無遠慮な槐が変に大人しい方が、かえって心配になろうというものだった。
 それにしても、「何か欲しいものは」と訊ねて即返ってきたいらえには、さすがの長も耳を疑った。
「そうだな。それじゃあ、美味い酒が呑みたい。それから肴だ。何しろ今までずっと、悪趣味極まる獄に繋がれていたものでな。生きて帰った証が欲しい」

 部屋に灯かりを増やし、新たに用意させた酒と肴の載った膳を前に、長はゆったりと旧友と対座した。
 槐の状態が気懸かりだったが、当の本人が「大事ない」と言い張っているし、ある程度の治癒は既に施してもある。
 呆れつつも、槐が望むならば今はそれも良いかと、長も付き合うことにしたのだった。
 だが、かつて槐という夜叉から感じ取れた峻烈な白刃のような妖力の波動は、やはり黒い靄に包まれたように濁ったままだった。かつては白銀の輝きを帯びていた一対の角も、今は灰色に近いほどくすんでしまっている。
「まだ本調子とは、到底いかないようですね」
 長が口を開くと、槐は脇息に凭れて杯を手に取りながら、つまらなそうに笑った。
「さすがにな。当分は大人しくしているさ」
「ひどい内乱だったとは聞き及んでいます。災難でしたね」
「ああ。我が一族ながら、一度火が付くと手がつけられん」
 というのは、かつて数ある異界の中の一つである夜叉の国で起きた、玉座を巡る凄惨な内戦のことだった。ざっともう、三十年は前の出来事になるのだろうか。
 こう見えて槐は、傍系ながら夜叉一族を束ねる王家の血を引いている。武勇の誉れ高く、血筋の上でもまったくの無関係ではなかったことから、内乱の渦中に巻き込まれてしまったのだ。
 当時長がそれを知ったのは、槐の使い魔である白梟が、瀕死で飛び込んできたときだった。
 遠い夜叉の国が乱れている、ということ自体は聞き及んでいたが、槐とは普段、何ら遣り取りがあったわけでもない。槐はふらりと気まぐれに最玉楼を訪れては去って行く、自由な風のような存在だった。
 それだから、突然やってきた白梟が告げるまで、槐が人間の娘との間に子を成していたことも、まったく知らなかった。
 白梟は長にその子のことを託して息絶え、それっきり槐からの音信は途絶えてしまった。
 いったいどこにいるのか、無事でいるのか……ひそかに案じ続け、そして今、当時の美しく猛々しい白い夜叉とは別人のような、墨染めの衣に漆黒の髪を持つ夜叉が、目の前に居る。
 長く行方知れずの間、いったい何があったのだろう。そう思ったのが伝わったのか、槐は皮肉気な笑みを浮かべた。
「俺には敵が多くてな」
「そうでしょうね」
 あっさりと肯定した長に、槐はおかしげに笑った。杯を口に運び、続ける。
「中でも身内に、俺を蛇蝎のように嫌っている奴がいる。先の内乱では、同じ陣営に属していたはず、なんだがな。つまらんことにそいつに背後から騙し討ちをされて、囚われの身となった」
 槐は自らの顔の大半を覆っている面に、つと指先をふれさせた。
「この面の下の顔は、そこで潰されたのよ」
「それはまた……随分と卑劣で惨いことをする」
 その者は、余程槐に恨みがあったのか。戦の最中に味方を騙し討ちするやり方も、顔を潰すというやり方にも、ぞっとするような執念が感じられた。
「話の続きを聞いたら、もっと胸が悪くなるぞ」
 面の下で、槐はくつりと唇を笑み歪めた。長は小さく眉根を寄せた。
「何があったのですか?」
「あやうく、巫蠱に仕立て上げられるところだった」
「──なんですって」
 あっさり告げられた言葉に、長は絶句した。槐はぐいと、杯を干した。
「俺は滅多なことでは死なん。それをいいことに、四肢を砕かれ妖力を封じられた上で、無数の怨鬼を拠り集めた岩屋に放り込まれた。俺が死ねばそれはそれで良し、生き延びれば強力な祟り神の出来上がりだ。どう転んでも、向こうにとっては愉快な話だったろうな」
「なんということを……」
 ではこの、槐の姿を本質から歪める異様な穢れはそのためか。そんな状態で、三十年余りも槐は過ごしてきたのか。
 あまりのことに二の句を継げずにいる長に、槐は己の漆黒の髪を無造作に掴んだ。
「岩屋に閉じ込められるうち、この身に流れる血も髪も、ご覧の通りの闇に染まった。これは黒ではなく闇の色だ。さすがの俺も、今度こそ駄目かと思ったぞ。我ながら、よくぞ正気で堪えたものよ」
 種族や持ち合わせた力によっても差はあるが、総じて妖は長寿であり、身体も頑丈に出来ている。特に力の強い妖は、命の珠をいくつも持ち、そう簡単に死ぬことはない。
 槐も複数の命の珠を持つ、強靱な妖だった。その命の珠がかなり目減りしていることを、長はあらためて確認した。
「……よく、ここを訪ねて下さいました。それから、よくぞご無事で。おまえにまたこうして会えたことを嬉しく思います、槐」
 心の底から、長は言った。
 この様子からして、槐はどうにかして岩屋を脱け出し、身動きできるようになってすぐ、ここを訪れたのだろう。槐を陥れたくだんの輩が今どうしているのかは知らないが、ここまで弱った槐が安全に過ごすには、この終の涯以上に適した場所はあるまい。
 長ですら悪寒を生じるほどの目に遭った槐を痛ましく思うと共に、生きて戻ってくれたこと、追い詰められた時に長を思い出してくれたこと、頼ってくれたことを、あらためて嬉しく思った。
「もう少しなじられるかと思っていたが。しばらく見ないうちに、少し丸くなったのではないか、空?」
 今度は槐は、心からのようにおかしそうに笑った。その口調も笑い方も、昔から何も変わっていない。姿こそ闇色を帯びて変容してしまっているものの、槐の気ままで豪放磊落な気質は何も変わっていないことが伝わり、長も思わず微笑した。
「おかげさまで。私も義理とはいえ、親になるという貴重な体験をさせてもらいましたからね」
沙霧さぎりを引き取ってくれたのだったな、おまえは」
 素顔を隠す面の向こうで、槐が表情をあらためた。
「あのときは、式を飛ばすだけで精一杯だった。あれだけの言付けで手を尽くしてくれたことに感謝する」
 使い魔のことを、式とも呼ぶ。当時のことを思い出し、長は緩く首を振った。
「今こうして、無事に訪ねて下さったのですから。あの子にも私にも、それで充分ですよ」
 沙霧、と槐が呼ぶのは、夜光のもうひとつの名。長に引き取られる以前の、蓬莱にいた頃の夜光の名だ。
 視線を俯けた槐が、呟くように言った。
小夜香さやかにも沙霧にも、すまないことをした。……あんなことになるのなら、初めからおまえに二人を預けてゆくべきだったな」
 小夜香とは、かつて槐が愛した人間の女性。つまりは夜光の母親の名だった。
 巫覡かんなぎであったその女性と、夜叉である槐。二人の間に何があり、つがいとなったのか、それは長も分からない。だが蓬莱から夜光を引き取った折に、夜光の記憶を通じて──夜光自身は、赤子の頃の記憶ゆえ覚えていないだろうが──かつての二人の姿を垣間見ていた。
 槐も小夜香も、互いを深く信頼し、心から愛し合っていたこと。やがて生まれた赤子を囲んで人間の里で営まれた、束の間の日々の幸せ。
 槐も好き好んで、愛する者達の傍を離れたのではない。長はまた、緩く首を振った。
「おまえが悪いのではありません。第一それを言うなら、私の方がもっと気を付けていれば良かったのですよ」
「あのときおまえは、俺が小夜香との間に子をなしたことさえ知らなかっただろうが」
 酒を呑みながら、槐は呆れたように言った。
「まさかこの俺が、人間の女の手に堕ちようとは思わなんだが。強く美しい女だった。あんな女には、もう二度と巡り会えん」
 懐かしげに、穏やかに呟いた槐に、長はふと気懸かりに思った。
 槐は、小夜香という女性が既にこの世にないことを知っているのだろうか。夜光の記憶によれば、槐が蓬莱を発ち夜叉の国に戻ったのは、まだ彼女が元気な頃。あの村も豊かな頃だった。
 しかしそれから間もなく、彼女は流行病によって、幼い夜光を残し急逝してしまった。
「槐。その女性は、今は……」
「知っている」
 遮るように槐は答えた。
「来てくれたからな、岩屋まで。俺が生き延びたのは、あれのおかげだ」
 生前は巫覡であった女性。それゆえだろうか。それとも、槐を恋い慕う想いの深さゆえだろうか。
 槐の言葉に、長は少なからず驚いていた。それは槐が語ったと同時に、数珠つなぎに長の中に流れ込んできた情景のせいでもあった。
 意識せずとも、ひとつのことを知り、それを気にかけると、それにまつわる情報が一瞬にして流れ込んでくることが、長にはある。それは千里眼とも、万物と繋がり共振する長の特性とも言えた。
 このとき垣間見たそれは、魂となって槐に寄り添い、守護し、ついには蠱毒の壺と化した岩屋で力尽きて消滅した、その女性の様子だった。
「そうでしたか……」
 槐も様子からして、きっと理解しているのだろう。岩屋を訪れた彼女が、今はもう霊魂すら存在していないことを。
「人間とは脆いな。脆くて、儚い。──だが、時として恐ろしく強い」
 呟くように槐は言った。面の下の素顔がどんな表情をしているのか、長には見えなかった。
 長も様々なことに思い巡らせながら、頷いた。
「ええ……本当に、そう思います」

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