夜明けまで (三)

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「沙霧は、息災か?」
 空気を変えるように、槐が杯を取り直しながら言った。問うてから、気が付いたように言い直した。
「ああ、違うか。今は夜光と呼ばれているんだったな」
「おまえがあの子を呼ぶ分には、沙霧で良いかと思いますよ」
「いや。あれはここに来てから、ずっと夜光と呼ばれてきたんだろう。あれが俺のことを覚えているとも思えんしな。夜光でいい」
 何を思いながら槐がそう言ったのか、それは長には分からなかった。しかし「息子に会いに来た」と言い、息災かと訊ねた槐が、夜光に対して無感動であるとも思えなかった。
 何より、自らも窮地に陥った中で、槐は我が身よりも我が子のことを優先して長に託したのだから。
「夜光は、誰の前に出しても恥ずかしくない立派な若者に育ちましたよ」
 長は微笑んで言い、いったんそこで言葉を切った。
「……槐。おまえに話しておかなければならないことがあります」
 あらたまった長に、槐は面の下で目を上げた。
「あまり楽しい話でもなさそうだな」
「そうかもしれません。ですが、大切なことです」
 幼い夜光は人間達に「鬼の子」と虐げられ、それゆえ多くのものを歪められてしまった。夜光が冥魂珠めいこんじゅに手を出したこと、そして今の状態についてを、実の親である槐に話さないわけにはいかないだろう。誰にとっても、望ましい状態ではないからこそ。
 夜光が今に至るまでの出来事を、長は要点を押さえながら、ゆっくりと語り始めた。

 長の語る言葉に、槐はただじっと脇息に凭れたまま耳を傾けていた。その間ほぼ身じろぎもせず、酒にも肴にも手を出そうとせずに。
「冥魂珠とは、また思い切ったことを」
 一通り聞き終えると、槐は軽く溜め息をついた。それから長に向き直り、深く頭を下げた。
「あれをこの終の涯に置いてくれたことに、あらためて礼を言う。よくあれの面倒を見てくれた、空」
 長はやんわりと笑みを含んだ。
「ここは私の庭です。来るも自由、去るも自由。あの子がここに居たいと言う限り、私はあの子を受け入れて守りますよ」
「そうだな。ここはそういう場所だったな」
 面を上げた槐が、思わずのように破顔した。
「おかげで、こんな有り様で他では煙たがられる俺でも、ここでなら悠々自適だ。おまえのむやみな寛大さには、心底恐れ入る」
「私にはこれが生き甲斐ですから。この美しく平穏な箱庭の番人であることが、何よりのね」
「箱庭か。まるで神の遊びだな」
 くつくつと槐は笑う。
 長は肩にかけていた生地の薄い長衣を引き上げて、脇息に肘をついた。
「私は、神などではありませんがね」
「神も妖も、境界など何処にあるのか分からんさ。少なくともこの終の涯にとっては、おまえは神だろう」
 槐は杯を手に取り、考え込むようにしながら口元に運んだ。
「それにしても、だ。……俺が夜光に親だと名乗り出るのは、今しばらくは控えたほうが良いかもしれんな」
 ぽつり、と呟いた槐に、その飲み干してからになった杯に酒を注いでやりながら、長は答えた。
「本来のあの子であれば、事情が事情なのですから、悩みはしても、おまえを恨むようなことはないと思います。ですが今は、その方が無難かもしれませんね」
「恨まれても仕方がない、とは思っている」
 半分とはいえ妖の子であったばかりに、夜光は筆舌に尽くしがたい苦しみを受け、それが遠因となって冥魂珠を手にするに到った。そしてその結果、底なしの沼にはまってゆくように、心から愛した相手の命を奪うことになった。
 そこに渦巻く様々な感情は、今さら夜光自身にとっても理性の制御を受け付けない、どうにもならぬもののはずだ。
 しかし長は、こうして血を分けた息子を案じて訪ねて来た槐の感情もまた、無下にはしたくなかった。それに槐にとっては、夜光は愛した女性の忘れ形見でもあるのだ。
「……それでは、こうしましょうか」
 しばらく考えた長は、黙って呑んでいる槐に向けて、睫毛の長い金色の瞳を巡らせた。
「おまえを湯治客ということにして、ここに滞在する間、あの子をお前のお側付にしましょう。しばらく様子を見て、親だと名乗るかどうかを判断すれば良いかと」
 夜光が妖である父親を受け入れ、両親に深く愛されていたことを理解できれば、半人半妖という己自身のことも、今よりは嫌わずにすむのではないだろうか。
 何より長としては、失われた親子の絆を、二人に育ませてやりたかった。
「ほう。なかなか気の利いたことを思い付くじゃないか」
 槐も乗り気になったらしく、そして明らかに面白がるような色を湛えて、にやりと唇を笑ませた。
 昔から槐にしばしば見ていた、悪童めいたその笑みに、長は若干たしなめる表情になった。
「あの子は今や、私の子でもあるのですからね。お側付といっても、あまり横柄に振る舞ったり、困らせるようなことはいけませんよ?」
 天邪鬼なところのある槐は、昔から好感を持つ相手ほど、からかったり怒らせたりして喜ぶところがある。それを思い出して釘を刺した長に、槐は楽しそうに笑ったまま、いかにもおざなりに頷いた。
「ああ、分かった分かった。そう無理はさせんよ」
「本当に、約束してくださいね」
「分かったと言うに。まったく、この世に並ぶもの無き盤古ともあろうものが。おまえもすっかり親馬鹿だな」
 にやにやと面白そうに見る槐に、長はにっこりと微笑んだ。
「それはもう。おかげさまで、目の中に入れても痛くないとはこういうことか、と思うようになりましたよ。あの子を虐める相手がいたら、骨も残さず焼き払ってやろうと思っております」
「恐い恐い」
 槐が広い肩を大袈裟にすくめた。
 皮肉や憎まれ口を交えながら、懐かしく可笑しく杯を交わし合う中、麗しい春の夜は過ぎていった。


 眠りながら零した涙で枕が濡れ、夜光はその冷えた感触で目を覚ました。
 あまりよく眠れず、鈍い重さが芯から消えないままの頭で、薄明るくなっている視界を見渡す。最低限の家具があるばかりの質素な部屋が、障子を透かす夜明け刻の弱い明るさの中、紫色の瞳に映し出された。
 瞳も頬も涙で濡れていることは、いつも通りだった。手が無意識に、枕元に置いた匕首と、水晶の数珠──冥魂珠──を求めて動くことも、寝床の中でそれらを抱き込んで独りで咽び泣くことも、いつものことだった。
 葵が唯一つ残した形見である黒塗りの匕首は、もともとは家紋入りの綾錦の袋に収まっていたが、今では夜光が縫った袋にしまわれている。元の袋は、せめて葵の代わりに蓬莱に還れるといいと、夜光が海に流してしまったからだ。
 袋の口を解いて、匕首を取り出して抜いてしまいたい衝動を、それを胸に突き立ててしまいたい衝動を、これもいつものように、声を殺して泣きながら懸命に夜光はこらえた。
 ──夢にさえ葵は現れてくれない。
 夜ごと見る夢の中で、夜光はいつも、一人きりで真っ暗闇の中にいた。何も見えない暗闇は素足にひやりと冷たく、夜光はいつも泣きながら、果てのない暗さの中、葵の姿を探して彷徨い歩いた。
 きっと葵の魂は、今頃は極楽にあるのだろう。だから、生きながら煉獄に堕ちた夜光のもとになど、夢の中にでさえ現れてくれないのだ。このままきっと、夢の中でさえ、もう会えない。
 葵の名を声に出して呼ぶことすら、あまりにつらくてできなかった。夜光はただ匕首を抱き締めて、喉を震わせて泣き続けた。
 そうこうしているうちに、幾分かはまどろんだのだろう。次に目を開いたときには、視界は先程より明るくなっていた。
 瞼が腫れぼったく、頭も手脚も重かった。夜が明けて寝床に起き上がるたびに、疲労がほとんど抜けていないのを感じる。
 それでも、何もせず横になっている方が苦痛だった。陽の明るさにいくらかでも救われたような気持ちになりながら、夜光はけだるさを引きずったまま、身を起こした。

 冥魂珠を首にかけ、地味な色の着物を纏い、匕首を大事に懐に挿し込む。顔を洗い、肩までの髪をくしけずる。
 夜光の暗く澱んだ心とは裏腹に、乳白色の髪はふわりと光を孕み、薄い肩の上で煌めいた。
 身支度が済んでも、まだ勤めが始まるには時間があった。
 いつもながら朝食を摂る気にもなれず、かといって部屋に一人でいるのも息が詰まるようで、夜光はふらりと沓脱から庭に降りた。
 どうせ食事などたいして摂らなくても、死ぬことはない。あたりに満ちる精氣から、生命を維持するための最低限の滋養は、半妖の身体は勝手に摂り入れてしまうのだから。
 葵を失ってしまってから、夜光は哀しみ嘆く以外の心が死んでしまったようだった。何を見ても聞いても、楽しいとも面白いとも思えない。きっとこのまま、自分は死んだように生きてゆくのだろう、と思う。
 ただ、「美しい」と感じる心だけは、かろうじで生きていた。夜光の足は無意識に庭を歩き、少し行った先にある、苔むした古い巌と大きな枝垂桜のある庭園へと向かっていた。
 今日も終の涯の空は、穏やかに晴れている。
 庭木の巡らされた小路を折れ、しばらく歩く。やがて淡く光の零れるような、見事な枝垂桜の古木が見えてきた。
 ふと、足を止めた。
 ──枝垂桜の下に、墨染めの衣を纏った、上背の高い誰かが立っている。
 ゆるやかな風に、腰を覆うほど長い黒髪が揺れている。背格好からして男性だろう。思わず、夜光は紫の瞳を瞠った。
 ──葵……?
 蓬莱から来たマレビトの証。虚ノ浜で初めて会ったとき、葵は長い黒髪を、濡れた砂浜に散らしていた。
 いやと、すぐに打ち消す。葵であるわけがない。それに葵は、終の涯に来て間もなく、生来の朱色あけいろの髪に戻っていたのだから。何より、葵がこんなところにいるわけがない。なぜなら葵は──死んだのだから。
 それでも一瞬のうちに理屈を飛び越えて甦り、重ね見てしまった思い出と幻に、夜光は切なさのあまり茫然と立ち尽くした。
 枝垂桜の下に立つ男は、葵よりも幾分背が高いようだった。漆黒の闇を吸い込んだような黒髪が、葵よりも長く、無造作になびいている。その黒髪と墨染めの衣が、花びらの舞う枝垂桜の下、いっそう映える。
「おや」
 立ち尽くしている夜光に、先方も気付いたのだろう。振り返ったその顔に、夜光は少し驚いた。
 男は、左の頬から口許にかけてだけ素肌の見える、奇妙な面を掛けていた。その額には、一対の白い角が生えている。面と着物とでよくは見えないが、男はどうやら、顔にも身体にも、たくさんの傷痕があるようだった。
 見覚えがなかったから、最玉楼の客なのだろう。誰かと顔を突合わせたい気分でもなかったが、内心やむなく、夜光は腰を折ってお辞儀をした。最玉楼の従業員として、客人相手に粗相があってはいけなかった。
「失礼致しました。おはようございます、旦那様」
 進み出て挨拶をしたが、相手からは何も返ってこなかった。見ると男は、面の下から、物言わずじっと夜光を見つめていた。
 不躾な視線だったが、かつては最玉楼の誇る名高い「花」であった夜光は、初対面の他人に凝視されることにも慣れていた。
 だが、すぐ怪訝に思う。顔のほとんどを覆う面のせいで、男の表情の仔細は読み取れないが、その視線にはいわゆる熱っぽさのようなものが、一切感じ取れない。
「……空の言う通りだ。立派になったな」
 やがて男が、ひとりごちるように呟いた。
「え?」
 小さな声だったのであまりよく聞き取れず、夜光は思わず声を返していた。
 男はじっと夜光を見つめていたが、ふいに相好を崩した。顔の大半を面に覆われていてさえ笑ったことがはっきりと伝わる、それは晴れ晴れとした明快さだった。
「大事にされているのがよく分かる。良い親を持ったな、夜光」
 夜光。見ず知らずの相手に突然名を呼び捨てにされ、夜光はますます困惑した。
「良い親」というのは、長のことだろうか。ということはこの墨染めの衣の男は、長の客だろうか。そうであれば、ますます失礼があってはいけない。 
「あの、旦那様は……?」
 夜光が問いかけると、男はよく通る声で答えた。
「俺の名は槐という。空の昔からの知り合いだ。ああ、空というのはあれのことだ、ここの楼主。あやつの好意で、しばらく湯治のために厄介になることになった」
「はあ……」
 槐と名乗った男が、長のことを「空」などと妙な綽名で気軽に呼び捨てることは勿論、恐れ多くも「あやつ」呼ばわりすることにも、夜光はかなり面食らった。
 なんだろうこの男は、と困惑していると、槐がにやりと笑いかけてきた。それはどこか、悪戯な子供のような笑い方だった。
「後ほど、空から正式に引き合わせがあるだろう。よろしく頼むぞ、夜光」
 どういう意味だろう、とますます困惑し、夜光は細い首を傾げる。
 さっぱり意味が分からないが、長が何か絡んでいるなら、その息子としても最玉楼の者としても、不足なく勤めるまでだった。
 夜光は気を取り直すと、槐に向かって深く腰を折った。
「私にできることであれば、精一杯務めさせて頂きます。よろしくお願いいたします、槐様」
 深く頭を下げた夜光には、槐の様子は窺えなかった。すぐに言葉は返らず、やや間があってから、妙にしみじみと呟くような声が聞こえた。
「本当に、立派になったな……あれを思い出す」
「槐様?」
 最後の方は、よく聞き取れなかった。顔を上げた夜光は、飾り気のない面の奥で、槐がひどく懐かしげに瞳を細めるのを見た、気がした。
 ──紫水晶のような、咲き初めた紫苑のような、鮮やかで透明な瞳の色。
 だがその目許は面の陰になり、光の加減もあって、はっきりとは見えなかった。
 この人はもしかしたら、まだ幼かった頃の自分を見たことがあるのかもしれない。夜光が考えているうちに、槐は墨染めの衣の袖と長い黒髪を、ばさりと返した。
「では、また後ほど」
 言い残した槐は、あとは振り向きもせず、枝垂桜の下から歩み去っていった。
 ──いったい、どこの誰なのだろう。
 その黒い後ろ姿を見送りながら、夜光はまた首をひねった。長い黒髪をなびかせた後ろ姿は、じきに花霞の向こうに消えていった。

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