その日の昼前に、夜光は長の小御殿に呼び出された。
明るく風通しの良いこの小御殿は、夜光にとって幼い日々の思い出が詰まった特別な場所だ。幼い夜光は、この最玉楼に引き取られてから、長と共にずっとこの御殿で暮らしていた。
広々と天井の高い、長が好んでよく過ごしている板敷の間に一歩足を踏み入れると、馥郁とした香りがふわりとかすめた。爽やかなようで仄かに甘いこの匂いは、これも長が好んでよく焚く香の匂いだった。
「ああ。来ましたね、夜光」
畳の地敷に脇息を寄せて座っていた長が、夜光に美しい金色の瞳を巡らせた。そばに置かれた美事な錦の几帳が、きらきらと光りながら微風に揺れている。
いつもながら心地良い長の居室だが、今日はその明るさに似つかわしくない姿がひとつ、長の傍らにあった。
地敷にどかりとあぐらをかいて、脇息に頬杖をついている、黒衣の男。光をも吸い込んでしまうような漆黒の長い髪に墨染めの衣、奇妙な面と着物の陰に覗ける肌には無数の傷痕……この明るい場所にあって、何か不吉めいたものに見えるその姿は、枝垂桜の下に立っていたあの男に相違なかった。
長の知り合いというのは本当だったのかと、様子を伺いながら夜光が地敷の前に正座をすると、長は告げた。
「夜光。こちらの御仁は私の古い友人で、槐といいます。しばらく湯治のために滞在なさいますので、その間の世話をおまえに頼みます」
「私に、ですか?」
思わぬ言いつけに、夜光は思わず問い返した。
いくら長の友人といっても、夜光から見れば客は客だ。それも長の客人とあらば、賓客といっていい。
正直今は、他人に気を遣って笑顔でもてなすような精神的な余裕は、夜光にはなかった。最玉楼の座敷から退いたのも、抜け殻同然の生き死人のような自分には、とても座敷仕事など勤まらないと判断したからだ。
そのことを長も理解してくれているからこそ、座敷に戻れと言わないのだと思っていたのに。
しかし長は、戸惑う夜光を真っ直ぐに見つめたまま、続けた。
「槐が滞在している間は、おまえは槐の側付として働いてもらいます。他の仕事はやらなくてよろしい。分かりましたね?」
「……はい」
穏やかだが有無を言わせぬ長に、夜光は仕方無く頷いた。
こういうときの長を翻意させることはまず不可能であると、経験上知っている。それに、そもそも長の言いつけに背くことなど、夜光にできるはずがない。
夜光の状態を、長はよくよく理解してくれている。であればこそ、これもきっと、長に何がしかの考えあってのことに違いない。
心は弾まなかったが、気を取り直し、夜光はあらためて黒衣の男──槐に向き直った。板敷に三つ指をつき、丁寧に頭を下げる。
「先程は失礼致しました、槐様。つたないながら、お側付として勤めさせていただきます。あらためて、宜しくお願い申し上げます」
「おや。既に面識があったのですか」
訊ねた長に、槐が答えた。
「今朝方な。庭を散歩していて、偶々会った。こちらこそ世話になる、夜光」
気さくな様子で言葉をかけてきた槐に、夜光は再び頭を下げた。
その様子を見ていた長が、広げた扇の陰で、何を思ってか小さく口許を綻ばせた。
「そうでしたか。──夜光。この槐という男は、大層口が悪い上に態度も尊大です。いちいち真に受けず、肩の力を抜いて、適当におつきあいなさいね」
「はあ……?」
長の物言いに、夜光は頷きながらも首を傾げた。
長は普段、ひとを悪く言うことをしない。だが槐に対しては、随分と容赦がないようだ。
長の隣で、槐が脇息から頭を上げ、不満そうに口を挟んだ。
「おいおい。随分とひどいことを吹き込んでくれるな、空」
「おや。何か異論でもおありですか」
長は口許に広げた扇を添えたまま、一筋紅い刺青の入った目許で槐を流し見る。槐は強く頷いた。
「大ありだ。夜光が俺のことを誤解したらどうしてくれる」
「その心配はいりませんよ。私はありのままを伝えているだけですから」
「どこがありのままだ。大いに歪んでいるだろうが」
「うるさい男ですね。夜光のしとやかさを少しは見習ったらどうですか」
「大きなお世話だ。夜光は夜光、俺は俺だから良いんだろう。なあ、夜光?」
「あ、あの……」
突然話を振られ、ぽかんと二人の遣り取りを眺めていた夜光は、すっかり面食らって咄嗟に言葉が出なかった。
長に対してこんな態度を取る者など、未だかつて見たこともない。言葉が出ずにいる夜光を、長と槐の二人が揃って、じっと見つめてきた。返す言葉を待ち構えているようなそれに、夜光はますます困惑する。この状況で、夜光にいったい何を言えというのだろう。
「あの……私にはよく分かりかねますが、槐様は大層おおらかな御方とお見受けいたします。それに、その……相手の身分で分け隔てることのない、お心の広い御方でいらっしゃるのかと……」
懸命に言いつくろった夜光に、槐が「うむ」と満足げに頷き、その横で今度は長がぽかんとした。
「おおらかで、心が広い……槐が?」
「なんだ。何か言いたいことでもあるのか、空」
「おまえがおおらかで心が広い、ですって? 何の冗談です、薄気味悪い」
言いながら、口許に当てた袖の陰で、長はたまらないように笑い始めた。その横で、槐がむっと唇をへの字に曲げる。
声を立てて笑う長など極めて稀少であり、だが客人の槐は不服そうで、夜光はますますどうして良いのか分からなくなってしまった。
「あ、あの……」
おろおろしていると、やにわに槐が立ち上がった。槐は黒衣の裾を返して地敷を降り、夜光の傍らまでやって来る。
急に詰められた距離に夜光はびくっとしたが、槐はそれに気付いたのか気付いていないのか、素知らぬ顔でしゃがみ込み耳打ちしてきた。
「いいか夜光。あやつの言うことなぞ、それこそ真に受けるなよ。あいつは調子良く人を言いくるめる天才だからな」
「槐。追い出されたいのですか?」
ぱちり、と扇を閉じて睨めつけた長に、槐は大袈裟に肩をすくめた。黒衣の姿が立ち上がり、地敷の方へと戻ってゆく。
「おお、恐い。分かった分かった、おまえが言うのが正しいよ、空」
そんな二人に、夜光はもう完全に置いていかれてしまい、ほとんど呆然としていた。長と槐は、まだ何か言い合っている。いったいこの二人は、仲が良いのだろうか、悪いのだろうか。
困惑するしかない夜光を、槐が振り返った。面の下で、その整った口許がにやりと笑った。
「まあ、そういうわけだ、夜光。しばらく厄介になる。あまり気を張ってくれるなよ」
「はあ……」
本来なら客人相手に、こんな気の抜けた返事をしてはいけないのだが、夜光は何とも返答しがたく、曖昧に返したのだった。
今日のところは、こちらで積もる話もあるので部屋に戻ってくれて良い。と言われ、夜光は小御殿を後にした。
妙に疲れた気分で、自分の部屋に向かう。
あの槐という男は、長の旧友であることは間違いないようだが、なんだかますます謎が深まってしまった。この終の涯の長であり守護者であり、誰もが一目を置く存在である長に対し、あのような横柄な態度がまかり通ってしまうなんて。
それに、槐が夜光のことをあらかじめ知っているようだった点については、結局何も分からなかった。
「なんであんな男の世話を、私に……」
夜光が敬愛してやまない長に対し、あのような無礼千万な態度を取る時点で、槐には好意よりも否定的な感情が湧いてくる。
なぜ長は、今の夜光にあんな男の世話をあてがったのだろう。長のことだから、何かしらの深い配慮あってのこと、と思いはすれど、億劫さと軽い苛立ちが湧くのは禁じ得なかった。
深々と溜め息をついて歩くうちに、縁側に面した自室が見えてきた。
部屋の障子を引こうとしたそのとき、縁側の廂から逆さまにぴょこりと、二つの小さな子供の頭が覗いた。髪と瞳に、それぞれ赤と青の鮮やかな色彩を持った、愛らしい二人の子供。
「やこうー」
「やーこう。やっほー」
「火月、水月」
夜光がその名を呼ばわると、二人は色違いの兵児帯をふわふわと揺らしながら、くるりと空中で回転して縁側に降りてきた。
「夜光、すごいおっきなタメ息」
「どーしたの? なにかあったの?」
瑞々しい二組の大きな瞳に見上げられ、夜光は障子に手をかけたまま、また溜め息をついた。
「どうしたもこうしたも……なんだか妙なことになりそうで」
「妙なこと?」
「いや……こんなことを言ってはいけないんだけれど」
火月と水月は、夜光と同時期くらいから最玉楼に棲み着くようになった、鬼火の小鬼達だ。幼い頃は互いを遊び相手としていた時期もあり、その誼もあって、今も気さくな付き合いをしている。友人と呼べるものもろくにいない夜光にとって、気軽に名を呼び捨て言葉遣いを崩せる、貴重な相手でもあった。
とはいえ、やはり長の客人のことを、ろくに何も知らないうちから迂闊に喋るのはためらわれた。
「いや、なんでもない。私は少し疲れたから、悪いけれどおまえたちの相手はできないよ」
「えー。せっかくお花見日和なのにぃ」
「つまんなぁい。夜光、あそぼうよー」
「また今度ね。今は気分じゃないんだ」
夜光は障子を開いた。部屋に入ろうとしたその背中に、水月が問いかけた。
「夜光。今年は華陽山にはいかないの?」
障子にかけられた夜光の白い手が、ほんの一瞬、ぴくりと反応した。双子はどちらも、くるりと澄んだ大きな瞳で、じっと夜光を見上げている。
振り返った夜光は、淡く微笑んだ。
「行かないよ。もう二度と」
ぽつりと呟くように答えて、夜光は部屋に入り、ぱしりと障子を閉めた。
残された双子は、仕方無いね、というように顔を見合わせながらも、気懸かりそうに夜光の部屋を見つめた。そして諦めたように、ふわりと宙に浮き上がると去って行った。
夜光は閉めた障子を後ろ手に、双子の去る気配を、立ち尽くしたまま感じていた。
双子が何気ないように持ち出した地名が、否応なしに夜光の奥底に眠る思い出と感情を揺さぶっていた。華陽山。それはかつて、夢幻のように続く桜の下、葵と共に歩いた場所だった。
「嫌だ……」
夜光はぐっと感情を飲み下し、脳裏に甦ったそれらを押し殺しにかかった。
葵と出会ったのは春。何かの拍子に葵を思い出すたびに、苦しくて切なくてたまらなくなる。息さえ出来ないような気がして、夜光は胸元を押さえた。
ふと、記憶の中の桜吹雪に、葵ではない他の人影がよぎった。一瞬葵かと思ってしまった、長い黒髪。枝垂桜の下に佇んでいた、奇妙な黒衣の男。
──あの男は、何なのだろう。
何か妙に引っかかる。夜光を昔から知っているように、無遠慮に振る舞う男。やけに懐かしそうに夜光を見ていた、あの眼差し。
なぜか、胸がざわつく。あの男にこれ以上関わりたくない。不吉な闇の色を纏ったあの男は、何か危険だ。不用意に深く関わったら、碌でもないことになる。そんな気がする。
ふう、と、重い溜め息を深々と吐き出し、目の上を押さえた。
脳裏に舞う桜の幻影が、疎ましくてならなかった。心臓が嫌な感触で動悸していた。春は心をざわつかせることばかりを運んでくる。苦しくて、息が出来なくなる。
夜光は瞼に掌を押しつけたまま、障子を背にしゃがみこんだ。
──ああ。春が嫌いになりそうだ。