夜明けまで (七)

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 体調の良いときは、槐はとにかくじっとしていなかった。
 離れた場所に一瞬で渡っていったり、風そのものに変化へんげして移動できる槐は、気が付けば姿を消していることが多い。ほうぼうを好きにうろつきまわったり、どこぞで遊んできているようだ。かなりの頻度で、夜光も一緒に連れ出されることもあった。
 身体が悪くて湯治に来ているのだから、少しは大人しく休んでいれば良いのに、と夜光は思うのだが、
「これは病ではないし、寝ていれば治るという性質のものではないのだ」
 と、槐は譲らなかった。

 終の涯にある街は、大規模なものとしては最玉楼のあるここだけだったが、足を伸ばせば他にも幾つか妖達の集落があった。
 終の涯という領域の規模そのものは、周囲に群島を従えた巨大な島という具合だ。全体に気候が大きく荒れることのない終の涯は、風光明媚な自然に恵まれている。あるいは奥地には、壮大であったり厳粛な景観を望める地域もあった。街から離れて、そういうところに好んで棲んでいるモノ達もいた。
 槐はそういった様々に美しい風景の中をのんびりと歩き、気に入った場所で酒と肴を広げて嗜むことを好んだ。
 妖力が低く、自力で移動する能力が高いでもない夜光は、それほど奥地に分け入ったことはない。槐の物見遊山に付き合うことは、夜光にとっても目新しく、新鮮なことが多かった。

 気ままで好奇心も旺盛らしい槐と一緒に行動するのは、接待というより子供のお守りをしているようで、やはり夜光は何かと振り回された。夜光よりもずっと年嵩であろうに、槐はまるで、無鉄砲な童のように見えることもあった。
「生きて帰ったもののない謎の縦穴、か。ふむ。底には何があるんだろうな」
 あるとき、南方の大地にぽかりと開いた、様々な言い伝えがある巨大な縦穴の近くを通りがかった折、槐がそう言った。その穴は光も届かないほど深く、陽が天頂にあるときに覗き込んでも底がまったく見えない。伝説では、太古にこの地を創った古龍が眠っているとも、黄泉の国に続いているとも言われている。
「さあ。案外、底など無いのかもしれませんね」
「これは是非とも、この目で確かめてみる他にないな」
「いかなる大妖怪であれ危険だから近付くなと、先程注意されましたよね?」
「駄目だと言われたら、行くしかなかろうが」
 大真面目な様子で言い切る槐に、どういう理屈だと呆れながら、夜光は嘆息した。
「どうあっても行くと仰るなら、思い残すことのないよう、書面などをしたためていかれるのがよろしいかと存じます」
「なんだそれは。遺書を書いていけ、ということか?」
「ありていに申し上げれば、そうですね」
「おまえはまた、さらりと恐ろしいことを言うな。そんなに優しそうな顔をしているくせに」
 まじまじと見返してくる槐に、夜光はもう一度、大きめの溜め息をついた。
「これ以上馬鹿なことを仰るのであれば、私は止めませんよ。ただし、私をきちんと街まで送ってからにしてくださいね」
「分かったよ。まったくおまえは、綺麗な顔をして恐ろしく辛辣なあたり、本当に空とそっくりだな」
 長と似ていると言われるのは嬉しいが、そんなことを引き合いに出され、夜光は少々むっとした。
「槐様が、浅はかなことばかり仰るからでしょう」
「はは。まあ、俺が阿呆であることは否定せん」
 悪びれずに笑う槐に、夜光は呆れながらも、気が付けばそのうち目許をやわらげてしまっている。槐に対して尖った感情を維持し続けることは、やはりどうしてか、難しかった。

 最玉楼から出かけないときは、槐は夜光に箏や琵琶を奏させることを好んだ。歌や舞を所望することもあったが、それよりも夜光の奏でる楽の音に、静かに耳を傾けていることの方が多い。
 槐は黙々と書物を読んでいるときもあるが、とくに何もせず、ぼんやりと縁側から外を眺めていることもある。夜光が繕いものをしていたり、花を生ける様を、眠たげに眺めていることもある。あるいは、二人でとりとめもない話をして過ごすこともあった。
 槐と過ごす時間は、かつてこの終の涯に傷だらけで流されてきた愛しく懐かしい若者を、少しだけ思い出させた。心の重く厚いとばりが晴れることはないが、槐に関わっているうちに、以前ほど四六時中ふさぎこみ打ち沈んでいることは、必然的に減りつつあった。
 終の涯では、次第に春の花々が散り始め、青々とした緑が眩しく勢力を伸ばしつつある。
 毎日のように怒ったり、溜め息をつきながらも、夜光は次第に、ずっと強張っていた頬をやわらげて苦笑することも増えていった。


 ある日、槐が湯治に行っている間に、長がふらりと部屋に現われた。慌ててかしこまったのを制し、長は夜光を自身の小御殿に誘った。
 明るく風通しの良い一室に落ち着くと、長は夜光に、様子はどうかと訊ねてきた。
「それはそれは。楽しそうで何よりだこと」
 朱色の脇息に凭れ、夜光の話に聞き入っていた長が、金箔捺しの扇子の陰でほろほろと花のように笑った。肩にふわりと羽織った淡い東雲しののめ色の長衣ながぎが、よく似合っている。
「楽しいと申しますか。いささか疲れます」
 槐の日々の言動をかえりみて、長の前に正座をした夜光が軽く溜め息をついた。
 長の小御殿は、最玉楼本殿からは少し離れた、渡殿で繋がれた寝殿造りの一棟である。遣り水や美しい庭園に囲まれたそこの空気は、いつ訪れても明るく穏やかで、どこからともなく漂う季節の花の良い香りがした。
「あの男は気まぐれで我侭で、何ものにとらわれることも好みません」
 長は話しながら、手元に置いた丸く綺麗な金魚鉢を覗き込んだ。開かれ御簾を巻き上げられた遣り戸からは、ふんだんに光が入り込んでいる。その光を孕み、きらめく大きな水晶珠のようにも見える鉢の中には、ひらひらとした鰭を持つ赤い金魚が二匹、舞うように漂っていた。
「ですが、昔に比べてあの男も随分丸くなったようです。以前はもっと、刃のように鋭利で冷ややかで、近寄り難い空気がありました」
 のんびりと言いながら、長の白い手がひとつふたつと餌を落とす。それを金魚がのんびりと食む様に、夜光は何とはなしに心が和んだ。
「……悪い方ではないのだろうと思います。私のことも、よく気遣って下さいます」
「それは良かった。おまえの雰囲気も、いくらか明るくなりましたね」
 金色の瞳を上げて微笑んだ長に、夜光は素直にその言葉を受け止めることができた。
 長の言葉には、いつも心から夜光を思ってくれるいたわりがこめられている。明るくおおらかな長の纏う波動は、いつでも何の心配も要らないというように、夜光の心を包んでくれる。
「顔色もだいぶ良いようですね。あの男に付き合っているとかなり疲れるでしょうが、おかげでよく眠れるのなら、それはそれで妙薬と言えなくもありませんか」
 槐と旧友であるという長は、槐の性格や行動も、よく把握しているらしい。扇子の陰でくすくすと笑っている長に、夜光は返事をしかけて、ふと気が付いた。
「そういえば……夢を見なくなりました」
「夢?」
 思わずぽろりと言った夜光に、長が尋ね返した。
「はい。あの……以前は、いやな夢ばかり見て。それで、余計に気が休まらなかったのですが……」
 自分で口にしながら、なんと子供じみたことかと、中途半端に夜光は唇を閉ざして下を向いた。長が子供のように扱ってくれることが嬉しい半面、いつまでたっても子供のようなところのある自分が恥ずかしい。
 夜光をじっと見つめていた長が、手持ち無沙汰のように扇子をぱちりと閉じ、また開いた。金箔捺しのそれはきらきらと光を反射して、まるで長の手元で金色の花弁が開くようにも見えた。
「あの男は、『夢喰い』の力を持っています」
 唐突に言った長に、夜光は「え?」と顔を上げた。
「人のものでも妖のものでも。文字通り、他人の眠りの中に現れる『夢』を喰い、己の妖力に換えることができるものがいます。槐もその力を持っているのですよ。おまえは獏か、とよくからかったものです」
「夢を、喰う……」
「喰う、というのはまあ、表現としてはものの方便ですけれどね」
 長はおかしそうに笑っている。
「餌として喰うだけなので、夢の仔細までは分からないようですが。ただ、漠然とした想いなどは読み取れるそうですよ。嬉しいだとか、哀しいだとか」
 語りながら夜光を見つめる長の瞳が、透明な憐憫を帯びた。
「おおかた、おまえの見るいやな夢というのを、夜な夜なあの男が喰っているのでしょう。何を思ってそうしているのかは分かりませんがね」
 言って、長はまた金魚に餌を一粒二粒与えた。
「……左様でございますか」
 その優雅な様子を見ながら、複雑な思いで、夜光は呟いた。長はそれ以上何を言うでもなく、透明な鉢の中で水草と戯れている二匹の金魚を、楽しげに眺めている。
 夜光がぱたりと夢を見なくなったのは、思い返してみれば確かに槐が現れた直後からだ。葵の姿を捜し求めて、独りきりでひたすら彷徨う哀しい夢。あの夢のために、寝ても覚めても胸が苦しく、身も心も休まることがなかった。
 俯いたきり考え込むように押し黙った夜光に、長が視線を流した。金色の瞳を縁取る長い睫毛が瞬き、仄かに案じるような色を宿した。


「槐様」
 その日の夜。いつものように二組の寝具を並べて延べたところで、夜光が畳の上に正座した。並べた寝具のちょうど中間に当たるそこは、いつもであれば蒔絵の衝立が立てられている場所だった。衝立は今日は、寝具の足下の方によけられている。
「ん?」
 布団の上に座り、眠たげにあくびをしていた槐が、あらたまった様子の夜光を見返った。
 夜光は既に、白い単衣の寝間着に着替えている。肩までの乳白色の髪と、処女雪すらあざむくほどに白く透明な肌色に、白一色の単衣は、寝間着であるにも関わらず清らかに映えて見える。と同時に、ふわりとした行灯の明かりの中にある姿には、どこか粉雪がけむるような柔らかさがあった。
「今宵から、衝立はもう取り払ってよろしゅうございます」
「どうした、急に?」
 あらたまってそんなことを言い出した夜光に、槐はおもしろそうな顔をした。
 簡素な面に大半を覆われた槐の顔を、夜光の紫の瞳が、真っ直ぐに見つめた。
「……ですが、ひとつお願いがございます。私の夢を喰うことを、どうかやめて下さいませんか」
 静かな、そして強い夜光の眼差しに、槐がしばし黙り込んだ。面に覆われているせいもあるが、槐が口元から表情を消すと、夜光にはほとんど感情を読み取れなくなった。
「何故だ?」
 だが、槐から返された声音は、別段不機嫌な様子でもなかった。
 短い問いかけに、夜光は自分の中から言葉を探すため、うつむいてしばし口をつぐむ。乳白色の睫毛が、瞳の紫をけむらせた。
「……槐様は、私を案じてそのようにして下さったのだろうとは思っております。それについては、感謝しております。確かに私が夜ごと見る夢は、楽しいものではございません。ですが……」
 複雑な胸の内から、夜光はなんとか言葉を探り出す。槐の心遣いに感謝する思いは間違いがなく、それを無下にしてしまうのは心苦しかった。だがそれでも、譲れない感情があった。
「……私は、苦しまねばならぬのです。それに私にとっては、そのようなものでも、大切なものなのです。今の私には……他に何もないから……」
 夜光の手が無意識に動き、懐中に挿し込んでいた匕首と、首から下げた冥魂珠を、衣の上から押さえた。深くうなだれた拍子に、連なる数珠が儚い音を立てた。
 葵を捜し求めて彷徨う哀しい夢。それはひどくつらく、苦しい。けれど自分がやったことを考えれば、槐に悪夢を喰ってもらって少し楽になることさえ、許してはいけないのだと思う。
 何より、この痛みさえ葵の存在につながるものなら、持ち続けていたかった。愚かだと思う。未練がましく無様だと思う。それでも、痛みでも苦しみでも、それが一縷でも葵につながっているのなら……。
 視界が涙にかすみかけて、夜光は下を向いたまま、少し慌てて瞬きをした。
「──分かった」
 少し長めの沈黙の末に、別段いつもと変わらぬ声音で、槐からのいらえがあった。
「勝手なことをしてすまなかった。おまえの大事なものを奪ったりはせぬ。安心して寝め」
 顔を上げた夜光に、槐が飄然と笑った。
「だが、夜ごと隣で辛気臭く泣かれるのもたまったものではない。俺が眠り薬を調合してやるから、少しは落ち着くまで、これからはそれを飲んで寝ろ。なぁに、俺の薬は強力だからな。一口含めば、朝までぐっすりだ」
「……はい」
 こぼれそうな涙を押し込み、夜光は頷いた。槐は、ふむ、と考え込む風情になった。
「しかし、さすがにいきなりは素材の持ち合わせがないな。明日には用意してやるから、今日のところは寝酒にするか。どれ、夜光。厨房に行って、いいのをちょっと見繕って来い。ああ、杯は二つだからな。それから、美味い肴も付け合せるように」
「はい」
 取り立てて深刻ぶるでもない槐の様子に、夜光はむしろ救われる思いがした。
 短く答えて頷きながら、夜光はなんとか小さく微笑んだ。

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