夜明けまで (八)

 槐の調合した眠り薬は、よく効いた。
 あの哀しい夢が再び訪れるようにはなったが、一口含んだだけで睡魔が訪れ、朝まで目覚めない。夢すら見ずに眠ることも増えた。日中の間、槐にあれやこれやと引っ張りまわされている疲れもあるのだろう。
 一方で槐はいつもと変わらず、どこかとぼけたような飄然とした様子で、終の涯滞在を楽しんでいる。
 常に堂々としてはいるが居丈高ではなく、気前も良い槐は、最玉楼の従業員達にもよく好かれていた。妖力の強い者であれば、槐の身にかかった呪詛の強さや禍々しさが分かるようではあったが、それを理由に槐を敬遠する者は、少なくとも最玉楼にはいなかった。


 その日は、朝から弱く細かい雨が降っていた。樹木の葉や庭石を叩く細波にも似た雨音が、眠気を誘う子守唄のように、あたりを包んでいる。
「差別もなく争いもなく。まさに極楽だな、ここは」
 墨染めの衣姿の槐は、縁側の柱に凭れ、ゆったりと煙管をふかしていた。
「生死と欲望のさかまく妖の世でも、人の世でも。このような安寧は到底望めん。しかし、ただ安寧だけでは退屈だという種の生き物がいるのもまた事実。俺もたまに寛ぎに来る分にはいいが、ずっとここで暮らすというのは難しいだろうな」
「……私は、争いは厭わしゅうございます。退屈でも安寧を望みます」
 淹れたての茶を運んできた夜光は、盆を置いて槐の傍らに正座をした。盆の上の茶碗の数は、二つ。槐は寛ぎながら何かを飲み食いするとき、必ず夜光の分も用意させた。
「そう思えるのなら、それに越したことはないさ。おそらく空の奴もそうなのだろう」
 槐は嫌味ではなさそうに笑い、紫煙を吐いた。
「もっともあいつの場合は、性根は相当に苛烈で容赦がない。それこそ飽いるほど永く生きるうちに、表面上は今のような、のらりくらりと締まりのない性分になったのだろうな」
「長様を悪く仰るのはおやめ下さい」
 きつめの一瞥をくれた夜光に、槐は動じた風もなかった。
「悪く言っているわけではないぞ。あいつがそういう奴だからこそ、この終の涯の平穏は守られている、という話だ」
 穏やかな翠雨が、青々とあたりの樹木を染め上げている。槐の墨染めの姿は、その風景にしっとりと馴染んでいた。
「空の本性は、全ての妖を凌駕すると言ってもいいほどの大妖怪だ。力はそれ自体に善いも悪いもないが、力持つものは往々にして、欲や他を支配するためにそれを振るいがちだ。だがあいつは、昔から一片も揺らがずに、ここで弱きもの、己を頼って来るもの達を庇護し続けている。空のやっていることは、とても俺には真似できん」
 雨垂れの風景に槐のくゆらせる紫煙が立ち昇り、とけてゆく。素直な響きを持つ槐の言葉に、夜光もすんなりと耳を傾けていた。
「槐様は、長様とお知り合いになられてから、かなり長いのですね」
「まぁそれなりに、だな。数十年顔を合わせないことも珍しくはなかった。ここは以前の俺には、いささか退屈だったんでな」
「槐様も、昔に比べて今はだいぶ丸くなられたと、長様が仰っておいででした」
「おまえ達親子はまた、人のいないところで、何を好き放題なことを言い合ってるんだ」
 気を悪くした様子もなく、槐はおかしそうに笑っている。夜光は静かに槐を見返した。
「それほどでもありません。ただ、槐様は存外にお優しいようだとは、私も思います」
「また随分としおらしいことを。どんな風の吹き回しだ?」
「夜叉の一族の方は、もっと気性が烈しいものだと思っておりました。私も今まで、片親が夜叉であるから案外気性がこわいと、何度かお客様にからかわれたことがあるくらいです」
 自身が半人半妖であることにふれるのは、夜光にとってあまり楽しいことではなかった。だが槐相手だと、不思議とこの話題にふれても不快感がない。
 槐が夜叉、すなわち自分が半身だけとはいえ帰属する一族であるせいだろうか。夜叉一族を恋しいだの懐かしくだの思うことはないが、自分の起源が半分とはいえそこにあることは、事実ではあった。
「気性の荒い奴が多い、というのは否定できんな」
 槐は答えながら、また紫煙を吐いた。
「夜叉一族は、おおよそ妖力が強く身体能力が高く、勝気で好戦的だ。闘うことに秀でた一族ゆえに、余所で起きた争いごとに雇われて加勢することもある。だがまぁ、それはあくまで種として見たときの傾向だな。中には穏やかな者や気弱な者も、ごく当たり前にいる。怒らせると恐ろしい、というのは共通しているがな」
 そこでちらりと、槐が冷やかすような笑みを夜光に向けた。
「おまえもそのあたりは、立派に夜叉の血を引いていると見える。見かけは淡雪かと思うほど柔らかく儚げなのに、怒ると目付きがひどく物騒だ」
「そ……そのようなことはありません。人聞きの悪い」
 むっとして言い返した夜光に、槐は素知らぬ顔で笑い声を立てた。
「夜叉一族は気性が荒いが、見目麗しい者も多い。歌舞音曲もよくする、強く美しい一族だ。おまえを見ていると、案外と夜叉の血脈を感じることはあるぞ」
 今度こそ本心から、夜光はむっと、数秒押し黙った。やがて発した声音は、ごまかしようもなく硬くなっていた。
「……そのようなこと、気のせいでございましょう。私は、人でも妖でもない半端者でございます。まして今は、角も妖力も、長様のお力で隠していただいております」
 夜叉一族という存在が嫌いなのではない。自身の中にその血脈を感じる、と言われることが不快だった。
 妖の血を引いていたばかりに強いられた幼い日々の苦痛と恐怖が、夜光の魂の根を、是非も無いほどいびつにしてしまっている。和やかな談笑に水を差すのを憚る思いはあったが、それでもこの件に関しては、我慢ができなかった。
 その紫の瞳に押し殺した翳が宿ったのを見て、槐が笑みを消した。面から覗く口元が、真面目な表情を作った。
「そうか。おまえにはおまえの複雑な事情があるのだな。いささか軽率にものを言いすぎた。許せ」
 槐は傲岸不遜で気ままであるように見えて、悪いと思えばためらいなく謝罪する。どうにもこの槐という男を憎めない夜光には、謝られてしまえばいつまでも腹を立てていることもできなかった。自分がどうにも槐に対して甘いことを感じながら、夜光は目許をやわらげた。
「いいえ。私こそ、少しむきになりました」
 槐は夜光を見返していたが、ふいに顔をそらした。これまで接してきた中で見たことのなかったその仕種に、夜光はやや違和感を覚えた。
「槐様?」
「人でも妖でも、か……俺には理解できぬような思いを、おまえはずっとしてきたのだな」
 呟くように槐が言い、煙草盆にコンと煙管を打ち付けて灰を落とした。
 と、前触れ無くその長身の姿が立ち上がった。墨染めの衣が、雨天の空気を孕んで大きく揺れた。
「外に出る。夜光、一緒に出られるか」
「はい。今日はどちらまで?」
 気まぐれで唐突な槐の行動にも、夜光は近頃やっと慣れつつあった。着物の裾を押さえながら立ち上がった夜光に、槐は視線を向けないまま答えた。
「少しばかり遠出をする。前から訪ねたいと思っていた場所があってな。今日は調子が良いから、おまえを伴って界渡りすることもできよう」
「界渡り?」
「蓬莱に行く」
 あっさりと続けられた言葉に、夜光は眉をひそめる。その言葉の意味を飲み込むと、思わず手脚を強張らせた。


 蓬莱。すなわち現世うつしよ。人間、と呼ばれるものたちが住む世界。
 終の涯と蓬莱とは、界渡り出来ぬものには越えられぬ『境』に隔てられている。現世に対して幽世かくりよとも呼ばれる「こちら側」とは、巡る季節の長さ、時間の流れも異なる異界だ。
 槐に連れられて降り立った先で最初に感じたのは、ひやりとした肌寒さだった。
 どこかの山間やまあいらしい。空を見上げると、混じり気のない澄んだ青さの中に、かすれた筆で刷いたような薄い雲が浮いていた。
 ──何年振りだろう。蓬莱なんて。
 今ひとつまだ現実味の感じられない中で、夜光はあたりを見回す。自力で界渡り出来る者にとっては、蓬莱に行くこともこれほど簡単なのかと、あらためて驚いた。
 まず、空の色の違いに目を引かれる。終の涯の空は、青さの中に仄かな虹色を孕む、えも言われぬ極楽の空のような色合いをしていた。蓬莱の空には、その虹の光彩がない。澄んだ青さは美しくはあるが、吸い込まれそうでどこか不安だった。
 空の様子と気温、紅葉した山々の姿からして、季節は秋のようだ。鄙びたあたりの風景に、人の姿はまったく無かった。樹木を伐採して拓かれたのだろう痕跡はあるのだが、揺れる稲穂も収穫物の実る畑も、何もない。
 だが、荒れ放題の立ち枯れた雑草や藪に覆われた中に、田畑の名残りを思わせるような跡があった。
 打ち棄てられて久しい、人間の集落跡だろうか。目の上に白い手をかざして、夜光は紫の瞳を顰めるように遠くに巡らせた。
 知らない風景なのに、遠くの山の稜線の一部に見覚えがある気がした。他のどこを見ても覚えはないのだが、ごく一部だけに。一瞬、何か嫌な胸騒ぎがした。
「あの……槐様。ここは?」
 いくらか離れた場所に立っている槐を振り返る。長い漆黒の髪と墨染めの衣を纏う槐の姿は、そこだけ束の間、影が人型を成してあらわれたようだった。
「槐様?」
 冷たい風が、槐の背を覆う、光すら吸い込む闇色の髪を揺らす。墨染めの衣に風を孕んで、槐は無言で歩き出した。
 夜光は戸惑いながらも、黙って槐の後を追った。
 弱った身体で、わざわざ界渡りしてくるほどだ。きっとここは、何か槐にゆかりのある土地なのだろう。独り、何か思うこともあるに違いない。
 黙って歩いてゆく槐の後ろについて、夜光も黙って歩いた。
 やがて、かつての集落の跡と思しき中に足を踏み入れた。柱だけが残った家屋の跡が、周囲に点在している。柱は倒れて、すっかり雑草に埋もれているものも多かった。粗末な作りだったのか、天井が残った家屋は一軒もなかった。
 ふと、立ち枯れた草叢の中に、朽ちかけた髑髏があるのが見えた。よく見れば、他にも人骨と思われる骨が、そこかしこに転がっていた。
 とうに滅び去って久しい村のようだった。このままいけば、あといくらもしないうちに、何もかもが完全に土に還るだろう。
 ひどく寂寥とした風景を吹き抜ける風は冷たく、少し強くて、風の音がいているようだった。
 どこまで行くのかと夜光が思い始めた頃、槐はやっと足を止めた。
 そこは集落跡の、かなり外れの方だった。だが、やはり何があるわけでもない。かつては家屋があったようだが、すっかり壁と天井は崩れ、かろうじでそれと分かる柱が雑草の中で朽ちていこうとしていた。
「見事に何もないものだな。人の世は、人間ばかりではなくモノも脆い」
 あたりを眺めながら、ふいに槐がいつもと変わらぬ口調で言った。
「槐様。ここは、いったい何ですか?」
 訊ねると、槐は簡素な面の下から視線を返した。
「ここは、昔俺がほんの一時いっとき暮らした村だ」
「暮らした?」
「もう三十年程も前になるのか。俺の妻は、小夜香という名の人間でな。人間にしておくには惜しいほど、美しく優しく強い女だった。その、小夜香と暮らした家がここにあった」
「……小夜香」
 さやか。
 以前にも一度、槐の口からその名を聞いたことがある。そのときの槐の言葉が、夜光の耳に甦ってきた。
 ──おまえは、小夜香によく似ているな。
 あのとき槐は、夜光を見ながら、ひどく懐かしそうにそう呟いた。
 あの呟きと、槐が夜光に時折向けていた、妙に懐かしげな眼差しが甦る。同時に記憶の中に明滅したのは、三十年、という符号だった。
 ──三十年程前に、故郷くにで内乱があってな。
 凍り付いたように、夜光は立ち尽くした。
 小夜香、という人間の妻。夜叉と人の間の子である夜光も、今から三十年程前に蓬莱で生まれた。
 夜叉と人間が結ばれることが、どれほどあるのだろうか。いや、無くはないことだったとしても、そう頻繁にあることとは思えない。
 無言で立ち尽くす夜光を、槐もまた、無言で見つめている。簡素な面の下にかろうじで覗く、紫苑の色の瞳が、真っ直ぐに夜光を見下ろしている。
 夜光は強張る喉で息を飲み、裂けるほど瞳を見開いた。槐の面の向こうに見える色と同じ、紫苑の瞳を。
「まさか……」
 喉が引きつって震えた。まさか、そんなことが。
 知らぬ間に目の前に転がっていた幾つもの符号が、ひとつの結論に集束してゆく。ああ、と、今頃理解した。
 長はなぜ、ただでさえ心の弱っていた夜光に、槐の側付になることを命じたのか。長は最初から知っていたのだ。槐こそが、夜光の──まごうかたなき父親である、と。
「……騙していたのですか?」
 自分でも驚いたほど、震え、かすれた声だった。凝視したまま、槐から目を離せない。
「最初から、知っていて……どうして、今頃……」
「夜光」
 槐がそこで、やっと動いた。夜光に向かって踏み出してくる。夜光はそれを見て、大きく息を飲んだ。
 凍てついていた全神経が、一瞬にして白熱した。強烈な眩暈が襲った。どきどきと、心拍数が急速に跳ね上がる。うまく息がつけず、割れそうに激しい頭痛がした。
 ──あの、山の稜線。
 込み上げてくる吐き気と眩暈に、きつく目を瞑る。どっと全身に脂汗が滲み出した。
 覚えている。思い出した。一部だけに見覚えがあった、あの山……あれは、あの幼い日に、幽閉されていた土蔵の中から見えた景色だ。
 ──ここは、自分の生まれた村だ……。
「夜光」
 再び、呼ぶ声がした。夜光は顔を覆ったまま、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
「……呼ぶな」
 喉が震える。全身を冷たく厭な汗が伝い、おこりが起きたようにがたがたと震えた。
「呼ぶな。おまえが、私を……」
 押さえようもなく、幼い日々の記憶が吹き出してくる。暗く黴臭い土蔵の中で過ごした、生き地獄そのものの日々。思い出したくない。あんなものを思い出したら、気が狂ってしまう。夜光は全身全霊で、噴出してくる記憶の濁流を抑えにかかった。
 顔を覆ったまま、大きくふらついた夜光を、槐が支えようと踏み出してきた。
 その気配を感じたと思った瞬間、夜光はありったけの力で、差し伸ばされた槐の腕を振り払っていた。
「──おまえのせいで!! おまえのせいで、私が……どんな思いをしたと……ッ!」
 吐き気を伴う眩暈に、視界がさだまらない。悪夢のようなその中に立つ墨染めの姿を、夜光は激しく睨み付けた。
 呼吸がうまくつけず、喘ぎながら胸を押さえる。高熱にうかされたように、頭と足下がふらついた。立っていられず、足首が捻れて膝から崩れた。
 大きく世界が揺れ、身体を支えられたのが分かった。ひどく胸が悪く、頭も割れそうで、もう目を開くこともできなかった。
 喉の奥から、苦く熱いものがこみあげて、ひきつりながら吐いた。それでも泥水の中でもがくように、自分を支える腕を押しのけようとした。
「……わたしに、さわるな……っ……」
 弱々しく、だが必死にもがいても、その腕は頑として離れなかった。それ以上は、もう状況を把握することができなかった。
 ──知りたくなかった、今さらそんなこと。あなたが父親だった、なんて。
 最後にかろうじで形になった意識も、あっさりと闇に砕けるように薄れ、ついえた。

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