夜明けまで (九)

 槐は夜光を抱え、再び界渡りをし、蓬莱から終の涯へと戻った。
 最玉楼に着いたところで、夜光が目を覚ました。抱きかかえられたまま、最初はぼんやりと視線を彷徨わせていたが、はっとしたように目をみはる。槐を凝視し、夜光はたちまちその血の気の失せた頬をひきつらせた。
「あ……」
「おや。気が付いたか」
 そこは槐の部屋ではなく、夜光の質素で小さな部屋の前だった。
 夜光は槐を振り払うようにもがき、ほとんど転げて逃げるように離れた。おぼつかない足取りでふらつきながら部屋に入り、一番奥で背を向けたまま、畳の上にうずくまった。
 その様子を眺めながら、槐はとりたてて表情を変えようとはしなかった。
「気分が優れないようなら、薬湯でも持ってこよう。床を延べるか?」
「……何も、いりません」
 背を向けたまま、消え入るような声で夜光が答えた。その声音も、自分を守るように抱き込んだ腕も肩も、小刻みに震えていた。
「少し、一人にして下さいませ……夕餉の頃には、お部屋に参ります」
 無理矢理に言葉を発しているのだろうことが分かる、強張って震えた弱々しい声だった。だが弱々しくも、その底には、はっきりと暗く冷えた響きが沈殿している。
 怒りとも拒絶とも取れるそれを耳に、槐はほんの少し沈黙し、部屋の前から踵を返した。
「そうか。では、また後でな」
 何気ない調子で言い置き、槐は縁側を歩み去っていった。
 夜光は部屋の隅にうずくまったまま、身動くこともしなかった。


「それで、夜光は?」
 深夜。遣り水の上を流れるふんわりとした靄が、月明かりに淡く光っている中でのこと。満開の藤の絡む庇の下で寛ぎつつ、長と槐は月見酒を交わしていた。
「俺を見ようともしないし、何も喋らん。呼びかければ返事くらいはするがな。よく分からん、何を考えているのか」
 槐は半ば横たわるように脇息に凭れ、杯を傾けていた。
 芳香を夜気に溶かしこみながら、はらりはらりと、藤の花びらが舞う。同じく脇息に凭れた長が、睫毛の長い瞳を翳らせた。
「そうですか……きっとあの子も、まだ自分で自分の感情を測りかねているのでしょう」
「俺を恨んでいるのは確かだと思うぞ。なにしろ、それはすごい目で睨まれたからな」
 飄々としたふうの槐に、長は形の良い眉をやや顰めた。
「正体を明かすことについては、私に口出し出来ることではありませんが……でも、なぜ急に?」
 槐は、しばらく無言だった。二口ほど酒を含んだ後、言った。
「随分と、俺になつき始めていたからな。引き延ばすほど、あれの苦しみは深くなろう」
 槐は、場合によっては正体を明かさないことも考えていただろう。だが予想以上に、夜光は槐に心を許し、慕うようになっていた。隠し通そうにも、夜光の勘の良さを考えれば、いずれは看破されていたに違いない。
 だがそれにしても、槐もよくぞ思い切ったものだと、長は思う。槐もまた、夜光と過ごすことを心から楽しみ、歓びとし、そして癒やされていただろう。夜光を悩ませ、そして拒絶されることが、心楽しいわけもない。
 槐の竹を割ったような性分は、昔から長にとって好ましく、だが時として少々痛ましい部分でもあった。
 様々な物思いを胸の奥にしまいこみながら、長はそれらを表に出すことなく、訊ねた。
「どうでしたか。しばらくあの子を傍に置いてみて」
「そうだな。おまえに預けた俺の目に狂いはなかった。悔しいよ」
 槐は軽く笑い、また杯を口に運んだ。
「悔しい?」
「ああ。あれが、あそこまで育つのを見たかった」
 あくまで軽い口調で言った槐に、長は束の間、胸をつかれた。
 その言葉の中に、槐の口には出さないどれほどの思いがこめられているのか。長は槐を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「……あなたは、本当に変わりましたね。槐」
「変わりもするさ。あんな三十年を過ごしもすればな」
 長は、槐の空になった杯に注いでやった。槐も小さく笑うと、身を起こして逆に長の杯に酒を注いだ。そしてどちらからともなく、杯を干した。
 日が暮れてから雨が上がり、雲間から顔を出した臥待月は、まるで泣いているような加減で濃紺の夜空に滲んでいた。天空の冠さながらの、うっすらとした月虹を掲げたその様は、他に肴など要らぬほど美しかった。
「私もあの子と、一度きちんと話さないわけにはいかないでしょうねぇ」
 桜水の薄絹を貼った扇子をはたりと口元に当てて、長は睫毛を伏せた。
「知っていて黙っていた、ということでなら、私もおまえと同罪です。結局何をどうしても、あの子を悩ませる結果にしかならなかった、とは思いますけれどね」
「おまえまで恨むようなうつけ者ではないと思うぞ、あれは」
 月を見上げながら、槐がふと思い出したように言った。
「自分は苦しまねばならぬ、と言っていた。……あれは、生きて幸せにとは一切考えておらんのだな。親としては、それも切ない話だ」
「あの子は今や、ただ死んではならぬから生き長らえているだけなのでしょう」
 長の澄んだ双眸に、深く打ち沈む哀しみと痛みの色が揺れた。
「あの子が冥魂珠を手にしたときに、無理やりにでも止めるべきだったのだろうかと、今は思うのですよ。あの子にはあの子の思いと、己の生き方を選ぶ権利がある、と思っていましたが……」
「しかし、おまえの預かり知らぬうちに、勝手にあれが『みささぎ』に会っていたのだろう? 今さらそれを悔いても始まらん。だいたいそれを言い出したら、そもそもの元凶は俺だという話になる。今考えるべきことは、この先あれをどうしてやるか、ということだ」
 ぐいと槐が杯を干したのを見て、長は黙って銚子を取り上げると、そこに新たな酒を注いでやった。
「あいつのやったことに、取り返しが付くかは分からん。だが、死ねないから生きているだけというような生き方は、断固としてさせてはならんと思っている。親に成り損なった者の、身勝手な感情だとしてもな」
 強く言い切った槐に、長がほんのりと笑った。
「ええ。私も同感です」
 長は手酌で自分の杯も満たすと、脇息に凭れながら、なよやかな白い手で口元に運んだ。
魂還たまがえしを考えてはみたのですが、やはりそれは世のことわりもとること故、葵殿の魂魄の無事を考えると望ましくありません。何とかならぬものかと、私なりに調べてみましてね。先日、ちょっと冥府に出かけて、様子を探ってみました」
 事も無げに言った長に、槐が軽く酒をむせた。まじまじと、呆れたように長を見返す。
「おまえは相変わらず、とんでもないことをあっさりと言うな」
「可愛い我が子のためですからね。無理もしますよ」
 長は婉麗たる微笑で、視線を流し返した。
「まあ、他にも一つ二つ野暮用がありましたからね。そこで、ひょっとしたら望みに繋がるかもしれないことに気付きました。いくら捜してみても、葵殿の魂魄は黄泉の国の何処にも見当たらなかったのです」
「ほう……?」
 先を促すように相槌を打った槐に、長は言葉を続けた。
「葵殿の死は、通常の死とは異なる呪術的なものです。肉体そのものも、朽ちたのではなく術式の中に取り込まれて分解され、いわば触媒と化した状態です。要は魂魄も、同じく触媒として囚われているのですよ。そして術自体は、条件がまだ満たされていないことから宙に浮いている。ならばその根本的なところから解いてやれば、あるいは……と」
 長の言葉を聞いていた槐が、そこでふいに、にやりと唇を笑ませた。
「それは奇遇。実はな、俺も考えていたのはそこだ」
「おまえもですか。ただふらふらと遊んでいたわけではなかったのですね」
「ここには様々な輩が集まる分、情報も多く流れてくるからな。俺の場合は、俺自身の呪詛を解く方法について調べていた傍ら、というのもある。蛇の道は蛇というやつだ。その道の達人に当たるしかあるまいと探っていたら、『陵』に行き着いた」
「彼女、ですよねぇ……やはり鍵は」
 ──陵。それは、かつて夜光の首に冥魂珠を掛けた、偉大なれど妖しき天女の名。
 考え込むように呟いた長の瞳が、花模様の入った行灯の明かりを金色に弾いた。
「ただ、彼女が冥魂珠の願解きをしたという話は、ついぞ聞いたことがありません。術式を極めた者であれば、術を掛けるところから解呪するところまでを、完全に修めているはずですけれどね。彼女に頼んだところで、果たして聞き入れて下さるかどうか」
「それに、その趣味の悪い天女は、普段どこにいるのかまったく分からんのだろう? あれも太古の昔から何処ぞに隠棲して、面白おかしく世を眺めている、稀代の暇人だと聞く」
「そんなことを言って、彼女の機嫌を損ねても知りませんよ」
 言いたい放題の槐に、長は苦笑した。
「彼女の棲み処が何処にあるのかは、私も存じ上げません。数百年会わないことも珍しくはありませんからねぇ。それに、彼女も自分の居所を知られぬよう、何重にも対策を施しています」
「そもそも、こちらから会いに臨むこと自体が難しい相手か。おまえにもどうにかならんのか、そのあたりは?」
「彼女は、私でもおいそれと手出しできる相手ではないのですよ。起源こそ異なれど、ある意味で彼女も私と同等のものですから」
「そうか。まったく、夜光もまた面倒な相手に願掛けなんぞしたものだ」
 槐はまた、ぐいと一息に酒を煽る。そこに注いでやりながら、長は続けた。
「それに、私が長くこの終の涯をあけるわけにはいきません。形代かたしろを立ててゆくにしても、限度があります」
「おまえが不在と分かれば、ここに余計なちょっかいを出してくる輩も居ような」
 忌々しげに、槐が舌打ちをする。槐はさらに杯を干すと、意を決したように呟いた。
「ふむ。やはり、ここは俺が赴くか」
「お願いしてもよろしゅうございますか」
 口調も仕種も柔らかなままだったが、長の眼差しも、いつになく真面目だった。
「後方から出来ることは致します。おまえを依坐よりましにできれば、私としても心強い」
「俺を依坐に、と考える奴など、おまえくらいしかおらんだろうな」
 くつくつとおかしそうに槐は笑い、頷いた。
「助勢願おう。俺にとっても、願ってもない話だ。到底俺一人で、おまえと大差ないような化け物のもとにまで辿り着けるとは思えん」
「くれぐれも、彼女に直接化け物などと呼びかけないで下さいね。彼女は、類い稀な貴婦人なのですから」
「分かった分かった。まあ『陵』とやらは、その昔天帝をも惑わせたほどの絶世の美女だと噂に高い。会えることを楽しみにしていよう」
 槐は少し酔ったように涼みのある夜風を受け、半ば問わず語りに言った。
「あんな馬鹿息子でもな、やはり可愛いのだ。なぁ、空よ。三十年振りに抱き上げたあいつは、変わらず温かかったぞ。少し痩せすぎだから、俺が居ない間、きちんと精のつくものを食わせてやってくれよ」
「ええ。何事も、ご案じ召されますな」
 長も穏やかに微笑み、泣いているような白い朧月を見上げて、静かに杯を傾けた。


 槐が実の父親だと分かった日から、夜光は槐の部屋に寝泊まりするのをやめ、自分の部屋に戻っていた。
 朝昼晩の給仕と、その他の身の回りの世話をするときだけは、槐の居室に赴く。何も言わずにそうしたが、それを槐が咎めることはなかった。
 何処ぞへ連れ出されることもなくなり、そして何より、必要最低限のことしか喋らなくなったので、声そのものを出す機会が極端に減った。
 最玉楼の裏方務めをしていたときのほうが、よほど身体を動かしていたし、口も開いていた。槐の世話をしているとはいえ、たいした手間を割かれるでもない。急に夜光は、時間を持て余した。
 かといって、あの日から常に、頭に霧がかかったようにぼんやりとしていた。手足が妙に重く、何かをしようにも、何もかもが億劫だった。
 一方で槐の態度は、それまでと何ら変わらなかった。変わらぬままに、ある日突然、ふらりと居なくなった。
「しばし留守にする。おまえは空に孝行でもしておけ」
 夜光にそう言い置くなり、槐は何処へともなく出かけていき、ぱたりと戻らなくなった。
 槐が居なくなってからは、さして広くもなく、たいした家財道具があるでもない自室の片隅で、夜光は日がな一日、力無く座り込んでいた。
 ぽかりと胸に空洞が空いたようだった。槐が父親であったと分かったときから、何かを考えることを、一切拒否してしまっていた。
 考えれば、幼い日の忌まわしい記憶もよみがえる。葵を失い、ようやく息をしているばかりの身に、それを思い出すことはあまりにも負荷が大きすぎた。
 だがこうして、何もせずに一人でぼんやりしていると、否応なしに胸の内を様々なことがよぎった。ぼろぼろにほつれた心の上に、槐と過ごした出来事が現れては消えてゆく。それに誘発されるように、幼い日々の呪わしい記憶も明滅する。
 思わず短い悲鳴をあげ、息を飲み、夜光は顔を覆った。
「……なぜ、今頃……」
 部屋の一番奥に座り込み、震えながら、呻くように呟いた。
 なぜ今頃。いったい何をしに、何のために、自分の前に現われた。
 自分が人間達に虐げられたのは、何もかも、槐が傍にいてくれなかったからだ。槐が傍にいてさえくれれば、あんな目に遭うこともなかった。人間を、自分の身体に流れる妖の血を恨むこともなく、ひいては、冥魂珠を手にすることもなく済んだのだ。
 何もかもおまえのせいだ、と喚きたい一方で、そんなことの一切が八つ当たりだということも、既に分かっていた。
 槐とて、好きで傍を離れたわけではない。否応なく内乱に巻き込まれ、三十年経って今尚苦しめられるような深い傷を負い、呪詛に蝕まれてしまった。槐は、蓬莱に……家族のもとに戻りたくても、戻ってくることが出来なかったのだ。
 顔を覆った掌の下から、頬を伝い、ぱたり、ぱたりと、涙の滴が零れ落ちた。
「あなたは、ひどい……」
 一度はっきりとそれを認めてしまうと、どうしようもなく感情が溢れ出した。
 自分は、槐を責めるのか。幼い日に自分を独りにしたことを、妖の血を自分に継がせたことを責めるのか。
 槐が妖であることを責めるなら、それは夜光自身が半妖であることを他者に責めなじられることと、どこが違うというのだろう。それを責めるなら、化け物め、と幼い頃に虐げてきたあの人間たちと、同じことではないか。槐が槐であることを、いくら責めても仕方が無いではないか。
 何故今頃現れた。そう思う心も、確かにある。夜光にとって、実の親など既に無いものだった。そんなものが突然現れても、どうすればいいのか分からない。どんな感情を抱けばいいのか分からない。
 だけれど、槐は現われて、そして槐と過ごす日々を、自分は「楽しい」と思ってしまった。葵を失ってから、無彩色の荒れ野を彷徨うばかりのようだった日々の中に、少しずつ新たな光と色彩が差し込み始めていた。
 ──槐はきっと、真実を伝えれば夜光に恨まれるだろう、と分かっていたのだ。
 暗闇の中に、小さな灯火がともるように。それを思った。
 無神経で横柄であるように見えて、槐は案外そうではない。常に人を食ったように笑ってばかりいるが、本当に人のことを見ていないわけではない。
 夜光のことをどうでもいいと思っているのなら、わざわざ今頃現れる必要もなかっただろう。父親であることを、夜光に知らせる必要もなかっただろう。
 槐は常に、言葉ではなく行動で、夜光に心を示していた。素直にそれを認めさえすれば、何故今頃現れたのか、という問いかけの答えは、もうとっくに出ていた。
「あなたは、ひどい……」
 とめどなく零れてゆく涙と共に、また呟いた。
 あなたはひどい。今まで私を放っておいたくせに、私にあれだけの思いをさせたくせに、恨ませてもくれないのか。勝手に私の世界に入り込んできて、無明の荒野の中に、それでもまだ見るべきものはあると、道を指し示すのか。
 胸を抱え込み、顔を覆い、否応なしに溢れてくる感情を抑えて抑えて。それでも涙は、ぱたぱたと膝に、畳の上に落ちる。
 千々に乱れる心の奥底から、一つのまことだけは、夜光はそっと大切に拾い上げるように確かめた。
 ……槐のことを、どうしても、嫌いだとは思えない。
 もう自分には何もないと思っていた。だけれど……。
 声を殺しながらうずくまっていると、部屋の障子の前に、音も無く誰かが立つ気配がした。
「夜光。入りますよ」
 優しい声が呼びかけ、静かに障子が開かれた。ふわりと花の馨を纏うその人が、さらさらという衣擦れの音を連れて歩み寄ってくる。
「長、さま……」
 涙が零れるばかりで、顔を上げるのがやっとの夜光の傍らに、長は膝をついた。その金色の瞳が、透けるように微笑んだ。
「何も言わずとも良い」
 長は言って、夜光の身を腕を伸ばし、少し力を込めて抱き寄せた。すっかり乱れてしまっている乳白色の髪を、長の手が繰り返し柔らかく撫でた。
「夜光。私も、おまえに話していなかったことがあります。それをこれから一つずつ、ゆっくりと話しましょう。……私は、おまえに知ってほしいと思います。おまえは愛されて、望まれて生まれてきたのだということを」
 繰り返し髪を撫でる長の腕の中で、夜光は何も言葉にできず、ただしゃくり上げた。
 涙は止まらず、感情の整理もできなかったが、偽れない濁りのない気持ちだけは、夜光は胸の奥に抱き締めていた。
 ──槐。あなたを嫌いだとは思えない。
 あなたがまこと私の父親だというのなら、なじらせて下さい。恨み言を吐かせて下さい。それでもあなたは私の前に居て下さいますか。あなたは私を、本当に愛して下さいますか。
 声にならない想いに、ただ嗚咽し続ける夜光の背を、髪を、長はただ優しくいつまでも撫で続けていた。夜光の震えと泣き声が、少しずつおさまるまで。

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