夜明けまで (十)

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 それから長は、夜光を自分の住まう小御殿に招いた。
 夜光はこの最玉楼にやってきたばかりの頃は、長と共にこの小御殿で暮らしていた。長は夜光に、かつて夜光が使っていた部屋をあてがい、しばらくこちらで共に暮らすように、と申しつけた。
 長としては、槐が居なくなった代わりを埋めるではなかったが、無気力にぼんやりしているか、さもなくば思い出したように泣いているばかりの夜光を放っておくのは忍びなかった。陵の捜索に出向いていった槐のためにも、このままただ漫然と時を過ごしているわけにはいかなかった。
 夜光が恐縮しない程度に身のまわりのことを任せ、食事を共にしたり、日々の手遊てすさびにのんびりと付き合わせながら、長は少しずつ、夜光に語りかけていった。
「おまえには、おまえの両親のことを何も話したことがありませんでしたね」
「……はい」
「私はおまえの望まぬものは、おまえに与えたくありません。おまえは妖の血も人間の血も、同じくらいに疎んでいた。両親のことを教えてくれとも、一言も言いませんでしたね」
「はい……」
 夜光は終始うつむき加減で、言葉数も少ないが、長のかける言葉にはきちんと受け答えた。
 小御殿に移ってきてすぐの頃は、夜光はかなり緊張して固くなっていたが、長の春陽のようなおおらかさに次第に馴染むように、だんだんと強張りを緩めていった。
 幼い頃の夜光と共に過ごした部屋で、広廂で、きざはしの上で。ゆったりと日々を過ごしながら、長は少しずつ、夜光に両親のことを話して聞かせた。
「私もおまえの母親である女性には、直接の面識はありません。おまえ自身はもう思い出せないでしょうが、おまえの遠く幼い記憶の中にいた姿と、槐の記憶を垣間見た中で知っているだけです」
 長が知っていることの多くは、意図せずに垣間見てしまった、槐と夜光の記憶の中にある光景。それだけでも、かつての一家が幸せであったこと、夜光が両親に心から愛されていたことを知るには充分だった。
「……小夜香殿は、容姿も心根も美しい方でした。雪の中でも凜とこうべを上げている花のような、強い女性でしたよ」
 その気性の強さゆえに、彼女は妖である槐を前にしても臆することがなかった。土地に代々続いてきた巫覡かんなぎの娘であった彼女は、槐と出会い、その正体を知ると調伏しようとした。しかし、槐は強力な妖だが、自分達の生活を脅かす存在ではない、と次第に理解していくと、いつしか「人と妖」という垣根を越えて打ち解けていった。
 勿論、巫覡の家系である彼女が、里の者達から糾弾されなかったわけではない。しかし人々を前に、彼女は真っ直ぐに面を上げ、「この男がもしも皆に仇を為そうとするなら、責任を持って私がこの男を始末します」と告げた。
 そしてまた槐も、それまでの槐を知っている長からすれば信じられないほど辛抱強く、寛容に振る舞った。槐がその人外の力を田畑の開墾や治水に役立て、人々をよく助けるうちに、やがて二人は「夫婦」として周囲に受け入れられていった。
「芯の毅さと、こうと決めたら曲げない頑固なところは、おまえは母親譲りなのかもしれませんねぇ」
 槐の記憶に視たそれらの光景を思い起こしながら、長はくすくすと笑った。
 見慣れぬ槐の様子がいじらしいようでもおかしいようでもあり、周囲と衝突しながらも二人三脚で乗り越えていく二人の姿は微笑ましかった。確かにそこには「幸せ」があったのだと、その結末を考えるとほろ苦くなるほどに。
「……そうなのでしょうか」
 長の語る言葉に、夜光はほとんど相槌や、短い言葉を返すだけだった。
 だがその目許や頬に思い詰めた強張りはなく、怒りや憎しみの色も、嫌悪感も伺えなかった。そのかわり深い紫苑色の瞳には、信じるべきものを探しているような、頼りなげに迷い戸惑う光が揺らめいていた。
「ええ。おまえは、母君にとてもよく似ている。けれど槐にもよく似ています。おまえの二親は喧嘩もよくしていましたが、それは仲睦まじかった。互いが互いを心から信頼し、命を預け合っていました」
「……妖であることに、抵抗はなかったのでしょうか。どちらも」
 呟くように問うた夜光に、長は静かに微笑んだ。
「何かしら思うところはあったでしょう。まして、小夜香殿は巫覡の血筋。里から妖しきものを排除し、皆を守ろうと思う気持ちは、人一倍強かったはずです」
 もしも槐が皆に仇為す存在となれば、小夜香は槐と刺し違える覚悟を持っていた。それと並行して、槐は決してそんなことはしない、と深く信頼もしていた。
 数百年を生きてきた強く誇り高い妖である槐が、かくもたやすく「人間の真似事」に身をやつし、戯れでは無く人間の娘を伴侶とするとは。槐も最初はただの物珍しさだったのかもしれないが、いつしか互いを想う心と信頼は、種族の壁を越えて真実まこととなった。
 見る者によっては、槐の行動は理解しがたく、愚かですらあるだろう。長にとっても、槐の変化と思い切りには、正直驚かされた。
 だがそれ以上に、そんな二人の様子は得難く尊く、祝福すべき美しいものに見えた。
 やがて二人は新しい命を授かり、人と妖の血を引く赤子は「沙霧」と名付けられた。父親の本来の姿と同じ色の髪と瞳と、一対の角を持ち、顔立ちは母親に似たその子を中心に、一家はささやかでも幸せな時を過ごした。槐のもとに、ある日夜叉の国から迎えの使者が訪れるまでの、短い期間ではあったが。
「──二人は、とても幸せそうに見えましたよ。私の垣間見た光景を、おまえにも見せてやりたいくらいです」
 急ぎすぎないようにゆっくりと数日をかけ、自分から語れることはあらかた語ってしまうと、長は最後にそう言った。
 ここまでの話を、長は夜光におおまかに伝えることはしたが、多くを語ることはしなかった。
 これは本来であれば、槐が夜光に語って聞かせてやるべきことだ。長にできることは、幾つもの不幸に隔てられてしまった親子の間を歩み寄らせる、そのささやかな手伝いにすぎない。
 ほとんどの間をうつむいて聞いていた夜光が、ようやく顔を上げた。そこにある表情は、寄る辺なく彷徨う幼子のようだった。
「私は……」
 何をどう言えばいいのか分からないように再びうつむいた夜光に、長は小さく微笑した。
「槐が黙っていたことについては、どうかあまりあれだけを責めないでやって下さい。おまえにはしばらく真相を伏せて様子を見た方がいい、と考えたのは、私も同様なのですから」
 夜光は、ゆるくかぶりを振った。
「それについては、もう何とも思っていません。いきなり明かされていたら、私はあの方に対して反発しかしなかったでしょうから」
「それならば良かった」
「あの方は、今思えば私に本当によくして下さいました。悪い方だとは思いませんし、好ましい方だとも思います。……でも父親だということになると、どう思えばいいのか分からない……」
 途方に暮れたような夜光に、長は緩く首を振った。
「おまえと槐は、今まで親子として暮らして来なかったのです。突然親子になれと言われてもそうはなれないのは、当然のこと」
「それで良いのでしょうか……?」
「良い悪いではなく。世の何事も、なるべくしてなるというだけのことですよ。無理に思い込もうとしたり、捻じ曲げようとしても、それはいずれ破綻する。槐もおまえに、親のような顔はしなかったでしょう?」
 夜光が再び顔を上げた。唇を小さく噛むようにしたその瞳は、今にも泣き出しそうだった。
 言葉を続けられずにいる夜光に、長はただ穏やかな眼差しを向けた。
「槐にも、できるならおまえに聞かせたいと思っている話はたくさんあるはずです。私が知っていることは、あくまでも一部ですからね。もし気になるのなら、槐が戻ってきたら、あれに直接聞いてみると良いでしょう」
「でも、私は……あの方に、ひどいことを言ってしまいました」
「それしきのことで心を挫かれるような可愛げは、あれにはありませんよ」
 軽やかに笑った長に、夜光は目をぱちくりさせ、それから泣き笑いのような表情をした。
「……そうだと良いのですけれど」
「ええ。あれのしぶとさと性根の据わり方は、私が保障します」
 長は頷き、あらためて愛しい義理の息子を見つめた。
「あれにも親心があったのかと、おまえと過ごすようになってからの槐を見て思いました。莫迦なところはありますが、嘘はつかない男です。おまえもあれに、真心のままに接すれば良い。それが喜びでも哀しみでも、怒りでも。槐は、必ずそれを受け止めると思いますよ」
 夜光はその言葉に、深く考え込むように沈黙した。それ以上は何も言わず、ただ見守っている長に、やがてようやく、夜光は小さく頷いた。
「……はい」


 ──自分は本当に、愛されて生まれてきたのだ。
 長の優しく穏やかな声で語られる、少しも覚えていない両親の昔語りを聞くうちに、夜光はいつしかそのことを受け入れていた。
 乾いた喉で水を飲むように。骨身を震わせる寒さが、遅い夜明けと共に和らぐように。
 それを受け入れると共に、自分の中に流れる血脈そのものに対する、呪いのような嫌悪や拒絶感が、ぽろぽろと崩れるように薄れていった。
 自分を虐げた人間達を許すことは出来ない。だけれど、少なくとも人間である母親は、自分を愛してくれた。そして母は、妖である槐を命を懸けて愛し、信じてくれた。
 思ったとき、不思議なほど静かで優しい涙が、一筋だけ伝い落ちた。
 同時に、それを受け入れた途端、新たな欲求が芽生えてきた。長の語ってくれたことを反芻するほど、それを槐自身の口から、槐の言葉で聞きたいと。人伝ひとづてではなく槐自身の言葉で、嘘では無いのだと伝えてほしい。
 槐はあの日、ふらりと出かけていったまま戻らない。
 自分の状態が落ち着いてくると、夜光はふと心配になってきた。
 槐は、何事もなく居るだろうか。なにしろ槐は、姿が歪むほどの強い呪詛にさいなまれている。繰り返しの湯治で徐々にやわらいでいたようではあるが、未だ好調とは程遠い状態だろう。
 長が何も言わないところを見ると、槐の外出には長も噛んでいるのではないかと思える。一度訊ねてみたことがあったが、長は「あの男も気まぐれですからねぇ」とおっとり返したのみで、何も具体的なことは聞けなかった。
 無事でいるのだろうか。どこかで無理をしていないだろうか。
 槐と会って、話がしたい。
 ああ、それから……それから、謝りたい。あの日、あんなにひどいことを言ってしまったことを。
 便りが無いのは無事の知らせだ、と自分に言い聞かせながら、夜光は槐の帰りをただじっと待っている他になかった。

 そんなやきもきするような時間を、けれど驚くほど穏やかに過ごすことができたのは、ひとえに長の小御殿に招かれていたからだった。
 幼い頃のように、久方振りに長と共に長い時間を過ごした。一緒に食事をしたり、たわいもない話をしたり遊んだり、散歩をしたり、美しいものを見聞きしたり。さすがに幼子だった頃のように添い寝はしなかったが、夜光が願えば長はそれさえ笑って許してくれそうだった。
 そんな夜光に、最玉楼の者達も気さくに接してくれた。
 ──ずっとひどく気落ちしていたようだったから心配していたよ。近頃は表情が優しくなったね。もう泣いてはいないかい?
 皆からそんな言葉をかけられると共に、「あんたは長様の息子なんだから、たまには甘えればいいんだよ」とからかい混じりに言われたりもした。
 そうやって時間を過ごすうち、夜光は自分を取り巻く愛情の豊かさに、今頃目が覚めるようだった。
 ──ああ。この最玉楼で、自分はとても幸せ者だったのだ。確かに庇護者を失った幼い頃は不幸だったけれど、長に救われてからは、自分を包む世界はこんなにも優しくあたたかかったのだ。
 それなのに、自分ほど不幸な者はいないと思い込んでいた。恨みや憎しみにばかり目を向けて、捻れた感情と決意に己を雁字搦めにして。長以外の何も信じず許さず、愛さずにいた。
 こんな自分だから、葵を失ってしまったのだ。当たり前だ。誰のせいでもない、愚かで醜く憐れな自分のせい。
 葵と出会った頃からやり直せたら。いや、あの行き違ってしまった夜をやり直せたら。今の自分ならば、あの夜と同じ轍を踏んだりはしないのに。
 どんなに悔いても嘆いても、もう葵のことは手遅れになってしまった。
 それならせめて、まだ間に合うものは間違いたくない。
「どうか、ご無事で……早くお戻りになって下さい……槐様」
 槐が帰ってきたら、何を話そう。自分は槐に、うまく笑えるだろうか。今度は素直に、槐と向き合えるだろうか……。


 長の小御殿で暮らすうちにゆっくりと季節は進み、色とりどりの紫陽花や百合、菖蒲あやめ苧環おだまきや芍薬が、最玉楼の庭を鮮やかに彩るようになっていた。
 その日夜光は、「今日は来客があるから、おまえは自分の部屋にいるように」と長に言いつけられ、久し振りに自分の部屋に戻っていた。
 長の小御殿で過ごすようになってからも、定期的に掃除に来てはいたが、いざ障子を開いて広くも無い個室に立つと、必要最小限のものしか置いていない眺めはやたらと殺風景に見えた。
 縁側を開け放って気持ちの良い初夏の風を通し、繕い物をしたり、花を生けたり、退屈しのぎに適当な書物を開いたりしてみたりする。
 次第に眠気をもよおし、夜光は窓際の小さな文机で書物を開いたまま、そのうちうつらうつらし始めた。
 ひやりとした風が襟足の髪を揺らし、ふと目を覚ますと、窓の外は夕暮れに染まっていた。
 初夏とはいえ、朝晩の空気はまだけっこう冷え込む。夜光は窓の障子を閉めようと立ち上がりかけた。
 と、夕陽に染まる縁側の障子に優雅な影が映り、淡紅藤色の長衣ながぎをふわりと羽織った長が姿を覗かせた。
「夜光。おまえに会わせたいお客人がいらしています。出られますか」
 突然の長の来訪に、夜光はいささか慌てて居住まいを正した。
「は、はい。お客様ですか?」
 誰だろう、と思いながら問い返すと、長はもの柔らかくはあったが有無を言わせぬように頷いた。
「ええ。そのままで構いませんから」
「分かりました。……どこかのお座敷ですか?」
「いいえ。紫水殿しすいでんまで」
 賓客専用の小御殿の名を挙げられ、夜光は驚いた。紫水殿の客人となれば、それは最玉楼にとって特別な賓客ということだ。それなのに、普段着のままで良いというのにも戸惑った。
 しかし長は問う間も与えず、先に立って歩き出してゆく。夜光はいささか緊張し、困惑しながらも、長を追って西日の差す縁側に出て行った。

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