夜明けまで (十四)

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 槐の漆黒の袖が翻り視界を覆った、と思ったら、次に目を開いたときには、夜光と葵は見覚えのある縁側に立っていた。最玉楼の裏手の一角にある、夜光の部屋の前だった。
「空の奴はああは言ったが」
 槐は葵を見やり、縁側に差し込む月明かりの中、黒装束の袖を軽く直しながら口を開いた。
「今日はもうあれこれ考えずに、ゆっくり休め。一晩ぐっすり眠れば頭も冴えよう」
「ですが……」
 葵はまだ足がふらつき、夜光に支えられながら、槐の面に覆われた顔を見上げた。記憶も思考力もまだ朧ながら、ただ事ならぬ出来事が自分を見舞ったこと、長があまり穏やかならぬ様子であったことは理解しているようだった。
「無理はするな。おまえさんは病み上がりのようなものなんだぞ」
 槐は気軽い様子で言い、腰よりも長い黒髪を返して縁側を歩き出した。
「空には俺が適当に取りなしておいてやる。何、そう案ずるな。そもそもおまえを甦らせようと考えたのは空の奴なんだからな」
「あ、あの」
 その背中に、夜光は咄嗟に声をかけた。立ち止まった槐に、夜光は言葉に詰まる。
 言いたいことはいくらでもある。嬉しさも、感謝も、申し訳なさも、案じる気持ちも。それなのにいざ槐を前にすると、それらが絡まり合って、うまく言葉が出て来ない。子供のように喉がつかえてしまった自分がもどかしく、情けなかった。
 それを見て、槐は小さく笑い、ひらりと掌を振った。
「おまえも、今夜はゆっくり休めよ」
 続く先を待たずに歩み去ってゆく槐に、夜光は結局、何も言葉をかけられなかった。

 夜光に支えられて小さな座卓の前まで行くと、葵は崩れるように座り込んでしまった。
 自分に何が起きたのかはどうにか理解したが、まだ頭の芯がぼうっとしており、すべて思い出すことはできなかった。思考力も緩慢になってしまっていて、頭が働かない。何より全身にひどい脱力感と倦怠感があり、今にも意識が墜落してしまいそうだった。
「すまない。どうにも力が入らなくて……」
 葵がやっと言うと、すぐ傍らで葵を支えていた夜光が、小さく首を振った。
「いいえ。ここで休んでいて下さいね、葵。すぐに床をのべますから」
 顔を上げることもおぼつかない葵に、夜光はそう言い置いて、どこかへ立っていった。優しい声だったが、夜光の声は少し震えていた。
 葵はぐったりと座卓に伏せ、大きく息を吐いた。
 夜光に「生きてほしい」と言い残し、これが最期と思ったあのときから、葵の記憶はぶつりと途切れている。次に気が付いたときには、泣きじゃくる夜光に抱き締められていた。
 最期と思って見た夜光の泣き顔と、気が付いたら葵を抱き締めて泣きじゃくっていた夜光。それらを思い出すと、苦しいほどの切なさで胸が潰れそうに痛んだ。
 あのときから、どれくらいの時間が経ったのだろう。その間に、いったい何があったのだろう。
 無理からぬことだが、葵を見る長の眼差しは、随分と剣呑だった。夜光の父親を名乗る男の存在にも驚かされた。
 あれから夜光は、どんな思いで日々を過ごしていたのだろうか。自分がいない間、夜光はどれほど泣いたのだろう……。
 できるなら夜光を今すぐ抱き締めたかった。何も心配するな、もう泣かないでいいと言ってやりたかった。
 だが指先まで痺れるような疲労感と、恐ろしいまでの睡魔に勝てなかった。葵は座卓に突っ伏してからものの数呼吸のうちに、眠りに落ちる自覚もないまま、意識を失っていた。

 夜光が近くの収納庫から新しい寝具を抱えて部屋に戻ってくると、その僅かな時間のうちに、葵は座卓に伏して眠り込んでいた。
 ぐったりした葵を見て、その一瞬、夜光は心臓が凍り付くような恐怖に襲われた。だが懸命に自分を宥め、できるだけ物音を立てないように寝具を下ろすと、そっと葵の傍らに近付いた。
「葵……?」
 おそるおそる、声をかける。深い寝息と体温を確かめて、夜光は安堵のあまり、あやうく泣きそうになった。
 葵の顔色は、そう悪くない。その頬に影を落としてかかる長い睫毛に、夜光はしみじみと見入り、いくらか乱れかかった朱色の綺麗な髪を指先で梳いた。
 大丈夫。葵は、きちんと生きている。ひどく疲れているようだが、何か問題があるようなら、長や槐がそれを放ってはおかないだろう。
 葵が生きて戻ってきてくれたことが、まだ信じられない。振り切れそうな嬉しさや喜びと同じくらいに、これは夢ではないのだろうかと、まだ疑い恐れている自分がいる。それほどに今まで呑んできた虚無と絶望は深く、何度「これは本当だ」と自分に言い聞かせても、耐え難い恐れと懐疑が消えない。
 できるなら、今すぐ葵を抱き締めたい。抱き締めてほしい。これは現実だ、もう大丈夫なのだと納得させてほしい。
 だが今は、葵にそれを求められる状態ではなかった。夜光は震えと涙をぐっと飲み込んで、祈るように目を伏せた。
 ああ、どうか。どうか神様。これが、残酷な夢などではありませんように。


 ふ、と葵が意識を取り戻したとき、視界には青白い月光に染まった天井があった。
 清潔な寝床に横たえられていることに、少し経ってから気付く。見覚えのある、夜光の部屋の天井だった。
 室内に灯る明かりは無い。障子を通していても、十六夜の月が充分に視界を明るくしている。あたりには、虫の音が響くばかりの静けさが満ちていた。
「…………」
 しばらくただぼんやりと、仰向けのまま、虫の声を聞きながら天井を眺めていた。
 内容はよく覚えていないが、束の間の眠りのうち、長い夢を見ていた気がする。自己の意識も認識も無くして、ただ漠然と漂っていた。「何処に」というのも分からない。其処が明るいか暗いのかも分からなかった。生身と共に五感も失って、それだから何も考えず、何も感じなかった。
 ──ただの夢だったのだろうか。それとも、一度は「死んだ」という己の魂がこれまで居た場所、見ていた景色だったのだろうか。
 掌を持ち上げ、軽く握った。確かな感触と、自分自身の体温を感じた。
 よほど深く眠ったのか、眠気はかなり飛んでいて、思考や感覚は静かに冴えていた。
 そういえば夜光は、と横に目を向けると、隣に敷かれた寝床に、こちらに背を向ける格好で夜光が横になっているのが見えた。
 どうやら自分は、この部屋に着くなり眠ってしまったようだ。きっと夜光が介抱してくれたのだろう。終の涯に流れ着いたばかりの頃も、葵はこの部屋で夜光の治療を受けて過ごした。そのとき見ていたのと同じ天井、同じ部屋が、やけに懐かしかった。
 ぼんやりとそんなことを思っていたとき、細く小さな息遣いが隣から聞こえた。
 規則正しい寝息とはまた別の、溜め息をつくような気配。起きているのだろうかと、葵は身を起こして名を呼んだ。
「夜光?」
 僅かな音でさえ耳につくほどの静けさの中、こちらに背を向けて横になっている夜光からは、ほとんど息遣いも聞こえない。
 気にするほどのことでもなかったか、と思いかけたとき、また小さく抑えられた震える吐息が洩れ聞こえ、上掛けの下で細い肩が震えた。
 ──泣いている。
「夜光。起きているのか」
 気付かれまいと懸命に声を抑えているのだと察し、葵は寝床から身を乗り出して夜光の肩に手をかけた。顔を覗き込むと、いつからそうして泣いていたのか、夜光は口元を押さえ、声を立てずに涙を零していた。
「すみません……眠れ、なくて……」
 葵に知られたことで抑えがきかなくなったのか、夜光がはっきりと喉を震わせた。白い手で顔を覆い、堪えきれないように嗚咽した。
「眠りたく、ない……」
「夜光……」
「もし、これがすべて夢で……目が覚めたとき一人だったら……おまえさまがいなくなっていたら……恐い……」
「夜光」
 思わず、葵はその薄い肩を引き寄せた。夜光が思い余ったように、葵の首に両腕をまわして縋り付いた。
 全身を震わせるように咽び泣きながら、夜光はもうこらえておけないように口走った。
「何度も、何度も、おまえさまの匕首で、後を追ってしまおうと思った……おまえさまがいなくなって、私は……」
 縋り付いてくる細い腕にこめられた力に、夜光の頬に零れる涙の熱さに、その震える声に、葵は夜光がこれまでどれほど自分を抑えていたのかを肌身で知った。
 夜光は本当はずっと、葵に想いの丈を吐き出して、確かにそこにいると確かめたかったのだろう。だが葵のことを慮って、負担になるまい、迷惑をかけるまいと、懸命に飲み込んでいたのだろう。
「俺はいなくなったりしない、夜光。俺は此処にいる」
 夜光の震えも零れる涙も、指先や睫毛の一筋までもが切ないほど愛おしく、葵はその細い身体を強く抱き締めていた。
「そうせずにいてくれて良かった。そのおかげで、またこうしておまえに逢うことができた」
「わ……私は……」
 葵にしがみつきながら、夜光がしゃくり上げた。
「私は、何もしていないのです……長様と槐様が、陵様に頼んで下さっただけで。私は、何も……」
「そんなことはない」
 涙に濡れた夜光の両頬を掌で包み、真正面からその紫苑色の瞳を覗き込みながら、葵は笑った。
「もしおまえが俺の後を追っていたら、今このときは無かった。死ぬよりつらい中を、おまえはここまで懸命に生きてくれた。だからこそ、皆が動いてくれたんだ」
 自分自身の手で葵の命を奪ってしまった、その後に残された夜光は、どんな思いで生きていたのだろう。よくもそこから逃げ出さずにいてくれたと、葵はもう一度、胸に溢れる感謝と切なさと熱い愛しさのままに、夜光を抱き締めた。
「生きてくれてありがとう。独りにして、哀しませてすまなかった。俺は何処にもいったりしない。これからはおまえと共に生きよう、夜光」
「あ、あお、い……」
 涙声でその名を呼びながら、夜光が葵に細い指で縋りついた。こみ上げる愛しさのままに、葵は涙に濡れた夜光の唇に唇を重ねていた。
 肌は重ねておきながら、これまでは軽くふれただけの唇だった。一度目は、出会って間もない頃、夜光が葵をからかって口づけたとき。二度目はあの夜の浜辺で、葵が消える間際に。
 最後の最後まで、互いに互いを想っていることを知らなかったから。そうであればこそ、あのとき葵は、夜光のために命を投げ打つ真似をした。
 夜光にもまた想われていたのだと知ったとき、あの最期の僅かな瞬間に、どれほど悔やんだことだろう。
 夜光の熱く柔らかく、ひどく甘い唇にふれ、さらに深く重ねてゆきながら、葵はあのときに胸から全身を貫いた激しい悔恨の痛みを思い出していた。
 死にたくないと、あのとき心底思った。もう何もないと思ったからこそ、せめて最後に夜光にやろうと思った命だった。けれど夜光が求めてくれるのならば、夜光のために死ぬのではなく、夜光のために生きたかった。
「おまえを愛している。夜光」
 あのときは死の誓約のように口にした想いを、心からの熱と生命の脈動を感じながら、葵ははっきりと告げた。何よりも確かで鮮やかな命の炎。尽きることなくあふれてくる愛しさ。
 涙に濡れていっそう燦めく紫の瞳で、夜光が葵をひたむきに見上げた。
「わ、わたし、も……葵と、なら……生きられる……」
 今度はどちらからともなく、求め合うように唇を重ねた。深く深く熱い口付けに、夜光の唇から甘い溜め息が零れ落ちた。

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