夜明けまで (十三)

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 陵の言葉を聞き、気が逸るあまり最低限の挨拶だけをしてその場を駆け出してしまった夜光だったが、そこを苦笑まじりに長につかまえられた。
 長に手をつかまれたと思ったら、足許がふわりと頼りなく浮く感覚がした。夜光は軽い眩暈に、思わず目を瞑った。
 その不思議な浮遊感は、瞬く間に消え失せる。次に目を開いたときには、夜光は頬を撫でる潮の香りを含んだ微風と、打ち寄せる穏やかな波音に包まれていた。
 さくり、と足が砂を踏んだ。
 既に陽は落ち、西の果ての水平線には名残りの朱もない。見渡す限り広大な夜空には、藍色の天幕を埋め尽くすように、零れんばかりの星々が煌めいていた。
 満天の星空の中、月虹を帯びた十六夜の月が皓々と輝いている。明るく清澄な月光は、夜の海と砂浜を優しく照らし出していた。
「ここは……」
 葵に初めて出逢った場所。そして、葵を失ってしまった場所。
 うろノ浜、と呼ばれているその浜辺を、夜光はおぼつかない足取りで歩き出した。
 本当にここに葵が戻ってくるのだろうか。陵はああ言ってはくれたけれど、そんなことが本当にあるのだろうか。
「あおい……」
 無意識に唇が動いて、名を呼んでいた。
 がらんと広い夜の浜辺には、まだ誰の姿もない。ただ静かに、繰り返し白波だけが砂を洗っている。
 信じられない。きっとこれは夢で、それも結局葵に出逢えずに終わる意地悪な夢で。
 葵が本当に戻ってくるなんて、あるわけがない。だって、葵は死んでしまったのだから。他ならぬ夜光自身が、その命を奪ってしまったのだから。
「葵……」
 あるわけがない、と繰り返しながら、それでもふらふらと、足はあの日葵が消えた岩陰に向かっていた。
 唇が勝手に、葵の名を呟く。恐い。どうせこんなことは、都合の良い夢なのだ。葵が戻ってくるわけがない。どうせまた一人で目が覚めて、やはり葵に逢うことなどできないのだ、と泣くことになる。
「葵……」
 心の臓が激しく動悸し、うまく呼吸ができなくて、身の竦みそうな恐怖に涙が浮いた。
 ふらつく足が、あの岩陰まであと十数歩を数えるばかりに近付いたとき。
 夜光の首に下がっていた水晶の数珠──冥魂珠が、懐の中でぼうとした光を帯びた。着物の下にあってもはっきりと分かるほど、音もなく真白く輝き始めたそれに、夜光は驚いて足を止めた。
 懐から引き出してみると、珠の連なりはいっそう強く、闇をも貫くほど発光する。そして天上の鈴音のような、銀の弦が重なり弾かれるような、たとえようもないほど美しく儚い音を立てて、残らず砕け散った。
 光の珠がはじけた瞬間、夜光の奥深くでもまた、何かがはじけ飛んだたような感覚があった。
 目に見えない何か、存在の核に複雑に絡み付いていた何かが、散り散りになって身体の外に抜け出してゆく。それが何であるとは説明できなかったが、夜光は自分の身が急に軽くなったような感覚にとらわれた。
 夜光は思わず、砕け散った光を掬うように両掌を持ち上げた。ちらちらと名残りの煌きを発しながら、白い光は雪が溶けるように、跡形もなく消えていった。
 そしてそれに代わるように、視界の先で新たな光が生まれ始めていた。
 それはどこからともなく生じてくる、無数の蛍に見えた。あたりから音もなく数え切れないほど湧き上がり、ふわりと舞い上がって、やがてひとつの場所めがけて集まってくる。
 一粒一粒は儚い光だったが、それが光の滝のように降りてくると、あたりを照らし出すまばゆいばかりの明るさになった。だが、太陽のように強い光ではない。夢幻を舞う蛍のような、夜の波打ち際を仄かに明るくする夜光虫のような、天から静かに見下ろしてくる月明かりのような、優しい光。
「あ……」
 茫然と見つめる先で、みるみるうちに降りそそぐ光は人の形を取り始めた。葵が消えてしまったときの光景が真逆になったその眺めに、夜光は目を離せなかった。
 ほんの数瞬のうちに、光は見間違いようもなく、あの夜ここで消えてしまった若者の姿を生み出していた。光の中にゆるく煽られている、夕陽のような透明感のある長い朱色あけいろの髪。あの衣の色さえ、昨日のことのように覚えている。光が弱まってゆくにつれ、眠るように閉じられた長い睫毛も、二度と見ることはできないだろうと思っていた目鼻立ちも、肌の色も、はっきりと見て取れるようになる。
 ふらりと、そちらに踏み出していた。一歩、二歩とよろめくように、やがて数歩の距離を駆け出して。まだ淡い光に包まれて、頼りなげな幻のようにそこにいる葵に、懸命に両腕を伸ばす。
 急速に光が薄れ、そのかわりのように現実味を増してゆく葵に、夜光は精一杯に腕を伸ばした。伸ばした腕で飛び込むように葵の身体を抱き締め、はっきりと身に返ってきた実体の感触と血の通う体温に、大きく目を見開いて呼吸を止めた。
 夢だ、こんなことは。葵が確かにここにいるなんて。この腕で葵を抱き締めているなんて。
「あ、…………」
 あおい、と呼びたかったが、喉と唇が震えて、声にならなかった。透明な涙が盛り上がって、ぼろぼろと頬に零れ落ちた。
 光が弱まるにつれ、夜光の身に葵の体重がかかってきた。夜光の肩に頭を預けた葵から、確かに息遣いを聞いた。
 ぎゅう、と強く、夜光は両腕に力を込めた。せめぎあう感情に頭が破裂しそうで、夜光はただ縋りつくように葵を抱き締め、確かに今ここにある、体温を持つその生身の身体を確かめた。
 涙が喉を塞いで、名前を呼べないまま、夜光は凭れかかってきた葵の体重を抱きとめながら、砂の上に膝を崩した。ただ葵を抱き締めて、込み上げる涙に喉を震わせていると、それが伝わったように、ふ、と葵の閉ざされていた睫毛が揺れた。
 いつの間にか完全に、蛍のような光は消え失せていた。夜光に凭れかかっていた葵が、ゆっくりと瞼を持ち上げる。夢を見ているようなぼんやりした顔つきのまま、葵は瞬いた。
「……夜光……?」
 その喉から少し嗄れた声が紡がれ、名を呼ばれたとき、夜光は時間が止まったように硬直した。
 もう二度と聞けないと思っていた声。それがまた、自分の名前を呼んでくれた。
 葵が身じろぎし、その身体にゆるゆると力を込める。それを夜光はまだ信じられないまま支え、茫とした様子の葵の顔を正面に覗き込んだ。
「あ……あお、……」
 きちんと呼びたかったが、やはり熱い涙が込み上げるばかりで声に出せなかった。
 しゃくり上げながら、まるで子供のようにぼろぼろと涙を零して泣いている夜光に、葵がそれだけで目が覚めたように瞳をはっきりと瞬いた。
 ああ、葵の瞳の色だ。もう二度と見られないと思っていた、とても綺麗な青みがかった瞳。
「夜光、どうした。何を泣いている」
「あ、……あお、い……」
「そんなに泣くな。どこか痛むのか」
 慌てたように葵が夜光を抱き寄せ、その薄い背をさすった。葵の瞳も声音も腕も、夜光の記憶にあるものと寸部も変わらない。状況が飲み込めていないようなのに、何より先に夜光を案じてくれる、その優しさも何も変わらない。
 葵だ。
 夜光は震えながら、すべての想いと全身の力を込めて、葵の身体を強く抱き締めた。
 これは、葵だ。本当に葵だ。夢ではない。本当に戻ってきてくれた。これは、葵だ。
 そう思ったら、後はもう何も考えられなくなった。ただ葵に縋り付いて、その暖かな身体をしっかりと抱き締めたまま、夜光はあふれ出す想いのままに、憚ることなく声を上げて泣いた。

 その様子を離れて見守っていた長と槐が、ようやくほっと安堵の息を吐いた。
 陵を疑うわけではなかったが、本当に贄とされ一度は消滅した者が戻ってくるのか、その目で見届けるまでは、やはり半信半疑だった。
「冥魂珠の解呪か。そんなものに立ち会うことなど、そうそうあるものではなかろうが。いや、そもそも冥魂珠が世に出ること自体が、そうあることでもなかろうな」
 さすがの槐も気が緩んだ様子で、どこか呆れたように言った。長が苦笑に近い表情で頷いた。
「でしょうね。夜光の首にかけられるまで、私も既に喪われたものと思っていました」
「まあこれで、本当に消滅だ。あらゆる情念と命を吸い取り続けた呪具なぞ、無くなった方がせいせいする」
「陵のことですから、まだ似たようなものをいくらでも所持しているでしょうけれどね」
「悪趣味なことよ」
 ちらりと、長が槐を横目にした。
「その悪趣味な天女に、本気で俘虜にされるおつもりですか?」
「俘虜ではない、といいたいが、実際あの天女様が何をどこまで考えているやら。まあ俺としては、命さえあるなら構わんよ。それに、この呪詛を本当に解呪出来るというのなら、願ってもない」
「命を粗末にするのではありませんよ」
 視線を逸らし、夜光の方を見て呟くように言った長に、槐は小さく口角を上げた。
「おまえからそんな言葉を聞くとはな」
「昔から思ってはいましたよ。戦闘狂で命知らずの莫迦なおまえに言っても無駄でしたから、黙っていただけです」
「これは手厳しい」
 くつくつと槐は笑う。長は笑いはしなかったが、表情は和らげた。
「もうしばらくは、ここに滞在していられるのでしょう? その間、出来るだけ夜光と長く居て……話をしてやりなさい。あの子の呪いを真に解くことができるのは、今となってはおまえだけです」
「そうだな。──そうしよう」
 槐も、夜光のいる方に視線を投げた。
「恐れ多くも、盤古に言祝ことほがれた我が命。大事に使わねば罰が当たろうよ。まあ、心配するな。無駄遣いはせんさ」
「是非そうして下さい。音信不通でそれっきりなんて、二度目は許しませんからね」
 長もやっと、小さく微笑した。

「夜光……?」
 強くしがみ付いてただ幼子のように泣きじゃくるばかりの夜光に、葵は少し困惑しながらも、その乳白色の髪を宥めるように優しく撫でた。
 そこに、細かい砂を踏んで二つの人影が歩み寄ってきた。
 葵の瞳が持ち上がって二人を見やり、見覚えた長の姿を真っ直ぐに捉える。何かが記憶の琴線にふれたように感じ、葵は瞬いた。
「あなたは……」
「おかえりなさい、と言うべきでしょうか。葵殿」
 長はやんわりと微笑したが、その金色の瞳が明らかに笑っていないことを見て取り、葵は若干強張った。
「……何がどうしたのか、よく分からないのですが。なぜ俺は、こんなところに? それに、夜光もどうしてこんなに泣いているのか……」
「思い出せませんか?」
 ゆっくりと問うた長に、葵は額を押さえ込んだ。
 頭の芯がぼやけていて、あまりものが考えられない。だが懸命に記憶を手繰り寄せているうちに、ぼんやりと浮かび上がってきたものがあった。
 それはやはり、夜光の泣き声と泣き顔だった。今自分にしがみ付いて泣いている夜光のように、記憶の中の夜光もまた、葵に縋り付いて泣いていた。
 ──おまえさまが愛しい。ずっと、おまえさまは特別でした。おまえさまが愛しい。誰より愛しい。
 ──私も、すぐにおそばに参ります。おまえさまと共に逝きます。葵。
 その夜光の声が甦ると同時に、それが引き金となって、葵の中に記憶があふれた。一気に甦ってきたそれに、葵は思わず目を見開いて息を飲んだ。
「あ……」
 最後の記憶は、まるで夢の残滓のようにおぼろげではある。だがあのとき、消え入りそうな意識を懸命に繋ぎとめ、後を追うと言った夜光を止めたことだけは覚えていた。
「俺は……生きているのか?」
 いったい何があったのかをまだつかみ切れないまま、葵は自分で自分の顔にふれ、髪にふれ、掌を見た。
「夜光がしゅを解いて、あなたをこの世に引き戻したのですよ」
 混乱気味の葵に、長は静かに言った。
「それは、どういう……」
「積もる話もありますから、ひとまず最玉楼に戻りましょうか。ここは少し潮風が強くて冷えますしねぇ」
 状況を把握し切れず茫然としている葵をよそに、長はふわりと長衣の裾と長い黒髪をなびかせて踵を返した。
「私は先に帰りますから。槐、あとは頼みましたよ」
 それだけ言い残すと、長はあとは一瞥もくれず、その姿を空間の狭間にとけこませてしまった。
 その様子を、じっと黙って興味深そうな視線で追いかけていた槐が、小さく吹き出した。そして砂の上に座り込んだままの葵に、ぐるりと視線を巡らせた。
「空の奴も、たいがい大人げない。何も目覚めたばかりのおまえに八つ当たりすることはなかろうになあ」
 額に角があり、しかも奇妙な面などをかけている槐に、葵は首を傾げた。
「あなたは?」
「俺か。俺は、そこにいる夜光の父親だ」
 にやにやと笑いながら槐は言い、ことさらぶしつけに葵のことを眺めまわした。
「ちち……は……え、ええぇッ!?」
 しばらく意味をつかみかね、ようやく「父親」の一言を理解した葵は、目を皿のように丸くした。
 その遣り取りに、葵にしがみついていた夜光がやっと顔を上げた。夜光は泣き腫らした瞳のまま、まだ涙も嗚咽も止まってはいなかったが、その身から強張りはだいぶ抜けていた。
「槐様……あの、どうか。今の葵を、余計に混乱させるのは……」
 ずっと泣いていたせいであまりうまく喋れず、夜光がようやく言うと、槐はいやに感慨深げに、一人頷いた。
「ふむ、それもそうだな。空の奴にも任されてしまったことだし、ではまあ、ひとまず俺達も戻るとしよう。立てるか」
 槐は大股に二人に近付くと、返事を聞くより先に、砂の上に座り込んでいるそれぞれの腕を引いた。力強い手が二人を立ち上がらせ、少しよろめいた葵を、しっかりとその腕が支える。
「申し訳ない」
 まだ困惑しながらも、葵が言った。それを聞いた槐が、にまりと笑った。
「なぁに、おまえもこれから苦労しそうだからな。これくらいお安い御用だ」
「はあ……?」
 何のことやらという顔をしている葵に、ますますおかしそうに槐は笑う。そして二人を囲うように、墨染めの袖を大きく翻した。
 巻き起こったつむじ風の中に巻き込まれるように、三人の姿もまた、夜の浜辺から掻き消えた。

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