三章 赤い涙 (3)

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 ユアンがフィンディアス皇宮で皇子の従者を勤め始めてから、既に三度月が変わっていた。日数でいえばまだ三ヶ月には若干満たないが、一切無駄のない日程を消化してゆくフィロネルに付き従ううちに、慌しくあっという間に時間は過ぎてゆく。
 執務室で言い合いになった​​​──というよりもユアンが一方的に激昂した​​​──後も、フィロネルの態度はなんら変わることはなかった。フィロネルが何も言わないから、ユアンも何も言わなかった。
 あの日フィロネルが語ったことの真相は、結局分からない。事実がどうだったのかなど、ユアンには調べようもない。
 まとまらない思考と入り乱れるばかりの感情の上に、未だに仇を討つことができない焦燥と無力感が降り積もってゆく。
 ユアンは鉛のように倦んだ重い疲れを、身体の奥に感じ始めていた。過ぎてゆく日々の中で、ふと、俺はここで何をしているんだろうと自問することが増えた。
 いたたまれない空虚さを伴う自問から、ユアンは耳をふさいで目をそむけることしかできなかった。そうしなければ、握り締めた刃の切っ先が、衝動的に仇敵から自分自身に向いてしまいそうだったから。

 そんなある日のことだった。フィンディアス宮廷にはびこる、ひとつの「公然の秘密」を、ユアンが知ったのは。

 代々それほど珍しい話でもないみたいだよ、と、ユアンの耳に初めてその話を入れた相手は言っていた。
「何しろこういう国だから……皇族の血筋っていうさ。結構いろいろと歪んでるんだよね」
 彼ら​​​──あるいは彼女達​​​──は、ひそひそと声音を落として囁いた。人目を憚るようにはしていながら、彼らのいずれもに、それほどの深刻味は伺えなかった。まるで昔から有名なゴシップについて語るように、むしろ彼らは嬉々としてユアンに教えてくれた。
「フィロネル殿下のお父様は、ルカディウス様じゃないのよ。先の皇帝陛下​​​──つまりお爺様に当たる人が、本当のお父様なの」
「当事皇太子妃としてお輿入れ寸前だったイザリア様に、先の皇帝陛下がお手を……って、もっぱらの噂だね。いや勿論、こんなことは公にはなかったことになってるよ? でもさ、もう亡くなられてしまったけれど、イザリア様はそれはお美しい方だったからねぇ……」

 ​​​──何だその話は。と、ユアンは開いた口が塞がらなかった。
 フィンディアス皇家について、ユアンは興味もなかったからたいした知識もなかった。ざっと知る限り、皇后イザリアは、三年程前に誤ってテラスから落ちて他界してしまったらしい。皇帝ルカディウスは、その心痛から病を発して床に伏せてしまったきりだという。
 病に伏せって表に出てこない皇帝は、その奇妙な話が確かなら、本当はフィロネルの「父親」ではなく「兄」だということになるのか。つまりフィロネルは、本来なら祖父となるはずだった男と皇太子妃との間に生まれた​​​──要は不義密通の末に生まれた子なのか。
 その生々しく、血が親しいだけにどろついた関係は、なんともいえずユアンの胸を悪くさせた。

「なんだおまえ。知らなかったのか?」
 しかしまだ半信半疑で、職務の合い間に普段から割合よく顔を合わせる護衛の男をつかまえて訊ねてみたら、逆にユアンは驚かれてしまった。ああ、と男はすぐに一人で納得したように頷いた。
「そうか、おまえはわりと最近ここに来たばかりだったな。知らなくても無理はないか」
「……そんなに有名な話なんですか?」
 思わず、ユアンは重ねて問うてしまった。歴史の長いフィンディアスは伝統と皇家の血筋を尊ぶとは聞いていたが、皇族同士で血筋さえ守られていればそんな不祥事でも許されてしまうのかと、かなり衝撃だった。しかも明らかな不祥事でありながら、宮廷に出入りする者達は勿論、皇宮仕えのかなり末端の者達までもがこの話を知っているようだ。
「有名というよりも、公然の秘密というやつかな」
 この話を聞いてから何度もユアンが耳にしていたその言い回しを、やはりここでも男は口にした。
「まあ、血筋の上ではさしたる問題でもないから……ということだろう。正直気持ちの良い話ではないが。でもそれを言ってしまったら、何も悪くない殿下がお気の毒だ」
 男はそこで軽く眉を寄せ、声音を低めた。
「おまえも知らないふりをしておけよ。皇宮では誰でも知っているような話だが、さすがに公に口にしたら罰せられる。下手をしたら首が飛ぶぞ」
「……気を付けます」
 それで飛ぶような首なら、もうとっくに自分の首は落とされている。半ば自嘲気味に思いながら、形ばかりユアンは頷いておいた。


 以来、それとなく気を付けるようになったが、確かに表立ってそんな話を口にするような者は見かけなかった。そもそもユアンは基本的に皇子と共に行動しているのだから、そんなゴシップは最も聞こえ辛い立場ではあるだろう。
 長く続いた伝統ある皇家ともなれば、そんな胸の悪くなるような話のひとつやふたつ、珍しくもないのかもしれないが。確かに血筋の上では問題はないにしても、仮にもし自分がフィロネルの立場だったらと考えてみると、ぞっとしない話だ​​​──と思いながら、ユアンは今日も皇子の後ろに従って皇宮内を歩いていた。
 曇り空の下ではただでさえ暗く見えるフィンディアス皇宮だが、その話を聞いて以来、ユアンにはますますこの建物が重く陰鬱に見えるようになっていた。長い歴史の中で増築や改築を繰り返された、古く堅牢で、壮麗だが翳と澱の深い宮殿。それは、このフィンディアスという北の国を象徴しているようでもあった。
 数歩先を歩くフィロネルは、普段と同様に冷めた横顔を見せている。犀利で感情を窺わせない、彫像のように整った容貌。長い黄金の髪は、くすんだ灰色の陽の下でさえ華やかに輝き、その長身を彩っている。
 ​​​──こいつの双肩には、この古く重い皇宮を造ってきた、この国の長い歴史が乗っているのだな。
 ふと、先を歩くフィロネルの後ろ姿を見てユアンは思った。こんなふうにまじまじと皇子の後ろ姿を見、そんなふうに考えたことは、これが初めてだった。
 いや、こんなことは今さら考えるまでもない話ではあった。フィロネルはこのフィンディアス皇宮で皇子と呼ばれ、皆にかしずかれ、病に倒れた皇帝にかわって政務を執っている。その多忙な日々に、まださしたる月日ではないとはいえ、ユアンも身近で付き従っている。
 ​​​──私情は要らぬ。王として生きるためには。
 そう言い切ったときのフィロネルの姿が脳裏をよぎった。あの遣り取りから日数が経ち、何度も何度もあのときのフィロネルの言葉についてを考えるうちに、ユアンは本当に今さらながら、ひとつのことに思いを巡らせるようになっていた。
 艶やかで光の加減によっては様々な色の光を孕んでいるようにも見える、長く靡く黄金の髪を眺めながら、ユアンはどこか虚ろな気分で心に呟いた。
 ​​​──こいつは、この国ひとつをその肩に背負っているのだ。
 ユアンにとっては憎むべき仇であり、許しがたい悪魔のような男だが、フィロネルは確実に今このフィンディアスという国を支えている。フィロネルが除かれれば、フィロネルがほぼ独裁している上、他に定められた皇位継承者のいないこの国は大きく荒れ、傾くだろう。南で勢力を強めているレインスターが、それを放っておくだろうか。レインスターもまたファリアスを狙っていたという話が本当だったのであれば。いや、それがたとえ出任せだったとしても。南方の国々を次々に平定している野心家であり、辣腕家でもあるウェルディア王が、そんな状態に陥ったフィンディアスを見過ごすだろうか。
 ​​​──ぞくり、と、ユアンの全身が総毛だった。
 自分がフィロネルを討った先の未来が、不意にこのとき克明に見通せた。それは真っ直ぐに伸びる、個人など簡単に飲み込んでしまう、恐ろしい戦火の燃えさかる道だった。
「ここで待て」
 不意に響いたフィロネルの声に、はっとユアンは息を飲んだ。ユアンも含め、皇子に付き従って歩いていた者達が、その言葉で足を止めた。
 どうやら歩くうちに、随分深く考え込んでしまっていたようだ。ユアンがいささか慌てて顔を上げると、一行は一枚の大きな扉の前に着いていた。
 冷えた石造りの柱廊の突き当たりにある扉の前には、数人の宮廷医師達の姿があった。彼らは深々と頭を下げ、皇子を迎えた。
 医師達と皇子は、小声で何かを一言二言交わす。大きな扉は、人ひとりが通るのがやっとな程度に、ゆっくりと軋んだ音と共に開かれてゆく。
 物音ひとつしないその奥に消えてゆく皇子と医師達の姿を、ユアン達もまた敬礼して見送った。
 この皇宮の最深部にある扉の奥に、フィロネルは週に一度、必ず足を運ぶ。皇宮の中でもとくに厳重な警備の敷かれたこの一角は、文字通り猫の仔一匹、鼠一匹でも入り込めないほどの厳戒態勢下にあった。
 ほとんど物音のしない、陽の差さない位置にあるこの一角は、重々しいフィンディアス皇宮の中でもひときわ陰鬱に、暗い海の底に沈んだような印象がある。
 ひんやりと蒼褪めたような冷たい石に囲まれ、迎えに出てきた医師達と皇子が消えてゆく扉の奥にいる者について、ユアンは思考を馳せた。
 皇帝ルカディウス。
 三年ほど前から病に伏して表に出てこない、この国の今となっては名ばかりの支配者の寝所が、この扉の奥にはあった。
 その存在について、ユアンはこれまでまともに考えたこともなかった。ただひたすら、フィロネルを討つことばかりが頭を占めていた。まして、形ばかりのフィンディアス皇帝のことなど。祖国の仇ではあるその男については、どんな病か知らないが、どうせもう先は長くないのならせいぜい苦しんで死ねばいい、とさえ簡単に思っていた。
 ​​​──俺は、ここで何をしているんだろう。
 冷たい通路に佇んで皇子の戻りを待ちながら、ユアンは身体の脇に下ろした手を握り締めた。
 これ以上考えたくなかった。自分が今ここにあることの意味を否定してしまうようなことは。フィロネルに復讐することだけを支えに、激情だけを抱えて、攻め滅ぼされた祖国から飛び出してきた。討つべき仇を目の前にしながら何も出来ずにいる、あまりに不甲斐なく惨めな自分の姿を直視してしまったら、そしてフィロネルを討つことに疑問を感じてしまったら、抱え込んでいるもののすべてに亀裂が入って決壊してしまう。その予感がひしひしと身に迫り、まるで溺れかけているような息苦しさを感じた。
 ユアンは顎を上げ、きつく瞼を閉じた。考えるな。これ以上もう考えるな。これ以上考えたら、刃が鈍る。それでは自分が生きてここにいる意味がなくなる。だから、もう何も考えるな。
 僅かな靴音さえ響き渡る静けさの中、ユアンはただひたすら、己に対し繰り返した。


 その後は面会の予定があり、フィロネルは皇帝の見舞いが終わると執務室に戻った。来賓などに対する正式な謁見は専用の間で行うが、仰々しく格式張っているだけの慣習に時間をとられることを嫌う皇子は、日々の政務に必要な報告や陳述を受けることに関しては、ことごとく面会は略式で済ませる。勤めに就いたばかりの者などは、あまりにあっさり皇子に対面して驚く者も少なくないという。
 ユアンも皇子に付いて移動し、今ではだいぶ慣れた取次ぎを事務的にこなすと、訪問者が立ち去るまでぼんやりしていた。
 フィロネルは、いつも通りに政務を捌いているように見えた。これといって顔色も変わらず、表情も淡々としている。冷然と整った貌は、相変わらず何を考えているのか分からない。
 その様子を見ていたら、ユアンは倦んだ神経がささくれるように苛立つのを感じた。
 常にユアンを見下ろし、尊大に振る舞うフィロネルは、権力者たるに相応しい余裕と自尊心に満ちている。成程、一国の支配者という視点を持った相手からすれば、ユアンの怒りや嘆きなど、さぞや取るに足らないものなのだろう。フィロネルがユアンを性欲処理の道具として扱うのも、フィロネルにとっては当然のことなのだろう。
「そこの書類をまとめておけ」
 やがて面会人が去ると、フィロネルはユアンに言い、一息つくように椅子を回して背を向けた。物言わぬその背に、長い黄金の髪が流れ落ちた。
 言われた通り、ユアンはフィロネルの執務机に近付き、そこに広げられた書類をまとめ始めた。
「……皇帝陛下のご容態はいかがですか?」
 ぴりぴりと感情がささくれ、くすぶるような苛立ちを抑え切れないまま、気がつくとユアンは口を開いていた。感情が入り乱れてもつれ、鬱屈と憤懣がおさまらない。固く戒めた僅かな隙間から、それらが漏れ出してゆくようだった。
「人の家族は殺しておいて。ご自分の親はそんなに大事ですか。……ああ、ルカディウス様は殿下のお父上ではないのでしたね。失礼しました」
 何故そんなことを言ったのか、ユアン自身にもよく分からなかった。どこかで自棄になっていたのかもしれない。そうして君子面をしている貴様は、醜い不義密通の末に生まれたのではないかと嘲笑ってやったら、少しはフィロネルの顔色も変わるだろうか。それを見れば、少しは溜飲が下がるだろうか。そんな歪んだ醜悪な衝動が、ユアンの胸中をどろりとなぞっていた。
「なんでも、殿下の本当の父君は先の皇帝陛下だとか……そのような忌まわしい関係であっても、表向きはお美しい家族愛を取り繕わねばならないなど、殿下もお気の毒なことです。心中お察し申し上げます」
 言葉を言い終えるか終えないかというところで、ユアンはぎくりと手を止めた。背筋を貫くように駆け抜けたのは、悪寒とも怖気ともつかぬ感覚だった。
 視線を上げた先で、フィロネルがユアンを振り返っていた。凝然と瞠られ、硝子が凍てついたような眼差しがそこにはあった。愕然としたようにユアンを凝視していたそこに、やがてゆっくりと、別の感情が滲み出した。
 形相すらこれまでのフィロネルとは異なって見える。あまりに強烈に燃え上がり、氷のように冷えて見える感情。その紫色の双眸に揺らめいたのは、凄まじい嚇怒の焔だった。
 思わずユアンは後ずさり、生唾を飲み込んだ。
 殺される。と、理屈よりも先に思った。
 しかしフィロネルは、剣に手をかけることもなく、ゆっくりと立ち上がった。
 ユアンは射竦められたように立ち尽くしたまま、扉に向かって歩き出してゆくフィロネルの姿を目で追った。
 普段と変わらぬ足取りで扉に向かい、そこを開いたところで、フィロネルが振り返りもせずに言った。扉の外にいた護衛や控えの者達にも聞かせるように。
「気分が悪い。今日はもう誰も私のもとに通すな。​​​──ユアン、おまえはそこを片付けてから部屋に来い」
 扉の外にいた者達が、殺気立った尋常ならざるフィロネルの怒気にあてられ、恐れ慄いたように下がって頭を垂れた。その間を通り抜け、フィロネルの足音が遠ざかってゆく。
 立ち尽くしていたユアンは、投げられた言葉に我に返った。
 気を取り直し、広げられていた書類を揃えて片付けながら、ユアンは考えた。あれほど感情を剥き出しにしたフィロネルを見たのは初めてだった。あの様子でユアンに部屋に来いということは、行けばただではすまないだろう。今この場で斬られなかっただけで、部屋に行けばそこで殺されるのかもしれない。
 ​​​──上等だ。
 フィロネルの様子に気圧され、怯みかけていた気持ちを、ユアンは奮い立たせた。
 さっきの話がよほどフィロネルの逆鱗にふれたにせよ、それはこちらも同じことだ。先にユアンの大事なものを奪い、踏み躙り、嘲笑ったのはフィロネルの方なのだから。
 殺すなら殺せ。殺されるのなら、こちらもただでは殺されはしない。
 相手が明確な殺意や害意を持っている方が、刃を手にすることに躊躇いを持たずにすんだ。むしろその方が分かりやすい、とさえ思った。
 余計なことを考えるから、動けなくなる。
 ​​​──俺は貴様を殺すために、ここまで来たんだ。
 ユアンは部屋を片付け終えると、ひとつ深呼吸をし、歩き始めた。

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