一章 終の涯(六)

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 ──いつも、いつもひもじかった。
 身体のどこかしらがいつも痛んで、生傷の絶えたことはない。いつも喉が渇いていて、背中とくっつきそうなくらいおなかがすいていた。
 骨と皮ばかりに痩せて節の目立つ、枯れ枝のような手脚を持つ小さな身体。生来は白い白い肌、真白の雪の如く髪と、紫水晶さながらの瞳。けれど瞳の他は、かろうじで身につけた襤褸ぼろと見分けが付かないほど、垢と泥とにまみれて黒ずんでしまっていた。
 ぐしゃぐしゃにからまった髪の隙間、額のあたりに小さく見えるのは、一対の角。
 小さな身体を、それよりはるかに大きな者達が取り囲み、いかにも薄気味悪そうに睨み付けた。
『なんて気味の悪い餓鬼だよ。まったく、あの化け物め。とんでもない置き土産をしていきやがった』
 獣のように縄で首を柱につながれて、閉じ込められたのは黴臭い土蔵。
 大きな者達が交わす言葉は、理解ができなかった。言葉、というものを理解できるようになるより早くに、この土蔵に閉じ込められてしまったから。
 でも、憎々しげに睨み付けてくる大きな者達の顔つきや、荒げられる声音、躾けと称した折檻は、身も心も萎縮するほど怖かった。怪我をしてもすぐに治るのだけれど、痛いことに変わりは無い。逃げることもできないから、いつもただ丸くなって唸っていた。
 それでも、おなかがすいて喉が渇く。恐怖しながらも、大きな者達が運んでくる食べ物や水を待たずにいられなかった。
 陽も差し込まない狭苦しい土蔵に閉じ込められ、どれくらいの時間を過ごしたのか分からない。そのうち、食べ物とすら呼べないような食事も運ばれなくなり、水ももらえなくなった。
 手の届く範囲でつかまえられる虫や小動物を食べ、土蔵の破れた屋根から毎夜ほんの数滴ずつしたたり落ちる夜露を椀に集め、舐める程度でしかないそれで命を繋いだ。けれど小さな身体は、あるとき遂に指一本動かせなくなった。
 何もかもがぼやけてよく分からず、空腹さえもう感じなかった。ただひたすら、灼けるように喉が渇いていた。
 ただ転がっていた痩せ細った小さな身体が、命の炎が尽きる寸前で、ふわりと持ち上げられた。
 襤褸を纏った木乃伊みいらのような小さく軽い身体を、真っ白い袖が穢れるのも厭わずに、そのひとは抱き上げた。それから、老人のようなありさまに成り果てた小さな頬に頬ずりし、優しく抱き締めた。
『……可哀想に……』
 抱き締められながら聞いたその声に、働かない頭でぼんやりと思った。ただひとつ。
 ……あったかい。
 それで眠りに落ちた。それ以外を感じることすらできないほど、指の先まで疲れ果てていた。


 暖かな寝床の中で目を覚ましたとき、夜光は強い眩暈と吐き気を覚えた。
 閉められた障子を透かして、朝方の光と鳥達が鳴きかわす声が静かな部屋の中に届いている。
 頬や額が冷や汗で濡れており、胸が悪くて、一度開いた目をまた閉じた。途端、瞼の裏に、ぞわりと吐き気と悪寒を伴う夢の残滓が映り込んだ。あわや夜光は、悲鳴を上げそうになって飛び起きた。
 薄い胸元を押さえて、乱れた自分の呼吸音を聞く。布団についた手が震え、白い単衣ひとえの寝巻きがしっとりと湿るほど、全身に冷たい汗をかいていた。
 ──どうして昔の夢など、急に。
 少しずつ息を整えながら、布団についた手を握り締めた。
 できるだけ思い出さないように努めていても、不意をつくようにおぞましい記憶の破片は零れ出してくる。もう全部忘れてしまいたいのに、まるで何かを戒めるように、夜光を打ち据えてくる。
 夜光は震える手で顔を覆い、なんとか動悸と呼吸をなだめようとした。その目がふと、部屋の中ほどに敷かれた寝床にとまった。
 そこにいる葵の目が覚めた気配はない。落ち着いた寝息を聞きながら、夜光は青みがかった真っ直ぐな瞳を思い出していた。
 ──おまえは……おまえも、人間ではないのか?
 ──このような外見です。人ではありますまい。
 葵の晴れやかな眼差しが甦ると共に、交わした言葉を思い出す。葵は、どういう意図であの問いかけをしたのだろう。目の前の、明らかにマレビト達とは異なる容姿を持つ夜光の正体を、ただ確認しておきたかっただけだろうか。
「嫌いです……人間なんて」
 ぽつり、と呟いた。動悸も呼吸も落ち着きつつあるのに、そう呟いた途端、胸の奥が締め付けられるような心地がした。
 首を一振りし、うつむいて、細く長く吐息を吐き出す。さらさらと乳白色の髪が前に落ち、緩めに纏った寝間着の襟足の、骨の浮いた細いうなじが、朝のまだ弱い光の中に照らし出された。
「……湯浴みでもしてこよう」
 豊かな温泉を引いている最玉楼では、四六時中湯を使うことが出来る。どうせもう眠れそうにもないし、頭も気分も切り換えたくて、夜光は音を立てないように、寝床から立ち上がった。


 順調に回復していくのは良いが、葵は少し動けるようになってくると、しばしば勝手に寝床を抜け出すようになった。といっても、まだ湯殿も使えないくらいの状態では、せいぜい厠のついでに縁側を行けるところまで行ってみたり、縁側から降りて付近を少し歩いてみる程度だ。
 そう遠くには行っていないと分かっていても、部屋を訪ねてみて寝床がからだと心配になる。その日も姿を消した葵を探し、近くにある小さな庭園で見付けた夜光は、普段は優しげな白い眉をしかめてみせた。
「ここにおられましたか。探しましたよ」
「やあ、夜光」
 寝間着の上から茶羽織を肩に掛け、石の長椅子に腰を下ろした葵が、夜光を見て悪びれずに笑った。降ろしたままの長い黒髪が、肩から背に流れている。その背丈よりも伸びた雪柳の群れが、背後には明るく広がっていた。
 葵の傍らには、夜光が貸した覚えのない杖があった。いったいどこから、と思いながらそばに寄ると、その視線に察したのか葵が言った。
「厠に行ったとき縁側で一休みしていたら、それを見ていた人が貸してくれたんだ。歩くのに不自由でしょうと」
「歩くのが駄目だとは言いませんが、少し動きまわりすぎです。まだ傷が完全には塞がっていないのですよ」
「はは。寝てばかりだと、どうにも退屈でなあ」
 反省しているのかさだかではなかったが、その屈託のない笑顔を見ると、どうも夜光には葵を憎めない。
 困ったものだ、と小さく息をつくと、葵が苦笑した。
「俺の流れ着いたここは、人間の世界ではないという。寝ていろと言われても、やすんでいるとあれこれ考えてしまって落ち着かないんだ。夜光が案じてくれているのは良く分かる。本当に危うい無理はしないよ」
「……それなら良いのですが」
 葵の言うのも分からないでもない。先日葵に訊ねられ、この場所が「終の涯」と呼ばれる「人ならぬ者達」の住む街であることを話した。普通の人間である葵にとっては、にわかには信じがたく、また不安になる話でもあっただろう。
 取り乱して叫ばないだけ、葵は余程落ち着いている。葵の印象はどちらかと言えば見目が良い優男だが、見かけにそぐわず案外剛胆なのか、それともまだあまり実感が伴っていないのか。
 ついと、葵が傍らの杖に手を伸ばした。
「この杖を貸してくれた女性なんだがな」
「はい」
「これがびっくりしたぞ。なんと頭に耳がついてたんだ」
「頭に耳がついているのは、当たり前ではありませんか」
「いや、そうじゃなくて。こう頭の上に、毛の生えた三角の大きな耳がついてたんだ」
 葵は自分の頭の上に左手を上げ、耳の形らしきものを作ってみせた。
「自分は妖狐なのだと言ってた。思わずその耳は本物なのかと訊いてしまってな。そうしたら怒りもせずに、笑いながら頭を下げて触らせてくれたよ。優しい娘さんだった」
 あの部屋のあたりを通る者で妖狐といえば、夜光もその人物の心当たりがあった。最玉楼で芸子を勤めている、愛嬌のある気の利いた娘だ。成程彼女であれば、見るからに不自由している葵に杖を貸すことも、耳を触らせてやるくらいのこともするだろう。
 葵は妖狐の娘を思い出しているのか、杖に触れながら続けた。
「ここは妖や神々の世界だと聞いてとんでもなく驚いたし、俺はここにいて大丈夫なんだろうかとも正直思った。だがあの娘さんに会って、案外やっていけるかもしれんと思ったよ」
「左様ですか」
「それから、おまえだ。夜光」
「はい?」
 突然話を振られ、夜光は首を傾けた。葵は夜光を見上げ、いつかのように、少し眩しげに目を細めた。
「おまえが俺に本当に良くしてくれる。それにどれだけ救われているか知れない。助けてくれたのがおまえで良かったと思う」
「……左様ですか」
「うん。おまえで良かった」
 葵は嬉しそうに笑った。てらいのない表情に、夜光は少し戸惑った。
 なぜか、頬がほんのりと熱くなる。咄嗟に夜光は顔を見られないように、斜め下に視線を逸らした。白い頬に白い髪が、はらりと落ちかかった。
「……この終の涯のしきたりであるだけです。誰であろうと、ここを訪れた者は客人としてもてなすように、と」
「それはありがたいしきたりだな。おかげで俺は、こうしておまえに助けてもらった上に、世話までしてもらえるわけだ」
「ですから、早くお身体を治すことを優先して下さい。今の葵殿は病人と大差ありません。子供ではあるまいに、あまり聞き分けのないことを仰って下さいますな」
 葵を見ないまま、夜光は続けた。なぜか葵をあまり正視できない。そのいつにない様子に、葵が表情をあらためた。
「分かった。そうだな……うん。いくらしきたりとはいえ、いつまでもおまえの世話になるわけにもいかんな。出来るだけ早く、一人で動けるようになろう」
 夜光は葵を見返る。そのようなことを言わせてしまうつもりではなかった。葵の世話をするのは、夜光にとってもつまらないことではない。勤めを休むことが良い息抜きだという以上に、葵と関わることは、夜光にも思いがけない充実感をもたらしている。
「あ……」
 何を言うべきかの整理もつかぬまま、夜光は思わず口を開きかけ、だがそれより早く空気を変えるように、葵が訊ねた。
「それにしても、そんなしきたりを誰が作ったんだ? この終の涯には、やはり頭領のような者がいるのか」
「それなら、私ですよ」
 それに対するいらえは、思いもよらぬ方角から聞こえてきた。夜光が返したのではない。その穏やかな声は、白く輝く滝のような、大人の背丈よりも高く伸びた雪柳の向こうから聞こえてきた。
 驚いて夜光が振り向き、葵も目をぱちくりさせる。
 けむる雪柳の簾をよけるように、ひとりのすらりとした人影が歩み出てきた。
 見事な金糸銀糸の刺繍が施された白い着物の上に、淡紅藤色の薄絹の長衣ながぎを羽織っている。それは羽織というには華麗で、打掛というには裾が短く布地も薄く、ふわりと空気をはらんで靡く様が優雅だった。
 銀の月光が零れて滴ったような、見事な艶を帯びた長い黒髪。その黒髪を一房留める金の髪飾り。輝く太陽を玉石に換えたような黄金色の瞳。その切れ長の目許に一筋刺された紅の刺青が、これまた妖しいまでになまめかしい。
「おまえたちの会話が可愛らしいあまり、つい盗み聞きをしてしまいました。お邪魔しますよ、夜光。人の子」
 ものやわらかな声で言い、「長」と呼ばれるそのひとは、あでやかに微笑んだ。

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