ざぁん、と、穏やかに広がる海が波音を立てる。
虚ノ浜と呼ばれる浜辺に、夜光はひとり立っていた。
不思議な虹色を帯びたような青空に、月虹に似た薄い輪を持つ日華が輝いている。碧い海は優しく凪ぎ、今日も終の涯はどこまでも穏やかだった。
潮の香りのする心地良い風が乳白色の髪を洗い、着物の裾をなびかせる。あの日のように草履も足袋も脱ぎ捨てて、遠い水平線を見つめながら、夜光は様々なことを思い出していた。
葵と出逢ってから喪ってしまうまで、なんと短く鮮やかな日々だったことだろう。並みの寿命の人間よりもよほど長く生きる夜光の中に、その短い日々は、黄金に輝くように、月明かりに切なく浮かび上がるように、目も眩むほど鮮烈に刻み付けられていた。
夜光はゆるやかな風に髪を流されるまま、誰もいない白い砂浜に視線を巡らせた。その首に掛かった水晶の数珠が、きらりと陽差しを受けて光った。
倒れていた葵を初めて見つけたのは、あのあたりだったろうか。そして最後の夜に葵と抱き締め合ったのは、あの岩の陰だったろうか。
──奈落を彷徨うしかない恋だった。こんな自分では。
葵のことを思い出せば出すほど、もう一度だけでも、もう一目だけでも、会いたくて会いたくてたまらなかった。声を聞きたくてたまらなかった。
思い巡らせているうちに涙が滲みかけ、夜光はぐっとそれをこらえた。
懐に挿し込んでいた、綾錦の細長い袋を取り出す。紐を解き、袋を開くと、中から黒塗りの美事な匕首が現れた。
匕首を取り出し、そのまま懐に挿し直す。それから、手の中に残った美しい刺繍で彩られている綾錦の袋を見つめた。
しばらくじっと見つめた後、穏やかに砂を洗う波打ち際に足を運んだ。素足にひやりと濡れた砂がふれ、優しい水が戯れるように絡んだ。
着物の裾をたくし上げて、膝下まで水の中に進む。
抜け殻のような、亡骸のような匕首の袋を、夜光はそっと水に入れ、波が返すそのときに合わせて指を放した。
ふわりとあっけなく、水中に舞うように、刺繍に彩られた錦の袋は遠ざかった。寄せて返す波間にしばらくふわふわとしていた彩りは、やがて沖へ流れる潮に乗ったらしく、急速に遠ざかり、見えなくなっていった。
──どうか叶うなら、葵の魂を乗せて、蓬莱の海に流れ着きますように。どうか葵が、懐かしい故郷を見ることができますように。
果てしなく広がる海の果てを見ながら、夜光は懐に挿した黒塗りの匕首を両手で押さえた。
いつか、この命にも終わりが来る。そのときになれば、葵に会える。
そのとき、葵に胸を張って会いたい。生きてくれ、というおまえさまの言葉を守った、と言えるように。それが葵の最後の願いなら、葵の命を奪ったこの身体を連れて、命果てるそのときまで、生きよう。
「お慕いしています……葵」
うっすらと涙が滲み、瞼を閉じて呟いた声が、春色の穏やかな波音の中にとけていった。
◇
遠い遠い異界の海。
蓬莱と呼ばれるそこの、とある断崖の下。
うねりながら白い波頭が寄せ、砕ける岩場に、岩の陰に引っかかるようにして、鮮やかな色をした綾錦の袋が揺れていた。
かつてその上から、一人の若者が身を投げた崖の下に。
それはさながら、波間に小さな花が咲いたようだった。
(了)