白い、白い中にいる。
ぼんやりと漂うように、夜光はその白さに身をゆだねる。まるで、心地良い湯にでもつかっているようだ。重く疲弊した手脚に、瞼に、穏やかな暖かさがじんわりと沁み込んでくる。
……心地良いはずなのに、どうしてか、哀しい。忘れてはいけないことを忘れているようで、胸にぽっかりと穴が開いている気がする。
──ああ、でも。何も考えられないほど、とても眠い。
ふわりと髪にふれてくる感触があった。誰かの掌のように思える。どこかで覚えがある……でも、誰だった……?
何も思い出せない曖昧さの中で、髪を撫でる掌はとても暖かかった。
寝返りを打ちながら目覚めたとき、視界にあったのは、またしても面をかけた槐の姿だった。
一瞬硬直し、数度の瞬きの後に状況を把握する。
「ま、またっ……何なんですか、もう!」
夜光は飛び起きるなり、後ろにいざって槐を睨みつけた。
外では小鳥たちが、ちゅんちゅんと賑やかに朝の訪れを告げている。枕元に胡座をかき、膝に頬杖をついてこちらを覗き込んでいた槐が、悪気の欠片もない様子でにまりと笑った。
「朝っぱらからそう怒るな。可愛い顔が台無しだぞ」
「朝から妙な嫌がらせをしているのは、どこのどなたですか」
「人聞きの悪い。俺はただ、早くに目が覚めたから、退屈ついでに寝顔を眺めていただけだ」
寝床の脇には蒔絵の衝立が置かれ、それは無造作によけられて、向こう側に別の寝床が見えていた。それらを目にして、夜光はようやくこの状況の経緯を思い出した。
昨日、なんの気まぐれか、槐に「同じ部屋で寝むように」と言いつけられた。しかし仮にも最玉楼の賓客である槐の横に、従業員の自分が床を並べるのもどうかと、互いの寝床の間に衝立を置いた。
──というのは建て前で、夜光の本心は「見ず知らずの、しかもこんな無遠慮で底意の知れない妙な相手と枕を並べて寝られるか」ではあったのだが。
夜光は槐から距離を取りつつ、我ながら尖った声で言った。
「他人が寝入っているところを、退屈だからと間近で眺めているだなんて、あまり趣味がよろしいとは言えませんよ」
本来はゆるやかな優しい弧を描いている眉を逆立てている夜光に、槐はやけに楽しそうに受け答えた。
「別にいいだろうが。減るものでもなかろう」
「減る、減らないの問題ではございません」
「心が狭いな、おまえは」
「狭くて結構でございます。私の性分を、槐様もご承知下さいませ」
「成程。心は狭いが態度はでかい、と」
「なっ……」
「ここでは俺は、一応おまえの主だぞ? あまり粗雑な態度を取るようでは、おまえを俺に遣わせた空の面目が立たなかろうなぁ」
そう言われるとぐうの音も出ず、夜光はにやにやしている槐を無言で上目にした。槐がいちいち妙に楽しげであるのも腹立たしかった。
「……とにかく、衝立を勝手に動かさないで下さい。私も着替える必要がございますし、見苦しい姿を槐様の目に晒すのは憚られます」
「俺は別に気にならん」
「小間使い風情が、出すぎた振る舞いに及ぶわけには参りませぬ」
夜光は立ち上がり、よけられていた衝立を元通りの位置、つまり互いの寝床の間に戻した。
「さ、槐様、そちら側に戻って下さいませ。私は寝床を上げて、朝餉の準備をしてまいります」
「まだ横になっていても構わんぞ?」
「……それならば、最初から人の寝床に忍び寄るようなことは避けていただきとうございます」
この状況で寝られるものかと、夜光は溜め息をついた。
やっと槐が戻ってゆくと、夜光は衝立の陰で白い単衣の寝間着をほどいた。地味な色合いの質素な着物に袖を通しながら、それにしても、と眉根を寄せた。
仕事柄、眠っているときでも、周囲の気配には鋭敏であるつもりだった。そのはずが、先日といい今朝といい、あそこまで槐に間近に寄られて気が付かなかったとは。
そもそも、人に隙を見せるのは好きではない。さほど親しいわけでもない相手にまじまじと寝顔を見られるなど、甚だ不本意な話だ。
槐の滞在中の側仕えにというのは、長からの信頼の証ではあるのかもしれない。それは嬉しくはあったが、好き放題な槐の言動にいささか振り回されているのは確かだった。
夜光は寝床を片付け、桶に貼った水で顔を洗い、身繕いを済ませると、衝立から向こう側を覗いた。
槐は寝床にごろりと横になって、煙管から紫煙を立ち昇らせていた。
「槐様の床上げは、いかがいたしますか?」
訊ねると、槐はこちらに視線を巡らせた。
「そうだな。それじゃあ、俺は朝風呂に行って来る。その間に上げておいてくれ。それから、おまえも一緒に朝飯にしよう」
「かしこまりました」
頭を下げると、夜光の乳白色の髪がさらりと小袖の肩をすべり落ちた。
そのもの柔らかな仕種に、槐の唇がふとしたように穏やかな笑みを刻んだかに見えた。だがそれを夜光が見直す間もなく、槐は煙管の火を落として立ち上がった。
「では行って来る。のんびり入ってくるから、おまえも急ぐことはないぞ。膳を持ってきたら、適当に茶でも飲んでいろ」
縁側を歩み去ってゆく槐を、夜光は不思議な気分で見送った。
──悪人、ではないのだろう。おそらくは。
振り回されてはいるが、そう不愉快ではない。いっとき腹は立っても長続きはせず、どうにも憎めない。
自分でも意外なほど、同じ部屋で過ごすことに強い拒否感は無かった。とはいえ衝立を外す気にはなれないが。
「おかしな人だ……」
ともあれ、長の大切な客人なのだ。長のためにも出来る限りのことはしようと、夜光は気持ちを切り換えた。
到って元気そうに見える槐ではあったが、湯治に訪れたというのは方便ではないようだった。体調には波があるらしく、時折ひどく身体が重そうに、億劫そうにしていることがあった。
夜光は半妖ではあるが、妖力の核たる「角」を幼い頃に長に封じられ、必然的に妖としての能力も低下している。槐の身の裡を巡る「氣」の流れは随分黒く澱んでいるようだ、という程度のことは読み取れたが、それ以上のことは分からなかった。
「三十年程前に、故郷で内乱があってな。そのどさくさで、俺を毛嫌いする輩に呪詛をかけられたのよ」
明るく風通しの良い縁側近くで、ややぐったりしたように柱に身を凭れさせた槐が、しかし相変わらずふてぶてしいような笑みを浮かべて言った。その背を覆う漆黒の闇のような黒髪が、幾筋かひらひらと微風になびいていた。
「並大抵の妖なら、あっけなく姿形も魂魄も泥黎の闇底に崩れていただろうが。まぁ俺は、腐っても夜叉の王の一族だからな」
「夜叉の王の……」
夜光の視線が、槐の額に伸びた一対の角を無意識に辿った。
外界から完全に隔絶されたこの終の涯では、終の涯の外での身分など関係がない。だが「尊く優れたもの」に対する、純粋な敬意は払われる。
夜光の片親もまた、夜叉だったという。行方知れずになった、とは聞かされていたが、夜光が妖の血を疎んじているせいか、それ以上のことは長は語らなかった。
夜光に視線を返した槐の笑みが、皮肉を帯びたものになった。
「王族とはいっても末端だぞ。箸にも棒にもかからん程度のものだ。そのくせ、先の内乱には強引に巻き込まれたんだからな。割に合わんことこの上ない」
槐は内乱で負った傷が今尚痛むため、こうして「名湯」としても名高い最玉楼に湯治に来たのだ、と語った。
槐の顔の大半を隠している簡素な面。それのかかっていない部分の素肌には、おそらく顔面の大部分を覆っているのだろう傷痕の端々が見える。着物の下に見える首まわりや、前腕、手の甲などにも、無数の傷痕が這っている。
槐は夜光を湯治に伴うことはしないし、寝むときも間に衝立を挟んでいるから、その無惨な傷痕の全貌を見たことはない。その顔を覆う面を外したところも、未だに見たことは無い。
その面の下の素顔は、どんなふうなのだろう。関わる時間が増えてくると、ふとそれを思うこともあった。
夜光の目が、槐の顔というより面を見たことを察したのか、槐は面に指先をふれさせた。
「この面には、今以上に呪詛が広がらぬようまじないがかかっているんだ。あとは、この潰れた面相を見ると女子供が怯えるんでな。それもなかなか切ない故、かけている」
言葉の後半は冗談めかしていたが、なんとなく本気であるような気がした。ふと気になって、夜光は問いかけてみた。
「呪詛が解ければ、傷痕も消えるのですか?」
「さてな。そもそも、この呪詛が今さら解けるとは思えん。解けるものなら、とうに空が解いている気もするしな」
「それは、確かに……」
長が旧友である槐のこの状態を把握した上で、あえて手をこまねいているとも思いにくかった。
槐が柱に凭れ、あまり力の無い溜め息を吐いた。そう態度には出さないが、身体がつらいのだろう。
「床を延べましょうか?」
「いや。これで横になると、辛気くさくて気が滅入ってかなわん。じきに楽になるのを待つさ」
「では、薬湯か何かを」
「そんなものより酒がいいな。おまえも一緒にどうだ、夜光」
軽口めかして視線を投げてきた槐に、夜光は半ば呆れ、淡白に答えた。
「私は勤めの最中でありますれば、謹んでお断り申し上げます」
「主が良いと言っているのにか?」
「分というものがありますゆえ。それより、お身体がすぐれないのであれば、酒などよりもゆっくり休むことを優先なさってください」
槐はくつくつと笑い、ふうとひとつ息を吐いて、重そうな動作で柱に凭れ直した。
「まあ、今はそうするとしよう。そのうち付き合ってくれ。独りで呑む酒も旨いが、二人ならばもっと旨くなる酒もある」
自分などと呑んだところでそう旨くなるとも思えないが、と内心考えつつも頷くと、槐が夜光を見返って軽く相好を崩した。面をかけていてさえ分かる、それは屈託の無い笑みだった。
──自分の親だという夜叉も、その三十年前に起きたという内乱に、もしかしたら巻き込まれたのかもしれない。
自分の正確な年齢すら夜光は知らないが、長の下に引き取られてきた時期から逆算すると、自分が生まれた時期と夜叉の国の内乱の時期とは、大きく隔たってはいなかった。
まだ幼子だった夜光を残し、突然いなくなってしまった夜叉の親。もしずっと傍にいてくれたなら、自分は人間の村に取り残されることも、あんな目に遭うことも無く済んだに違いないと、幼い頃から何度も何度も考えてきた。
巻き込まれたのだとしても、だからなんだ、と思ってしまう自分がいる。まだ幼い自分を放置し、一切助けてくれなかったことは事実だ。どんな理由があるにせよ無責任だろうという憤りも、妖の血への厭わしさも、自分を独りにしたことへの恨みも、根が深すぎてどうしても消えてはくれない。
──だけれど、もし。もしも本当に、幼い自分を残して姿を消したことが、本意ではなかったのなら。たとえばその内乱で、実の親が既に命を落としているのなら。そうなのだとしたら、それは……恨む感情を氷結させることに、繋げることは出来るかもしれない。
遠い過去に思いを馳せながら、夜光は胸の悪さを覚えて目を瞑った。ほんの少し思い出すだけでも、拒絶感と恐怖のあまり吐き気と頭痛に襲われる、幼い日々の記憶。眩暈と口腔内の苦みを覚えながら、夜光はそれらに慌てて蓋をした。
いつか真相を知りたい気もしたが、過去と向き合うことに耐えられる気がしなかった。仮にもし、実の親に再会したとして、それは蓋をすることでどうにか耐えている幼少時の傷痕を一気に噴出させるだろう。それは今、かろうじで己を支えている夜光の精神を痛打する。その衝撃と苦しみを考えるだけで、うまく息がつけなくなる。
──ああ、葵。
震える指で顔を覆いながら、夜光はもう何度心の中で繰り返したのか分からない、ただひとつの名を呼んだ。
葵が傍にいてくれたなら。あの優しい腕に包んでくれたなら。こんな恐ろしい呪いのような過去に向き合う勇気も持てたのかもしれないのに。
ただ耐え忍ぶしかない暗闇の中で、夜光は震えながら己を抱き締め、懸命に涙をこらえた。