夜明けまで (十八)

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 正午になる少し前。「私の離れに来るように」との、長からの言付けがあった。
 勿体つけたところのない長は、普段は自ら気軽に動き回り、用事があるときは自分から姿を現すことが多い。ゆえに「呼び出される」というのは珍しく、夜光と葵は少し緊張して、長の小御殿に赴いた。
 長がいつも過ごしている寝殿造りの小御殿は、明るく広く、天井も高い。大きく開け放たれた遣り戸や半蔀から爽やかな風が流れ込み、花の馨をどこからともなく漂わせていた。
 訪ねると、先に部屋にいた槐が「おう、来たか。入れ入れ」と気さくに二人を出迎えた。葵は槐に丁寧に挨拶し、夜光は戸惑いがちにお辞儀をした。
 長はいつものように、畳の地敷の上で脇息に凭れていた。が、二人が現れても一瞥くれるでもない。二人がその前に並んで座っても、一向に見向きもせず、何事か考え込んでいる風情で黙り込んでいた。
 未だかつてそんな長は見たことも無く、このような対応をされたことも無かった夜光は動揺した。
 しかし自分の愚かさや我が儘から、長にもどれほどの心配や迷惑をかけてしまったか知れない。とくに陵との遣り取りの最中、長が聞いたこともないほど強く鋭く、咎めるように夜光を呼ばわった声が、まだはっきりと耳の奥に残っていた。
 あのときの長の声を思い出すだけで、いたたまれなくて身が竦んだ。それらを考えれば、長の表情がいつになく渋いのも当然であると思った。
 せめて長には、誠心誠意詫びておきたい。夜光はほとんど叱られる子供のような気持ちで、黙って長からの言葉を待った。
 槐は少し離れたところに、いささか行儀の悪い格好で座っており、様子を見ても特に何を言うでもなかった。若干何か言いたそうな面持ちではあったが、長と夜光という「親子」の間でのこと、ここはあえて口を挟むまいと決めているようだった。
 いつになく気詰まりな沈黙がしばらく流れた後、ようやく長が、脇息に凭れたまま、あえかに嘆息した。
「……事がこうなってしまった以上、もはや繰り言を言っても始まりませんね」
 長は脇息から身を起こし、正面から夜光に身体を向けて座り直した。けだるげに脇息に凭れている姿も、長は天人のように絵になるが、そうしてすらりと背の伸びた姿勢を取ると、それだけで決して威圧的ではない高雅な威厳が生まれた。
「夜光」
 声音も表情も物柔らかではあったが、長に呼びかけられた夜光は、びくりと肩を強張らせた。
「は……はい」
「おまえに訊ねます。この終の涯から出て行きますか? それとも、とどまりますか?」
 簡潔な問いかけだった。
 終の涯にとどまる、ということは考えていなかった夜光は、選択肢を示されて、少なからず驚いた。何より、夜光の考えなど見通しているように、当たり前のように長がそう問いかけてきたことにも驚いた。
 長はただ、黄金の煌きを湛えた静謐な眼差しで、急かすでもなく夜光を見つめている。そこには、夜光に対する怒りも咎める色も無かった。すべてを見通し、尚静かであるようなその眼差しが、夜光の戸惑いをすっと鎮めた。
 そうだ。長は昔からずっと、この深く穏やかな眼差しで、夜光を見守っていてくれた。夜光の意思を阻むことはせず、何ひとつ強要することもなく。夜光が失敗を犯すことすら、許容してくれていた。
 夜光の望まぬものは与えたくない、という長の言葉を思い出した。それは決して、ただ甘やかしての言葉ではない。自分を信頼してくれているからこそなのだと、これまで過ごしてきた歳月の中で、夜光は自然に理解していた。
 長様。こんなに愚かな自分を許してくれるあなたの愛情が、信頼が、私は心底から嬉しい。
 夜光は背筋を伸ばし、長の視線を正面から受け止めた。すう、とひとつ息を吸い、静かに言葉を発した。
「長様。──私は、蓬莱に参ります」

 迷いなく言い切った夜光に、しばらく長は何も言わなかった。目許に一筋さされた紅い刺青が映える切れ長の瞳は、哀しげなようでも、深い理解を宿しているようでもあった。
「分かりました」
 やがて長が、頬をやわらげて微笑した。睫毛の長い美しい瞳が、正面に正座をしている夜光を見つめた。
「おまえの良いようにしましょう。それで良いのですね」
「はい」
 小さく、だがはっきりと、夜光は長の瞳を見つめ返しながら頷いた。
 この終の涯で、長のこの眼差しに見守られ、深い愛情に包まれながら、これまで何不自由無く生きてきた。その間に長からもらったものは測り知れなかった。
 心から慕う長と遠く離れなければならないことは、身を切られるように寂しく哀しい。「蓬莱」という人間の世界に赴くことに、強い不安も躊躇いも、恐れもある。
 だが、この終の涯で優しく守られているだけでは、償いの道は見付からない。具体的に何をどうすれば良いのかはまだ分からなかったが、それを模索するにはまずこの絶対の庇護の下から出なければならないのだと、夜光は理解していた。
 長は脇息を傍に寄せ、仄かに苦笑しながら軽く肘を凭れさせた。その美しい唇から、溜め息がひとひら落ちた。
「おまえは、本当に……もう少しくらい聞き分けのない、我が儘な子でいても良いのですよ?」
「そんな。私はもう充分、我が儘ばかりを言っています」
 本心からそうとしか思えなかったので、夜光は恥ずかしくなって首を振った。
 長はくすくすと軽やかな声で笑い、あらたまったように口を開いた。
「では、おまえが蓬莱に赴くときには私が界渡しをします。おまえにも準備があるでしょうし、暇を告げたい相手もいるでしょう。支度が出来たら、いつでも言いなさい」
「……はい」
「それから。おまえが我が儘を言っていると思っているなら、私の我が儘もひとつ、聞いてくれますか」
「長様の?」
 思いもよらぬ言葉に、夜光は問い返した。長の我が儘など、内容の想像もつかなかった。
 長は切れ長の瞳を微笑ませ、ゆっくりと言った。
「五十年か、百年か、それよりももっと先か……ここから離れて、何かしら納得できる答えを得たならば。そのときはまた、どうか此処に戻ってきて下さい」
 重ねての意外な言葉に、夜光は目を見開いた。
「え……」
「半妖であるおまえが蓬莱で暮らすということは、並大抵のことではありません。過去の苦しみを思い出すことも増えるでしょう。ですが決めたのであれば、人の間で、精一杯に生きなさい。様々な人間がいるということを知ることが、おまえをその苦しみと哀しみに満ちた呪縛から解き放つでしょう」
「人の間で……」
 静かに語る長の言葉を、夜光はひとつひとつ受け止め、繰り返した。無意識に掌が持ち上がって、己の胸にふれていた。そこには己の心の臓と、懐中に挿し込まれた葵の匕首があった。
「ええ。それでいつか、そうしても良いと思えた暁には、この終の涯に……私の傍に、また戻ってきて下さいね」
「……はい」
 微笑みながらそう言ってくれる長が、心からありがたく、嬉しくて、夜光は目頭が熱くなった。
 今まで夜光は長に我が儘ばかりを言って、好きなことばかりをしてきた。長に黙って勝手に冥魂珠を手にし、勝手に「花」となることを決め。そして今また、勝手に終の涯を出て行くことを決めてしまった。
「……長様。私は、本当は知っていたんです」
 ──本当はもうずっと、長が瀕死の身を抱き上げてくれたあの幼い日から、自分は「独り」ではなかったのだと。
「長様は私を、幼い頃から、誰よりもずっと慈しんで下さいました。誰よりも夜光のことを考えていて下さいました」
 何があっても常に夜光を見守っていてくれた長の存在が、どれほど心強かったことだろう。どれほど救われてきただろう。
「だから私は、葵を喪った後も生きてこられたんです。私はとても贅沢な、幸せ者です。私を慈しんで下さって、どうもありがとうございます……長様」
 夜光は長に向かって、深く深く頭を下げた。
 長は夜光を見つめ返し、いつものように晴れやかに、そしていつもより一層慈しむように微笑した。
「礼を言うのは私の方ですよ。顔を上げなさい、夜光」
 はい、と夜光は懸命に涙をこらえながら、顔を上げた。
 長はそんな夜光をしばし愛おしげに見つめ、それから目を伏せた。何か考え込むように、しばらく沈黙する。
 やがて思考を切り替えるように、長は睫毛の長い瞳をゆっくり瞬いた。次にその金色の眼差しが流れた先には、葵がいた。

「葵殿」
 長に突然名を呼ばれ、夜光の隣に黙って座っていた葵は、正直どきりと心の臓が跳ね上がるほど驚いた。それまで長はものの見事に葵の存在を無視し、ちらりとも視線が向いてくることが無かったからだ。
「はい」
 真っ直ぐに捉えてくる長の視線に、葵は緊張して身構えた。隣で夜光も心配そうな顔をした。
 葵は顎を引くと、気を取り直して長の視線を受け止めた。
 長に良い感情を持たれている、とは思い難い。自分のしたことを考えると、長の寛恕を期待する方が間違っている。
 世話になった相手であり、心底感謝していたから、その長の怒りを買うのは心苦しくはあったが、そうであればこそ、誠意を持って対面したかった。長が何かしらの制裁を葵に下すなら、甘んじて受ける覚悟はあった──夜光と引き離そうとすることだけは除いて。
 そのまま見合うことしばし。やがて長が、身から力を抜くように小さく嘆息した。
 長は目を伏せると、そこからまたしばしの沈黙を置き、ようやく葵に向けて、再び口を開いた。
「……葵殿」
「はい」
 何を言われても受け止めよう、だが夜光のことだけは譲れないと、葵は短く返事をした。
 長は顔を上げると、そんな葵にふわりと微笑んだ。ただし、その眼光は鋭いまま。
「もしも夜光を泣かせたりしたら、ただではおきませんからね?」
 何を言われたのかよく分からず、葵はしばし呆けてしまった。
「は……?」
「思うことの一つや二つや三つはありますが。夜光があなたを選んだのですから、私はもう何も言いません。ただ、その子を心から慈しみ、守ってやって下さい」
 葵が驚いてすぐに返事をできないでいると、長は爪の先まで美しく磨かれ整えられた指を揃えて床に置き、深く頭を下げた。
「どうか、その子をよろしく頼みます。葵殿」
 やっとその言葉の意味を飲み込み、葵は慌てて威儀をただした。
 ──許してくれたのだ、何も言わず。今までのことも、夜光とのこれからのことも、全部。
 それを理解した葵は、心からこみ上げてくる感謝と、自分のした数々のことを詫びたい気持ちにかられるまま、長に向かって深く平伏した。何故かしら熱くなった目頭を、ぎゅっと閉じた。
「はい。その御心に背くことは決して致しません。……感謝致します、長殿」
 姿勢を元に戻した長が、再び微笑んだ。大輪の花が咲き零れるように、あでやかに。

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