葵の上背ほどの高さの小さな滝の水は、この間までは蝉の声が聞こえていたというのに、もう痛いほど冷たかった。
ささやかな滝壺は澄み切って、そこに棲む小さな生き物たちの銀色の背を、波紋の下に覗かせている。
右の前腕に走った引っ掻き傷を洗いながら、それらをなんとなく眺めていると、既に色付いた葉がどこからともなく落ちてきた。
赤い葉は澄んだ水面に落ちて、小舟のように漂う。夕陽を映したような落ち葉の色は、葵の屈んだ肩口から前に流れ落ちている朱い髪の色と、よく似ていた。
「もうじきに秋だな……」
──「あちら」からこの「人の世」に戻ってきたのは、春だった。いつのまにか季節は移ろい、風の匂いも目に映る風景も、せわしなく変えてゆく。
それをしみじみと思っていたとき、後ろの藪が、がさがさと揺れた。白い被衣で身を覆うようにした姿が、繁る枝葉を避けながら現われる。
「葵。傷の具合はいかがですか」
「夜光」
立ち上がってそれを視界におさめた葵の、青みがかった透明な光彩が、陽光を明るく弾いて笑った。
小さな滝から繋がる清流のそばに腰を下ろして、葵は夜光に傷の手当てを受けていた。
河原の石や岩に陽光が反射して、あたりはいっそう清々しく明るい。そんな中で、山に棲む様々な生き物たちが鳴き交わし立てる物音や、清流の音を聞いていると、身も心も浄われるようだ。
葵と夜光は、もう半年ほど、二人でこの「蓬莱」──人間達の世界を旅している。
特にこれという目的地があるわけではない。この旅は、いささか特殊なものだった。
「半人半妖」であり、その生まれ育ちにいささか事情のある夜光にとっては、「人間」というものを知るための旅。
葵にとっては、その夜光と共に生きるための旅。
葵は人間ではあるが、不思議な縁からこの蓬莱とは異なる幽世の地で夜光と巡り逢いを果たした。そして互いの命が尽きるそのときまで、共に連れ添うことになった。
そこに到るまでの経緯は、あまり平坦なものではない。しかし今は、二人の関係を理解してくれる存在たちに支えられ、こうして何に煩わされることもなく共に居ることができるようになった。何の文句があろう筈もない。
幽世の地からこの現世に戻ってきたばかりの頃は、葵も夜光も、世界そのものの勝手の違いに調子が狂うことが多かった。だがそれも少しずつ馴染み、とくに元々「こちら」で暮らしていた葵がすっかり調子を取り戻すのは早かった。
そんな二人は、今はこの峠を越えた先にある人里に向かっている。
葵の右の手の甲から前腕にかけて走った新しい傷は、この峠に到る道すがら、山道で突然襲ってきた妖を返り討ったときに負ったものだった。
そう深手ではないが、陽に焼けた肌が裂かれた箇所から、まだ赤い血が滲んでくる。その手を取った夜光が、痛々しげに眉根をひそめた。
「痛みますか?」
「それほどは。見た目よりも浅手だよ」
実際にそれはやせ我慢ではなかった。葵は武家に生まれ、昔から荒っぽい武芸に励むことが日常に組み込まれていたから、言ってしまえばある程度の怪我には慣れていた。
「あちら」からこちらに戻ってきた当初、初めて異形のものに襲われて対峙したときには、葵はひどく驚き、うまく捌けずにもっと大きな怪我を負ってしまったりもした。それらに比べれば、近頃負う手傷はたいしたものではない。
「葵は、あまり太刀を使いませんね」
差し出された葵の右腕に手当てを施しながら、夜光が言った。
夜光のいつもは頭からかぶっている被衣は、今は人目が無いので下ろされている。その肩口で切り揃えられた白い髪と、綺麗に反った長い睫毛が柔らかな陽光を受けて光っている様子は、穢れない処女雪がきらきらと光る様を思い起こさせた。
「うん。正直、あまり好きではない」
月から降りてきた天女もかくや、という夜光の美しさを、痛みも忘れて眺めながら、葵は受け応えた。
「そうなのですか?」
「ああ。いや、剣術そのものは好きなんだが」
葵は無意識に、ほどいた荷物と一緒に傍らに置いてある、手頃な布で柄まで巻いた太刀に目を落とした。それは「あちら」から発つ前に、あちらの長が直々に葵に授けてくれた宝刀だった。
まばゆいばかりに美しい黄金の太刀には、不思議なまじないがかかっており、葵以外が抜くことも、持ち上げることすら出来ない。だから物盗りに遭う心配も無かったが、なにぶん見かけが豪奢で目立つため、普段はこうして柄まで布にくるんでいた。
だが葵がその太刀を布にくるんでしまったのは、実のところそれだけが理由ではなかった。
「生身を斬る感触に、昔からどうしても馴染めないんだ。相手がいくら妖でも、そこに差があるわけではない」
生ぬるいことを言っている自覚はある葵は、言いながら苦笑した。
──元々「こちら」で普通に生きていた頃は垣間見ることすら無かった妖というものに、なぜ「あちら」から戻ってきた途端、しばしば遭遇するようになったのか。それは不思議だった。
だが「視えて」しまうものはしまうし、それが人に害を及ぼす暴挙であれば、黙って見過ごすこともし難い。あるいはこちらが「視える」こと自体に反応して、問答無用で襲いかかってくるモノも少なくない。
とにかく自分達の身を守るため、ときには害獣と化した妖を止めるために、そういったものと相対せざるを得ないことが多くなった。武家の子息として恥じないものであれ、と励んだ武芸が、まさかこんな形で役に立つとは、まったく人生というものは何があるか分からないものだった。
「そうはいっても。その太刀を使えば、あの程度のものから手傷を受けることも減りましょうに」
葵の傷の手当てを続けながら、夜光が言った。
「まあ、それはそうだろうなあ」
はは、と葵が笑うと、夜光が長い睫毛の下から、やや尖った眼差しを向けてきた。その紫苑の色を持つ双眸は、夜光の「人ならざる」ような姿を、いっそう神秘的に彩ってみえた。
「笑いごとではありません」
「──すまん」
思わず素直に、葵は頭を下げた。夜光の言うことがもっともであることは、葵にもよく分かっていた。
「あちら」──終の涯、と呼ばれていた異界の長から授かったこの黄金の太刀は、あやかし、物の怪、などと呼ばれる「異界のもの」に対し、特別に大きな効果を発揮した。これがあるだけで小物の妖は寄ってこないし、斬り付ければ「人の手による武器」よりもずっと大きな損傷を与えることができる。
だが、葵はこの宝刀を滅多に使わず、もっぱら旅の途中で仕入れた弓を得物として使う。
連れ合いである夜光は、「半妖」という身の上ゆえに素の身体能力こそ並みの人間より高かったが、武芸、荒事に長けているわけではなかった。それに単純な心情として、葵は夜光を矢面に立たせたくなかったから、何かあれば咄嗟に葵が前に出る。いきおい、どうしても葵のほうが傷を負いやすい。
遠距離であれば弓は秀でていたが、突然狭い場所で敵が目の前に出て来たような場合は、当然のことながら闘いにくい。怪我をする危険も増す。今日の傷は、そうして負った典型だった。
夜光は葵を責めているのではなく、心配しているのだとよく分かっていたから、申し訳なく思う。だが、簡単に妖を討ってしまえるこの太刀を抜くことに、葵はどうしても抵抗があった。
「……人に仇をなす妖とはいえ、彼らも己の理に従って生きているだけだ」
言葉を選びながら、葵は言った。その呟きに、手当てをしていた夜光の手が止まる。
葵はゆっくりと、自分の中の躊躇いを探るようにしながら続けた。
「それを、人にとって都合が悪いからといって、むやみに手を下して良いものだろうか、とな。この太刀なら簡単に殺してしまえるからこそ、俺は出来るだけ抜きたくない」
夜光は無言で、じっと葵を見つめてくる。葵はそれを見返して、やや苦く笑った。
「まあ、そう言っておいて、矢で射ているのでは世話はないんだがな」
弓矢であれば、威嚇ですむこともあり、殺さずにすむこともある。だが咄嗟のときには急所を狙わざるを得ないし、放っておけないほど凶悪な妖であれば、それ以上の被害を出さないために討たざるを得ない。
結局「肉を斬る」感触が手に伝わらないから弓を選んでいるだけではないか、と言われてしまえば、それも否定はできなかった。
夜光はしばらく黙っていたが、やがてまた手を動かし始めた。その整った唇の端が、くすり、と小さく笑った。
「葵は、お優しくていらっしゃる」
「優しいわけではないと思うぞ」
「いいえ、本当に。でも、葵」
手当てを終えた葵の腕にきれいに端切れを巻き、端を軽くきゅっと結んで、夜光が言った。
「必要なときは、躊躇わないで下さいませ。相手が人であれ妖であれ、私にとってはただ、おまえさまが何よりも大事です。それを忘れないで下さいませ」
真っ直ぐに見つめてくる美しい紫の瞳に、葵は吸い込まれそうになった。
「心しておく」
言うと、葵は夜光の形の良い白い額に軽く口づけた。
確かに躊躇いはあるが、自分にとって何が最も大切であり、何を守るべきであるかを取り違えるほど愚かではない。必要なときは、迷わず太刀を抜く。ただ「想う」だけではどうにもならない局面もあることを、葵は葵なりに知っていた。
額とはいえ突然口付けられた夜光は、驚いたようにまばたいた。ぱっと頬に淡く赤みがさし、慌てて隠すように横を向く。
と、その仕種に、夜光の細い首筋でふわりと白い髪が揺れ、それがもぞもぞと動いた。かと思うと、白い髪を簾のように割って、ひょこりと小さな生き物が顔をのぞかせた。
思いがけずそれと間近に対面した葵は、その黒く濡れた愛くるしい瞳と見合いながら、目をぱちくりさせた。
「……鼬の仔、か?」
「あ」
夜光が思い出したように、自分の肩に乗っている小さな鼬の仔を見た。
「その先の、峠茶屋のところにいた行商人に憑いていたんです」
その鼬の仔が「生身」でないことは、葵にも薄々分かった。夜光の肩の上を歩いても音がしないし、うっすらと透けているし、何よりその小さな足下に影が無い。
「行商人?」
「はい。包帯にちょうど良い端切れを売っていたので。あの男、どうやら幼い頃の戯れに、この子を虐め殺したようで。怨霊化して取り憑いていました」
夜光の白い指が、鼬の仔の薄い黄檗色の毛皮を優しく撫でる。鼬の仔はそのお返しのように、小さな頭を夜光の指に擦りつけた。
「見殺しても良かったのですが、連れが怪我をしたと言ったら気遣ってくれましたし、あの男も充分に反省しているようでしたから……それに、この子を怨霊のままにしておくのは忍びなかったので。引き離して連れてきました」
「そうか」
細かい事情は分からないが、葵はとりあえず頷いておいた。
夜光は幼い頃に人間達に虐げられていたことがあり、今も「人間」そのものに対して強い嫌悪感を抱いている。そのせいもあるのだろう、時々さらりと恐ろしいことを言う。それが本気なのか冗談なのか、葵にも判じかねることがある。
「その仔はどうする?」
「そうですね。この子がかまわないようなら、管狐にしましょうか」
夜光は鼬の仔を撫でながら、声には出さず、何か囁きかけるようにした。すると鼬の仔の姿がふわりとほどけて白い煙になり、一瞬のうちに夜光の右の袂に吸い込まれていった。
葵には詳しい仕組みはよく分からないが、夜光は「魂魄を持つもの」を「降す」ことができる。降したものを眷属として従わせることもでき、そういうもの、とくに獣由来のものを「管狐」と呼んでいるようだ。
期せずして「終の涯」という「人ならぬものの世界」でしばらく過ごし、葵自身もいろいろあって「純粋な人間」とは言い難いものになりはした。が、それでもそういう人外のものにまつわる仕組みは、未だによく分からないことが多い。
しかしまあ、さしあたってそれで困ることがあるわけでもなし、必要であればいずれ覚えるだろう。今はまあ良いかと、葵は納得することにした。