遣らずの里 (四)

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 あんぐりと口を開けたままの天休斎の手から、ぱたり、と扇子が落ちた。と、夜光を凝視したまま、やおら葵のほうに尻でいざりながら近づき、その肩口をつかむ。かと思うと、興奮した面持ちで、葵を揺さぶりながらその背中をばんばんと叩き出した。
「おい……おい、なんだよ! 超絶べっぴんさんじゃねえか! やるじゃねえかにいちゃん! なんだよくそっ、うらやましいな!」
「ちょっ……な、なんですか急に」
 葵が若干赤くなりながら面食らい、かといって天休斎を無下にもできずにいるところに、ますます天休斎が絡んでいく。その様子に、夜光はなんだか可笑しくなってきてしまった。
「天休斎様。先程からあれやこれやと耳ざわりの良いお言葉が聞こえてまいりますが、誰ぞの耳目があるかも分からぬ中で、あまり軽薄なことを仰るものではありませんよ」
「大事ない。妻とはとうに死別している」
 天休斎はなぜか胸を張って答えると、自身の席に戻って座り直した。ふう、と大きく息を吐いて白湯を飲み、落としたままだった扇子を拾い上げる。
 くるり、と扇子を手の中で一回転させると、天休斎はおもむろに口を切った。
「息子たちは各々領地に赴いているから、まあ当面おまえさんたちがここに滞在するに気兼ねはいらん。屋敷の者にも、おまえさんたちはちょっと毛色が違うだけの人間だから恐れるなと、俺から言い含めておこう。うちの者達なら、俺自身が昔からいろいろと『視える』たちだから、人ならぬものにも一定の理解がある」
 軽妙な口調は変わらないが、声音からは芝居気のようなものが消えた天休斎に、夜光と葵は気を取り直して視線を向けた。
「天休斎様も、そういう・・・・性質たちだったのですか」
「うむ。まったく、人間ばかりか、そうでないものにも好かれて困る」
 本気か冗談か分からないことを言って笑い、天休斎は続けた。
「これから冬になる。真冬の旅空はつらかろう。これから里も、秋の収穫と冬支度とで忙しくなる。人手はいくらあっても良い。俺の後ろ盾に加えて、すすんで働いて役に立てば、皆も悪くは思うまい。働き者は、働き者が好きだからな」
 天休斎は二人を見ると、目を細めて笑った。
「急ぐ旅でないのなら、よければここで冬を越すことを提案しよう。まあ何にしても、ひとまずはゆっくり休みなさい。あの御方の縁者とあらば、この耶麻姿天休斎、おまえさんたちを心より歓迎させていただこう」
「ありがとうございます」
 葵と夜光は、揃って自然に天休斎に頭を下げていた。この先、春まで滞在するかはまだすぐには決められないが、その心遣いがありがたかった。
「あ、そうだ」
 と、天休斎が忘れていたとばかりに言い足した。
「どうしました?」
「夜光さんはなあ。美人すぎてちょいと目立ちすぎるから、働くなら里の方じゃなくてこの屋敷の方が無難だな。なんなら働かなくてもいいから、俺の晩酌につきあってくれないかい。絶対美味い酒が呑めると思うんだよ。こんな美人、牡丹桜の君の他には見たことがないもの」
「ご配慮ありがとうございます。ただ晩酌に関しては、謹んでお断り申し上げます」
 夜光が返事をするより先に、葵が珍しいほどぴしゃりと言い切った。笑顔だったがその目許が意外に笑っておらず、ええ、つれないなあ、と絡む天休斎を、葵はさらにすげなく撥ね付けている。
 一向に悪びれない天休斎と、普段より若干手厳しい葵の様子を見ていたら、夜光はすっかり緊張もほどけて、気が付いたらくすくすと笑ってしまっていた。
 天休斎という人物は多少変わっているし、腹の底が読めないところもあるが、それでもある程度信頼はしても良い気がする。こちらの素性を知らない段階でさえ、天休斎は葵を奇異な目で見ることはしなかった。素顔を晒した夜光に対しても、恐れや嫌悪を向けることは一切無かった。
 人間のことは、「人間を知る」ための旅を始めて半年経つ今でも、好ましくは思えない。けれど人間の中にも、天休斎のような、分け隔てを持たない者はいる。
 夜光に最初の「人間への信頼」をくれたのは、葵だった。一人いたのなら、二人めもいるかもしれない。そう思えるようになったことが、少しずつでも夜光を今までとは違う場所へと導いてくれている。
「人間」は信用できないし、何より怖いけれど、そうではない人間も確かにいるのだ。それならば、ゆっくりでも歩み寄る努力してみようか。
 蓬莱に来てから、やっと初めて、そう思えた。


「自由に使いなさい」と天休斎に言われて通されたのは、屋敷の比較的奥まった位置にある角部屋だった。
 部屋の前の庭には、小さいながらも立派な枯山水が眺められる。部屋はさほど広くはないが、二人が寝起きするには充分で、しかも隅々にまで畳が敷き詰められていた。
 裕福であれば、小さな部屋に畳を敷き詰めることが流行ってはいるが、それは屋敷の主の部屋であったり賓客をもてなすための部屋であったり、極めて贅沢なものだ。
「本当にありがたいことです。まさか、ここまで良くしていただけるなんて」
 蓬莱こちらにきてから畳のある部屋に上がるのは、これが初めてだった。終の涯の暮らしには当たり前のように畳があったから、その匂いや感触が、ひどく懐かしい。
「うん。それだけ天休斎殿は、今も長殿に心酔しておられるんだろう」
「長様が女性に変化へんげなさったお姿は、私は拝見したことはありませんけれど。きっと、まさしく傾城というのにふさわしいのだろうな、というのは想像できます」
 今さらながらふと、長が夜光に対しては常に男性の姿をとっていたのは、槐という「父親の代わり」を意識していたからだったのかもしれない、と思った。もっとも長は、男女どちらにせよ性別を超越した存在ではあるのだが。
「実際そうやって遊んでいた、という話も伺ったことがあるぞ。嘘か真かは分からんがな」
 葵の表情が限りなく微妙な苦笑いに近く、夜光は思わずおかしくなって笑った。
「長様は、あれでひとをからかうことが大好きですからね」
「だろうなあ。俺にはよくよく測り知れない御方だよ」
 そんな話をしているうちに、屋敷の侍女が湯をすすめにきた。
「よろしければ、夕餉の前にどうぞ。お疲れでしょうし、そりゃあもう気持ちようございますよ」
 侍女は既に屋敷の主から言い含められているのだろう、夜光と葵の人間離れした異彩を見ても動じる様子はなかった。そのかわり、しばし夜光に見とれたまま、ほうっと溜め息をこぼしていたが。
 なんでもこの屋敷には、身体に良いという温泉を引いた立派な湯殿があるらしい。侍女は浴衣を二人分用意すると、丁寧にお辞儀をして下がっていった。気が付けばもう西の空が赤く、せっかくなので、二人は旅の埃を落とさせてもらうことにした。
「葵。その、手の包帯が」
 支度をして湯殿に向かう前に、葵の右腕に巻いた包帯がほどけかかっているのに、夜光は気付いた。手当てをした後にも妖に襲われたりしたせいか、緩んでいる上に多少汚れてしまっていた。
「ああ。一度ほどいておこうか」
「そうですね。もう一度傷口を洗って、あとで手当てをし直しましょう」
 ひとまず湯殿に着くまでは結び直しておこうと、夜光は緩んだ包帯をいったんほどいた。それと一緒に傷の保護に当てていた大葉子おおばこがはがれ、その下にあった素肌が覗いた。
 何気なく傷口の様子を伺おうとして、夜光は目を疑った。
「……傷が。もう、ふさがって……います」
 半ば茫然と呟くと、夜光に向かって腕を差し出したまま、葵も硬直していた。
 葵は信じられないように自身の右腕を凝視し、まだ肌の上に残っていた大葉子を残らず剥がす。右の前腕から手の甲にかけて走っていた傷には、間違いなく、既に薄皮が張っていた。
「まさか……だって、傷を負ってから、まだ一日も経っていないぞ」
 ぽかんとしている葵の右腕、昼間は確かに痛々しい生傷だったところに、夜光は指先でふれてみた。驚きはしたが、夜光はある部分で納得していた。
「おまえさまの身に変化が生じていることは、以前から察していました。おまえさまの中には、お父様の……槐様の『命の珠』が宿っていますから」
 それは、夜光の実父たる妖──夜叉の槐が、かつて己の寿命を削って葵に分け与えたものだった。「人間」である葵が、寿命の異なる「半妖」の夜光と、最期まで共に添い遂げることができるように、と。
 こうして間近に寄り、葵に直接ふれていると、ますます葵の中に根付いた「人ならぬもの」の気配を感じる。それは強く激しく輝いて燃え上がる、白い焔を思わせるものだった。
「おまえさまが槐様から『命の珠』を授かったのは、終の涯を発つ前。あのときから少しずつ、時間をかけて、おまえさまの身に馴染んできたのでしょう。実際に私も、おまえさまの中に槐様の妖力を感じることがあります」
「そうだったのか?」
 驚いたように言った葵に、夜光は微笑して頷いた。
「正直を申し上げて、うまく馴染んだことに安心しました。なにしろ、葵は人間ですからね」
 葵の身に危害を及ぼすようなことを槐がするわけがない、と信じてはいたが、未知の領域だけに、不安がないといえば嘘だった。
 命の珠を分け与える、ということは、まさしく「命と妖力それ自体を分け与える」ということだ。妖にとって「妖力」とは、己の血肉と同じように、その身に宿っていることがごくごく当たり前のもの。いわば妖力とは、妖にとっては命そのもの。
『命の珠』を身に宿して以降、次第に葵に生じてきた変化は、寿命だけではなく槐の妖力の片鱗も、その身に宿すことになった為だろう。たとえば、葵が夜光と比べても遜色なく動けるようになってきたこと。弓矢の威力が格段に上がってきたこと。体力や傷の回復が早くなったこと。妖たちの「急所」がだんだん視えるようになってきたことなども、無関係ではないだろう。
 そもそも葵が異界のものを「視る」ようになったことが、明らかに顕著な影響に相違なかった。以前の葵は、そんなものは見たこともなかったというのだから。
 葵は深々と嘆息し、半ば顔を覆うようにした。
「……分かってはいたつもりだったが。しかし、いざこうして目の当たりにすると、さすがに驚くな」
「それは、仕方の無いことと思います」
 葵はその朱色の髪ゆえに「鬼子」と蔑まれることこそあれ、どこまでもただの「人間」にすぎなかったのだから。
 葵は手を下ろすと、指を広げ、そこに何かを見るようにまじまじと見下ろした。
「天休斎殿に、俺は人間だと言ってしまったが。……果たして、それで良かったんだろうか」
 戸惑いと困惑の見え隠れする様子に、夜光は少しの間考えてから、直接の返答ではない問いを発した。
「葵は、何でありたいと思いますか?」
「何でありたい……」
 夜光の言葉を繰り返し、葵はしばし考え込んだ後に、呟くように答えた。
「俺は、人間でありたいと思う」
 言ってから、少し照れくさくなったように続けた。
「いや。そもそも俺は、人以外にはなれん。他人に俺がどう見えているのかは分からないし、なんだかんだと言われてもきたが」
 葵が夜光を見やり、仕種でもっと近くに来てほしいと促した。その通りにすると、葵の手が夜光の細く白い手首を取り、引き寄せて、その身体を抱き締めた。
「葵?」
 突然のことに、夜光はいささか驚いた。密着した葵の体温と感触に、頬がほのかな熱を持つ。
 葵はただじっと、そうして夜光を抱き締めたまま動かなかった。熱の籠もった抱擁とはまた少し違う気配を感じ、夜光もまた、葵の腕の中で動かずにじっとしていた。
 頬を寄せた葵の胸から、とくりとくりと脈打つ心の臓の音がする。その響きがふと、無性に切なく聞こえてきて、夜光はそっと、顔の見えない葵の背を抱き返した。
 しばらくして、葵は腕をゆるめた。夜光を見て笑った顔は、いつもの葵らしく穏やかで、どこかほっと気が緩んだような表情をしていた。
「うん。大丈夫だ。俺にはおまえがいる」
「葵……」
「何者でありたいのか、というのならば、俺はおまえと共に在れる者でありたい」
 その青みがかった瞳は、限りない優しさと同時に、しなやかな強さとほんの少しの切なさを秘めている。それは葵が、多くの哀しみと痛みを知っている者だからだ。
 夜光の中にもまた、葵の歓びにも哀しみにも、どこまでも共に沿いたいという想いがあふれる。それは終の涯を離れる前、二人の間に交わされた約束であり、願いでもあった。
 夜光は葵の手を取り、言葉だけでは足りない想いがせめて少しでも伝わるようにと、白い指で包み込むようにした。
「私も、おまえさまと同じです。……私の場合は、そもそも人でも妖でもありませんが」
 苦笑気味に付け加えると、笑いながら葵にもう一度抱き締められた。
「夜光は夜光だ。おまえが何であっても、俺にはそれでいい」
「葵……私も、同じです。おまえさまがどこの誰でも、何であっても。おまえさまであるなら、それだけで充分です」
 葵に身を寄せ、その身体を抱き締め返しながら、夜光はあふれる想いのままに囁いた。
 そうするうちに、どちらからともなく唇を重ねた。共に在れることがただただ嬉しい、互いが互いを信じているのならそれだけでいい。そう思える、切ないほど優しく愛しい口付けだった。

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