遣らずの里 (八)

 山姿やましな神社の祭殿が荒らされ、宮司が殺害されたことで、耶麻姿の里は大騒ぎになった。
 各々の収穫作業は続けられたが、すっかり収穫祭どころではなくなり、里のほうぼうで造り途中だった祭り飾りや道具類が放っておかれるままになった。
 御社殿は柱の何本かが折れており、危険なため片付けと修復に入る者以外の立ち入りを禁じられた。
 宮司の遺体は、皆の目にふれる頃にはきちんと上下を合わせられ、代々の墓所に丁重に埋葬された。当初の無惨な状態を知る者は、天休斎と夜光、それからごく一部の口の硬い者達だけに限られることになった。その者達は天休斎の指示で祭殿の片付けにも加わり、その中には葵もいた。
 宮司の身体は、検分したところ明らかに「何か鋭利なもの」で切断されていた。祭殿の床や柱、果ては天井にも、宮司の身体を両断したものと同様の何かで傷つけられたと思われる、激しく損壊した跡があった。
 そして何より皆をぎょっとさせたのは、先日荒らされた畑で見付かったものと同じ「針金のような獣毛」が、ここでも発見されたことだった。
 となれば、これは先日畑を荒らした獣の仕業なのだろうか。神社の祭壇には、ちょうどこの秋に収穫されたばかりの畑や野山の実りが多く捧げられていた。山の中を彷徨ううちにそれらを見付け、あさっているところに、異変に気づき何事かと様子を見に行った宮司がはち合わせてしまった……。
 そんな憶測を立てることはできたが、真偽の程は不明でしかない。だが唯一、その何ものかが、大人の胴を両断するほどの、おそらく巨大で頑丈な爪か何かを持っていることだけは確かだった。正体は依然として知れなかったが、それは検分に立ち会った全員をぞっとさせた。
 なんにせよ、よりによもって神聖な場である神社が破壊され、穢されてしまったことは、里にとって大きな衝撃だった。
 これ以上皆をいたずらに動揺させるよりはと、遺体や祭殿内の様子、おそらく畑を襲ったものと同じものの仕業であることは、立ち会った全員に対し「他言無用」と念押しされた。


「代わりの宮司ねぇ……山姿の家から呼ぼうと思えば呼べるが。ま、当分誰も来たがらんわなぁ」
 屋敷奥の自室に座り込んだ天休斎が、一見今までと同様の緊張感のない様子で、小難しげに唸っている。
「少なくともあの獣毛の正体が判明せんことにはなあ。最悪形だけでも、俺がそれっぽい真似事をして凌ぐ他にないか」
 夜光はその天休斎のそばに座って、静かに白湯を飲んでいた。煮出した茶のような香りや味はしないが、このあたりの水はとくにまろやかだから、白湯にするとそれだけで美味しい。
 ちなみに夜光がここにいる理由は、天休斎が「目と心の保養のためにそこに座っていてくれ」と呼び立てたからである。自分が座っているだけで保養になるのだろうか、と夜光は思うのだが、当人がそう言うのだから、まあそれで良いのだろう。
「秋のお祭りは、完全に中止ですか?」
 凝りをほぐすように首を回している天休斎に、夜光は訊ねてみた。
 それどころではない空気になってしまってはいるが、秋の祭りも重要な祭事だ。実りに感謝して神々にお礼の供物を捧げ、また来年も実り豊かであることを祈る。まして今年は豊作で、荒らされた畑のぶんを差し引いても、冬と来年に向けて充分な蓄えが出来ていた。
「そうだなあ。さすがにもう、祭りっていう雰囲気じゃない。祭事を取り仕切るのは宗衡さんの役目だったしな」
「……そうですよね」
「ま、落ち着いてから、簡単にでも何かしらはするよ。それはそれ、これはこれってな。きちんとお礼は申し上げておかないと、神様たちがヘソを曲げちまう」
 冗談めかして言いながらも、天休斎の顔色には疲労の色がある。それはそうだろう。この平穏な里にして、立て続けにあんな騒ぎが起き、しかも未だに何の仕業かも分からないのだ。里の長である天休斎の心労は、察するに余り有った。
 宮司が横死するような大事が起きながらも、人々の動揺が今程度に抑えられているのは、ひとえに天休斎が、人前では普段通りの泰然自若とした構えを崩さないからだろう。それらを思うと、こうして天休斎が一服するのに付き合うくらいは、夜光としてもやぶさかではなかった。
「夜光さんよ。すまないね」
 ふと、天休斎があらたまったように言った。
「どうしました、急に?」
「あんたの大事な相方さんを、ずっと借りっぱなしだろう。まあいつぞやも、神社まで呼びつけちまったのは俺なんだが」
 確かに近頃、葵はずっと祭殿の片付けに駆り出されたままで、夜光とゆっくり過ごせていない。天休斎が指名した数人だけで作業をしているから、なかなか大変なようだ。しかも現場の状態そのものが、お世辞にも気持ちの良いものではない。
 さすがの葵もくたびれているようで、朝早くに出かけて夕餉の頃合いをだいぶ過ぎた頃にやっと帰ってくると、湯浴みと食事を済ませてすぐに寝入ってしまう。
 といっても葵の夜光に対する態度は変わらず、笑顔も見せてくれるが、どうしても会話が少なくなりがちなのは否めなかった。
「今は仕様のないことでしょう。葵も人が好すぎるほど好いですから、無理をしているわけではないと思いますよ」
 少し寂しいとは思うし、正体不明の凶暴な獣がまだ付近をうろついているかもしれないと思うと心配ではある。けれど、里の大事に役に立っているとは言い難い夜光と違い、葵が天休斎がや里の人々の助けになっているのならばと、それらの物思いは表には出さなかった。
「あの若様はなぁ。なんというか、不思議な御仁だよ。あの日あの祭殿の中で、誰か人手を、と思ったときに、どうしてか真っ先に浮かんだのがあの若様だった」
 天休斎は笑いながら続けた。
「口の硬さに関しては、正直里の人間達よりも俺は信頼してるよ。葵殿なら、絶対に里にとって不利益になるようなこともしないだろう」
「だと思います」
 夜光も小さく笑った。そんな葵だから、夜光も誇らしくもあり、少し胸がしくりとするところでもある。
「夜光さんよ。正直に話してほしい。──あんたはアレを、どう見るね?」
 天休斎が口調そのものは変えず、声音だけを落として、何気ないように訊いてきた。
「……そうですね。私は正直、あれを野の獣の仕業だとは」
 夜光も受け答えする調子そのものは変えず、ただ周囲に間違っても漏れ聞こえない程度に、声音を下げた。
「ほう。と、すると?」
「何であるのかは分かりません。でも、妖、物の怪……そう呼ばれる類いのものであるのだろう、とは思っております」
 白湯を飲みながら静かに答えた夜光に、天休斎は唸った。
「そうか。……うぅむ」
「あの山では今、正常な氣の循環が為されておりません。季節柄分かりにくいですが、濁り澱んだ山の気ヤマノケのせいで、大地との結びつきが特に強い樹木から枯れ始めています」
 紅葉するのではなく、明らかに「朽ち果てていた」木の葉を、夜光は思い起こす。今にして思えば、神社と行き来する道すがら、本来はうるさいほど聞こえるはずの野鳥の声も妙に少なかったし、野の獣にも一度も遭わなかった。
 それにあともうひとつ気になることが、あの祭殿の様子だ。
「それから、あの祭殿……扉が明らかに『内側』から破られていました。お社の外では、何かが狼藉を働いた痕跡は無い。まるで祭殿の内から何かがあらわれ、外に出ていったように見えました」
 腕組みをして無言で夜光の言葉に聞き入っていた天休斎が、肩を大きく落とすように嘆息した。
「……なあ、夜光さん。これは俺の、あっちゃならない憶測なんだがな」
「はい」
「アレはもしかしたら、山神様の住処を乗っ取ったモノか、さもなければ──山神様ご自身なんじゃねぇか、と、俺は思っている」
 その言葉に、さすがに夜光は絶句した。
「それは……」
「いや、まだ分からねぇよ? だがアレがなんであれ、山神様の住処を荒らすことが出来る程度の奴であることに間違いは無い。つまり、神様と同じ程度のモノである、ってことだ」
 その言葉には、夜光も否やはなかった。肯定の意味も込めて無言でいると、天休斎は先を続けた。
「本来神様と呼ばれるものは、人間が手出しをしちゃならねぇ領分なんだ。だからこそ、どうか荒ぶらないでください祟らないでくださいと、宥めおだててお祀り申し上げる。宗衡さんは、長年過不足無く宮司を務めてきて下さっていた。祀り方に手落ちがあったとは思えない。いやまあ、あんなことになってたってぇのにまるで気付かなかった俺が言っても、説得力は無ぇんだがな」
「そんなことは」
 そもそも天休斎は、異能の者でもなんでもない。他よりは視えやすい聴こえやすいというだけの、あとは多少は自身の身を守る術を知っている程度の、普通の人間だ。明らかに上手うわてと思われる相手に巧妙に変事を隠されてしまったら、それを見抜けるはずがない。
 だから自責の念に囚われる必要はないのだと、夜光が言葉には出さずにただ見つめていると、それが伝わったのか、小さく天休斎は苦笑した。そしてすぐに表情を切り換えて、続ける。
「何がどうしてあんなことになったのかは分からん。だが確かなのは、あの遺体と血痕の状態からして、宗衡さんが殺されたのは畑が荒らされるよりも前、てことだ。祭壇にあった供物を食い荒らした何モノかが、そのうちまた飢えて畑を荒らしたんだとしたら、まあまあ筋は通る」
「はい」
「恐いのは、飢えたそいつがまた現われることだ。食いものを求めているなら、手軽にそれが手に入る里に近付いてくる可能性がある」
「そうですね。その恐れは、ないとは言えません」
「本心を言えば、息子どものところからちっと手勢を借りて、一気に山狩りしたいくらいなんだがなあ。今はあっちはあっちで、下手に兵力を割けないもんでな。自警団を中心に、なんとか里の者達で頑張るしかない」
 天休斎はやれやれというように溜め息をつき、湯飲みに残っていた白湯をぐいと一息にあおった。湯飲みを置き、それから今までにない生真面目な声音で、やおら切り出した。
「夜光さん。もしも、だ。もしもこの先、この里であんた達の手にも負えないことが起きたら。そのときは構わないから、ためらわずに葵殿を引っ張って、ここから立ち去りなさいよ」
「え?」
 ふいに不吉めいたことを口にした天休斎に、夜光は思わずその顔を見返した。
 そのときには天休斎は、すっかりいつも通りのへらりとした顔つきに戻っていた。さっと立ち上がりながら言う。
「さて。それじゃあ俺も、差し入れがてら神社の様子を見てくるかね。やれと言うだけ言っておいて、大将が顔も出さないんじゃあいけない。夜光さんは、ゆっくりしておいでなさいよ」
「あ……天休斎様」
 立ち上がって追おうとした夜光だったが、それをさせまいとするような早い足取りで、天休斎は縁側を歩み去っていってしまった。
 遠ざかり、すぐに曲がり角の向こうに消えていってしまった天休斎の姿を、夜光は立ち竦むように見送る他になかった。


 その日も葵が屋敷に帰ってきたのは、夕餉の膳が用意されてからしばらく経った頃合いだった。
「お帰りなさいませ、葵」
「ただいま、夜光」
 部屋に戻って夜光を見るなり、葵がほっとしたように笑う。そんな葵を見ると、夜光はそれだけで胸が詰まったようになって、もう少し休んでほしいとか、もう少し一緒にいたいとかいう本音を、言葉にすることが出来なくなってしまう。
 湯浴みをしてきてから葵は膳についたが、疲れの方がまさっているのか、あまり食がすすんでいないように見えた。
 夜光が厨房に膳を返してから部屋に戻ってくると、座ったままで葵が舟を漕いでいた。寝具を広げて寝支度を整えてから、夜光はそっと葵に声をかけた。
「葵。床を延べましたから、やすむならあちらのほうで」
「うん……? ……ああ、うん」
 寝おびたような顔つきで、葵が傍らに膝をついている夜光を見やる。葵はそのまましばらく夜光を見上げていたかと思うと、ふいに頬を崩して笑い、両腕を延ばしてその身体を抱き締めた。
「あ……葵?」
「寝床に行く前に、少し夜光の膝を借りたい」
 急に密着した体温と、前触れの無い思わぬ言葉に、夜光は少々どぎまぎしてしまった。夜光がほんのりと頬を染めて戸惑っているうちに、葵はそのまま力を抜き、なし崩しのように膝枕をする格好になっていた。
 葵は夜光の膝の上に仰向けに頭を預けて、心地良さそうに目を閉じる。いつもは纏めて結い上げている長い朱の髪が、あたたかみのある紙燭の明かりを受けて、緩く波打ちながら鮮やかに広がっていた。
 静かな夜陰に、様々な秋の虫の鳴き交わす声が響いている。虫たちの奏でる音色は、終の涯で聴いたそれとあまり変わらない気がする。それらの虫の聲が、いっそう夜の静けさを深くする。
 儚く美しい音色に耳を傾けながら、夜光は黙って葵の顔に目を落とした。睫毛の長い目許に疲労の陰が見え、切ないような思いで、夜光はそっと葵の額髪を梳いた。
 葵が眠たげに瞼を開き、夜光を見上げて、目を細めるように微笑した。その皮膚の硬い手が伸ばされて、夜光のすべらかな頬にふれる。
「やっぱり、夜光といるのがいちばん良いな」
「……私も、おまえさまとこうしているのが、いちばん好きです」
 何をするわけでもなく、ただ身を寄り添わせているだけで。互いの体温と呼吸を感じているだけで。胸の奥から滾々と、切なくあたたかく限りなく愛おしい気持ちがあふれてくる。ほっと肩から力を抜いて、息をつくことを思い出すような心地になる。
「お社の方はいかがですか? まだだいぶかかりそうですか」
「いや。明日あたりで一段落すると思う。どちらにしても、あの社殿はもう使えないんじゃないのかな……柱が折れて梁も落ちてしまっているから」
 そうですか、と答えながら、夜光は昼間に天休斎と話したことを思い出していた。
 本当は、葵とただ静かにこうして身を添わせていたい。けれど、もしかしたら明日にでも、また何か異変が起こらないとも限らない。そしてもしも何かが起きれば、おそらく葵は、夜光よりもその異変の近くに身を置くことになる。
「……葵、少し話せますか。できればお耳に入れておきたいことがあります」
 うん? と目を上げてきた葵に、夜光は天休斎と話したことを、かいつまんで説明した。
 夜光の膝に頭を預けたまま、葵は黙って聞いていた。夜光が一通り話し終えると、葵はそのままの姿勢で、ふうとひとつ息を吐いた。
「そういえば、夜光はあの山を抜けてくるときから言っていたな。ここは何かおかしいと」
「はい。何がどうだ、という確信はまだ持てないのですが……あれが妖であることは間違い無いと思います」
 祀られていた山神が神でないものに変じてしまったから、山の神の御座みくらそのものが喪われてしまった。そういうことであったなら、あるのか無いのかも分からない、と感じたことにも説明はつく。 
「俺にはおまえや天休斎殿のような、人ならぬものや異界のものの存在を感じ取る力はない。だから、おまえがそう言うのなら信じるよ」
 葵は僅かに眉を寄せ、難しげな顔をした。
「それにしても、何故神社からそんなものがたんだろう。祭殿はあの有り様だったが、他の場所はどこもしっかりと手入れされていた。天休斎殿の言う通り、もしも本当に元々あそこに祀られていた山神が妖に変じたのだとすれば……どれほどしっかり祀っていても、しょせん堕するときは堕するということか?」
「分かりません。ただ幽世かくりよのものは、神と呼ばれる器になるほど超自然的な存在になっていきます。そういったものほど、氣の乱れや穢れの影響を強く受けてしまう」
 蓬莱ではもう長いこと、中央政権の権威が失墜した状態が続いている。京師みやこには従わず、自分の領地を固めている豪族も多数現われ始めており、常にどこかで大なり小なりのいくさが起こっていた。
 この里のあたりは、耶麻姿一族の息子達が周辺地域をしっかり守っているおかげで、このご時世にしては珍しいほど安泰だ。けれど、その領地は決して広くはない。そしてそこかしこから雲霞の如くに湧き上がり、穢れ乱れてゆく「氣」の流れは、さながら消えることの無い巨大な積乱雲のようだ。ひとたび押し寄せれば、こんな小さな里の小さな平穏など、あっさりと飲み込んでしまう。
 あの神社に祀られていた山神が妖に変じたのだとすれば、宮司の咎では無く、ましてや里の者達のせいでもなく、多分そういうことなのだろう──と、夜光は思う。実際にこれまでにも、土地神などが「氣」の穢れが原因で物の怪に変じた、という類いの出来事に、何度か遭遇したことはあった。
 だがこの話を、天休斎に聞かせる気にはなれなかった。「案外よそではよくあることだ」と言われたところで、彼らにとってそれがいったい何になるだろう。
「……何事もなく済めばいいな。このまま」
 心底からのしみじみとした葵の呟きに、はい、と夜光も頷いた。
 そうするうち、ふいに葵が手を伸ばして首を持ち上げ、夜光の唇に口づけた。不意を突かれた夜光が驚いているうちに、葵は身を起こして寝具の方に移動してゆく。
「さて、そろそろ寝ようか。明日が過ぎれば、俺ももう少し余裕が出来ると思うんだ」
「は……はい」
 葵のこととなると、軽い口付けひとつ、笑顔のひとつだけで、夜光の感情はまるで生娘のようにたわいもなく振れてしまう。葵とともに過ごすようになってからそれなりに経っているのに、未だにそれは変わらないどころか、ますます深くなっているようですらあった。
 頬の火照りと心の臓がいつもより早く鼓動しているのを感じながら、灯りを落として、夜光も葵の隣に延べた寝具に移動する。ふと、夜光は自分の上掛けを持ち上げる手を止め、既に床に入っている葵を見つめた。
「あの、葵……一緒の床で、やすんではだめでしょうか」
 葵が疲れているのは分かっていたが、何か無性に葵のそばに居たかった。葵は既に閉じかけていた目を眠たげに開くと、軽く笑って、夜光が入りやすいように上掛けを持ち上げてくれた。
 葵とひとつの寝床に入ると、夜光はせめて眠る邪魔はするまいと、出来るだけ葵にふれないようにいささか身を小さくした。とはいえ、どうしても膝や爪先が軽くふれてしまう。
 夜光は自分から同衾などを申し出たことは初めてだったので、横になってもまだ胸が落ち着かなかったが、すっと落ちるように眠ってしまった葵を見ているうちに、だんだんそれも鎮まっていった。
 そっと手を伸ばして、投げ出されていた葵の手にふれる。
「……おやすみなさいませ、葵」
 このささやかな幸せが続くだけでいい。どうか何も起こりませんようにと、夢うつつに祈るうちに、いつしか夜光も眠りに落ちていった。


 翌早朝、暁紅が不吉なほどの鮮やかさで東の空を染め上げる中。里に住む男の一人が、厩舎をよろめき出ながら、ありあわせの拍子木を懸命に打ち鳴らしていた。
「起きてくれ……誰か、起きてくれぇ! 大変だぁ……!」
 がたがたと震え上がりながら、悲鳴のような声を絞り出している男の背後にある厩舎の中では、飼われていた牛の一頭が横倒しになっていた。
 その無惨に裂かれた腹腔からは、ごっそりと臓物が無くなっている。そこからはつい先頃までは生きていたことを物語るように、深まってゆく秋のひやりと冷たい空気の中、まだ湯気が立ちのぼっていた。

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