遣らずの里 (九)

 早朝に屋敷に駆け込んできた者のただならぬ叫びに、夜光も葵も飛び起きていた。
 葵は天休斎と一緒に、寝巻きの上に羽織を羽織っただけの姿で、取るものも取りあえず屋敷を飛び出していった。
 二人が駆け付けると、既に厩舎の入り口にはざわざわと人垣ができていた。
「はいよ、ちょっとすまないね」と、天休斎がそこに割って入る。横たわる無惨な牛の姿を見て、さすがに顔をしかめた。
「なんだい、こりゃあ。熊か野犬にでも襲われたのかい」
「わ、わ、分かりません。いつも通りに起きて、ここに来て……い、いつもと同じように、水と飼い葉をやろうとしたんだ。そ、そうしたら、こんなになってた。な、なんだってこんな、可哀相なことに……っ」
 死んだ牛の傍らにうずくまり、蒼白になって震えながら泣いている男が言った。
 ここは里で飼育している鶏や鶉や牛などの家畜を集めた厩舎だった。こういった厩舎や小屋は、里の中にいくつかあり、住民達が交代で家畜達の世話をしている。
 天休斎は集まった人々を遠ざけ、いったん余計な者は近づけないようにした。葵を含めた心の臓の強い者数人だけで、牛の遺骸やあたりの様子を検分する。
 近くに住む者達によると、昨夜はいつもと変わらず静かな夜で、牛や他の家畜達が騒ぐようなことも無かったという。
 厩舎は全体に丈夫な樫材で出来ており、しっかりと施錠もされていたが、戸口がまるごと豆腐のように断ち割られていた。外敵に備えて設置された鳴子は、残らず切り落とされていた。
 死んだ牛のまわりの土には、何か太い杭でも突き立てて抜いたような、あるいは掻いたような奇妙な痕跡が、幾つもあった。それから、大きな袋でも引きずったような跡も。
 そこに落ちていた牛の毛色とは異なる獣毛を、天休斎は無言で拾い上げた。暗褐色と灰色が混ざったような色の毛は、松葉のように丈夫で長かった。
「──こっちの始末は近場の男衆にまかせて、俺はいったん引き上げるよ。すまねぇが自警団の連中に、腹ごしらえと身支度ができたら詰め所に集まるように伝えておくれ。葵殿は、俺と来てくんな」
 天休斎はあたりにいた者達に言い置き、あとは一瞥もせずに歩き出した。葵はこの場の惨状をそのままにしていくことにやや躊躇ったが、その場の者達に一礼してから後を追った。
 その背中ごしに、恐ろしげに震える声で囁きあう人々の声が聞こえた。
「……なあ。こんなの、本当に獣の仕業なのか?」「分からねぇよ、そんなの」……

 先を行く姿に小走りに追いつくと、天休斎はかつてないほど、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「牛が喰われた。ってだけなら、まだ獣の仕業とも言えるがねぇ。状況からして、こいつはどう見ても熊の仕業なんかじゃねぇやな」
 葵にだけ聞こえる程度の低い声で、天休斎は言った。
「しかもだ。やっこさんは、今までは肉を喰うことはしなかった。しかしこれからは話が違う。最悪、人が喰われるかもしれん」
「…………」
 考え得る最悪の事態になりつつある。くだんのモノが人を喰わない、とは言い切れず、葵は何も言葉を返せなかった。
 実際妖の中には、好んで人の肉を喰うものがいる。人間は小動物に比べれば身体がそれなりに大きく、なのに下手な小動物よりも武器たりえる牙や爪が発達していない。つまり、格好の餌と目されやすい。
 とくに若い盛りの人間には、滋養や精氣が凝縮されている。若ければ若いほど、それを好む妖にとっては美味なのだと、葵は過去にそう聞いたことがあった。
「たっ……大変だあー!」
 無言で歩く背に、遠くの方から誰かが叫ぶ声が聞こえた。天休斎が、いささかうんざり気味に足を止める。
「やれやれ。今度は何事だい、まったく」
 その声の主は、血相を変えて転げるように走ってくる。そのあたりにいた者達が、何事かと集まっていくと、駆けてきた男は息も絶え絶えにへたり込んだ。血の気の引いた顔で、男は息を切らしながらも叫ぶように言った。
「ど、道祖神様の像が、めちゃくちゃに壊されてるんだ! 南側のと西のだけは、今確認してきた。誰か、北と東を見てきてくれ……だ、誰があんな、罰当たりなことを……っ」


 その日から自警団を中心に、里をあげての見張りの態勢が強化された。
 人間が襲われる可能性については、天休斎はあえて皆の前では言及しなかった。そうでなくても、こういった農村では、田畑と並んで家畜は大切な財産だ。それを守るために警戒を強めるのは、至極当然の話ではある。
 そうした中、葵はそれまで以上に、自警団の仕事に引っ張り出されることになった。
 神社から始まり、山近くの畑、それから今度は里の中と、次第にその「得体の知れない何か」は行動範囲を広げている。
「道祖神は、外から来たるわざわいや悪鬼怨霊からその土地を護る、大切な御柱おんばしらです。それが壊されたということは、それがあると不都合なモノが居る、ということです」
 話を聞いた夜光は、眉をひそめてそう言った。
 ──であればそのモノは、近いうちに必ずまた、里に降りてくる。
「葵。どうか……お気を付けて」
 毎朝早く、ときには夜間にも、里の守りのために出かけてゆく葵を、夜光は言いたいことをぐっとこらえるような顔をしながら見送った。


 案の定それからも、「得体の知れない何モノか」による家畜への襲撃は続いた。
 襲われるのは今のところ、深夜から明け方に限られている。鳴子が鳴らないときもあり、鳴ったとしても、すぐさま駆け付けた頃にはもう襲われた後といった案配だ。
 人々も飼っている家畜を何らかの事情で屠殺することはあったが、内臓を喰い荒らされた無惨な遺骸が連日転がっているような事態は、さすがに事情が異なった。遺骸の後始末だけでも重労働で、胸が悪くなる者や、精神的にまいってしまう者も多かった。
 今のところは襲撃は夜だけだが、昼にも来ない保証は無い。周辺の鳴子を増やし、自警団以外でも手を貸せる者は出来るだけ加勢して、昼夜を問わず常に誰かが目を光らせているように、ますます徹底された。その甲斐あって、鳴子が鳴っただけで襲撃は来ないことも増えてきた。
 だが頻度が下がったかわりに、今度は一度に襲われる数が増えた。ある晩は、ほんの僅かな間に三頭もの牛が喰い殺されることが起きた。
 天休斎はとうとう、苦慮の末に息子達に事の次第を伝え、「山狩りのための手勢を回すように」との遣いを出した。


 そんな中、山姿神社の宮司がどのようにして死んでいたのかという話が、どこからともなく里に広まった。
 あまりの内容に人々は震え上がり、いよいよ里に満ちる恐怖と緊張感とが色濃くなった。中には宮司が横死したことへの義憤を強める者もいたが、それは余計に里の空気を張り詰めさせることにしかならなかった。
「人の口に戸は立てられんとはいえ、わざわざ知らんでいい話をなぜ広めるんだ」
 天休斎はこのときばかりは、腹立ちを隠しもせずに言い捨てた。こうなることが分かっていたから、事実を知る者達に箝口令を敷いたのだ。
 だが天休斎は、犯人捜しをすることはしなかった。きっと話してしまった誰かも、おもしろおかしく話したのではない。日ごとにじわじわと高まってゆく緊迫感に耐えきれず、恐怖から黙っていられなくなってしまったのだろう。
 もう幾日かすれば、他の耶麻姿の領地から助太刀が来る。里の空気はかつてないほど不穏に張り詰めていたが、なんとか人々は、それを支えに気持ちを奮い立たせた。


 家畜たちの居る厩舎のあたりで、自警団の仲間と見張りをしながら、葵はそこから見渡せる里の風景を眺めていた。
 ろくに休みも無く、時には夜間でも見回りや襲われた家畜の始末に駆り出されるのは、正直楽ではない。その上いつ何処から来るのかも分からない襲撃にも、常に神経を張り巡らせておかなければならない。
 夜光が心配そうな顔をするのももっともで、何よりそんな顔をさせてしまうことが、葵にはつらかった。
 だが葵は、自警団の勤めを拒むことはしなかった。
 自警団といっても、しょせんは素人の集まりだ。まして彼らは、人ならぬものの相手などしたこともない。何かがあったとき、悪くすれば被害者が出る。
 そう力になれると自惚れているわけではないが、相手がたとえ妖であっても、葵ならばある程度は対応できる。それが分かっていて、この窮状を見て見ぬ振りはできなかった。
 それに、今でこそ自警団も稽古どころではなくなってしまったが、明るく賑やかな里の人々や子供達と稽古場に集まる時間は楽しかった。あの賑やかさの中にいると、どこかでふと、昔のこと──ある小国の頭領家の次男として生きていた頃──を思い出した。
 あの頃の、気詰まりすることや悩みも多かったが、自分を理解し慕ってくれる者達に囲まれていた、身も心も豊かな日々。
 この里での束の間の賑わいは、あの遠く豊かな日々を思い出させる。そのささやかな恩返しではないが、そんな時間をくれた人々が困っているのを、見過ごしてはおけなかった。
 ──だがそれにしても、さすがに身体が少々つらい。
 見張りの交代はまだかと、ふう、と息を吐いたときだった。ふと強い視線を感じて、何気なく葵は振り返った。
 その先で、里の人々が数人集まってこちらを見ていた。いずれもこの里で過ごすうちに顔見知りになった面々だった。
 葵が振り返ったのに気付くと、なぜか皆、慌てたように視線を逸らした。
「……なんだろう?」
 人々は葵には近付いて来ようとはせず、だがこちらには聞こえぬ程度の低い声で、何か話し込んでいる。その空気が明らかに不穏で、葵は眉根を寄せた。
 そのうち人々は、連れ立って歩き出した。すれ違うときも、出来るだけ葵から距離を取ようにしている。
 葵をちらりと見るその視線が、あからさまな警戒と不信感を孕んでいた。
「……そうだよな。確かに、あいつらが来てからだもんな」「そうよ、絶対。だっておかしいじゃないか」「そもそもまともじゃねぇよな。あんな妙な……」
 彼らが通り抜けざま。そう低く囁きあう声が、確かに聞こえた。
 思わず立ち尽くした葵を、中の一人が睨むように見返った。そして聞こえよがしに吐き捨てていった。
「俺もそう思うよ。あいつらが、妙なもんを山から連れてきたんだよ。間違いねぇ」


 一度噂が広がり始めると、まして小さな里の社会の中、それは恐ろしいほどの早さで浸透してゆく。
 ただでさえ忙しい時期に異変と緊張が続き、人々には慢性的な不安と疲労感が蓄積している。そういうときは、無意識にそれらの捌け口を求めるものだ。
 その対象として、得体の知れない余所者であり、葵達が里を訪れた後から異変が起き始めた、ましてや人間離れした容姿を持っている──となれば、なるほど槍玉に上げるにはもってこいだろう。
「そうか……」
 滑稽なほどすんなりと、葵はそこに納得してしまった。
 皆も疲れているのだ。仕方が無い。
 と、頭では分かっていても、かといって行く先々でちらちらと胡乱げな視線を向けられ、道を歩けば人々がさっと退き、そのかわりひそひそと低く囁き合う声が聞こえるのは、心楽しいものでは無かった。
 それでも今の時点ではまだ、あからさまな敵意や害意は抑えられている。なにしろ葵達は、皆の敬愛する天休斎の客人なのだから。
 あの不思議な被衣に護られた夜光が、人間離れした髪や瞳の色を屋敷の者達以外にはまだ知られておらず、さほど疑惑の対象に含まれていないようなのも、葵にとっては救いだった。
「楽しくはないが、かといって事を荒立ててもな……」
 このままやりすごせるなら、気付かないふりをしておくほうが無難か。幸い直接関わることの多い自警団の者達は、今までと変わらずに接してくれる者の方が、まだ多い。
 あと数日もすれば、耶麻姿の正規の兵士達が助太刀に来てくれるとも聞いている。そうなれば葵も今ほど気張らなくても良くなるだろうし、里の人々も安堵して心が緩むだろう。


 しかし日が重なるにつれて、里の人々が葵を見る目は不穏さを増す一方だった。
 直接的な危害を加えられることこそないが、自警団の仲間内ですら、次第に葵と必要以上の言葉を交わそうとする者はいなくなった。今までは見張りや巡回は必ず複数人で動いていたのが、「若先生はお強いから」「人手が足りないから」といったことを理由に、葵一人で向かうことが増えた。
 里の人々に到っては、挨拶をしても悉く怯えて逃げられるか、不快感もあらわに舌打ちされたり、無言で睨まれたりする。そしてそんなことがあった後は、皆で遠巻きにこれ見よがしに集まって、ひそひそと低く囁きあう。
 生まれ育った国で「朱髪の鬼子」と囁かれていた頃ですら、ここまであからさまな拒絶を受けたことはなかった葵には、これは正直こたえた。一度は里の人々と打ち解けることができていたから、なおさら今の状況がつらい。
 里の人々は、葵の存在を拒み、疑っていても、しかし自警団の勤めからは閉め出そうとしない。
 収穫作業とそれに関わるたくさんの手間仕事、冬に備えての支度だけでも、今はもともと手一杯な時期だ。そんなときに、見張りやら巡回やらを普段以上に徹底しなければならないのは、至極厄介この上ない。不審ではあっても、人手として使えるならば使おう、という腹づもりなのだろう。
 もしかしたら里の人々も、本気で葵を物の怪の類いだと疑っているわけでもないのかもしれない。
 いや、本気で疑っている者もいるのだろうが、中にはそれを口実に、体よく憂鬱な日々の憂さ晴らしをしている者もいるのだろう。
 心底から拒絶されているのなら、いっそ居なくなった方がいいのだろうが、そうとも限らないのであれば、立ち去ることにも躊躇う。そこまで追い詰められているのだと、人々を哀れむ気持ちも出てくる。
 天休斎に相談するというのは、少しは考えたがすぐに却下した。ただでさえ里がこんな状態で、天休斎には人一倍以上の疲労心労が重なっている。葵がこらえれば済むものを、これ以上余計なことで患わせるわけにはいかなかった。
 勤めとは関係のないところで気を張ることが増え、針のむしろとはこういうことを言うのかと、思わず溜め息が出た。
 ここまで人々の感情がこじれてしまっている以上、そうそう関係改善を望めるとは思えない。甚だ気鬱ではあったが、助太刀が到着するまでの辛抱だと、葵はなんとか割り切ることにした。


 人の口に戸は立てられない。と先日天休斎は憤っていたが、この噂に関してもやはりそうで、じきに里での様子が夜光の耳にも届いてしまったようだった。
「葵。お話したいことがあります」
 その日も朝早くから夜遅くまで見張りと巡回に駆り出され、やっと屋敷に帰ってきて一息ついた頃。膝を詰めるようにして、夜光が切り出してきた。
 夜光の普段は優しげな顔付きが、今日はいつになく厳しい。その表情だけで、葵は夜光が何を言いたいのかを察してしまった。
 余計な気を揉ませるまいと夜光には里でのことは伏せていたのだが、知られてしまった以上は仕方が無い。努めていつも通りに、葵は夜光を見返した。
「うん。何だ?」
「里のほうで、あらぬ噂が流れていると聞きました。なんでも葵や私が、このたびの怪異の元を連れてきたのだとか」
「うん」
「おかしいと思っていました。ただ忙しいという以上に、おまえさまの顔色や表情が、近頃とくにすぐれませんでしたから」
「そうか」
 受け答える調子を変えない葵に、夜光は続けようとした言葉を、いったん飲み込んだように見えた。自分が何を言うまでもなく葵は全部承知している、その上で何も言わずに里のために働き続けているのだ──と、理解したのだろう。
 だいぶ長いこと黙り込んでいた夜光が、やがて再び口を開いた。
「……葵。もう辞めませんか」
「辞める?」
「この里のために働くことを。天休斎様には申し訳ありませんが、私達はもう、ここからおいとましましょう。葵はもう充分に、受けた恩以上のものを返しています。潮時です」
 声音は抑えられていたが固く、夜光の瞳には遣り切れない憤りが滲んでいた。
 夜光が怒り嘆いているのは、夜光自身のためではなく、葵のためだ。それが分かるから、葵は強い言葉を返すことはしなかった。ただ静かに、夜光の言葉と眼差しを受け止める。
「今ここを離れることは、俺には出来ない」
「でも」
「せめて、耶麻姿の兵が加勢に来るまでは。俺ひとりが居たところで、どこまで役に立つかは分からないが、居ないよりはましだろう」
「でも里の者達は、葵にあんなことを!」
 抑えかねたように、夜光が声を荒げた。その美しい紫の瞳が、怒りと哀しみに震えていた。
「あれだけ葵に助けられておいて。都合の良いときだけ祭り上げて、褒めそやして、でも何かあれば簡単に掌を返す。それなのに襲われるのは恐いからと、葵を利用することはやめない。私には我慢がなりません!」
 葵のために憤りを露わにする夜光を見ているうちに、ふと、葵は終の涯の者達を思い出した。彼らは皆人間では無かったが、人間である葵のことを一切分け隔てること無く接してくれた。
 あの場所のほうが特異なのだ、とは思う。恐怖や不安と隣り合わせの中にいれば、この里の人々のように、誰であってもきっと余裕や寛容さを磨り減らしてゆく。
 そうは思いながらも、終の涯では誰も自分を拒まなかったこと、対してこの人間の里では自分は排斥されてゆこうとしていることを、比べずにはいられなかった。
 ──自分は、確かに人であるはずなのに。
「……人が見知らぬものを、理解できぬものを恐れ、警戒するのは、人が力無きものだからだ」
 哀しいようなやるせなさが胸の奥からじわりと滲んできたが、それらを面に出すことはせず、葵は静かに言った。
「知らないから恐れる。無力だから恐れる。弱さゆえに恐れてしまうことを、俺は責めたくない」
 それは愚かなことではあるかもしれないが、誰しもが賢く強くあれるわけではないのだ。葵だとて、過去に同じ過ちを犯した。他ならぬ夜光に対して。
 夜光はうつむき加減に黙っていた。降りたての淡雪の如く混じり気のない白い髪が、紙燭の不安定な明かりをぼんやりと照り返している。その唇が、伏せられた面を隠す前髪の下で、きりと噛み締められた。
「……では、葵は。弱き人間であれば何をしても仕方がないと。そう仰るのですね」
 顔を伏せたまま、押し殺した声で言った夜光に、葵はハッとした。
「そういうつもりでは」
 ──失言だ。それも夜光にとっては、おそらく最も許し難い。
 葵に何を言う間も与えず、夜光は立ち上がった。
「もう結構です」
 恐ろしく冷ややかな瞳で葵を見下ろすと、夜光はそれ以上は何を言わせる暇も与えず、踵を返した。
「大丈夫です。屋敷の外に出て行ったりはしませんから」
 気遣いというよりも、だから着いてくるなと言わんばかりに言い置くと、夜光は部屋を出て行ってしまった。
 それをただ見ていることしか出来なかった葵は、がくりと脱力してうなだれた。
「……くそ。俺は、なんてことを」
 ぐしゃりと自分の前髪をつかみ、思わず握り締めた。
 自分はいったい何をやっているのだろう。最も大切なもの、守るべきものは夜光であるはずなのに、その夜光を気が付けばないがしろにしている。挙げ句に、その最も深いところにある古傷を抉るような真似をしてしまった。
 目の前で困っている者がいれば助けたい、と思う、それ自体が誤りであるとは思わない。だがそれは、本当に大事なものをないがしろにしてまで選ぶべきことなのだろうか。たいした力もない分際で、あれもこれも助けようだなんて、身の程知らずのただの思い上がりではないか。
 深々と溜め息をついた。急に、どっと疲れが押し寄せてきたように感じた。

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