遣らずの里 (十一)

栞をはさむ

 里を見回ってくるという天休斎とはそこで別れ、葵は屋敷に帰った。
「夜光?」
 部屋に戻り、声をかけてみたが、夜光の返事も姿も無かった。
 夜光が使うといっていた隣の部屋に続く襖は、開かれている。そちらにも夜光はおらず、被衣は無かったが荷物は置かれていた。
 夜光の姿が見えないことに不安はあったが、一人で出て行ってしまったわけではないと分かると、葵はほっとした。
 仲違いをしたままだから、きっと今はまだ、夜光は葵と顔を合わせたくないのだろう。
 ひとまず湯を使わせてもらって汚れを落とし、部屋に戻ると、様子を伺いに来た侍女が昼の膳を運んできてくれた。
 中午ひるはもう、だいぶ前に回っている。腹が減った感じはあまりしなかったが、せっかく用意してくれたものを食べないのは失礼だろうと、ありがたくいただくことにした。
 食事を終えてしまうと、葵は途端に時間を持て余した。
 今までは、部屋に戻って夜光が居ないということがまず無かった。夜光は葵が戻る時間の目星をつけて、必ず部屋で待っていてくれた。
 それが無いということが、いつも隣にいてくれた姿が無いということが、ここまで味気なく心寂しいものなのかと、身に染みて思う。
「夜光……」
 夜光は何処にいったのだろう。被衣の加護があるのだし、状況も分かっているだろうから、あえて危険に身を晒すような真似はしないだろうとは思う。子供ではないのだし、葵が案じる必要は無いのかもしれない。だがそれでも、心配するなという方が無理だった。
 縁側の柱に凭れて、葵はぼんやりと、整えられた枯山水を眺めた。
 あたりはただ静かで、野鳥の鳴き交わす声が時折聞こえるだけだ。そうしていると、蓄積した疲労と昨夜ほとんど眠れていないせいで、次第に瞼が重くなってきた。
 夜光に会いたい。あの夢見るような美しい瞳が見たい。あの柔らかな優しい声が聞きたい。
 夜光を恋しく思っているうちに、葵はいつの間にか眠り込んでしまった。


 暗い中を、葵は漂っていた。
 半端な状態で眠りに引き込まれたせいか、どこかでぼんやりと、これは夢だと分かっている。
 覚醒未満の曖昧な意識の中、夜光はどこにいるのだろうか、一人で悩んでいなければ良いのだがと、眠りに落ちる前に考えていたことをそのまま案じていた。
 その暗い中で、葵はふと、奇妙な胸騒ぎを覚えた。
 夢の中だから身体があったわけではないが、意識として、引かれるようにひとつの方角を振り返る。
 ──赤い光が、遠くに見える。
 真っ暗な中に、篝火のような赤い光が揺れている。毒々しく鮮やかな真紅は、何かひどく禍々しかった。
 ぞくっ。と、葵の全身が粟立ち、産毛がざわりと逆立った。それは本能からの警鐘だった。
 近付いてくるにつれ、次第にそれは複数の光の集まりなのだと分かった。
 生きとし生けるものすべてを呪詛し怨嗟するかのような、生き血の色をした炎を纏う何か。猛るように禍々しく揺らめき耀く赤光を、葵は凝視しながら立ち尽くした。
 ──あれは、何だ?
「あれ」は、人間が関わってはいけないものだ。人の理も自然の理も超越したもの。存在する土壌から異なる、本来は同じ世界に居合わせてはならないもの。
 ──あれは……眼だ。
 地獄の底で滾るように揺れる、いくつもの赤い光の正体を、葵は把握する。それはなにものかの、闇に揺らめく幾つもの眼だった。
 ここにいてはいけないと思うのに身動きできず、葵は迫り来るそれを凝視していた。激しい戦慄が呪縛となり、指先まで強張ってしまって動けなかった。
 ──来る。あれが、もうすぐここに。
 その予感をひしひしと感じるのに、このままここに居たら「あれ」に確実に見付かってしまうと分かっているのに。喉が干上がって、手脚が竦んで、叫び声すら上げられなかった。


「……!……」
 目を見開いて跳ね起きた葵は、一瞬何がどうなっているのか分からなかった。
 激しく動悸している胸を押さえながら、目の前の風景を茫然と眺める。庭も縁側も部屋の畳も深い夕焼けの色に染まり、落ちる影が長く尾を引いていた。
「なんだ、今のは……?」
 全身にうっすらと脂汗をかいており、涼みを増した夕暮れの風に肌を撫でられて、ぞくりと震えあがった。
 夢を見ていたのだ、とようやく認識したが、胃の腑から萎縮するような恐怖と悪寒は、まだ葵の指先を震えさせていた。
 胸を押さえて、大きく深呼吸する。どうにか動悸や手脚の震えがおさまってきた葵は、屋敷内の空気がいやに慌ただしいのに気付いた。
「大変です」「早く」といった声が切れ切れに聞こえ、忙しなく駆け回るいくつもの足音がする。
 なんだろうと部屋を出て廊下を歩いていくと、すぐに侍女の一人とはち合わせた。
「あ、葵様……!」
 切羽詰まった顔で葵を見上げた様子は、明らかにただ事ではなかった。
「どうかなさいましたか。様子がおかしいようですが」
「は、はい……あ、あの。葵様も、どうか早くお逃げください!」
「え?」
「化け物が……恐ろしい化け物が、里の中に入ってきたんです! きっとそいつが、宮司様をあやめたに違いないって……っ」
 恐怖のあまりか、殺された宮司のことを思い出したのか、薄く涙を浮かべて口許を覆った侍女に、葵は思わず息を飲んだ。その脳裏に咄嗟に閃いたのは、夢の中で見た赤い光だった。
「化け物ですか。それは、どんな姿を」
「わ、分かりません。私は人伝に聞いて、まだ見ていないから……でも、とにかくお家よりも大きいんだそうです。里の入り口の方は、大変な騒ぎになってます。こ、殺されてしまった人も、いるとか……」
 真っ青になって震えている侍女に、葵も自身の顔色が変わるのが分かった。
「分かりました。それで、天休斎殿はどちらに?」
「それが、お姿が見当たらなくて」
「そうですか。では、天休斎殿はこちらでお探しします。あなたは逃げてください。引き留めて申し訳ない」
「は、はい」
 侍女は頷くと、不安気に葵を振り返りながらも、よろけながら駆け去ってゆく。葵はそれを見送ることはせず、部屋にとって返した。
 今までは姿を誰にも目撃されていなかった「それ」──曰く「化け物」が遂に目視されたということに、葵は激しい不安と予感を抱いていた。
 もうすぐ耶麻姿の兵が到着するというのに、よりによって今夜「くだんの何か」は姿を現したのか。いや、もしかしたら向こうも察したのかもしれない。本当に「山姿の神」が正体であるのなら、それくらいの神通力があっても不思議は無い。
 部屋に着いた葵は、終の涯の長から授かった、豪奢な鞘を布でくるんだ太刀を手早く佩いた。次いで弓矢をかつぐ。その「化け物」と闘おうと思ったわけではないが、丸腰よりは良いはずだった。
 ──本当に「山神」なのだろうか。
 支度をしながら、夢で見た迫り来る赤い光を思い出した。背筋をぞわりと悪寒がなぞる。あの光景も感じた恐怖も、ただの夢というには生々しすぎた。
 慌ただしく駆け回る侍女たちに、何度かぶつかりそうになりながら、葵は屋敷を出た。
 里の空気は騒然としていた。それにまぎれて、遠くからいくつも悲鳴や叫び声が聞こえてくる。
 いよいよ陽が沈んでゆく鈍い残照の中、うっすらものが焼ける臭いがして、里の入り口あたり──山へと続く方向から、黒い煙が何本も立ちのぼっているのが見えた。
「逃げろ。早く逃げろ!」「なんだよぉ、あれ。嘘だろぉ」「ちょっと。忘れ物なんか、後にしておきなよ!」「いいから逃げろって。喰い殺されるぞ!」
 人々が必死の形相で、三々五々に逃げ惑い駆けてくる。まるで突然のいくさにでも見舞われたような様相だった。
 逃げようとして、足をもつれさせて転んでしまう者。息を切らしてへたり込んでしまう者。子供を背負って走って行く母親や父親。恐ろしいものを見たのか、道端でうずくまり、震えながら泣いている者もいる。着の身着のまま、という者もいれば、いくらかの荷物を抱えている者もいた。
 天休斎の所在は分からない。だが天休斎は、こんなときに我先に逃げ出すような人間ではない。化け物の襲撃を知ってそちらに向かうか、もしくは既にその近くにいるはずだ。
 そして夜光も、今どこにいるのかは分からないが、きっと天休斎のもとへ向かう。夜光は里の者達のことは嫌悪しているが、天休斎に関しては違う筈だ。
 葵は逃げてくる人々の流れに逆らって、路を駆けた。
 この流れを逆に辿れば、騒ぎの元に行き着く。そこには必ず、探す二人が居る。


 それより時間を巻き戻した、昼頃。
 葵が勤めに出て行った後、夜光もいつも通りに屋敷内の仕事を手伝って過ごした。
 屋敷の者達は、里での噂をどう思っているのかは知らないが、少なくとも夜光と葵に対する態度に特に変化は無い。よほど主である天休斎を信頼しているのかもしれないし、屋敷に住み込んでいる者が多いから、里での噂に関わる機会も少ないのかもしれない。
 昼からは特に振れる仕事は無いと言われ、夜光は部屋に戻った。しかし一人で部屋にいると、どうにも気がふさいで仕方が無かった。昨夜からの葵との諍いのことばかり考えてしまう。
 葵は今朝謝ってくれたし、この里を出ることに同意もしてくれた。いつもと同じ、穏やかな声だった。そのことが夜光を冷静にさせ、同時にひどくやるせない気分にさせた。
 昨夜自分の言ったことが、間違っていたとは思わない。だけれど、言い過ぎてしまったところもある。何より、身も心も疲れていただろう葵を、怒りにまかせて突き放してしまった。
 もう少し優しく、冷静になれたのではないだろうか。なぜ自分は、こうも感情的なのだろう。それに比べて、葵はどうしてあんなに優しくいられるのだろう。
 葵が帰ってきたとき、まだうまく笑える気がしなくて、夜光は被衣を纏って外に出た。この里を立ち去る前に、周りを歩いてこの土地にまつわる「因縁」をもう少し探っておきたくもあった。
 葵をひどい目に遭わせている里の連中などとは顔も会わせたくなかったから、夜光はふらりと気の向くままに、真っ直ぐに里の外に向かった。
 宮司を殺し、里を荒らしている「何ものか」が付近を徘徊している恐れがないではなかったが、妙なものが近付いてくればタマフリの鈴が鳴る。早くに気付けば、一人なら逃げることも難しくはないだろう。
 足の向くままに歩いていくうちに、壊された道祖神の像がある辻を通りがかった。
 力任せに何か硬いものを打ち付けたように、像は台座を残すばかりでほとんど砕けて跡形もない。里を囲む四方の辻それぞれに建っていた像は、すべて壊されてしまったという。いずれもこんな状態なのだろう。
「…………」
 その無惨な跡を、夜光は無言で見下ろしていた。
 くだんの妖の正体は、おそらく山神──「山姿の神」が堕ちたものだろう。
 このあたりの霊域や龍脈を探ってみた限り、本来ここの土地神は、荒ぶり祟る性質のものであるようだ。人々が祀り、祈り、供物を捧げて宥めたことでそれが安らいで、人々を護る「山姿の神」となった。
 元々がそういう性質のものだから、穢れや澱みの影響を、ここの山神はいっそう受けやすい。
 人の世のあちらこちらで続く、争いや飢え、積み重なる苦しみや恨み。不浄で不穏なものが蓬莱の氣を澱ませ、それにあてられた山神が穢れ──遂には神の御座みくらを喪うほどに氣枯ケガレてしまった。おそらく、そういうことなのだろう。 
 代々しっかりと祀られていたようだし、そういう意味では、この里もあの宮司も災難ではある。
 いや。思わず眉間を寄せて、夜光は首を振った。
「違う。そもそも、悪いのは人間だろうに」
 欲得を満たすことに余念が無く、ゆえに簡単に裏切り、無益な争いを続け、恨みや憎しみを積み重ねて氣を穢す。「人間」という種そのものの罪業。
 この里がこんなことになったのも自業自得だ。道祖神も山姿の神も、いってみれば人間達の悪行の被害者だ。むしろ同情されるべきは、山神達の方ではないか。
 そう思うと、ますます里の者達を哀れむ気も失せてはきたが、人間の中にも「まとも」な者はいる。天休斎のことは嫌いではないし、何より葵は人間だった。
「人間は嫌いだ……」
 ──でも、すべての人間が卑しく醜いわけではない。
 ふう、とひとつ息を吐いて、夜光は気を取り直した。
 里を出て行くと決めた以上、これ以上天休斎に力添えはできないが、せめて何か有益な情報を残してから立ち去りたい。穢れ荒ぶる山神を宥める鍵は無いか。なんとか元の御座に戻っていただく方法は無いか。
 夜光は里の周辺を歩きまわり、琴線に引っかかった場所で時折足を止めながら、このあたりに脈々と根付いている大いなるものたちの存在や因果を探っていった。
「……そうか。ここには、他にも居るんだ……」
 有象無象の小さきものたちは別として。「山姿の神」と呼ばれるものの他にも、この地にはもうひとつ、何か大きな力を持つものが居るようだ。
 それは古くからここにいて、山神の下に長いこと抑えられていた気配があった。
「まつろわぬもの……?……ああ、だから」
 意識を凝らしてそれらについてを探るうち、やがてひとつの手応えを引く。
 ──山神の力が穢れによって不安定になり、長く抑え込んでいたもの、つまり「まつろわぬもの」を抑えておけなくなった。それが今回の出来事に拍車をかけた。そんな構図が、うっすらと見えてくる。
 そこまで探ったところで、夜光は伏せていた瞼を開いた。途端、一瞬視界が白く濁り、ふらつくほどの眩暈がした。
 意識と感覚を研ぎ澄ませ張り巡らせて霊的な因縁を探るのは、存外に疲労する。まして相手が「神」と呼ばれるような存在となると、探るにもひどく神経と気を遣う。
 夜光は道端にあった適当な石に腰を下ろした。少し休まなければ、歩くこともままならなかった。
 あたりにはすすきの穂ばかりが揺れ、虫の聲ばかりが響いている。侘しい場所だが、こういった場所も夜光は嫌いではなかった。むしろ、人間達の中にいるよりずっと安らぐ。
「葵……どうしているかな」
 こうやって何もせずにいると、やはり葵のことばかりが浮かんでくる。
 昨夜の言い合いのときは、心底から葵の言うことが腹立たしかった。葵は決して、過去に夜光を虐げた人間達を肯定したわけではない、と頭では分かっていても、人間の肩を持つような態度が許せなかった。
 まして葵は、その人間達に悩まされているのに。それなのにどうして、あんなふうに構えていられるのだろう。
「……それが、おまえさまだから……」
 自分にはとても出来ない。そんな思いと共に呟いた声は、もう怒りも腹立ちも孕んではいなかった。
 葵は本当に優しいから。そして強いから。たとえ自分が攻撃されても、そこに相手の事情やどうにもならない哀しさや弱さが見えると、それを許してしまえる。
 それは甘いのではなくて、心の持つしなやかな強さ故だ。相手の感情と自分の痛みをまとめて引き受けてしまえる、だからこそ優しく在れる強さ。
「私には、とても無理だ……」
 そんな葵だから好きになった。どうしても時々じれったくなったり、腹立たしくなることもありはするけれど。葵の真っ直ぐな優しさが、強さに裏打ちされた穏やかさが、時にはそのせいで苦しみながらもそれを手放さない葵が、たとえようもなく愛しい。
 今この里を立ち去るということは、葵の性格を考えれば苦渋の決断だろう。夜光だとて、世話になった天休斎や屋敷の者達のことを思うと、後ろ髪を引かれぬわけではない。
 けれど、里で人々に睨まれるような状態に陥ってまで居るべきなのかといえば、それは否だ。そもそも自分達は、「困っている衆生を救う」ために旅をしているわけでもない。手に負えないことは切り捨てなければならない。
 それがなかなか出来ない葵のお人好しさは、良いところでもあり悪いところでもある。葵には決断できないからこそ、夜光が決断するべきときもある。逆に夜光には出来ないことを、葵なら出来るときもあるのだから。
 間近で烏の鳴き声が響いて、ふと目を上げると、もうだいぶ陽が西に傾いていた。
 近頃はぐんと日が短くなり、西の空に茜色が増してくると、たちまちあたりは暗くなる。この被衣を纏っていると、寒さや暑さもあまり感じないから、ついうっかりしていた。
 そろそろ帰ろう。だいぶ気持ちも落ち着いたから、今なら葵とも笑って顔を会わせられそうだ。
 そう思いながら、夜光が腰を上げかけたときだった。

 ──りーーーん……

 黄昏の中に、細く震えるような玉音たまねが響いた。
 それは夜光の袂の中、タマフリの鈴から鳴っている。この鈴の中には、音を鳴らす玉が無い。ゆえに通常は鳴ることはなく、その音色を響かせるときは、付近に「邪な害を為すもの」や「大きな力を持つもの」がいるときだけだった。
 つまり今、この鈴が鳴るだけのものが、付近に居る。
 夜光は立ち上がりながら、慎重にあたりの様子を窺った。
 一面の薄が夕暮れの風に波のように揺れているだけで、あたりには特になにものの気配も無い。りーん……とまた鈴が鳴ったが、それはまだ弱く、細かった。
「まだ、そこまで近くにはいない……」
 それなのにタマフリの鈴が鳴った。畢竟それは、鈴が示した相手がそれだけ危険な存在であることを示していた。
 まさか「くだんのもの」が里に来ようとしているのだろうか。だが今までは、来るときは決まって、深夜から明け方だったはずだ。
 ──いつもと違う。まるでこの、夕刻という不安定な刻限……現世うつしよ幽世かくりよの境が曖昧になる、逢魔が刻の力を借りたように。
 思ったときには、夜光は身をひるがえしていた。山神達についてを探っていた疲労が残り、思いのほか身体が重かった。
 気が付けば、随分里から離れたところまで来てしまっていた。これまでの状況や痕跡から判断して、「件のもの」は極めて動きが素早い。急いで引き返しても、相手が里に到達するのに間に合わないかもしれない。
 里には葵と天休斎がいる。彼らの安全だけは守らなければと、夜光は懸命に夕暮れの道を急いだ。

栞をはさむ