遣らずの里 (十三)

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 懐中に常に挿し込んである葵の匕首を取り出し、しゅるりと袋の蓋を括っている紐を解く。
「天休斎様。私があの蜘蛛の上に登ったら、演奏を止めて逃げてください」
 うずくまっている闇蜘蛛に目をやり、夜光は言う。天休斎は何か言いたげに目を白黒させていたが、演奏を止めるわけにもいかず、非常に面妖な顔つきになっていた。
 それを見て、夜光は思わず小さく笑った。
「大丈夫です。私はこの通り、妖ですから。半分だけですけれどね」
 長に角を封じられたのは、もう随分と昔のこと。長に引き取られて間も無い、子供の頃のことだった。
 蓬莱で人間達に虐げられていた幼い夜光は、その原因がこの角に──半分とはいえ妖だったことにあるのだと、泣いて角を嫌がった。この角がある限り、自分はまたきっとあんな遭わされるのだと思って、それが嫌で恐ろしくてたまらなかったから。
 あの頃からもう随分経つとはいえ、今これほど抵抗なく「角のある自分」を受け入れることが出来たのは、夜光自身にとっても少し驚きだった。
 きっとそれは、夜光の手柄ではない。夜光が夜光であることを当たり前に受け入れ、限りない愛情でつつんでくれた者達のおかげだ。それは育ての親である終の涯の長であり、生涯の伴侶と決めた葵であり、実の父親である槐のことでもあった。
 そして今、心から助けたいと思った「人間」である天休斎も、夜光にとっては大切な存在の一人だった。
 夜光はゆっくりと、うずくまっている闇蜘蛛の巨躯に向かって歩み出した。足元から力が湧き上がってくるように、身体が軽い。真珠色の淡い光を纏う髪も、白い被衣も、その重みを無くしたように、ふわふわと軽い。
 鏡を割ってしまったら、夜光は自分でもおかしいほど肝が据わっていた。
 闇蜘蛛の方は、突然正面から歩み寄ってきた妖に気をひかれたようで、ゆっくりとその大きな首をもたげた。地獄の底でゆらゆらと燃えているような赤い複数の眼が、夜光の姿を捉えている。そこに夜光に対する敵意は今は無いものの、敵か味方か測りかねているような気配はあった。
 闇を纏う蜘蛛の象をした山神に、夜光はそれほど恐怖を感じない。畏れは感じるが、それは純粋に大いなるものに対する畏敬であり、自分よりもはるかに格上であるものへの礼讃だ。
 それだけに、堕ちて闇に染まってしまったこの山神に対する憐れみが、滾々と湧き上がってきた。
「お気の毒な……」
 呟いて、夜光は揺らめく赤い複眼を見上げた。
「大いなる山の神よ。ここは、あなたが長年護り慈しんできた里のはずです。荒らすことをやめて、どうか立ち去ってはいただけませんか?」
 語りかけてみたが、まるで虚無に向かって話しているように、返る手応えは何も無かった。
 ──駄目だ。
 この堕ちた山神には、夜光ごときの声を届かせることなど出来ない。天休斎が演奏を止めれば、また荒ぶるままに人を喰い、暴虐の限りを尽くすだろう。
 そうであれば、やむを得ない。この闇蜘蛛に夜光を「敵」だと認識させて、我が身を囮に引き付け、里から連れ出すしかない。
 ──りーん……
 タマフリの鈴が、夜光を鼓舞するように、儚く美しく鳴った。その神秘の玉音を聞きながら、夜光は軽く足元を蹴った。
 難なくふわりと身が宙に浮き、民家よりもよほど大きな闇蜘蛛の上に舞い上がる。視界が高くなったことで、満月にはいささか欠けた月が、東の夜空に皓々と輝き始めているのが目に入った。
 赤紫の残照と月光とを一つ身に浴びながら、夜光はくるりと空中で一転して方向を定める。天狗のように身軽く、闇蜘蛛の頭の上に爪先を降ろした。
 指示していた通り、天休斎の演奏が止まる。笛の音が聞こえなくなっても、突然頭の上に乗ってきた夜光が気になるのか、闇蜘蛛は天休斎に向かうことはしなかった。
 だが不快そうに、その喉が「ぐるる……」と低く唸っている。
 闇色の靄に覆われ、はっきりとした輪郭も掴めない山神の姿だったが、立ってみると意外に足元は安定していた。屈んでふれてみると、黒い靄をつきぬけて、ごわついた獣毛のような手触りが返った。
 ──この黒い靄に覆われた下には、山姿の神の本来の姿がある。
 墨のように黒い靄から、おぞましいばかりの強烈な呪詛と憎悪の念が伝わってきた。それは氷のような、痛いほどに冷たい感触で、夜光は悪寒と共に眉根をしかめた。あまり長くふれていると、夜光の身にもこれが浸蝕してくる。
 猶予は無い。すぐ近くで赤く明滅している複眼のひとつに、夜光は狙いを定めた。静かに葵の匕首を抜く。
 こんなことに匕首を使うことになってしまって、葵には少し申し訳がない。そう思いながら、夜光は闇蜘蛛に語りかけた。
「申し訳ありません。山姿の神よ」
 額の角に感じる熱、すなわち妖力を丹田に引き込んで練り上げ、そろそろと右腕に移動させてゆく。やがてそれは握り締めた匕首に渡り、白銀の焔のような揺らめきを生じて、刃を白々と浮き上がらせた。
「怒りと憎しみならばこの私に。──ご無礼を」
 詫びると同時に、夜光は力いっぱい、匕首を闇蜘蛛の眼に突き立てた。
 山神の凄まじい絶叫が轟き、里ばかりか、あたりの山々の空気までも震わせた。


 天休斎の屋敷を飛び出し、混乱を極める人々の間を縫って懸命に駆け、ようやくそこに辿り着いた葵が目にしたのは、山神の絶叫が轟いたまさにその瞬間の光景だった。
 夜よりも深い暗黒の靄に包まれた、蜘蛛に似た禍々しい巨躯が、大気を震わせるほどに吠えながら伸び上がる。その恐ろしく長い何本もの脚が伸ばされた上空に、淡い残照と月光を浴びて舞い上がる白い姿があった。
「夜光……!?」
 肩で息をしながら、葵はその光景に目を剥いた。
 遠目ながら、夜光の額に一対の白銀の角が輝いているのが見える。白い被衣を靡かせるその姿は、月光色の仄かな光を纏い、いっそう人ならぬ夢幻じみたもののようだった。
 夜光は地上の様子には気付かず、そのまま山に向かって遠ざかってゆく。眼を潰され猛り狂った闇蜘蛛が咆哮し、ざわざわと脚を蠢かせて巨躯を波打たせ、それを追い始めた。
 葵も確かに何度も「妖」と呼ばれるものを目にはしてきたが、そのあまりに現実離れした光景に、何がどうなっているのか、即座には理解できなかった。
 少し行った先には、天休斎が立っていた。葵と同じように、遠ざかって行く夜光と山神の姿を茫然と見送っている。
 葵は途中からは、突然聞こえてきた天休斎の笛の音を頼りにここまで来た。あたりには血の臭いが充満し、篝火の明かりが届く範囲だけでも、そこかしこに無惨な姿の屍が転がっているのが見える。葵はそれらに顔をしかめながら、天休斎に駆け寄った。
「天休斎殿。これはいったい、何がどうなっているのですか」
「──葵殿か。うん。まあ、見ての通りさ」
 天休斎はゆるゆると振り返ると、疲労と頭痛をこらえるように、寄せた眉間を押さえた。深々と息を吐き、龍笛を震えるほど握り締める。
「夜光さんが、ここで大暴れしていた『あれ』を引き付けていってくれた。──くそ。俺にはこれ以上、何も出来んのか……!」
 天休斎は思いあまったように、独り言というには激しすぎる声で毒づいた。それはおおよそ天休斎という人物から初めて聞いた、荒々しく苦渋に満ちた声だった。
 その天休斎の言葉と辺りの様子、目撃した光景から、葵もなんとか事態を飲み込む。そして即座に決断した。
「天休斎殿、屋敷の馬をお借りします!」
 言い残して身をひるがえし、元来た道を駆け戻る。
「あれ」を追ってゆくことなど、人間の脚では不可能だった。屋敷まで戻る手間を考えても、馬で追いかけた方が良い。
 夜光はなんという無茶をしたのかと、走りながら葵は歯軋りした。他に方法が無かったのかもしれない。だがそれにしても、あんな恐ろしげな、もはや「妖」という呼び方では足りないようなものを一人で引き付けるなど、あまりにも危険すぎるではないか。
 喉が痛むほど息を切らしながら、それでもほとんど速度を落とすことなく、屋敷に帰り着く。葵は厩に直行すると、数頭居る馬の中でも特に目の輝きが良い、利発そうな黒鹿毛の若駒を選び出した。
「すまん、ちょっと急ぐんだ。力を貸してくれ」
 厩から引き出して鞍を乗せ、くつわを付ける。準備を整えると、膝に手をついて少しの間呼吸を整えた。馬を速駆けさせればさせるほど、乗り手も体力を使う。せっかく追いかけても、こちらの体力が切れて振り落とされてしまっては元も子もない。
 かといってのんびりしている余裕も無く、いくらか呼吸が整ったところで、葵は若駒に飛び乗った。黒鹿毛の首筋を軽く叩いてから、腹を蹴る。
 若駒は少し驚いたように嘶き、前脚を跳ね上げてから勢いよく走り出した。路にいた人々が驚き振り返るのに構わず、駆け抜ける。
 通れなくなってしまっている路を避けて回り込み、里の外に出たところで、葵は本格的に若駒に鞭を入れた。素直に反応した若駒は、いっそう力強く、跳ぶように土を蹴る。たちまち里の光景は、後ろに遠ざかっていった。


 夜光は闇蜘蛛からつかず離れずの距離を保ちながら、ひたすら山へと翔けていた。じきに山に辿り着くと、さらにもっと奥へと誘い込む。
 闇蜘蛛の脚は速く、少し油断すると、すぐ足下を振りかざされた鉤爪が薙いだ。それだけでも恐ろしい緊張感だったが、山に着いた頃から、夜光は次第に息を切らし始めた。
 本来翔ぶようには出来ていないものが妖力で舞うのは、短時間ならまだしも継続的にとなると、思う以上に疲弊する。終の涯には腐れ縁の鬼火の双子がいたが、あれらは始終ふわふわと空中に浮いていた。たやすいように見えて、実はあれはなかなか得難い特性なのだ。
 そもそも昼間の内にこのあたりの調査をしていたせいで、既にかなりの力を使ってしまっている。このままではもたない、と判断した夜光は、木々の高い枝から枝へと跳ぶように進むことにした。
 できればあの闇蜘蛛を谷底に落とすなり、大きな岩で押し潰すなり、何かしらすぐには動けなく出来れば良いのだが、そこまでの余裕があるだろうか。
 ひと跳びするごと呼吸が弾んで、息が苦しくなってゆく。枝から枝に渡るたびに手脚が重くなって、次に踏み出すことが困難になってゆく。
 それに比べて追ってくる闇蜘蛛は、一向に衰えることを知らなかった。少しでも夜光の居る高さが下がったり、次の枝に跳ぶのが遅れると、恐ろしい勢いで鉤爪が迫ってくる。
 夜光はそのたびに何度もきつく奥歯を噛み合わせ、懸命に次の枝へと跳んだ。
 そうするうちに、だんだん自分が今どのあたりにいるのかも分からなくなってきた。
 息遣いの音が自分でもうるさいほどになり、息をするたびに脇腹が激しく痛んだ。しかしどれほど呼吸を繰り返してみても、身体は楽にならない。
 高い枝の上に立って少しでも呼吸を整えているところに、ばきばきとあたりの生木を押しのけながら、闇蜘蛛の巨体が現われるのが見えた。
 深い夜の山に居るはずなのに、その暗さすら凌ぐ、凝固した闇そのものの姿。妖火の如くに揺らめく幾つもの赤い眼は、比較的小さなものがひとつだけ潰れている。その光を奪った夜光を、ひどく純粋な恨みと怒りと憎しみを込めて見上げてくる闇蜘蛛に、ぞくっと芯から悪寒が這うのを感じた。
 ──なんとか撒いて逃げるつもりだったが、さすがに「神」と呼ばれるものを相手取っては甘かったということか。
 夜光が消耗していることを読み取っているのだろう、闇蜘蛛の動きは最初のような躍起なものではなく、じわじわと獲物を追い詰める動きに変わっていた。長い節足を蠢かせながら近付いてくる闇蜘蛛に、夜光はぐっと息を飲み込んで力を溜めた。
 跳ばなければ。
 そう思いながらも、踏み出す足が僅かに鈍った。
 その一瞬の隙を衝かれた。闇蜘蛛の折り曲げられている節足は、伸ばすと驚くほど長く、そして目にも止まらないほど速い。
 一条の黒い鞭のようにしなり唸った闇蜘蛛の脚が、よろめきながら枝を跳んだ夜光の身を、ぎりぎりでかすめた。かなりの太さのあった大木の幹を、巨大な鉤爪が難なく破砕し、その周囲の木々をも巻き込んで簡単に引き裂く。
 あまり高く跳ぶことの出来なかった夜光の上に、半ばほどから引き裂かれた大木の幹が倒れかかってきた。あやういところで直撃はかわしたが、幹から伸びる大小無数の枝に、身体中をしたたかに打たれる。
 倒れる大木に巻き込まれる形で、折れ砕けた枝々と一緒に、夜光も地表へと引きずり下ろされた。倒れる木々もろとも地面に叩き付けられ、衝撃と痛みのあまり息が詰まった。
 纏う被衣がある程度は衝撃をやわらげてくれたし、まだしも柔らかな地面の上に落ちたとはいえ、全身が痛んで頭の芯がくらくらした。なんとか瞼を持ち上げてみたものの、視界が何重にもぶれて見えた。
 起き上がろうとしたが、身体の上に倒れた木々の枝が折り重なるように乗っていた。右のふくらはぎから足首のあたりにかけてには、特に強い痛みと、びくとも動かせない圧迫感がある。よく見えなかったが、枝か何かに挟まれているようだった。
 身体をよじり、上に乗った木々を押しのけようとはしたが、手脚に力がうまく入らなかった。右脚も痛みをこらえて抜こうとは試みるが、どうしても動かない。
 大木の下敷きになって押し潰されずに済んだのは、せめてもの幸いだろうか。だけれどこのままでは、どちらにせよ助からない。
 懸命に土を掻き、なんとか枝の下から這い出そうともがいていると、ざわざわと節足を蠢かせながら近付いてくる黒い巨躯が見えた。
 もはや夜光に逃げる力はないと判断したのだろうか。追い詰めた獲物を品定めするように、不吉そのものの赤い眼が、断罪するように見下ろしてくる。
 より強力なものに抑圧され封じ込められるように、夜光の袖の中でタマフリの鈴の玉音が弱くなってゆく。抵抗すら無意味だと大上段に染み込まされるような、あまりに圧倒的な存在の格差に。赤い光を見上げながら、夜光は胸が黒い絶望に塗り潰されてゆくのを感じた。
 ――ああ。死ぬのか。こんなところで。
 我ながらあっさりとそんなことを心の中で呟いた途端、絶望感と全身の痛みと疲労に、心が挫けた。ふっと意識が緩んで、身体から力が抜ける。
 頬がひんやりとした土にふれた。首を起こせないまま、ふいに視界が、こみ上げてきた涙にぼやけた。
「……葵……」
 ――こんなことなら、葵と最後に喧嘩などするのではなかった。あんな別れ方などするのではなかった。共にたくさん笑おう、共に寄り添って生きていこうと決めたはずだったのに。
 この闇蜘蛛は、この後どうするのだろう。夜光を喰ったら、また里に行ってしまうのだろうか。
 ああ、どうか誰も手出しはしないで。これは関わってはならないものだ。何もせずに、出来る限り遠くに逃げて、逃げ延びてほしい。葵もどうか、どうか無事で。
 土で汚れた頬に涙が零れ、想いがあふれた。
 いよいよ目の前まで迫った黒々とした巨躯が、これまでも多くの生身を貫いてきた恐ろしい鉤爪を持ち上げるのが見えた。それを涙でかすんだ紫の瞳に映した後、夜光は瞼を閉じた。
 ――葵。最期に一目でいい。あなたの姿を見たかった。

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