遣らずの里 (十四)

栞をはさむ

 夜空を舞う白い姿もそれを追う闇蜘蛛も、とうに視界の先には見えなくなっていた。しかし地面には、あの禍々しい巨躯が駆け抜けていった痕が、はっきりと残っていた。
 太い杭を打って土を掘り返したような痕跡についてを、ようやく葵は理解する。これは闇蜘蛛があの何本もの節足で土を穿ち、巨躯を支えながら移動していった痕なのだ。重く大きな何かを引きずったように捲れ上がった地面は、あのぼってりとした胴が擦れた跡なのだろう。
 夜空は澄んで晴れ渡り、真円にはいささか満たない秋の月は明るい。おかげで松明が無くとも、視界には困らない。
 夜光と闇蜘蛛は、どうやら真っ直ぐに山へと向かったようだ。あの巨体が立ち枯れた雑草を押し潰し、樹木を押しのけ薙ぎ倒して進んで行ったのだろう痕跡が、月明かりの下に克明に残されていた。
 それは路などとは到底呼べるようなしろものでは無かったが、あの巨体がある程度ならしていったような格好になっており、そこを辿って葵は馬を駆った。
 足場が特に悪いところでは、あえて無理に手綱を操ることをやめ、若駒の脚に任せてみる。馬は人間よりもよほど夜目が利き、そして黒鹿毛の若駒は賢く勇敢だった。逞しい四肢を駆使して危なげなく器用に道無き道を進んでゆく若駒が、ひどく有り難く頼もしかった。
 懸命に夜光を追いながら、葵は不安と焦燥で胸がよじれそうだった。
 どうか無事でいてほしい。いや、夜光は必ず無事でいる。そうでなかったときのことなど考えられない。
 こんなときに夜光と仲違いしてしまったことを、今朝のうちに和解しておかなかったことを、胸を掻き毟らんばかりに悔やんだ。仲違いなどしていなければ、夜光は一人で行動したりしていなかったはず。一人でこんな捨て身の行動に走らなかったはずだ。
 ──ここで夜光にもしものことがあれば、それは俺のせいだ。
 それを考えただけで、胸に恐ろしい真っ黒な穴が穿たれるようだった。かぶりを振って、心を侵食してくる最悪の想像を、懸命に振り払った。
 いいや、駄目だ。今は余計なことは考えるな。今はただ、夜光を救うことだけを考えろ。
 あの闇を纏った巨大な蜘蛛が、恐れていた「堕ちた山神」だとしたら、そんなものに正面から挑んだところで勝ち目は無い。なんとか夜光と合流し、この若駒の脚を借りて離脱する。あの闇蜘蛛に何らかの足止めが出来れば言うことはないが、今の状況でそれが出来るとは思いにくい。
 無理をするよりも、夜光を連れて逃げる方が先決。そう思い定めながら進むうち、行く手から何か物音が聞こえてきた。
 ばきばきと生木が割り裂かれ、枝葉がざわめく音。まだ距離がある。だが前を見ると、かなり先で高い樹木が揺れ、それが薙ぎ倒されてゆく物音と地響きがした。
 ──近い。
 葵は黒鹿毛の腹を蹴った。美しい黒鹿毛の若駒はこの悪路にもすっかり慣れ、足場のまだしもましなところを選んで身軽に進んでゆく。
 とうに冬支度が始まっていただろうに、山の生き物達も今夜ばかりはそれどころではないらしく騒々しい。先に進むほどにその騒々しさは大きくなり、夜なのに集団で野鳥が飛び立ち、逃げ散ってゆく大小の動物達が、無数に馬の前や横を通り過ぎてゆく。
 その騒々しさの中心にかなり接近した頃、葵は指笛を吹いた。夜光と闇蜘蛛の状況が、今どうなっているのかは分からない。だが少しでも闇蜘蛛の気を引き、夜光から注意を逸らしたい。
 何度か指笛を吹いてから、葵は背負った弓矢を取ってつがえた。こんな悪路での流鏑馬などしたことがない。不安定極まる馬上で、下半身と体幹だけで身を支えて均衡を取る。切って進む風に、一つに結い上げた朱い髪と衣が大きくなびく。行く手に向かって両眼を凝らし、いつでも放てるように呼吸を溜めて弓を引き絞った。
 周囲の物音が聞こえなくなる。目指す一点に向けて研ぎ澄まされた視界と感覚が、道無き道の先に、のそりとこちらを振り返る闇色の巨躯を捉えた。
 ──居た。
 闇蜘蛛が振り返る動きが、やけにゆっくりとして見えた。どこを射る、と刹那にも満たないうちに考え、その生き血のように毒々しく耀く赤い眼こそ、最も攻撃が通ると看破する。
 馬の蹄が地を蹴るほんの一瞬のうちに、両者間の距離が縮まる。赤く耀く眼のひとつにむけて、葵はぎりぎりまで引き絞った矢を放った。即座に手綱を取って引き、前脚を大きく跳ね上げて嘶く若駒に方向転換を強いたときには、一寸の狙いもたがわず、放った矢は闇蜘蛛の眼のひとつを射貫いていた。
 夜の山に、耳を塞ぎたくなるような、凄まじい闇蜘蛛の絶叫が轟いた。魂消たまげるような、とはまさにこういうことをいうのだろう。
 闇蜘蛛が何本もの脚を驚いたようにもがくように持ち上げ、蠢かせているのを横目に、葵は再び馬首を返す。一拍も置かず、また闇蜘蛛のいる方へ駆け出した。
 このような恐ろしい状況においても臆することのない若駒に、葵は心底感謝した。手綱を捌くのに従って、打てば響くように走ってくれる。
 夜光はどこだ。必ずこの近くにいるはず。
 闇蜘蛛がもがいている僅かな隙に、葵はぐるりと馬を走らせ、倒れた木々の枝の下に埋もれるように倒れている夜光を見付けた。
「夜光!」
 一瞬、心の臓がぎゅうっと絞られるように震え上がった。あれは生きているのか。それともまさか。
 それらを振り払って、夜光の方へ馬を巡らせる。気を失っているのか、葵の声にも夜光は反応しなかった。あの様子では、夜光が自力で這い出してくるのは無理だ。助け出さなければいけない。
 出来れば馬を降りたくは無かったが、やむを得ない。葵は近くまで馬を寄せて飛び降り、一目散に夜光に駆け寄った。
「夜光! 夜光、しっかりしろ。夜光!」
 繰り返し呼びかけながら、その細い身体を押さえつけている何本もの枝を、葵は自身の身体ごと割り込ませるようにして、強引に押しのける。折れた枝の先や細かい枝が無数に剥き出しの肌を掻き、突き刺して痛みが走ったが、構わず歯を食いしばって押しやる力を加えた。
 どうにか倒れた夜光の上に空間が空き、葵はその身体を引きずり出す。
 角のある夜光を見るのは初めてだったが、今はそれに構う余裕は無かった。抱き起こすと、僅かに夜光の唇から声が洩れた。目が開くことはなかったが、その薄い胸が弱々しくはあるが上下しているのを確認して、葵は泣きたいほど安堵した。
 良かった。生きている。
 だがそのとき、背後で何かがぶつかり合うような重い音と共に、馬の嘶きが響き渡った。
 振り返った視界に、闇蜘蛛の鉤爪に胴を串刺しにされ、浮いた四肢で懸命に空を蹴っている若駒の姿が映った。目を見開いて一瞬動けなかった葵の目の前で、若駒は闇蜘蛛に引き寄せられてゆく。
 若駒が悲痛な嘶きを上げながら、闇蜘蛛の開いた顎に飲まれ、慈悲のひとつもなく噛み砕かれてゆく惨い光景に、葵は身動きできなかった。全身が、ざわりと震え上がる。
 ──足を奪われた。
 あの闇蜘蛛が、そこまで考えているのかは分からない。単に手近にいたから喰っただけなのかもしれない。
 だがなぜか、葵にはそうは思えなかった。先に足を奪う、という明解な意図をもって、あの闇蜘蛛が馬を襲ったようにしか思えなかった。
 若駒をあっさりとたいらげてしまった闇蜘蛛は、のそりと動き出した。いくつもの赤い眼が明滅し、葵を捉える。夜空さえ視界から遮ってしまうほどの真っ黒い巨躯が、今度こそ葵のほうに向かってくる。
 はっと、葵は正気付いた。
 怖じ気付いている場合ではない。足を奪われたからといって、逃げるのを諦めるわけにはいかない。
 このままここにいたら巻き込んでしまう、と判断して、葵は夜光をその場に横たえると、弓を取って走り出した。闇蜘蛛から距離を取り、弓をつがえようとする。だが。
 ──ひゅっ。
 風を切る音がして、伸びてきた闇蜘蛛の脚が間近を薙いだ。弓が半ばから真っ二つになり、腕もろともに宙に舞った。
 ──え?
 何が起きたのか分からず、葵は棒立ちになって、ただその光景を見ていた。
 弓束ゆづかをしっかりと握ったままの自分の左腕が、両断された弓と共に、空中に血の弧を描いて飛んでゆく。その光景が、いやに克明に目に焼き付く。
 飛んでいった腕が重い音を立てて地に落ち、転がった。葵はその光景と自分の左腕とを、交互に見下ろした。肘の下あたりから、腕が無くなっていた。
 ──何が起きた。
 あまりに一瞬のことに、思考も感覚も凍り付いた。一拍遅れて、左腕を中心に、カッと燃え上がるような熱と、信じがたい激痛がやってきた。
 吹き出した血が、ぼたぼたと足元に落ちる。衝撃のあまり声も出ない。喉から絞り出すような呻きが出て、条件反射で左腕を押さえた。
 痛みに殴られたように、葵の頭が猛烈に回転した。様々なものが綺麗に断ち割られていた、襲撃後の里での様子。胴を両断されていた宮司。あれらはこれと同じように、恐ろしいほど柔軟に素早く動く、闇蜘蛛の長い節足による一撃がもたらしたものだったのだ。
 ──こんな。こんなものを。人間がどうにかできるわけが。
 悪夢のような熱さと痛みと、急速な失血による眩暈と悪寒。それらにただ立っていることしかできずにいた葵に向かって、再び闇蜘蛛が脚を振りかざした。
 常軌を逸した状況に、五感だけは異様に覚醒し、はっきりとその軌跡が見えた。これを食らえば、自分もあの宮司のように身体を断ち割られて、簡単に死ぬ。
 咄嗟に右腕が動き、左の腰に佩いていた太刀の柄を握って引き上げた。鞘から抜け切らない太刀を身体の前に立てて、襲い来る闇蜘蛛の攻撃を防ぐ。
 終の涯の長から授かった宝刀は、見事に闇蜘蛛の鉤爪を受け止めた。が、葵のほうがもたなかった。猛烈な勢いの一撃に、凄まじい衝撃が身体を突き抜けて、五間以上も吹き飛ばされる。地面に強く叩き付けられ、何度も弾んで、大木の幹に激突してようやく止まった。
「ぐ……う」
 呻きながらなんとか身を起こし、背を木に預けたが、立ち上がることが出来なかった。背中をひどく打ち付けたせいで、うまく息が出来ない。
 と思ったら、喉の奥から込み上げた驚くほど熱い血の塊が、ごぼりと口からこぼれた。激しく咳き込み、それがまた全身に響いて、のたうちまわりたいほど痛むのに、身体がきかずに引きつる。激しい悪寒と吐き気がした。
 葵は喘ぐように呼吸して、なんとか瞼を上げた。視界がぐらぐらと揺れて、ひどい船酔いのようだ。だがこのまま倒れることを、自分に許すわけにはいかなかった。
 叩き付けられた衝撃が凄まじく、全身が痺れてしまっていた。左腕は、もう無理だ。右腕は──大丈夫、まだついている。指もある。脚も、まだある。
 震える右腕をようやく持ち上げ、まだ腰に残っていた太刀の柄に手をかけた。
 ──ここで俺が死んだら、夜光も死ぬ。
 ただその一念のみが頭を占める。それだけは絶対に許すわけにはいかない。
 ざわざわと節足を蠢かせ、近付いてくる闇色の巨躯が見えた。幾つもの赤い眼はいよいよ激しく耀き、その身を傷つけた愚かな身の程知らずに鉄槌を下さんとばかりに、怒りと憎悪に猛っている。
 視界が揺らぎ、一呼吸するだけで、喉が、肺が、腹が灼熱するように痛む。しかしそれらのすべてを意識の外に押しやって、葵は己を全力で叱咤した。
 動け。立って動け。こいつをどうにかしなければ、夜光が死ぬ。
 痺れる右腕で、どうにか太刀の柄を握る。人差し指と中指の爪がめくれて骨も折れているようだったが、構わずに力を込めた。
 がくがくと揺れる膝を無理矢理ひきつけ、背後の木の幹に背を預けるようにして、鉛よりも重い身体をなんとか持ち上げる。その間にも、闇蜘蛛は迫ってくる。
 動け。立て。立て。──立て!!
「う、う……うおおおおぉおあああッ!!」
 腹の底からの雄叫びを上げて立ち上がりながら、その勢いを借りて、鞘から太刀を引き抜いた。月光を浴びて、刀身が美しく輝く。その切っ先を、真っ直ぐに闇蜘蛛に向けた。
 もはや本能と夜光を死なせないという一念だけで動いているような状態で、葵は巨大な闇蜘蛛と向き合った。どんな手を使ってもいい。こいつだけは、このままにはしておかない。
 その葵の傍らで、ふうっと、そのとき風が巻いた。
 完全に闇蜘蛛の姿しか目に入らなくなっていた葵の視界に、風に煽られた黒い何かがひるがえる。片腕だけで太刀を構えた血塗れの手に、誰かの骨張った手が重なってきた。
「──これはこれは。なかなかに滾る場面のようだな」
 そんな妙に気楽な声がした。その声に聞き覚えのあることが、葵をふっと、正気に返らせた。
 無意識に緩んだ手から、その誰かの手は、簡単に太刀を取り上げる。葵以外には持ち上げることも叶わないはずの太刀を、その誰かは検分するように眺め回して、軽々と広い黒衣の肩にかついだ。
「ふん、そらの宝刀か。また洒落たものを」
「──槐、……殿……?……」
 葵は茫然と、そこに立つ長身の男に呼びかけた。長く無造作に靡く黒髪に、全身を覆う墨染めの衣。顔の半ば以上を覆う面をつけたその額には、一対の角がある。
 槐、という名を持つその夜叉は、葵を見下ろして、にまりと悪童のように笑った。
「久しいな、葵。何やらおまえたちが絶体絶命だというから、直々に助太刀に来てやったぞ」

栞をはさむ