遣らずの里 (十六)

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 どうやら三昼夜の間、葵はひどい高熱を発していて、意識が戻らないか、戻っても混濁していたらしい。
 まだ頭がぼんやりとして全身気怠く、感覚もどこか曖昧だったが、熱がひいたせいかそこまでつらくはなかった。動かずにいる限り、身体もそれほど痛まない。
 意識を失うまでの出来事は、よく覚えていた。夜の山中での、あの絶望的な闇蜘蛛との対峙。そこに突然現われて、あっさりと闇蜘蛛を斬り捨てた槐。
 ──ああ、そうか。そういえば俺は、もう弓を持てなくなってしまったんだな。
 手にした弓もろとも切り飛ばされた左腕が宙を舞った光景は、眼裏に焼き付いていた。無意識に左腕を見て、──驚愕した。
「腕が……」
 闇蜘蛛に肘の下からすっぱりと切断されてしまったはずの左腕が、そこには存在していた。
 包帯で厳重に巻かれており、肘から先にはまったく感覚がない。動かそうとしても、ぴくりとも動かない。だが包帯からのぞく肌の色は、相当に悪くはあったが確かに血の通う色をしていた。
「お父様……槐様が、縫合してくださったのです」
 葵の様子から察したのか、夜光が泣き笑いのような顔で説明してくれた。
 なんでもあの後、槐は葵の切り落とされた腕を回収して、残った左腕と縫い合わせてくれたのだという。
 綺麗に切断されていたため組織が潰れていなかったこと。切られてからあまり時間が経っていなかったこと。何より葵の身体が、槐から与えられた「命の珠」のおかげで強い回復力を持っていたことが、無事に腕を接合させたとのことだった。
 完全に切り落とされたものが着いたというのも驚いたが、そんなことが出来る槐にも驚いた。実は意外にも、槐はそういった方面の知識や技術に長けているのかもしれない。
「おや。気が付いたか」
 そんなことを話していたところに、槐が几帳を避けて姿を現した。
 そのとき気が付いたのだが、どうやらここはどこかの岩室の中らしい。葵が横になっているあたりには簡素ながら天蓋が設えられていて、張られた御簾や几帳で壁面が見えなかったから、自分がどこにいるのかそれまでよく分からなかった。
「槐殿……」
 起き上がりかけ、その途端全身に走った鋭い痛みに、葵は呻いて硬直してしまった。
「ああ、こら。無理に動くな。身体中の骨がわりとひどいありさまなんだぞ、おまえは」
 槐があっさりと言う。慌てて夜光が支えてくれるのに助けられながら、葵はやっとまた横になった。
「……そんなに、ひどいんですか?」
 ようやく息をつきながら訊ねると、槐はそのあたりから薬研を引き出し、そこに素材か何かを放り込みながら言った。
「折れているところは案外少ないが、ひびだらけだな。あと全身打撲に、内臓もそこそこやられている。まあ、わたに関しては破れてはいなかったことに感謝するんだな」
 言いながら、槐は湯飲みに土瓶から何かをついで、夜光に差し出した。
「飲ませてやれ。そろそろ痛み止めが切れる」
「はい」
 夜光も慣れたようにそれを受け取り、横になっていても飲めるように筒状の麦わらを挿して、葵の枕元まで持ってきてくれた。
 言われるがままに一口含んで、葵はあまりの苦さに思わず吐き出しそうになった。咄嗟に身体が動いてしまい、それはそれでまた呻きながら、目を白黒させる。
 その様子を見ながら、槐がにやりとやけに楽しそうに笑った。
「俺の調合する薬は、効能は保証するが味は二の次だ。飲めないなら無理はせんでいいが、それはそれで地獄の苦しみだぞ、きっと」
「……い、いえ。飲みます……」
 痛み止めが効いていてこれなら、切れたらどうなるのかと、葵は涙目になりつつ、どうにか湯飲みの中身を飲み込んだ。一気に呷れるならまだましなのだが、それもできないのがまたつらい。
「その左腕については、安心しろ。時間はかかるが元通りになる。地道に動かす訓練は必要だがな」
 やっと痛み止めを全部飲み切り、夜光が口直しの白湯を飲ませてくれていると、槐が薬研で何かをすり潰しながら口を開いた。
「薬の類いは、俺が作り置きしていってやる。夜光に処方は教えていくから、足りなくなりそうなら作れ。まあ回復は早いのと、夜光にも癒やしの力はあるから、腕以外に関してはそう心配いらんだろう」
「はい」
 槐の言葉を聞きながら、葵はあらためてあの闇蜘蛛との絶望的な対峙を思った。
 一度は諦めた左腕が元通りになる、ということに安堵と喜びがじわじわとわいてきたが、それにも増して、身の芯をぞくりと悪寒が走った。
 あの窮地に槐が現われていなければ、葵も夜光も、確実にあそこであの闇蜘蛛に喰われていただろう。万が一にでも助かったかもしれない、という想像をする余地すらない、桁違いな力と格の差だった。蓬莱こちらにも、あんな常識外のような恐ろしいものがいることがあるのだ。
 あの若駒にも、可哀相なことをしてしまった。哀しげな嘶きがまだ耳に残っていて、葵は思わず目をきつく閉じた。
 葵の考えていることを見通しているように、槐が言った。
「しかしまあ、次からはもう少し闘い方を考えるべきだな。いくら俺の力の片鱗を受け継いでいるからといっても、生身の人間には限度がある。あの類いのものに正面から挑まざるを得なくなった時点で、負けだ。二度とは繰り返すなよ」
「……はい」
 真剣に葵は頷いた。もう二度と、こんな危険な轍を踏んではならない。今回葵と夜光が死なずに済んだのはただの幸運だと、誰に言われるまでもなく骨身に染みていた。
「あの。あれは、結局いったい何だったのでしょうか」
 闘いながら、槐が何かあの闇蜘蛛に話しかけていたのを思い出した。訊ねてみると、槐は作業の手は止めずに答えた。
「あれは、このあたりの土地神同士が混ざり合ったものだな。いや、ここいらで『山姿の神』と呼ばれていたものに、昔からここにいた土蜘蛛が取り憑いたもの、というべきか」
「土蜘蛛?」
「いわゆるまつろわぬ神というやつだ。古くからこのあたりに居たものだが、山神が人間の信仰を集めて力を高め、その下に長く押さえつけられていた。その恨みと憎しみから呪詛を纏う怨念そのものと化し、氣の乱れで弱った山神に取り憑いて暴走した──といったところかな」
 そんな背景があったのかと、葵は驚きつつも話に聞き入っていた。
「では、あれが蜘蛛の形をしていたのも……?」
「土蜘蛛の呪詛のせいだな。山神の本来の姿では無い。もっとも、蜘蛛というのも古代人が土蜘蛛と名付けたことから来る抽象的なものだ」
 槐は話しながら薬研で細かくしたものを乳鉢に移し、そこにも何か葵にはよく分からないものを足して、慣れた手つきで混ぜ合わせている。
「しかししゅを宿す言葉は生きた呪縛となり、それを向けられた存在を、時には神ですら縛る。言霊というのは、なかなかに恐ろしいものよ」
 そんなものがあれの正体だったのかと、葵は槐の手際に感心しつつ、ただ驚きながら聞き入っている他になかった。
 左腕を切り落とされた葵に、槐は「荒ぶる神に楯突いたにしては安くすんだ」といっていたが、あれは大袈裟な話でもなんでもなかったのかもしれないと、今頃また冷や汗が出てくる。
 あの闇蜘蛛は槐に斬られたが、ということは、もろとも山神も斬られてしまったのだろうか。それが気になって問うてみると、槐は意外なことを答えた。
「いや。蜘蛛は散らしたが、山神は一応無事だ。というより、俺が斬った時点で既に山神の一部分が和魂にぎみたまに戻っていた。あの空の宝刀は、邪悪なものや持ち主に仇を為すものしか斬らん。大部分は蜘蛛もろとも散ったが、その一部分が社のあった場所へ還っていった。葵、おまえも見たのではないか?」
「あ……」
 そういえばあのとき、槐に斬られた闇蜘蛛から、きらきらと光る何かが空に昇り、山のどこかに落ちていった。あれが「それ」だったのだろうか。
「呪詛に取り込まれて狂乱状態にあった山神が、何をどうして宥められたのかは分からん。まあ、何か山神にとって良いことがあったんだろう」
 それまで黙って話を聞いているだけだった夜光が、あ、と小さく声をあげた。
「それは、もしかしたら……天休斎様の笛の音、かもしれません」
「天休斎殿の?」
 訊ねた葵に、夜光は頷いた。
「はい。あの蜘蛛が里で暴れてどうにもならずにいたとき、天休斎様が龍笛を吹いたんです。そうしたら、嘘のように蜘蛛が大人しくなって。笛を吹いている間は、一切何も襲おうとしませんでした」
「それはすごいな……」
 天休斎の龍笛は葵も何度か耳にしていたが、あれなら確かに荒ぶる神すら聞き惚れてもおかしくはないように思った。
 太刀では斬るしかなかったものが、天上の調べもかくやというほどの笛の音色によって、宥められ鎮められた。それは里長である天休斎の懸命の祈りが、山姿の神に届いた結果のようにも思えた。
 作業の手を止めて話を聞いていた槐が、何やら愉快そうにも感心したようにも見える表情で、にまりと笑った。
「ほほう。やるではないか。人間もそう捨てたものではないな」


 葵は左腕の他にも、何カ所か深く大きな傷を負っており、それらも槐が縫い合わせておいてくれた。
 いずれの傷も化膿することなく順調に塞がってゆき、全身の痛みも徐々にひいていったが、大幅に落ちた体力はすぐには回復しなかった。
「葵の具合が心配ですし、季節も季節ですから。春になるまで、ここで過ごしたほうが良いかもしれませんね」
 葵の包帯を換えながら、夜光は言った。もともと急ぐ旅でもない。まだ床に伏している時間の方が長い葵も、素直にそれに同意した。
 この岩室は、闇蜘蛛のいた山からそう離れてはいないようだった。夜光も気が付いたらここにいた、という。
 ちなみに夜光の角は、夜光がここで目覚めたときには既に元通り封じられており、割ったはずの鏡も元通りになっていたそうだ。鏡を割るやり方で角の封を解くのはあくまで一時的なもので、完全に解くには長の手が必要らしかった。
 終の涯からの差し入れらしく、岩室には生活に使う範囲に畳の地敷が置かれており、当面の生活に必要な道具類や食料が整えられていた。
 壁面を覆う御簾や几帳に不思議なまじないがかかっていて、それらで囲っておくと風を通さず、外ではすっかり吐く息が白い中でも、それほどひどく冷え込むことはない。近くには小川があって、水にも困らなかった。
 夜光たちの普段の旅道具にも、人の世には無いような便利なものがいくつかあったから、それらも合わせると、この岩室は仮の宿としては充分すぎるほどだった。
 槐は最初の数日はこの岩室に寝泊まりしていたが、葵が目を覚ましてからは、ふらりと何処かに出かけていき、時折様子を見に戻ってくるようになっていた。
 そもそもなぜあの場に槐が突然現われたのか、その経緯も未だに分からない。礼を言いながら、一度訊ねてみたことはあったのだが、
「礼ならいつか終の涯に帰ったときに、あれに言え。俺も奴に使われたようなものだ」
 と槐は言っただけで、それ以上のことは流されてしまった。
 まあ、この岩室の整い方からしても、槐曰く「あれ」──夜光の育ての親でもある「終の涯の長」が絡んでいないとは思えない。どうやってこちらの状況を把握したのだろう、とは思うが、何もかも見通しているようなひとだから、何があっても不思議は無いようにも思えた。
「なんだかこうしていると、出逢った頃を思い出しますね」
 毎日かいがいしく葵の世話をしてくれる夜光が言い、寝床に身を起こして外を眺めていた葵も頷いた。夜光と出逢った頃も、葵はあわや瀕死の目に遭い、こうして夜光に看病されていたときがあった。
「なんだか懐かしいな」
「ええ。……でもこんなことは、もうこれきりであってほしいです」
 葵の傍らに白湯を運んできた夜光は、笑顔ではあったが不安げに瞳を俯けた。
 槐に助けられたとき、夜光もそこそこの怪我を負っていたのだが、自分のことはそっちのけで、ずっと看病のために葵のそばについて離れなかった──と、槐から聞かされていた。
 そういえば、どさくさにまぎれて夜光にしっかりと礼も詫びも言えていないことに、葵は気付いた。
「夜光。本当にすまなかった。それから、ありがとう」
 あらたまって言った葵に、夜光は目を上げて、少し泣きそうな顔で微笑んだ。
「私の方こそ。少しきつく言い過ぎました」
「いや。おまえが言ってくれなかったら、俺はあのまま無益な意地を張り続けていたと思う」
 葵の言葉に、夜光は目を伏せると、ゆっくりと考えながら言葉を選ぶように言った。
「葵はなんというか……自分ひとりが我慢すれば良いと思うと、つらくても飲み込んでしまうところがあるでしょう?」
「うん」
 少しどきりとして、葵は頷いた。確かにそういうところが、自分にはあった。
「でもそれで喜ぶのは、葵を快く思っていないか、どうでもいいと思っている者か、さもなければ利用しようと思っている者だけです。葵のことを想っている者からすれば、そんなふうに庇われても哀しいだけ」
 夜光は様々なことを思い出しているのか、今にも泣き出しそうな目で、葵をみつめた。
「そのあげくに葵を失うようなことがあったら。私は、生きていられません。ですからどうか、私の前では、つらいことはつらいと仰ってください。私は、大丈夫ですから。そんなときにおまえさまに頼ってもらえないのでしたら、私は何のために居るのでしょう」
 普段滅多に心の中を吐露しようとしない夜光の、思いあまったような、想いの迸るような訴えに、葵は思わず言葉を失ってしまった。
 本当に、どれほど自分が悪い意味で夜光に甘えていたのか、勝手な自己満足だけで押し通そうとしていたのかを思い知る。そのあげくのすれ違いで、二人ともがあやうく命を落とすところだった。後悔や恥ずかしさが押し寄せて、葵は顔を上げられなかった。
「……うん。本当に、すまなかった。よく分かった」
 喜びも悲しみも分け合って生きていこう。二人でそう決めていたはずだったのに、これほど想い合っているはずなのに、時としてそれのなんと難しいことだろう。
「葵」
 うつむいていた頬に、つ、と、夜光の白い手がふれてきた。
 しっとりと柔らかなその手が、やんわりと葵の顔を夜光のほうに向かせる。その極上の玻璃よりも澄んだ紫の瞳が、ひたむきな想いを隠すことなく、熱を帯びて真っ直ぐに葵を見つめていた。
「おまえさまがすべて悪い、とは思いません。今回はたまたま、悪い方に転がっていってしまっただけ。だから、そんなに自分を責めないでください。そんなおまえさまだから、私はおまえさまが愛しいのです」
「夜光……」
「誰よりもお慕いしています。おまえさまが生きていてくれて、生きてこうしてまた共に居ることができて、良かった」
 夜光の頬の上を、感情のままにあふれ出した涙が、ぽろぽろと伝う。そのまま夜光に抱き締められて、葵も夜光を抱き締め返した。伝わってくる感情が、互いの体温が、重なり合う心の臓の響きが、何にも代えがたく切ないほど愛しかった。
「俺もだ。……夜光、ありがとう」
 一人であの闇蜘蛛と山の中で対峙していたとき、夜光は何を思っていたのだろうと、ふと思う。ひとりきりで死を覚悟したとき、その胸にはどんな思いが去来していたのだろう。
 それらを思うと、そして意識の戻らない葵のそばに夜光がどんな思いでついていたのかと思うと、いたましくてならなかった。もう二度とそんな思いはさせまいと、夜光を右腕だけでしっかりと抱き締めながら、葵は固く心に誓った。
 どちらからともなく唇を重ね、互いが確かに今生きていること、体温や息遣いを確かめてから、夜光がふと、おかしそうに少し残念そうに笑った。
「今は、これ以上のことはいけませんね。それこそ、葵が死んでしまいます」
「……うん。さすがにちょっと、まだつらい」
 実際、夜光に身を寄せて抱き締めているだけで、身体のあちらこちらが軋むように痛んでいた。葵はやや情けなく苦笑し、せめてもと夜光の身体をもう一度、片腕だけで抱き締めた。
「夜光。俺もおまえが、誰よりも愛しい。おまえがいてくれて良かった。……早く両腕で、おまえを抱き締めたい」
 言うと、夜光も心から嬉しそうに、もう一度葵を抱き返した。

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